第35話

 熱を出した。朝目を覚ました時にすぐに違和感を覚えて、体温計を引き出しの奥から引っ張り出せば、不調はすぐに平熱よりちょっと高い数字となり可視化された。


 体調を崩すなんていつぶりだろうと思案する。記憶にあるのは小学校低学年の頃だったか。あの時は確か遠足の当日で、熱のせいで行けなくなり拗ねた記憶がある。泣いて両親を困らせるところまでいったんだっけ。




 そのうちにいつも通り誰かが起こしに来るだろうと思い、再度ベッドに体を横たえる。普段より少しだけ頭がぼんやりとするけど、体がだるくて脱力せざるを得ないから、その分のリソースが脳に回っている気がして考え事が加速する。


 将来何をしているか、五年後も仲がいいのは誰か、目の前の進路をどうするか、今日は学校を休むとして明日はどうするか、読みかけの本にしばらく手を付けてない、風邪をうつさないか心配だ。


 ぐるぐると回る思考の中、そのうちにあまり愉快でない話題も考えてしまいそうになる。




 「光?朝だよ」




 だんだんと気が滅入ってきたところで、父の声が僕の意識を引き上げる。扉の向こうに届く声量で返事をするのも怠くて黙っていれば、異変を察した父がドアを開けて入ってくる。




 「発熱か、珍しい」


 「うつしても困るから出てって……」


 「……わかった、学校には連絡しておく」


 


 こういうとき話が早くて助かる。最近になって更に父が僕を起こしに来る頻度が減って来ていたけど、今日に限って父が起こしに来てくれて助かった。




 「看病が必要なら会社――」


 「いらない」




 実際、必要かどうかもわからなかったけど断った。多少熱がある程度だから大丈夫だとは思うけど、昼頃には今よりひどくなってるかもしれないし確かなことは言えない。それでも断ったのは、重さもわからない僕の発熱のために会社を休ませるのは僕のが気が休まらないと思ったからだ。




 暫く一人で天井を見てぼうっとする。こうしていると、時間間隔が曖昧になっていって自分の体が空気に溶け出していくような錯覚を覚える。頭の中心に熱がこもって、何かの感覚をつかさどる器官がメルトダウンしていく光景を想像していると、それが本当になったのか自身の視界がぐるぐると回りだし、更に具合が悪いような気がしてくる。


 長くそうしていると、いつからか視覚と同様に信用できなくなっていた聴覚が、比較的はっきりとした意味を持った音を届けた。ドアが開く音だ。いつの間にか閉じていた目を開ければ、手に濡れタオルなどを持ったしろちゃんの姿が見える。


 


 「お邪魔します」


 


 返事をしようと何か喋ろうとするけど、カラカラに乾いた口ではまともな発声をすることはできず、パクパクと口を開くだけになってしまう。しろちゃんから見たら、さながら不器用な鯉の真似にでも見えていたことだろう。


 


 「先にお水、飲みましょうか。ゆっくり傾けるので焦らず飲んでください」




 そう言って僕の口元にコップを持ってくる。自分で飲もうと思えば飲めたけど、不思議とされるがままにしていた。喋ることができなかったのだから仕方ないと言い聞かせて、しろちゃんに甘えるように喉を鳴らして水を飲む。本当にゆっくりと傾けているようで、少量ずつしか流れてこない水にじれったさを覚えながら、時間をかけてコップ一杯分の水を飲む。


 しろちゃんに礼を言おうと目線を上にむければ、いつも通り表情の乏しい顔をこちらに向けているが、その表情に違和感を覚える。口の端が歪んでいて、まるで笑みをを抑えているかのようだ。これが初対面であったりすれば性格を疑ってしまっていただろうが、短いとはいえ一緒に生活していたのだから何か別の要因があるのだろうと思える。




 「ありがとう。でもあまり僕にかまっていると学校遅刻するよ」


 「普段が余裕を持っているので大丈夫です。ただ、お父さんに聞いたより体調が酷そうですので私も休んで看病することにしました」


 「……学校をさぼるのはよくないよ」


 「二人に伝えてきます」


 


 世話になった手前、父のように雑に追い払うこともできなかった。おそらくだけど、父もみやみやさんも二つ返事で了承するだろうから、今日一日しろちゃんに看病してもらうことが決まったようなものだ。ただ、かわいい義妹に一日看病してもらえるのなら、しろちゃんに学校を休ませて僕の気が休まらなくともいいかなと思ってしまった。会社がどうか知らないけど学校なんて一日休んだところでどうとでもなるし、ましてや普段から成績の良いしろちゃんならなおさらだろう。


 しかし、なぜ笑いをこらえていたのかは気になる、そのうち聞こう。それ以上の余計なことを考えることもなく、穏やかな眠りへと意識が遠のいていくのを感じた。

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