26話:愛というものは。

 メンズバーのドアを開ける。

 

 照明が煌々と点灯しており、マスターがカウンターで洗い物をしていた。


「あっ、奈々さん、今片付けるから、座って」


 マスターは少し慌てるようにグラスを洗い始めた。

 奈々はカウンター中央の店長と正面になる場所に座わった。


 腕時計を見ると午後8時を少し過ぎていた。ビール、と溜息混じりに伝えると、洗い物を中断してグラスに勢いよく注いでくれた。


 早速マスターに松原真治の交通事故の事と、今日の病院での様子を話し出した。

 

 BGMの曲にのって肩でリズムを取りながら洗い物をしていたマスターは、やがて手が止まった。


「その話、かなり重いよ……」


 マスターの顔は急に険しくなる。

 楽しく風船を膨らませていたら、破裂させてしまった時のような表情の移り変わりと同じに見えた。


 何かを考えているように天井を見上げ、グラスをまた洗い始めた。

 奈々も無言でビールを飲み干し、お代わりを注文した。


「しばらくはそっとしておくしか……、ないんじゃないの?」


 新しいビールを注ぎながら、マスターは自信なく言う。

 奈々は小さく頷いた。


 店のドアが突然大きく開いた。

 

 夏樹海人なつきかいとだ。


 今週も来たよ、と手で頭を掻いた。

 奈々の顔を見付けると、おたくも常連だね、と慣れた様子で隣に座わった。

 マスターは腕時計にチラッと目をやり、店の照明を営業の暗さに落とした。


「今の医療技術はすごいね、毎日塗ってるの? Cローション?」


 夏樹海人は奈々の顔を眺めながら、軽い口調で訊いてきた。


「えぇ……、今日は化粧する時間なかったけど……、しっかり化粧すると、ほとんど分からないですよ……」


 文字を棒読みするように答えた。


「どうしたの、浮かない顔をして?」


 答えを待たずにマスターに視線を移し、ビールを注文した。

 すぐに視線を奈々に戻して返事を待つ。


 マスターに話した松原真治の話を、また同じように話した。


 夏樹海人の表情も、話が進むにつれ曇ってきた。マスターもグラスを拭きながら、始めて聞いた時と同じように、黙って頷いていた。


「こういう時は、本人が望むようにするのが一番だと思うよ、周りの人間が何をやっても、余計なお世話じゃないの?」


 一通り話を聞いた夏樹海人は、手を口に当て、思案を廻らせている仕草で意見をした。


「もしこれで、一切お見舞いに行かなかったら、私の愛は嘘になるし、下半身不随になったから……、私が真ちゃんを捨てた、そう思われるわ……」


 か細い声の中にも興奮気味で話す。


「それは、下半身不随の彼をお見舞いに行く、自分の姿が好きなだけだよ、本人は来てくれるなと言っているんだから」


「来るなと言っているのは、事故後、間もないから動揺しているだけなのよ、きっと。私たちは本当に愛し合っているんだから……」


 奈々のか細い声が太くなり、夏樹海人の目をずっと見た。夏樹海人も逸らすことなく一呼吸置いて質問した。


「奈々ちゃんの愛って何?」


 夏樹海人はビールを半分まで一気飲みした。


「損得抜きで、好きで……、好きでたまらなくなって、ずっとその人のことが気になって、結婚したくなる気持ちかな……」


 夏樹海人を見ていた目を床に逸らし、少し頬を緩め紅潮させた。


「それは恋という状態だよ」


 そう断言し、煙草を取り出し気取って火を点けた。大きく吸い込み煙を吐き出しながら、話しを続けた。


「愛というのは、そんな感情的なことではなくて、時には感情を抑えたり、意思や忍耐や努力によって、その人が幸せになることを考える行為だと思うんだ」


 夏樹海人は穏やかに話し、また煙草を一服した。


「その人が別な人と幸せになったらどうするの?」


 奈々は首をかしげながら2杯目のビールを飲み干し、ターキーの水割りをマスターに頼んだ。


「たとえば、その人が他の女性と話をすると嫉妬したり、連絡がつかなくなったら不安になったり、予想外の態度を取られると動揺したり、喧嘩をすると苦悩したりするのは、恋という情熱からきているんだ。それは誰でも無意識に出来る本能的なものなんだ」


 マスターも講演を聴くように耳を傾けていた。


「愛というのはさっきも言ったけど、相手の幸せのことだけを考えるんだ。その人に尽くすことこそ生き甲斐と考えて、自分をその中に没頭させることだよ。自分が相手の為に我慢に妥協を重ねるということは、誰にでも出来ることではないんだよ」


 興奮気味に話すと、奈々の飲み物に目をやり、夏樹海人もターキーをロックで貰った。


「それって、奴隷みたい……」

「自主性が有るか無いかだよ」


 間を入れず当然のように呟き、話を続けた。


「それにお互いが愛を持つ、いわゆる愛し合うという状態になって、普遍的で絶対的な愛の恩恵を享受したとき、自己犠牲の精神が心地よくなって、すべての人に対して優しく出来るようになるんだ」


 奈々はしばらく下を向いたまま何も話さなかった。


「松原君は、奈々ちゃんの幸せのことだけを考えている、本当の愛があるんだと思うよ」


 駄目押しをするかのように語った。

 奈々は顔を上げて夏樹海人の顔を見た。

 何かを話すようで話さない、瞳だけが不安定に動いていた。


 2人の前に立っているマスターも、なにもかける言葉は無かった。

 とっくに拭き終っているグラスを、何度もさらしで拭いている。


「夏樹さんの言うのが本当の愛だとしても、私にもその愛はある」



 奈々は自分の言葉を紙に書き留めるように話した。

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