第17話 重い

 僕――遠前心太郎は、宇宙飛行士の息子だ。母さんも元々宇宙飛行士志望で、優秀な候補生だったらしい。そんな二人の間に生まれた僕が、宇宙という物に惹かれたのは、必然と言って良かった。深月と出会い、彼女からそのロマン溢れる世界の事を知った。父さんにそれを話すと、心から嬉しそうに笑ってくれたのを覚えている。

 元々笑うのが得意じゃなかった僕だけど、父さんや深月と宇宙の話をする度に、自然と笑みが零れた。やがて僕の興味の対象は、宇宙を支配する法則である『物理法則』にまで広がっていった。それもまた、深月と父さんが通った道だった。

 父さんが最初に宇宙に行ったのは、僕が小学校五年生の頃。宇宙飛行士という小学生男子なら一度は憧れる言葉の前に、僕はクラスではちょっとした『英雄の息子』状態だった。宇宙飛行士と聞くと、物凄いエリート然とした大人というイメージを持たれる事もあった。だけど、僕の父さんはそんな素振りは全く無かった。お喋り好きで、誰より笑う明るい人だった。何より宇宙から帰った父さんは、僕に宇宙での土産話を沢山聞かせてくれた。それはもう少年のように瞳を輝かせて、自分がこの世で一番の幸せ者であるかのように語る父さんの体験談に、僕は引き込まれた。幾つかの話は深月と一緒に聞き、二人で見上げれば広がる黒の世界に想いを馳せた。中でも特に僕が興味を持ったのが、無重力の話だった。足が地面に着かず、身体が宙に浮く。地球上の常識と外れ過ぎていて、どうしても一度味わってみたいと思ったものだ。そして何より、その時の父さんの楽しそうな顔が、如何にそれが素敵な体験だったかを僕に伝えてくれた。

 そして僕が中学一年生の冬、父さんは二度目の宇宙飛行に行った。ISS《国際宇宙ステーション》に五か月滞在して、実験を行うらしい。細かい実験内容は機密なので教えられないけど、話せる範囲の事は全て教える、と父さんは出発前に約束してくれた。そうして二年生になり、迎えたあの日。父さんが地球に帰って来る日。家に帰った僕を、生気を失くした顔の母さんが迎えた。

『心太郎……お、落ち着いて。来て……』

 テレビの前に連れて行かれた。あの時のニュース映像は、忘れたくても忘れられない。

『ISSより帰還の宇宙船、墜落――遠前勇気さんら三名不明』のテロップと共に、金属の破片が浮かぶ海面。そして、アナウンサーの声。

『繰り返しお伝えします。遠前勇気さんら三名を乗せた宇宙船が、パラシュートの開傘が遅れ、太平洋上に墜落。搭乗していた宇宙飛行士三名の安否は依然不明です』

『安否不明』。そんな濁した言葉を使っても、海上に浮遊物が見える程の速度で落下すれば、間違いなく助からない。中学生の僕でもそれは分かった。だけど、母さんはまだ現実を受け止めきれていなかったらしい。僕を抱きしめて、『お父さんは帰ってくるわ』と、まるで自分に言い聞かせるように何度も呟いていた。

 その後、宇宙開発局に行き、職員の人に説明された。宇宙船が落ちたのは、水深七千メートル近くの海溝付近で、回収はおろか機体を見つけることすら困難な場所だと。それでようやく、母さんは父さんの死を実感したようだった。

それでも、僕はせめて、事故の原因が明らかになれば、今後この様な事が起こらなければ。父さんの命にも、意味はあったと思えた。ところが、僕は知ってしまった。原因究明に際し、宇宙局がまず行ったのが、『責任の押し付け合い』だった事を。天音さんという、父さんと同じ日本人の宇宙飛行士の人で、僕と母さんに親切にしてくれた人がいた。その人に前述の僕の想いを伝えた時、天音さんは怒りとも悲しみともつかない顔で言っていた。

『少なくとも宇宙局ここは、重い責任を背負いたがらない大人ばかりだよ……』

 そして、事故原因が発表された。しかし、メディアからも疑問が呈される程粗の多い内容で、スケープゴートとしてソフトウエア部門が槍玉に挙げられたのではないか、という意見が大多数だった。それらの大人の世界は、夢を見ていた少年と愛する人を失くした女性の心を虚無感で満たしていった。焦燥した母さんは、睡眠薬無しには眠れなくなり、元々細身だった身体も日に日に痩せていった。

『せめてあの人の姿だけでも見る事が出来れば……』

 母さんは、いつもそんな事を呟いた。亡くなったのは分かったけど、それなら遺体だけでも確認したい。けじめを付けたい、というのは僕もそうだった。だけど、宇宙船は遥か水深七千メートルの深海。当時の技術では、たとえ無人潜水機でもそこまで潜るのは不可能に近かった。それでも僕は、母さんが落ち込んだ姿を見たくなかった。僕に遺された唯一の家族が、以前までのように笑ってくれるようになってくれるなら。母さんを元気づけたい。その動機で賭けるには重い言葉を、その時僕は言ったんだ。

『僕が父さんを見つけるよ』

結果的に、僕の言葉を聞いた母さんは、かなり精神を持ち直した――表向きは。軽はずみに人生を賭けようとした僕にも代償はあった。まず、母さんの前で宇宙等の趣味の話は出来なくなった。『そんな暇があるなら父さんを見つける為になることをしなさい』と言われ、無視しようものなら『心太郎はお父さんの事はもうどうでもいいのね』と泣き出す。端的に言って、『僕がお父さんを見つける』という事が、母さんの心の支えになってしまったのだ。しかも母さんが望んだのは遺体との対面だから、宇宙船の引き揚げという仕事に関わる必要がある。だから母さんの精神を保とうと思えば、僕は嫌が応にも『海技士』を目指し、サルベージ業に携わる事を目指すしか無くなったのだ。海溝に沈んだ物を引き揚げるなんて、夢にしても無謀に過ぎる。けど、それを言っても母さんは聞き入れない。高校で天文部に入れたのも、『親戚である深月の頼みで籍だけ入れる』という形でどうにか了承して貰っただけだ。

 そうして、僕は大好きな、そして父さんとの絆の形だった宇宙や物理から距離を取るしか無くなった。この背負うべきじゃない重荷があることで、次第に笑う事も無くなっていって――父さんのように綺麗に笑う方法も忘れた。





 その後、水曜日にも活動するという話はあったけど、僕は行かなかった。別にいいさ。元々籍を入れるだけのつもりだったんだから。それが元に戻っただけだ。

そして金曜日。朝方に深月からメッセージが来た。

『今日活動するけど、一果は来られないってさ。テスト前最後だし、今日ぐらい来てくれよ』

 スタンプや絵文字の無い、深月らしい無機質なメッセージ。だけど僕には、彼女の寂しそうな声が聞こえた気がした。

 幼馴染の頼みとあれば無碍には出来ず、僕は天文部室に顔を出す事にした。雨の放課後には、校舎内で可能なトレーニングを行う運動部の声が各地で響いていた。

深月と何を話すか。水曜日は晴れていたから、何かしら実験をしただろうから、その情報共有だろうか。そうして部室の戸を開けると、そこにいたのは――

「……よっす。遠前クン」

 神妙な面持ちの真弓さんがいた。

「どうして……?」

「ミヅキには、悪い事させちゃった。嘘吐かせるなんて……」

 その言葉で、全て理解した。真弓さんは、僕と会う為に深月に頼んで部室ここに来るよう仕向けたんだ。

「遠前クンも、騙すようなことしてゴメン。だけどアタシ……どうしても話がしたいの」

 後ずさって離れようとした僕の手が、強引に前へと引かれる。掴まれた手は痛くない。けど、『決して離さない』という強大な圧力が込められていた。

「……話したい事って、この前の事だよね?」

 部室の戸を閉めると、真弓さんは僕の問い掛けに頷いた。正直、納得して貰えるとは思えない。だけど、理解はして貰いたい。深月と太陽、あの二人と同じように。それでも僕と友達としていてくれるなら、それが一番だ。

「遠前クンのお父さんの事故と、この前のお母さんとの電話。それ聞いて、分かっちゃった。遠前クンはお母さんの為に、お父さんを見つけようとしてるって……」

 彼女はもう、僕の事情を概ね理解しているようだった。それなら話は早い。

「そう言ったからね。言った以上やるさ」

 この言葉は、嘘偽りない僕の本心。幾ら母親を勇気付ける為とはいえ、吐いた唾は呑み込めない。真弓さんは相変わらず、内心が読めない表情をしている。

「それは……遠前クンが、『やりたいコト』なの?」

「……は?」

 言葉に詰まった。やりたい? 父さんを探すことについて、そんな事は考えた事も無かった。いや、考える必要も無かった。

「……責任は果たしたい」

 その時初めて、真弓さんの表情が崩れた。眉間に皺を寄せて、睨みつけるように僕を見る。

「責任責任って……お父さんが亡くなったのは遠前クンのせいじゃないじゃん。自分の人生使ってまで果たしたい責任って……そんなのある?」

「責任を果たしたいというより、どっちかというと……『果たさないまま生きたくない』って言った方が正しいかな。何より、母さんも僕が海技士になる事を望んでるし」

 真弓さんが一歩、僕に近付いた。目の前、同じ高さに、彼女の黒い瞳がある。

「何それ……それが一番おかしいじゃん! 何で家族だからって、お母さんの言う通りに遠前クンが生きなくちゃいけないの!? 遠前クンの人生は遠前クンのモノじゃん!」

「僕が母さんに言ったんだ。『父さんを見つける』って。軽々しく吐いた言葉でも、責任が無い訳じゃない。だから投げだしたら、それこそ――」

「それでも、子供の言ったコトでしょ!? そんなの後で心変わりなんて幾らでもするし、それが嫌なら謝ればいいじゃん! それでダメなら、やっぱり子供の人生縛り付けるお母さんの方がおかしいよ!」

「っそれは……」

 真弓さんの声が、耳に強く響く。多少声を張り上げてはいるだろうけれど、まるで耳元で叫ばれたかのように、激しく耳朶を打たれた。いや、きっと僕を打ったのは、声じゃなくて『心』なんだろう。言葉に理がある以上に、真弓さんが心から僕を想ってくれているから。そういう人だからこそ、僕は彼女を好きになったのだろう。

 だけど、それでも頭から離れない言葉があった。あの時、父さんの宇宙船が墜落して少し経った後。宇宙局に呼ばれた時、天音さん以外にも、僕に話しかけてくれた人はいた。『あの人の事は残念だった』とか、そういう事を。だけど一人、青い顔をした眼鏡の男性の言葉。それが、どうしても頭から離れない。

『私のせいじゃない。ハードウエアか、操作ミスかだ』

 別に謝って欲しかった訳じゃない。だけど、責任から逃れようとして暗に『父さんが悪いかもしれない』とさえ口にした事に、ひどく失望したのを覚えている。僕が知る限り、あの時の宇宙局でまともに責任を感じていたのは、天音さんぐらいしか居なかった。だから僕は――

「じゃあ、真弓さんは……」

 彼女の心に応えるべく、真っ直ぐ宇宙のような黒い眼を見つめて、心の底の部分を出した。表情筋は動かなくても、彼女になら伝わる筈だ。

「僕に宇宙局の人達みたいに……『責任から逃げる人になれ』って、言いたいのかい?」

 二つの宇宙が、一歩僕から遠ざかった。

「父さんの事を調べたなら、それに対する宇宙局側の対応も知ってるよね。あの人達がそうしたみたいに、他人に責任を押し付けて、『自分は悪くない』と心に言い聞かせる……。そういう生き方が、僕に対して、君が望む生き方なのかな」

 お腹の奥から、自責の念がせり上がってくる。身体が『それ以上何も言うな』と訴えているかのようだ。それでも僕の表情筋は、凍り付いたままだ。

「僕だって分かってるさ……海溝に堕ちた宇宙船を引き揚げるなんて、まず無理だって事も。ましてや乗組員の遺体を見つけるなんて事、ほぼ不可能だって事も……!」

 仮に宇宙船を引き揚げる事が本当に出来たとしても、海上に破片が浮かぶ程の速度で落下したなら、中の宇宙飛行士の身体はバラバラになっている可能性が高い。あの船の中にすら、居ない可能性も高いんだ。

 望みなんて殆ど無い。それが分かっていて、それでもなお止めようと思わないのは――。

「誰もやらないなら……僕がやるしかないじゃないか」

 胸の疼きに耐えられず、目を逸らした。

 僕は自分が吐いた言葉の責任を果たす。そして、父さんの死と誰も向き合わないなら、誰より僕がそうするべきだ。だから、何方も果たす為に、これが一番の方法だ。そう思って、ずっとそうしてきた。最悪嫌われても、真弓さんもそれを分かってくれれば。

そう思った矢先――突然、身体中が重くなった。まるで、全身に自分と同じ重さの重りを括り付けたように。後ろから膝を突かれたように、ガクリと膝から崩れ落ちる。その時、正面にいた真弓さんが、強引に僕を後ろに押し退けた。それに従うままに、背中から床に倒れる。僕の上には、歯を食い縛る真弓さんの姿がある。傍目から見れば、僕が真弓さんに押し倒されているように見えるだろう。

「……遠前クン、重い?」

 前髪に隠れて、その表情はよく見えない。だがこの言葉で、唐突に感じたこの重さの理由は分かった。これは、真弓さんの能力だ。まだ会ったばかりの頃に言及された、『重くする力』。すなわち、周囲の重力を強くしている。体験するのは初めてだけど、彼女が『やりたくない』と言うのも納得出来る。どうしていきなりそんな事をしたのか。それは分からないけれど。

「そりゃあ、重いさ……」

 まるで心の重さがそのまま身体に出たような圧迫感に包まれながら、吐き捨てるように言った。その時、僕の頬に水滴が落ちた。一粒だけじゃない。重力に引かれ、高速で落ちる幾つもの雫。その正体は、見上げた先にあった。

「アタシもだよ……!」

 両の瞳から涙を零す真弓さんが、そこにいた。思えば、彼女が涙を流すのを見るのは、これが初めてだ。

 眉間に皺を寄せて、苦悶の表情を浮かべる真弓さんを見ると――僕の眉間にも皺が寄り、視界が小さく揺れた。

「そりゃあ、アタシがやってるんだからアタシも重いのは当然だけど、そういう事じゃないから! アタシが重いと遠前クンも重い! 逆もそう! そういう事!」

「何を……」

「ゴメン……! アタシ、遠前クンみたいに頭良くないから、ちゃんと思った事言えないかもしれないけど……でも!!」

 床に着いた両腕と同じく、声を震わせる真弓さん。

「遠前クン、アタシと会うまでは天文部に顔出さなくて、笑わなかったって聞いたよ。……けど、アタシにはちょっと信じられなかったんだ。だって、アタシが知ってる遠前クンは……好きな物に夢中になれて、心から笑えて、誰より優しい男の子だから……」

 再び涙が落ちて来る。それと共に、真弓さんの泣き顔が更に間近に迫った。

「アタシ嫌だよ! 遠前クンが宇宙から遠ざかるのも! 天文部に来なくなるのも! 遠前クンが……『心まで』笑えなくなるのも!!」

 そして堰を切ったように、真弓さんは嗚咽を漏らし始める。同時に身体中に纏わりついていた重さが消え去った。代わりに真弓さんが僕の胸に顔を埋めたので、結局動けないままだったけれど。

 能力は解除されても、胸に圧し掛かる重さ。ただ、彼女の心の重みに、ただ涙を流すことしか出来なかった。


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