第10話 phase:一果
学校から自転車を五分程漕ぐと、何処からともなく響く虫の声だけが聞こえる、静かな住宅地に着く。その中の、青い屋根の一軒家。そこがアタシ――真弓一果の住む家だ。主を欠いたガレージの端に自転車を停めると、扉を開けて靴を脱ぎ捨てた。そのまま洗面所でサッと手を洗うと、カレーの香り漂うリビングに直行した。
「ただいま!」
キッチンにはエプロンを身につけ、菜箸を片手に持った女性がいた。アタシと同じ濃藍の髪のこの人こそ、何を隠そうアタシのお母さん。名前は
「あらおかえり。もうちょっとでご飯出来るから、待っててね」
「この匂い、今日はカレーでしょ? やりぃ」
小さく腹の虫を鳴らしながら、アタシはキッチンへと侵入した。が、お母さんが作っていたのは、どう見てもカレーじゃなかった。
「……唐揚げ? 何でカレーの匂いすんの?」
「それがね~~いざ唐揚げ作ろうと思ったらね、お醤油切らしてたコトに気付いてね~~。しょうがないから、余ってたカレー粉で味付けしたのよ」
「おかしいでしょ?」と言いたげに笑うお母さん。調理する前に気付きなよ、と言いたかったが、そもそもこういう人なので、もう仕方がない。アタシは揚げたての唐揚げを一つ摘まみ、口に放り込んだ。カリッという心地よい音と食感と共に、鶏もも肉のジューシーな旨味が口に広がった――カレーの香りと一緒に。
「もう、お行儀悪いわよ一果。けど、味は問題ないでしょ?」
「まあ、確かに。けどアタシ、カレーはカレーとして食べたい派なんだよねぇ」
何処か釈然としない思いを抱えつつ、アタシはキッチンから離れた。
こういう感じで、アタシのお母さんはとにかく緩い。学校の皆はアタシを『緩い』『軽い』と言うけれど、この人に比べたらアタシなんてカチカチだ。
「つーか、どうせカレー味にすんならタンドリーチキンにしても良かったくね? いいけど別に」
ソファから、ダウナーな少女の声が聞こえた。そこには眠たそうな目でソファに寝そべり、漫画を読む金髪の女の子がいた。彼女がアタシの妹、
半袖短パンという薄着で漫画に集中する双葉の横に、アタシは立った。
「双葉、今何読んでんの?」
「今? 『しろうさぎが跳ばない』の七巻」
「ちょ、それアタシが昨日買ったやつじゃん! 勝手に持ち出すなっての!」
「良いでしょ、姉ちゃんはもう読んだんでしょ? 別に汚さないし、一周したら返すし」
「読むのは良いけど一言言えっていつも言ってんじゃんも~~! てかそれアタシも読んでないし!」
「マジ? 終わったら読んでみ? まだ半分だけどバリ面白い」
「いやすぐ返せし! アタシのモンだし!!」
無理やり双葉の手から漫画を分捕ると、両手で抱えて保護する。妹はジッと睨んでくるが、すぐに着古した部屋着の中から別の漫画を取り出した。
「いやドラえもんかっつーの!」
「姉ちゃんうるさい。てか今日帰り遅めじゃね? 補習明日からっしょ?」
「ん? まあ、部活入ったからね、天文部」
「天文部ぅ? 何で? 姉ちゃん星好きだっけ? あっ、これのせいか?」
双葉は丁度読んでいた漫画の表紙をアタシに見せた。『青春ロケット同好会』という少女漫画だ。いやこれもアタシのなんだけど、かなり前の物だしもう突っ込むのやめた。
「あ~~違う違う。ただ単に面白そうだったから。部員はアタシ以外男子と女子一人ずつだけだけどね」
「え、三人……?」
双葉はチラリと漫画のページに視線を落とすと、両手で口元をわざとらしく塞いだ。
「三角関係……?」
「アンタ、一回漫画読むの止めな?」
相変わらず姉を敬わず、おちょくってくる妹に呆れていると、キッチンからお母さんが唐揚げ(カレー味)を運んできた。それを見て、アタシと双葉はテーブルに着き、晩御飯にありついた。
「良いじゃない、星空。やっぱり人生、一度は友達や彼氏と星空を見に行くべきだと思うのよね。私がまだ貴方たちぐらいの歳の頃――」
「うげ、また始まった……」
お母さんがうっとりとした顔で話し始める。この親の元に生まれて十数年、アタシ達は知っていた。こうなれば、母さんはとにかく話が長い。食事の手こそ止めていないものの、食べては話し、食べては話しの繰り返しだ。
「私とお父さんが出会ったのも、夏の大三角が綺麗に見える夜だったわ。あの頃私は――」
お父さんとの思い出話に浸るお母さんを横目に、アタシと双葉は競うように白飯とおかずを口に掻き込んだ。どうして急ぐ必要があるのかというと、少なくともアタシか双葉、どちらかがこの話に付き合わなければならないからだ。退散する――食べ終わるのが遅かった方が、まるで昨日付き合ったばかりのバカップルのような惚気話をノンストップで聞かされる。それももう耳にタコが出来る程聞いた話を、だ。
「っし、ご馳走様! 双葉、後は任せた!」
「なっ……クソ、姉ちゃ――」
「それでねそれでね、双葉。まだ私が貴方ぐらいの歳の頃は――」
素早く席を立つと、食器を重ねて流し台に持って行き、即座にリビングを出た。
*
シャワーを浴びたアタシは、部屋に戻ってベッドに仰向けに倒れ込んだ。
そういえば、お母さんにとって星空というのは、お父さんとの思い出のある物だった。星空の下で出会って恋をするなんて、凄くロマンチックな話だ。
「恋……かぁ……」
思えば、アタシにはピンと来ない話だなあ。
別にアタシは、男嫌いって訳じゃない。親切にしてくれる人もいたし、話してみれば面白い人もいた。だけどまあ、外見だけに釣られて何も知らないのに告白してくる人とか、変な目で見てくる人も一定数いるワケで。それならいっそ、最初から女の子といた方が気が楽だ。アタシが今まで男子とあんまり関わらなかったのは、ただそれだけの軽い理由だ。そんなアタシが、誰かに恋をするとしたら――
『真弓さん』
「って、何で遠前クンが!?」
思わずベッドから飛び起きた。本当に突然に、あの優しくて頭の良い理系男子――遠前心太郎クンの顔が浮かんだ。
「いやいや……そりゃあ、確かに遠前クンは他の男子とは全然違うけど……!」
別に遠前クンの事が好きとか、そんな事はないはずだ。
何しろ、アタシと彼はまだ、出会って一週間しか経っていない。恋に落ちるっていうのはもっと、相手の事を友達として色々知って、そうして少しずつ育まれていくものだと思う。
そりゃあ確かに遠前クンは頭が良いし、優しいし、責任感も強くて諸々の責任は絶対取ってくれるだろうし。それに何より、アタシの超能力の事を『凄い』って言ってくれたし、あんなに興味も持ってくれてる。
……あれ? 既にメッチャ良いところ知ってない? いやいやでも……
「まだ違う。まだ、恋はしてない……はず」
じゃあ何でミヅキと付き合ってないし恋愛感情もないって知ってホッとしたんだ、とか何でいきなり下の名前で呼ぼうとしたんだ、とか。そういう内なる自分の声に耳を塞ぎながら、アタシは机の前に座り、教科書を開いた。ついでに会って二日目に送ろうとしてやめた『やっぱり遠前クンは違う』という言葉を間違えて送信したことも思いだした。既読はつかなかったから、見られてない……はず。
明後日から補習だ。課題は沢山出るし、当然分からない所だって沢山出るだろう。近くにあった物理の教科書をパラパラとめくると、やはり意味が分からない。突然出て来たアルファベットっぽい記号がさも当然のように使われていたりとか、特に訳が分からない。
「……ビデオ通話したいって言ったら……迷惑かな?」
前髪を指でいじりながら、ベッドに置いたスマホを見た。『勉強教えて』を口実にすれば、遠前クンと休みの日でも話が出来るなあ。
「いや、口実じゃなくて……!」
またしてもアタシは、自分の心の声に突っ込みを入れていた。
違う、アタシはまだ恋はしていない。恋人になりたい、までは思っていないんだ。
だって、アタシにとって異性とのお付き合いはそう軽いものじゃない。なにしろ、『結婚前提』以外は無しなのだから。
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