第19話 一果の願い

 地学準備室こと天文部室に入るやいなや、真弓さんは無言で点数一覧を机に置いた。僕は一つずつ、見間違いを万が一でも起こさぬようにじっくりと、一教科ずつ点数に目を通した。そうして認識した事実を口にしつつ、顔を上げた。

「最低点が……数Ⅱの四十一点……つまり……!」

 顔を上げた先には、満面の笑みと共にVサインを作る真弓さんがいた。

「どう!? アタシだって、マジになればこんなモンだって!」

「確かに中間の成績を考えると……ただ純粋に凄いと思う……」

 しかも、僕が彼女に教えたのは、補習課題の時だけだ。それ以降は何も教えていない。というか、彼女が拒否した。

「ちなみに、深月含めて誰からも友達には教えて貰ってないよ。完全にアタシの独学」

「せめて友達には頼って良かったんじゃないの?」

「ううん。アタシ一人でやりたかったの。そうしなきゃ……伝わらない気がして」

 真弓さんは少し頬を染めながら、両手を組んだ。伝わらない、という事は無いと思うけど。もし深月から教わっていたとしても、頑張った事に変わりはないんだから。

「それで、さ……。約束、ちゃんと守ってくれるよね?」

 ちょっとだけ不安を滲ませながら、真弓さんが僕にずいっと顔を近付けて来る。久しぶりに、彼女の端整な顔を間近で見て、不意に心臓が跳ねた。

「そ、それは勿論……」

 目線を横に逸らしながら、それでも彼女が望む回答は返した。それだけ聞くと、真弓さんはニッコリ笑って、椅子に腰掛けた。

「それで……何が欲しいのかな?」

 彼女の事だし、常識外の要求はされないだろうけど、以前の事があった以上、少し心配だった。

 結果的にその杞憂はある意味外れたし、ある意味当たった。彼女が僕に要求したのは――

「アタシと放課後デートして。プランは、アタシにお任せってコトで」





 そうして、放課後デートとして、夏の晴れの日の下、僕は真弓さんにあちこち連れ回された。

 まず、駅前の古橋書店。そこで二時間ほど色々本を見ながら話した。今年のコーデだったり、最近流行りのバンド談義をしたり。僕も一応、真弓さんに会ってから興味を持って自分なりに好みのバンドを見つけたりしていたから、この会話は結構盛り上がったと思う。

 六時過ぎぐらいに少し自転車を漕いで、国道沿いのファーストフード店で夕食を摂った。ここは太陽とたまに来るところで、色々食べたけど、一番はチキンカツバーガーのセットだった。真弓さんは夕食時とあって、パティの量を倍に増やしていた。懇親会の時も思ったけど、真弓さんは女子にしては結構食べる。

 そこでまた二時間ほど、とりとめのない話をしながら、ポテトやらを摘まんだ。しかし、僕としては二つ気になった事があった。一つは、様々な話題で話をしても、『将来』『進路』と言った話題を敢えて避けていた事。もう一つは、時刻が七時を回った頃に「そろそろ出る?」と聞いた僕に、

「ああ~~……もうちょっと話さない? ア、アタシはまだまだ、話したいことあるし」

 という反応を返された事。今回は彼女のご褒美だし、全面的に付き合う事に異論は無い。だけど、どうも僕には彼女が『時間稼ぎをしている』ようにも見えた。

 画して、すっかり日も落ちた八時過ぎ。漸く真弓さんは席を立った。そして――

「最後にさ、行きたい場所があるんだけど……」

 いつになく緊張した面持ちで、真弓さんは自転車を漕ぎ出した。僕は彼女に追従するが、彼女の通るルートが、気になって仕方が無かった。徐々に街灯の少ない方へと進んで行ったが、その道のりは、暗くても覚えがあった。そうして辿り着いたのが――

「真弓さん……ここって……」

 足を動かす度に感じる草の感触。カサカサと揺れる草木の音。紛れもない、浅木山の麓だ。

「ん? 夜登るのは危ないって? そこはちゃんと考えてるよ」

 何をするつもりか分からず戸惑う僕と対照的に、彼女の声は少し弾んでいた。鞄から何かを取り出すと、辺りが強力な光に照らされる。

「探索用のライトとか、深月に貸して貰ったから。……ホントは深月のお父さんのモノらしいけどね」

 真弓さんはそう微笑むと、僕にヘッドライトを渡した。深月のお父さんはフィールドワーカーなので、こういう装備は当然持っているだろう。しかし、それを借りたとなれば、深月も今日の為に一枚噛んでいたと見ていいだろう。真弓さんがここまでする理由は――

「ささ、行こっ。あんまり遅くなると、スズメバチとか飛ぶって聞いたし」

 真弓さんが僕の前に立ち、足元を手のライトで、正面をヘッドライトで照らしながら歩いていく。一歩一歩土を踏む度に、僕達は宇宙に近付いていく。だけど、僕はいつまでも宇宙ばかり見て生きていく訳にはいかない。遺された側の責任を、果たさなくてはいけない。

 長いのか、短いのか。それも分からぬ高さに登ったあたりで、前の足が止まった。そこは、飛び降りれば『あの草原』に繋がる場所だった。

 ここで以前、深月が独力で草原まで来た理由を語っていたのを思い出す。

『浅木山の登山地図を見てたらさ、明らかに迫り出した場所があった。そこから色々調べてさ、上手く行けば穴場が見つかるんじゃないかって思ったんだ。結果的に、一果と心太郎に見つかってた訳だけど。けど、ロケーション的には私の予想以上だったよ』

 真弓さんのやりたい事は、何となく分かった。恐らく、草原に下りて星空を観ようというのだろう。それ自体は魅力的だと思う。僕としても、ここから見る星空がどんなものか気になっていた。

 そして僕はいつも通りに、真弓さんと手を繋ぎ、草原へと下りて行った。ライトを消すと、月光だけが僕達を照らしていた。

「うわぁ……」

 見上げた星空は、想像以上だった。空の近さという点では山頂には劣る。しかし――真弓さんの能力ありなら――山頂よりずっと楽に行けるし、何よりここは僕達だけが知っている秘密基地のような場所だ。そこから見上げる星に、心が動かない訳がない。

「……綺麗だね」

「うん。けど……まだだよ」

 真弓さんのシルエットが、僕に手を差し出す。

「手、取って。ここからが本番だから」

 彼女に言われるままに手を取ると――同時に、周囲が宇宙同様の無重力空間と化した。僕達は身体を空の見える方に向けていた。つまり、宙に浮かんだことで、僕達は身体ごと星空に向いた。月明かりだけに照らされる空間で、満天の夏の星を見上げる。これでは、まるで――

「どう? 遠前クン。これってまるで――」

「うん……」

 宇宙遊泳だ。そう思って繋ぐ手を離し、少し動いてみた。胸の奥から込み上げる想いがあった。

 考えてみれば、暗い中で彼女の無重力空間に浮かんだのは、これが初めてだ。最初に無重力これを体験した時、僕は三年振りに心の底からの喜びを感じた。今僕が覚えているのは、あの時と同じ――いや、それ以上の喜びだ。

「……これを、させたかったんだね?」

「うん」

 隣で真弓さんが微笑んでいるのが、見なくても分かる。少しの間、そのまま僕たちは黙って星を見ていた。星の海に漂っているような心地だ。きっとこれは、父さんが見た景色、味わった体験と近い物だ。今となっては少し朧気だけど、ISS《国際宇宙ステーション》で漂いながら見た星空の感動を伝えるあの人の姿が、脳裏に浮かぶ。

「ねえ、遠前クン」

「何――うっ……」

 真弓さんが、囁くように言う。見ると、表情がはっきり見えるぐらい近付いていて、思わず小さく声を上げた。

「良かった。また笑ってくれて」

「……え?」

 そこでようやく、自分の頬が綻んでいるのに気が付いた。父さんの記憶を辿った事で、僕もまた、当時のようにつられて笑っていたのだ。

 ああ、まただ。

「また……君に笑い方を思い出させて貰った」

「また?」

「最初に君にこうして無重力を体験させて貰った時さ」

「そうなんだ……。アハハ、ってコトはさ、アタシ達がこうして友達になって、まだ二か月も経ってないんだね」

 二か月。五月の終わりだったから、確かにそれぐらいだ。もう、一年は前のような気がしてくる。それだけ、彼女と過ごした二か月は、沢山の思い出に満ちている。

「遠前クン。……やっぱり、お父さんを探すの?」

 横の真弓さんは、真剣そのものの表情をしていた。それでも、一文字に引き結ばれた口には緊張が見える。

「父さんは……何て言うかな。僕が宇宙に関わりたいって言ったら……」

 殆ど独り言だった。質問には何も答えていないけれど、それでも彼女は顔色を変えなかった。

「アタシは遠前クンのお父さんがどんな人か、ニュースでしか見てないからよく知らない。けど……もしアタシの子供が、アタシと同じ夢を見たら……」

 真弓さんは、僕の手にそっと、自分の手を重ねた。

「『面白い物も、綺麗な物も。そういうのを、アタシの分まで飽きるぐらい沢山見てきて』って……そう言うと思う」

 「彼氏すら出来たコトないのに、何言ってんだって話だけど」と呟いた真弓さん。でも、彼女の言葉が、在りし日の父さんと重なった。あれは確か、父さんが最初に宇宙に行って、帰って来た直後だ。僕が、『父さんは僕が知らない面白い物や綺麗な物を沢山見られて羨ましい』と言った時。

『僕からすれば、心太郎や深月ちゃん達を羨ましいと思うよ。考えて欲しい。科学技術は、日に日に進歩しているから、君たちが大人になる頃には、もっと綺麗な、もっと遠い宇宙が見えるようになる筈だ。僕の世代じゃ見えない物が沢山見える筈だ。だから、もし二人が宇宙を目指すなら……僕が見られなかった沢山の面白い物や綺麗な物。それを……僕の分まで沢山見てきてくれ。そして今度は、それを僕に聞かせて欲しい』

「……そうだ」

 父さんは、『自分が見られない物を見て来い』と言っていた。そして、僕が宇宙に興味を持った時にも、凄く喜んでくれた。少なくとも、海に落ちた宇宙船を探すなんて、望まないだろう。

 あの時、僕は父さんにこう返した。

『うん! 大きくなったら父さんよりもっと沢山の宇宙を見て――父さんにお話しするよ!』

 そうだ。僕は母さんだけじゃなくて、父さんにも未来の約束をしていたんだ。

『意志を継ぐ』事。それもまた、故人への責任の果たし方だ。僕は、自分の言葉と無責任な人々に気を取られて、こんな大切な事を忘れていたんだ。

「……ありがとう、真弓さん」

 僕は彼女の手を重ねられた左手を返し、グッと力を込めて握った。

「明日、母さんに言うよ。やっぱり僕は、宇宙に関わる仕事がしたいって……。何を言われるか分からないけど、ちゃんと話し合ってくる」

 僕が彼女を真っ直ぐ見据えて言うと、真弓さんは月明かりのように優しく微笑んだ。

「……うん」

 二文字だけの返事だけど、それで充分だった。僕は目というレンズから流れた雫を拭うと、再び星々に目をやった。

その時――視界の右上に、水平に高速で動く光がある事に気が付いた。

「真弓さん……! あれ!」

「えっ、何?」

「あそこにほら、水平に真っ直ぐ動く光が見える?」

「えっと……あっ、ホントだ! えっ、ウソ流れ星!? お、お願い事しなきゃ――」

「違う! 流れ星じゃない。アレは……」

 一瞬、言葉に詰まった。でもそのお陰で、もう一度光を見る事に集中出来た。そうして、それが確かに見える事を確認し、その正体を声に出した。

「ISS《国際宇宙ステーション》……!」

 ISSは、地球の衛星軌道上を周回している。だから条件さえ合えば、地上から肉眼で見る事が出来る。ISSは約九十分で地球を一周という高速で動いている。その為、地上からは水平に、滑るように移動して見える。

「アレに……遠前クンのお父さんが乗ってたんだね……」

 真弓さんも、何かを堪えるような声と共にISSを真っ直ぐ見つめる。

そうしてまた、僕達は星空の下、漂い続けた。さっきから手を繋ぎっぱなしな事を、どちらも何も言わないまま。

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