第14話 二人だけの親睦会④
夜七時半過ぎ。僕と真弓さんは、互いの家の最寄り駅で降りた。それはつまり、真弓さんとの別れの時間が来た、ということ。
長いようで短い、そんな一日だった。色んな所に行って、楽しい事が沢山あった。きっと彼女もそうだったと、信じたい。
改札を抜けると、さっきまで居た場所とはまるで違う、閑静なロータリーが目に入る。駐輪場に預けている自転車を取りに行けば、僕達の今日は終わる。それがどうにも寂しくて――自販機とその横のベンチに目が行った。
「ねえ、遠前クン……」
心なしか寂しそうな声で、真弓さんが声を掛ける。彼女は丁度僕が見ていた方向を指差して、小さく笑った。
「もうちょっと……お話しない?」
無言で頷いてから、二人でベンチに向かって歩き出した。ついでに自販機でそれぞれ飲み物を買う。僕は缶コーヒーを、真弓さんはいちごオレを手に、並んでベンチに座った。六月半ば、初夏とはいえ、この時間は涼しい。僕らの顔を通り過ぎていく風が心地よい。
「遠前クン、疲れた?」
「少しだけ。けど、それ以上に楽しかった」
「そっか。アタシも一緒」
真弓さんはいちごオレを一口飲んでから、梅雨明けのように爽やかな笑顔を見せた。僕もプルタブを起こして缶コーヒーを一口含んだ。『微糖』の筈なのに、やけに甘ったるく感じた。
「今度こそ、深月と三人で何処か行けたらいいね」
「あっ、じゃあさ、夏休みに合宿しない?」
「合宿? どうだろうね……」
一応天文部は、制度上は『部』と認められている為、多少ではあるが予算が取れる。だが、当然ながら合宿など出来るような予算は割り当てられていない。深月によると、『高めの専門書なら買える』ぐらいらしい。。
「まあ、合宿じゃなくてもさ。色々出来る事はあるじゃん。アタシはもっと、ミヅキとも遠前クンとも仲良くなりたいし」
「そう、だね……」
毛恥ずかしさに、缶コーヒーをチビチビと口にする。チラリと横を見ると、真弓さんはもういちごオレを半分以上飲んでいた。
「アハハ……何か、喉乾いて……」
何かを誤魔化すように、真弓さんは苦笑した。そのまま暫く、僕らの間を沈黙が支配した。
少しして、呟くように、真弓さんは空になったペットボトルを見つめながら言った。
「明日から、補習の課題やんなきゃなぁ……」
「提出、二週間後だっけ? 丁度テスト期間に入るぐらいだよね」
「そう。一週間期限早めてもいいから、量減らして欲しいし」
「……遠前クン。あのさ……覚えてる? アタシに勉強教えてくれるって言ってくれたこと」
「勿論覚えてるよ。……補習課題と期末の対策、一緒にやろうか」
「ホントに……!? うん、お願いするね!」
真弓さんは花が咲いたように笑うと、立ち上がってゴミ箱にいちごオレのペットボトルを捨てた。
「それじゃあ、そろそろ行こっか」
「……うん」
僕達はベンチを後にすると、同じ駐輪場から互いの自転車を引き出した。
「えっと……アタシ、こっちだから」
「うん。それじゃあ、また学校で……」
夜風に打たれながら、彼女と反対方向を向いた。そのまま歩き出そうとした時――
「遠前クンってさ……女の子とデートしたコト、今まであった?」
突然、真弓さんがそんな事を言い出した。突然の、想定外の質問に一瞬思考がフリーズするも、どうにか頭を動かして、展望台で考えていた事を思い出した。
「深月は一応親戚だからノーカウント……とすれば、無いよ」
「ん~~……。まあ、ミヅキはそれでいっか」
以前真弓さんに、ハッキリ『深月はそういう相手じゃない』と言ったからか、真弓さんは僕の言い分を受け入れた。彼女は自転車のハンドルを左手で持ちながら、空いた右手で頬を掻いた。
「実はアタシも……無いんだよね。というか、男の子と遊びに行くコト自体、初めて」
「小学校の放課後とかでも……?」
「うん」
それは少し意外だった。真弓さんが男子との付き合いが無い事は知っていたけれど、まさか放課後の遊びですら無かったなんて。という事は、もしかして真弓さんは、今まで男子と友達付き合いをした事も無かったのだろうか。
「えっと……アタシたち、どっちもデート未経験だったっしょ? じゃあ、さ……」
らしくなく、歯切れの悪い真弓さん。それでも僕は、彼女の言葉を黙って待った。いや、頑張って言いにくい何かを話そうとする真弓さんの姿に、見えない力で引きずられているように、何も言えなかったんだ。やがて意を決した真弓さんは、顔を真っ赤にしながら、照れ笑いを浮かべた。
「今日のコレ、初デートにカウントしていいよ! アタシも、そうするから!」
その時、まるで彼女に吸い込まれたような気がした。ブラックホールに捕らわれたように、真弓一果という存在に、完全に掴まってしまったように。
「うん、そうするよ」
意識が半ば此処から離れたせいで、味気のない、情けない声しか出せなかった。
「じゃ、また学校で!」
真弓さんは逃げるように、自転車に乗って去っていった。暫くその場で立ち尽くしたけれど、やがてゆっくりと、自転車を漕ぎ出し、自宅へと向かった。
*
帰宅した後も、シャワーを浴びる気力すら湧かなかった。鞄を乱雑に落とすと、ベッドに腰掛けた。ギシリというスプリングの軋む音が、やけにうるさく感じた。
「デート……か……」
最後の真弓さんの言葉が、頭から離れない。花も恥じらう美少女が、照れ笑いと共に言った言葉が。
『今日のコレ、初デートにカウントしていいよ! アタシも、そうするから!』
「駄目だ……意識しちゃ駄目だ……」
部屋の静けさに苛立ちさえ覚え、リモコンを床からひったくってテレビを点けた。映像の前に聞こえた音声は、男性アナウンサーの声。朝ぐらいしか観ないような、とりとめのないニュース番組が映される。その音声で少しは気が紛れるかと思ったが、焼け石に水だ。
自分の頬が熱くなっているのが分かる。
今日見た幾つもの彼女の姿が、離れない。鞄から昼に撮ったプリクラの写真を取り出した。『天文部懇親会(二人)』という落書きと共に、僕と真弓さんが映っていた。少し口角が上がった程度の微妙な作り笑いを浮かべる僕に対して、真弓さんはお手本のようなスマイルと共に両手でピースサインを作っていた。
ベッドの上に転がるスマホを手に取り、メッセージアプリを開いた。真弓さんと話がしたい。何故か。『話したいから』としか言いようがない。今日のお礼を述べれば、まだ不自然さは無い筈だ。そう思っていると、既に新着メッセージが入っていた。真弓さんによる天文部グループでの『行ってきたよ』という報告だった。メッセージ上の彼女は、いつもと変わらない様子だ。最後に見たあの姿の方が、嘘だったように。
その時、着信が入った。発信者は深月だった。すぐに応答ボタンを押し、耳にスマホを当てた。
「もしもし、深月。身体はどう?」
『おう、心太郎。一日寝てたらかなり良くなった。明日には平熱に下がると思う』
「そうか。良かった」
『要件聞くより先に体調の心配ねぇ。あんたらしいよ』
「僕だけじゃないよ。真弓さんも、そうだったし」
『へぇ、そうなの。……心太郎。今日、楽しかった?』
深月の声が、何処か優し気な色を帯びる。まるで母親が、遠足帰りの息子に訊くように。
「うん。凄く」
『そりゃ良かった』
「今度こそ、深月も一緒に遊びに行こうよ」
『ハハッ、それは有難い。けど、今日は心太郎的には、棚ぼたじゃない?』
「……何を言ってるの?」
『とぼけたって無駄だ』
深月の声音がまた変化した。今度は、犯人を当てる瞬間の名探偵のように、冷ややかに。
『好きなんでしょ、一果のこと』
「……っ!」
心臓が大きく跳ねる。鼓膜の裏で、鼓動が祭りの太鼓のように大音量で響いていた。
『フッ、沈黙は肯定と見做すぞ。まあ、そうなるのも分かるし、割とあんたは分かりやすかったし』
電話の向こうで、深月が意地の悪いニヤニヤ笑いを浮かべているのが目に浮かぶ。反論の一つもしたかったけど、こんな時に限って僕の頭は一切働いてくれない。
『……あのさ、心太郎。あんたの性格とか事情とか、私は全部知ってる。その上で……あんたの親友として、言わせて欲しい』
いつになく真面目な深月の口調に、思わず無言で背筋を伸ばしていた。
『最近の心太郎は、まだ会ったばかりの頃――私が「コイツとは一生仲良くしたい」って思った……あの頃のあんたに戻って来てる。だからさ、あんたにはもう、自分が心から笑える道を歩いて欲しい。もう三年も経ったんだ。『千鶴おばさん』だって、きっといい加減目を覚ましてるさ』
僕はまた、何も言えなくなった。心の底から僕の事を想ってくれている深月の優しさが、胸に沁みたから。どうにか、ほんの一言引っ張り出す事が、精一杯だった。
「……考えておくよ。おやすみ」
『……分かった。じゃあ、また』
深月との通話を切り、スマホを手に持ったままベッドに倒れ込んだ。
「そうか。僕は真弓さんが……」
好きだったんだ。この頭の中をずっと内から温めているものの正体は、恋の炎だったのか。分かってしまえば、受け入れるのは容易かった。そうして熱の正体が分かった僕は、身体を起こして浴室に向かい、さっと温めのシャワーを浴びた。
「真弓、一果さん……」
意味もなく名前を呟く。それだけで何故か、身体の奥がくすぐったくなった。
人生で初めて味わった恋という感情に浸りながら、麦茶で喉を潤す。この気持ちがずっと続くなら、深月の言う通り、そうして生きたいと思えた。
でも、それは長く続かなかった。テレビのニュースにふと目をやると、画面下のテロップにこう書いてあったのを、見つけてしまったから。
『天音幹彦さん、宇宙より帰還――三年前の悲劇乗り越えて』
三年前。深月も言っていたその言葉を反芻して、独り言ちた。
「もうじゃない。まだ……三年なんだ」
勉強机と、その横の本棚が視界に入る。天井まである高さの本棚には――宇宙と物理に関する本は、一つもない。
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