29話:完結
奈々は日本海を望む断崖絶壁の景勝地を歩いていた。
平日だというのに、家族連れの観光客が意外と多いことに驚いた。
人目が多いので少し先の工事現場のさらに先に行こうと考えた。
夢遊病のように歩く。
【貴方は今日まで一人で生きてきたのですか? 大正教】
【最後に一度、お茶を飲み、話をしませんか? 昭和寺】
【ちょっと待て! もっと大事なことがある! 平成署】
工事現場を越えた辺りになると、自殺を思い留めさせる、色あせた立て看板が風雨にさらされていた。
奈々は看板を読むことは出来たが、もう内容を理解することは出来なかった。
足が無意識に音も無く動き、工事現場の先50メートル程度の場所に辿り着いた。
崖の先に向かって歩くと、足元の岩が幾多も重なり合うかのような段々になっていて、平らの部分はなかった。
ハイヒールを脱ぎ捨て、先端に向かいさらに歩く。
風は予想外に強く、細い身体はよろめいた。
目の前に広がる大きな空に、水彩画で描いたような雲が浮かんでいた。
青とグリーンの2色で描かれた海が地平線の彼方で混ざり合っているのに圧倒される。
今まで気にならなかった多数のカモメの鳴き声が、悪魔の囁きのように聞こえ、鳥肌が立つ。
精神を集中させた。
乾いた破裂音のような波の音と、スーパーの鮮魚売り場のような潮の匂いが、奈々の脳みその中で調和し、身体の一部のように感じてきた。
先端まで辿り着くと、震える足を手でかばいながら恐る恐る、断崖の下を覗いた。
ミニカーより小さく見える、昭和を感じる自動車が1台水没していた。
沖では穏やかな波も、真下に見える自動車に当たると、打ち上げ花火のように高く跳ね上がった。
砕け散っては白い渦を巻きながら、自動車は姿を現す。
波が跳ね上がる様子を数回見た。
奈々の頭の中で考えていた事はたった一つ、飛び込むのに
手に持っていたハンドバックを、また取りにでも来るかのように、汚れることを気にしながら地面に置く。
岩場の間のわずかな土の上に、一輪の薄ピンク色の紫苑の花が咲いていた。紫苑は強い風に煽られながら力強く空を見上げている。
奈々は羨み
小さな口に含むように香りを懐かしみ、大きく深呼吸をした。
「お~い! 待て~」
工事現場の方から大きな叫び声が聞こえてきた。
グレーの作業服に白いヘルメットを被っている作業員が必死に叫んでいる。
手を差し伸べながら奈々の方に血相を変えて走ってきた。
奈々は声のする後ろを振り返える。
「あっ!」
季節を過ぎて鳴く虫の忘れ音のような、弱々しくどこか孤独で寂しい声のような音を発したと同時に、その場に崩れ伏せた。
崖には工事現場の作業員が集まってきた。
バスタオルでも捨ててあるように、奈々がうつ伏せの状態で気絶している。
総出で工事現場事務所まで運ぶ。
作業員がハンドバックを手に取り中を開けた。
運転免許証を見ると谷口奈菜子という名前が書いてある。カメラを睨むように化粧の濃い人物が写っていた。
工事現場事務所は携帯電話のアンテナを無許可で立てていたので、ハンドバッグの中から携帯電話の着信音が鳴った。
すぐに取り出すとメールの受信だ。
少しでもなにか新しい情報が得られればと、クリックする。
送信者が『美鈴』と書いてあり、送信時間は今から50分前だ。
大勢の作業員が携帯電話の画面を覗き込んだ。
《毎日通信の時間ですょ。
昨日のメンズバーでの話しはぁってからとゅぅことで……。
今日はビッグニュースがぁります。
ぃま、病院なんですけど、真ちゃんもうすぐ外泊できるんだって。
真ちゃんの実家のバリアフリー工事ももぅすぐ終わるから、
真ちゃんファミリーとかみんなでパーティーするんだって。
ぁたしもナナさんも、コンパニオンとして呼んでゃるからぉ酌しれ! ってゅぅんだょ。
そんなワケで真ちゃん今日超ご機嫌で、
普通にナナさんにキスして頭ナデナデしたぃからスグにこぃってゅってるょ。
仲なぉりって感じで二人きりですごしたぃでしょうけど、
ぁたし今日ずっとココにぃるからね。
それに昨日ょっててょくぉぼぇてなぃんだけど、
ナナさんは❤がぁるから真ちゃんと別れたんでしたっけ??
ぁたしに真ちゃんくれたんでしたっけ?(笑)。
目が覚めたら電話下さぃね♪
記者は本日も、美鈴でした》
メールを一読した。
楽しそうな文脈から、なぜこの女性が自殺未遂をしたのかが分からない。作業員はみな、空笑いの表情を浮かべた。
30分程度で奈々は目を覚ました。
応接ソファーに横になり、頭には冷たく濡れたおしぼりがあてられている。状況を確認しようと目を動かすと、机の前に座り、仕事をしている男性の姿が目に付いた。
「すいません……」
上半身を起こしながら声をかけた。
作業員は一瞬肩をビクッとさせたが、すぐに座ったまま椅子を回転させた。
「気が付きましたか……、谷口さん」
名字を呼ばれたので驚くと、作業員は作り笑顔で、悪いと思ったけど免許証見せてもらいました、と立ち上がり、奈々の向いのソファーに座った。
「私、鈴木と申します。ここの現場を任されている者ですが、具合の方は大丈夫ですか?」
鈴木は奈々の精神状態を窺うように表情を注視した。
迷惑をかけてすみません、と謝りながら、姿勢を正してソファーに座り、衣服の乱れを慌てて直した。
「救急車を呼ぼうと思ったのですが、脈もしっかりしていましたし、騒ぎになると谷口さんも嫌だと思いまして、ここで休んでいただいたのですよ」
その時、パーテーションの影から女性事務員がコーヒーを運んできた。奈々は小さく頭を下げた後、一口飲んだ。
「この現場を始めて3ヶ月になるのですが、谷口さんで2人目なのです。事情は聞きませんが、死ぬとやり直しはききませんから……」
「全然自殺とかじゃないんです。ただ気分転換に海を見ていただけなんですよ、そしたら何か気絶したみたいで、本当に心配かけてすみません。もう家に帰んなきゃ」
奈々は鈴木の言葉を遮って、早口で話した。
「それならよかった。少し歩いた所にお土産屋さんとかあるから、その前からバスが出てるし、タクシーも止まっているはずだから」
鈴木は一件落着とばかりに、コーヒーカップに口に付けた。
奈々は足元に置いてあったバッグから財布を出し、5千円をテーブルに置いた。鈴木はすぐに、貰う訳にはいかない、と返す。
何度もお礼を言って立ち上がると、あっ、メール受信していましたよ、と言われた。
足早に工事現場事務所を後にすると、タクシーに乗り込んだ。
メールを開く。
微笑ましい内容に何度も読み返し、昨日までの日常を想い起こしては頬を緩ませた。
《美鈴、私、歳のせいか、最近夜キツイから、キャバクラあがる事にしたんだ。
詳しいことは真治さんの病院に今日、手紙送ったから読んでね。
美鈴に連絡して気持ちがブレるといけないから、するつもり本当はなかったんだけど……。
このメールを送信した後、携帯の電源はずっと切るからね。
散々怒ってくれてもいいよ(笑)。
私ね、実家に帰って年老いたお母さんの世話でもしながら、パートに出て、いい人見つけて、結婚して、子供生んで、親孝行するんだ。
急な話でまだ店にも言ってないけど、今決めたんだ。
今日、今ね、一人で海を見てたの。
私の愛とは比べものにならないくらい、美鈴のようにすごく広かったよ。
ホスラブの『常連』って美鈴でしょう?
知らない振りして仕事してたけど、
夜復帰してから、私の書きこみ、遡って全部読んでたんだよ。
毎晩反論してくれてありがとうね。
ありがとうしか言えないけど……、
今までありがとうね。
本当にありがとうね。
心からありがとう、ございました。 奈菜子》
タクシーが街に近づき電波が立つと、視線の先にぼやけて見える『送信』ボタンをなでるように押し、『切』ボタンを、震えながら、長押しした。
〈了〉
心が震える感動キャバクラ物語。想われ紫苑は咲き乱れ(おもわれしおんはさきみだれ)。 綾瀬摩耶 @o_yama
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