第7話 幼馴染バレ

「お~~い心太郎、大丈夫か?」

「……まあ、うん。頭ぶつけた訳じゃないし」

「いや、鼻折れてねぇかなって」

「まあ、大丈夫じゃないかな?」

 体育の時間が終わった休憩時間、太陽は体操服のままで僕の見舞いに来てくれた。転んだ直後は人生で一番鼻血が出たものの、今はどうにか止まっている。とはいえ、近くのゴミ箱には赤い模様入りのティッシュが幾つも入っていて、体操服も手洗いしなければならないが。

 ベッドに横たわる僕を、空きベッドに座る太陽が見ている。

「四時間目は物理だし、休んでていいんじゃねぇの? その怪我とお前の成績なら、誰も文句言わねぇだろ」

「いやいや、さっきも言ったけど、頭は打ってないんだ。出られる授業なら、出た方が――」

「顔だって頭だろうが。いいから寝とけって。……どうせこういう時ぐらいしか、お前は休まねぇだろうし」

「……分かった」

 太陽の優しかった眼が、少し鋭くなった。多分あのまま授業に出ようとしたら、怒られていただろう。

「それはそれとして、だ。……心太郎、ここまでお前を運んでくるのは、ちょっとばかし苦労したぜ。意識あったとはいえ体重何十キロの人間を運んで来るのは結構な重労働だ」

 太陽がベッドから立ち上がり、僕の方に歩いてきた。どうやら見返りが欲しいようだけど、こういう時、彼が要求するものは決まっている。

「分かってるよ。焼きそばパン、何個奢ればいい?」

「ハハッ、十個で頼む……と言いたい所だが、今日は別のモンが欲しい」

 珍しい。太陽が大好物の焼きそばパンを断るとは、余程の何かがあるらしい。彼は悪戯っぽい笑顔と共に、僕と目線を合わせるようにしゃがんだ。

「ちょいと聞かせちゃあくれねぇか? お前が、どうして真弓から熱い声援を送られたのかを、な?」

「……ああ」

 そうだった。そもそも僕が保健室ここに運ばれたのは、真弓さんの声援に驚いて足を滑らせたのが原因だった。つまり、彼女の声はあの場にいた全員が聞いていた訳で。普通なら、どういう経緯で彼女と繋がったのか気になるだろう。

 まあ、こうなる事を予測していたから、彼女と口裏を合わせていた訳で。事前に考えていた通りの経緯を、僕は話した。

「ほうほう。真弓と音楽の趣味が一致した、ねえ……。心太郎、お前ロック好きだったのか? そもそもそれが初耳なんだが」

「太陽だって趣味な訳じゃないんだし、話す必要も無いかなと思ってね」

「それはそうか。トラキンはまあ、名前は知ってるけど……何だっけ、確かクッソ長い題名の曲出してたような……」

「『何度君の為を思えども、アイツに向ける以上の笑顔に出来ない。何度君とのいつかを夢見ても、アイツとの今以上にはならない』でしょ?」

「おっ、おう。それそれ。よく覚えてんな……好きなのはマジなんだな」

 トラキンの十二番目のシングル曲のタイトルだ。僕が生まれる少し前の曲だけど、一応覚えておいて正解だった。

「まあ、妥当っちゃあ妥当な経緯だな。でも……それだけじゃないだろ」

 太陽が突然、こちらを見透かしたような目で見つめてくる。

「……えっ?」

 思わず出た間抜けな声を無視して、太陽が続ける。

「真弓が音楽好きってのは、知ってる奴は知ってる。バンドのグッズ偶に持って来てるらしいからな。当然それで仕掛けた奴もいた。まあ、アイツは男嫌いって訳じゃないみたいだし、話かければ応えてくれるし、笑ってもくれる。だが、アイツから声を掛けられた男子は、俺が知る限りお前だけ。……本当にそれだけで、特にコミュニケーション強者でもない心太郎が、そこまで打ち解けられるか?」

 まずい。考えが足りなかった。

 言われてみれば、彼女と仲良くなろうとする男子が大勢いたなら、趣味を合わせて攻める人もいた筈。『僕だけが』彼女と仲良くなった、もっと合理的な理由を用意する必要があった。ましてや、今僕が話しているのは太陽。小中高と同じ場所で過ごしてきた彼を誤魔化す以上、生半可な理論武装は通じない。

 僕が二の句を紡げず、押し黙っていると、太陽は合点が行ったように『そうか』と呟いた。

「分かったぜ、心太郎。お前さては……」

「うぅ……」

 どう言い訳するか。必死に頭を回していると、太陽は僕をビシッと指差して言い放った。

「真弓に勉強を教えているな?」

「……えっ?」

 太陽はうんうん頷きながら、(残念ながら)外れの推理を続ける。

「心太郎に出来て、他の奴に出来ない事と言ったら、勉強ぐらいしか無いからな。なるほど、確かにこれなら、お前だけが真弓と打ち解けられる訳だ。大方真弓から頼まれたんだろ? だから先週真弓がこっち見てたのは、本当はお前の事を見てた訳だ。って事は……お前が隠してたのは、真弓の名誉の為とかそんな感じか?」

「あっ……う、うん! 実はそういう事なんだよ! 出来るだけ秘密にしたかったんだけど……流石に太陽は誤魔化せないか」

「ハッハッハ! 何年幼馴染やってると思ってんだ! お前の事何ざ全部お見通しだ!」

 これ幸いと乗っかった僕に、上機嫌に声を挙げて笑う太陽。僕は彼に背を向けると、ホッと息を吐いた。

 良かった。勘違いしてくれた挙句、極めて丁度良い理由を新たに用意してくれるなんて。

 ご機嫌な彼を騙すのは気が引けたけど、彼女の秘密を守る事が優先だ。嘘も方便と言うし、太陽もお天道様も許してくれる筈だ。





 鼻血も無事に止まり、四時間目以降の授業はちゃんと出席し、今日もまた放課後を迎えた。幸いにも、雨は午後には止み、今はすっかり青空が広がっている。真弓さんからも、体育で転んだ事について心配するメッセージは来たものの、『今日は中止』というようなメッセージは無かったので、浅木山に行けばきっと会える筈だ。

 そうして向かっている途中、深月からメッセージが来た。

『明日、部室に来れる? もしかしたら、良い知らせが出来るかも』

 良い知らせ? 深月の事だから、天体観測とかその辺りの話だと思うけど、一体何だろう。少し考えたが予想がつかなかった。とはいえ別に断る理由は無いので、『行けるよ』とだけ返しておいた。

 そうして浅木山の麓に辿り着くと、やはり其処に真弓さんはいた。

「あっ、遠前クン! 大丈夫!?」

「全然平気だよ。午後は普通に授業受けたし」

「そっか……良かった。休み時間に教室見に行ったんだけど、ヒナに遠前クンのこと、聞かれちゃって。ゴメンね、お見舞い行けなくて」

 成程。教室に見に行っていたのか。そして僕のクラスには彼女の友達がいるから、やはり僕と太陽のような状態になった、と。

「いやいや、お見舞いなんて大袈裟な。それより、真弓さんも聞かれたんだね。僕も友達に、どうして真弓さんと仲良さげなのか聞かれてね」

「遠前クンもかぁ。それで、誤魔化せた?」

「いや、それだけじゃなくて、僕が真弓さんに勉強教えてるって推測されたよ。丁度良いから、そういう事にした」

「そっかぁ、じゃあ丁度良かったね。アタシの場合、言う前に『勉強教わってる』で納得してくれたから、アタシ自身は何もしなくて済んだよ。遠前クンの賢さに感謝だね」

 僕達は、二人揃って安堵の笑みを零し合った。真弓さんの事がバレるのは当然として、特別な関係を邪推されずに済んだ事も良かった。

 そうして僕らは、それまでと同じように秘密の草原に行った。午前中雨が降っていたせいで、山道はかなりぬかるんでいて、靴に泥がべったりと着いた。

 草原に着いた辺りで一つ、考えた事がある。先程共有し合った、僕と真弓さんが知り合った経緯についての事で。

「真弓さんって、この前の試験の成績どうだったの?」

「えっ……!? それ聞いちゃう? いやまあ、鞄に入れてるっちゃあ入れてるけど……」

「……聞かれてまずい成績を取ったのかい?」

「ああっ、いや、そういうワケじゃない……ような……」

 彼女らしくない、奥歯に物が挟まったような言い方。明らかに嫌な予感を感じながら、僕は彼女に向かって手を伸ばした。

「持ってるなら、見せてくれる? 成績書」

「は、はい……」

 観念した真弓さんは、おずおずと僕に一枚の紙を差し出した。彼女の各教科の成績と学年順位が書いた成績書。それを見た瞬間、思わず声が出た。

「ちょっと……真弓さん? 君これ、完全に補習ラインじゃないか」

 真弓さんの成績だが、正直予想をかなり下回っていた。全教科の内、半分近くの五教科で赤点を取っている。一番点数の高い現代文でも、六十点。学年順位も、下位十パーセント程の順位にいる。卒業が危ういとは行かなくても、可及的速やかな対策が必要なレベルだ。

「ま、毎回補習ってワケじゃないからね!? 今回でえっと……三回目だから!」

「一年でテストは四回だから、過半数は補習かぁ……」

 成程、これは真っ先に『勉強を教わる』という予想が立つ訳だ。

「ん? ちょっと待って真弓さん。補習っていつからだっけ?」

「今週の木曜から、その次の水曜日まで毎日。六時までやるって」

「……それじゃあ、その間こっちには来られないんだね」

「あっ……そっか」

 僕らの間に、気まずい沈黙が降りる。せっかくこれから能力含む彼女の事を知れると思ったら、一週間もストップする羽目になるとは。

「うああ~~ゴメン遠前クン~~!」

「まあ、なってしまったものは仕方ないから。ちゃんと補習授業を聞いて、課題も頑張ってね」

「うあぁぁ、今思い出したけど補習の課題メチャ多いんだったぁ」

「一度で懲りれば良かったのに……」

 喉元過ぎれば何とやら、というやつだろう。頭を抱える真弓さんに、僕はため息を吐いた。

 でも、丁度良い。前途多難かもしれないけど、僕の考えを実行に移せる。

「分からない事は教えてあげるから、さ。せめて期末では赤点ゼロを目指そう」

「えっ? 教えてくれるの?」

「そのつもりだけど」

 真弓さんは慌てて両手を前に突き出し、首と一緒にブンブン振った。

「いっ、いやいや! それは流石に申し訳無さすぎるというか……! そういう事にしたらバレにくいっていう理由なワケだし、わざわざそっちに合わせなくても……。いや別にアタシが勉強したくないとかそういうんじゃなくてね!」

「僕はまだ何も言っていないけど」

 こうした所で本音を出す素直さは、僕的には好感が持てるけど。

「確かにまあ、口裏合わせにそこまでする必要はないかもしれない。だけど、僕としてもそうしたいし、そうした方が良いとも思うんだ」

「アタシの成績がほっとけない程ヒドかったとか?」

「勿論それもあるけど」

「うぅっ……」

 苦虫を嚙み潰したような顔になる真弓さん。それに釣られた訳じゃないけど、僕も思わず少し伏し目がちになってしまった。

「今日、真弓さんの事で話した友達だけど……小さい頃からの付き合いで、『心太郎の事は全部お見通し』って言い切るぐらい、良く知った間柄なんだ。勿論、やむを得ない事態だったし、ちゃんとした理由もあるから、もし嘘だったってバレても、彼は怒らないと思う。でも……やっぱり少しだけ、罪悪感があるんだ」

 誇らしげに笑っていた、今日の太陽の事を思い出す。動機はどうあれ、彼を『騙した』事には変わりない。

 深月と太陽。二人は綺麗に笑えなくなった後でも、変わらず気安く接してくれた最高の友人だ。だから出来るだけ、二人に負い目を感じるような事はしたくない。だからこれは、真弓さんへの善意なんかじゃない。単に、嘘八百を並べるのが、僕自身『気に入らない』だけだ。

「僕は自分で責任を持てない言葉を使いたくない。だから、使った言葉の責任は果たしたいんだ。それが嘘や軽口なら、出来るだけ実現出来るようにするのが、責任だろう?」

 『軽い気持ちで』出した言葉が、自分や誰かを縛り付けてしまう事もある。そうなってしまえば、いざ『冗談でした』なんて言っても責任逃れでしかない。僕は、それをよく知っている。

「前も言ってたよね、遠前クン。『自分で責任持てない言葉は言いたくない』って。それ、遠前クンのポリシー?」

「そんな感じだよ。でも、自分で言った事に責任を持つなんてのは、特別な事じゃないと思うけど」

「そうだけど、キッチリ徹底してる人なんて滅多にいないじゃん? だから、スゴいなって」

 確かに、大人でも責任を取らない人は沢山いる。だから、そういう人たちを反面教師にした、とも言えるかもしれない。

 少し重い話をしてしまった。退屈な話をした事を謝ろうとしたが、真弓さんは微笑を湛えていた。

「まあ、そこまで言うなら。その言葉に、甘えさせて貰おっかな」

 ニヒヒ、と悪戯っぽく、真弓さんは笑う。その顔のお陰で、僕の心も軽くなって、頬を緩めながら小さく息を吐いた。

「まあ、それは近いうちにね」

緑心寺うちは県内でも上位の進学校なので、真弓さんの頭が悪いとは思えない。恐らく、単純にやる気の問題だ。それか、分からない事を一つそのままにした結果、そこに関連する単元全てが理解不能になったか。何方にせよ、対策は打てる。それに人に教えるのは、自分の復習にもなるから、そういう意味でも良い。

「それで、真弓さん。木曜日から来れなくなるって事だから、今の所知りたい事はやっておきたいんだけど、良いかな?」

「うん、いいよ。てか、そもそもそういう話だったし、会えなくなるのも補習になったアタシのせいだし」

 苦笑する真弓さんに、僕は鞄とは別に持っていたビニール袋に手を入れ、そこから網に包まれた、カラフルな物を取り出した。

「何それ」

「ただのゴムボールだよ。来る途中、百均で買ったんだ」

 僕が取り出したのは、網に包まれた四個セットのゴムボール。一つ一つは掌サイズの、単なる子供のおもちゃ。だが、これを使えば、彼女の能力について調べられる。筆箱からハサミを出し、網を切る。下に広げておいたビニール袋に落とすと、そのうち一つを手に持って真弓さんに歩み寄った。

「じゃあまず、このボールを持って、あそこの木にもたれる感じで立って」

 僕は空が見える方とは真逆の、鬱蒼と高い草が生い茂る場所を指した。勿論そこではなく、実際に差したのはその手前にある木だ。

「それで、どうするの?」

「じゃあまず、普通に浮いてみて。それ以上浮かないって所まで」

「オッケー。ボールは手に持って?」

「うん、とりあえずそれで」

 真弓さんはすぐに能力を使って宙に浮かび始める。彼女が背にしていた木は、浅木山らしくあまり高いとは言えない。それでも優に五メートルを超えている為、今考える計測には充分だ。また、自販機の事を考えれば、彼女が打ち消せる重量には限界がある。木が根ごと持ち上がるような心配もない。そうして、真弓さんの上昇は一定地点で停止した。恐らく、ここが限界点。

「上がれるのは、そこまでかな?」

「そうだよ~~。で、どうするの?」

「後ろの木を蹴って。出来るだけ思いっきり。靴の先をぶつける感じで」

「け、蹴るの? 分かった……ていっ!」

 ガッという音と共に、木にローファーに着いていた泥が塗りつけられた。

同時に、彼女の身体が前方に向かって動き出した。

「あっ……! 真弓さん!」

「うおっと。フフッ、慌てなくても、解除したら大丈夫だって」

 そうだった。無重力だと抵抗が無いから、移動エネルギーが掛かったらそのまま動いていってしまう事を忘れていた。思わず大きな声を出してしまったが、彼女は冷静に能力を解除して大地に降り立った。

「そっか。流石、慣れてるね」

「まっ、アタシからしたら手足みたいなモンだし。で、結局このボールは何だったの?」

「あっ、ゴメン。それはまだ持ってて、次で使うから。その前に……」

 真弓さんが今しがた蹴った木に近付き、しゃがみ込む。そして手に持ったメジャーを地面に当てた。そこから泥の跡の先端までの高さを測る。蹴る時に脚を曲げるので、実際より少々高くなるけど、今は仕方がない。この草原かんきょうで出来る事には、どうしても限界がある。

「六十二センチ……」

 ノートにメモを取る。実際にはマイナス五センチ程が限界だろう。つまり、六十センチ弱といったところか。

「という事は……もしかして、ここまでが有効範囲なのかな?」

 真弓さんの能力について、不思議な点は幾らでもある。これはその一つだ。

 先週、僕は真弓さんによって重力が弱くなった事に高揚し、その場でジャンプした。その時、僕は真弓さんを跳び越えかねない程まで上昇して、ようやく範囲外に出た。だが、真弓さんの能力で浮かぶ位置は、さっき測った高さが最高。つまり、『上下の範囲が違い過ぎる』のだ。ただ、これはあくまで『浮かぶ高さ=下方向の範囲の限界』という仮説が成り立つ事が前提。今から、その仮説が正しい事を確かめる。彼女にもう一度木を背にして、能力を使って貰った。

「真弓さん、次はもう一回浮いてから、ボールを地面に投げてみて。落下するかを見たいから、優しく」

「オッケー。じゃあ、投げるというより押し出す感じでやるね」

 真弓さんは掌を下にして、ボールをポンッと押すように下へ向かわせた。僕の考えが正しければ、彼女の足を超えた段階で、ポトリと落ちる筈だ。ゆっくりゆっくり、ボールと地面の距離が詰まっていく。そして彼女の足より下へ行く――だが結果は、地面にぶつかるまでボールは等速で動き続けた。

「外れか……」

 どうやら仮説は誤りだったようだ。それなら何故、そこで停止するのか。新たな疑問は浮かんだものの、今はもう一つ調べる事がある。真弓さんにもう一つ、別のボールを投げて寄越した。

「それを上に投げてみて。今度も優しく」

「は~~い」

 今度は押し上げるように、ポンとボールを上げた。再びゆっくりと、等速で青いゴムボールが上昇していく。そして、そのボールは見上げなければならない程高く上昇し、範囲外に出る――寸前、不思議な事が起こった。

 落ちる筈だったボールが、突然停止したのだ。まるで、壁にぶつかったかのように。

「えっ……!?」

 僕は思わず真弓さんの元に駆け足で近付いた。そして、途中で身体が急激に軽くなった。半身が浮かび上がりそうなのをこらえて後ろに下がると、そっと手を伸ばした。すると、何か薄い膜のようなものに阻まれたかのような手応えを感じた。少し力を入れてみると、膜を破ったような感触と共に、指先が浮くように軽くなる。

「どしたの、遠前クン?」

「……そういう事か」

 図らずも、彼女の能力についてまた一つ分かった事がある。

 彼女の超能力は、範囲の内と外を『薄い膜』のようなもので区切っているらしい。少し力を入れれば破れる程度の薄さとはいえ、能力を発動している間、彼女とその周囲は外界と遮断されていると言える。

 しかし、これは分かった所でそれ以上の調査は僕には無理だ。そこを調べるには、そもそも超能力自体の発動メカニズムという領域に入ってしまう。それは少なくとも今、僕一人の力で何とか出来る物じゃない。

結果的に当初知りたかった部分については、ちゃんと分かった。あの時ボールは、確かに膜に阻まれて停止した。つまり、そこが範囲の端。

「いいよ、真弓さん。一旦解除して」

遥か頭上のボールが自由落下したのを確認すると、上方向の範囲を測るべく、僕は地面にメジャーを持って木の前に立った。さっき、ボールがいた高さは、目測で把握している。丁度この木から伸びる太い枝、その下から三番目に当たる枝の付け根。しかし、そこは地上三メートルはある。太陽ならともかく、僕があそこまで登るのは多分無理だ。しかし、それはあくまで『1Gの重力の下』での話。

「真弓さん、これを木の根元に当てて、そのまま抑えてて。動かないように気をつけて」

僕はメジャーの本体を真弓さんに手渡した。僕自身はツメを右手で摘まむ。彼女は地面に寝そべ――ろうとして、ぬかるんでいる事に気付いてやめた。普通にしゃがんで木の根にメジャーを押し当て、『いいよ』と空いた方の手で合図をした。

「重力を小さくして。えっと……かなり弱く」

「やってみる。まだ重かったら言ってね」

「……よし」

 身体が軽くなったと同時に、僕は跳び上がった。先週一度跳んだ時より、今日はもっと軽い。かなり勢いがついた僕の身体は、狙っていた場所へと手が届く――その前に、急激に重くなった。

「っ!? あっ、そうか……!」

 そうだった。さっきの真弓さんは『六十センチ程浮いていた』。大して今の真弓さんは、あくまで『重力を弱くしている』だけに過ぎず、その足は地面から離れていない。故に、さっきと今では、有効範囲が六十センチ程低いのだ。

「届け……!」

腕の筋肉が痛む程手を伸ばし、どうにかギリギリで、左手で掴まれた。上半身の大部分は範囲の外だが、その下は、今も低重力の影響を受けている。その為、文化部の弱い握力でも、しっかり木に掴まる事が出来た。そして摘まんでいたメジャーの目盛りを、先程ボールが上がっていた箇所に押し当てた。目盛りテープは低重力下でたわんでいるが、少し引っ張ると真弓さんも察して真っ直ぐにしてくれた。そして、目的の箇所の高さは――三メートル八十センチ。

「これをさっき分かった、無重力時の高さを引けば――」

 上方向の範囲は、『地面から約三メートル二十センチ』だ。目的を達した僕は、木から手を離し、ゆっくりと降りた。

「よし、いいよ」

 これで、上の有効範囲は分かった。事実と考えた事をノートに図付きで書き込んでいると、真弓さんが目を見開いていた。

「どうしたの、真弓さん?」

「いや……遠前クンって、時々めっちゃアグレッシブにならない?」

「そうかな?」

「いや、この前もいきなりジャンプしてビックリしたし、今も木に飛びついてたし」

「好きな事してると身体が勝手に動くとか、ない?」

 例えば綺麗な星空を間近で見ようと高い所に登って怒られるとか、流星群の夜にずっと外にいた為に風邪を引いたりとか。僕の小さい頃の記憶はそんな事がよくあった。抑圧されていた感情が今になって表に出ているせいかもしれないけれど、こういうのは普通は無いものなのだろうか。

「あっても良い曲聴いて身体が揺れるとかそんなんじゃない? 跳び上がるのはそれクラブとかそっちっしょ?」

「う~~ん、月に行ったらまず地面に一歩を踏み出し、その上で全力でジャンプしたいと思っていたからね」

「それ思うの遠前クンぐらいじゃない……?」

「そんな事ないよ。少なくとも僕以外にもう一人知ってるし」

 言わずもがな、その一人とは深月の事だが。

「ってか遠前クン、手ぇ血出てない?」

「血? あっ、ホントだ」

 夢中で気が付かなかったが、左手には幾つか切り傷が刻まれ、そこから赤色が覗いている。少し痛むけれど、無視出来るレベルだ。

「枝がささくれてたんだね。まあ、これぐらい全然――」

「ダメ!」

 真弓さんは強い語調で言葉を遮ると、僕の左手を握った。突然、彼女の手の温度を感じて心臓が跳ねる。

「なっ……真弓さん!?」

「外で怪我したのを、軽く見ちゃダメ! 小さい頃映画で見たんだけど、ちょっとした怪我でもそこから細菌が入って、スッゴイ怖い病気になるんだから!」

 彼女が言っているのは、恐らく破傷風の事だろう。確かに恐ろしい病気だけど、そうそう罹るものではないし、何より僕は小さい頃に予防接種を受けている。それより彼女が見た映画の方が気になる。この反応を見るに、トラウマになったのではないだろうか。

「待って、アタシ消毒液持ってるから!」

「いや、そこまでは――」

「ダメだってば! そもそも怪我したらまず消毒はジョーシキっしょ!?」

「やるに越した事はないと思うけど……」

 真弓さんは急いで鞄から消毒液を取って来て、再び僕の手を取った。顔の近さと手の温度を感じて思わず緊張するが、彼女の真剣な眼差しの前で邪な考えをするのは失礼だと思い、どうにか緊張を押し殺した。

「動かないで。ちょっと沁みるかもだけど、我慢出来るよね」

 手に青いキャップの消毒液が掛けられ、少しズキリと沁みた。何滴か消毒液を落とした後、真弓さんは手を離した。

「わざわざごめん、消毒までして貰って」

 両手を擦り合わせながら礼を述べると、真弓さんは頬を膨らませた。

「だからー、消毒はしてトーゼンだって! 遠前クンも観たら分かるって、あの映画! アタシホンットに怖くて、それから暫く、ちょっと擦りむいただけで大泣きしてたんだから! ……タイトル忘れたけど!」

「まあ、その……調べてみるよ」

 『破傷風 映画』とかで検索すれば出るだろうか。

「でも、何でそんな怖い映画を……」

「お父さんが映画好きでさ。色々借りてくるんだけど、小さい頃はよく一緒に観てたんだよね。まあ、中学上がってからは無くなったけど」

「成る程……」

 それで恐ろしい映画を観てしまうとは、とんだ地雷を踏んだものだ。しかし、それで父親と映画を観るのを止めた訳ではないらしい。きっと、良いお父さんなんだろう。

 そんな事を思ったせいか、こんな質問が口を突いて出た。

「そのお父さんは……今、元気?」

 変な質問だと自分でも思った。軽い雑談で言及しただけの、人の父親にする質問ではない。案の定、真弓さんは少し怪訝な顔をした。『どうしてそんな事聞くの』と言いたげに見えたけど、すぐにまた、いつもの明るい微笑みに戻る。

「うん、元気だよ。最近はちょっと忙しいみたいだけど――」

「――へ?」

 不意に彼女の後ろから、ガサガサという草の揺れる音と人の声が聞こえた。

 思わず僕と真弓さんは、音のした方を見た。そこにいたのは、一人の女子学生。

 肩まで伸びた、所々跳ねた黒髪。赤縁の眼鏡。小さい体躯はそれだけ見ると中学生の様だが、身に着けていたのは僕らと同じ、緑心寺高校の制服。

 僕は彼女の事をとてもよく知っている。

「……深月?」

 その少女――新堂深月は、暫く目を大きく見開きながら無言で僕を見ていた。

「……し」

 やがて状況を理解したらしく、この世の終わりとばかりに悲壮な顔で頭を抱えた。

「心太郎が女子と密会しとる~~~~~~~~~!!!!!!!」

 少女の絶叫が、風と共に野山を駆けて行った。

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