25話:単独事故
奈々は突然目が覚め上半身を起こした。
全身に汗を掻いている。
不快に思いながら辺りを見回し、ここがホテルのジュニアスイートだということを思い出した。
松原真治の携帯電話は、いつまでも圏外だった。
数日が経っても松原真治とは連絡がつかない。
奈々は18畳ワンルームの部屋に閉じこもったままだった。
ジャージ姿で髪形は乱れ、座椅子のようなソファーに身体を寝そべらせていた。
ステレオの音を、ときには大きく、ときには小さくかけて聴いている。
テーブルの上には缶ビールの空き缶が、いくつも乱雑に置いてある。
松原真治のことを深く考えればそれだけ深い憎しみになり
美鈴だ。
ペットボトルの烏龍茶を手に取り口を付けた。咳払いを1回して電話に出る。電話口から美鈴の激しい息遣いが伝わってきた。
挨拶もなく話し出した。
‐真ちゃん、事故って入院したの知ってます?‐
美鈴は少し前に松原真治の上司の遠山専務に、営業メールを入れて分かった事だった。奈々と一緒に食事に行く日の午後6時過ぎに、峠で単独事故を起こし、数十メートル下の崖に転落した。
時間は松原真治からメールが送られてきた直後だ。
‐で、ケガはどうなの?‐
奈々は美鈴に慌てて聞いた。
‐頚椎骨折……、下半身麻痺……‐
美鈴は泣いているように呟いた。
奈々は、手にしていた携帯電話を強く握った。交通事故というのもわずかながら想定していたことで、毎日、新聞で事故情報を確認しているつもりでいた。
頚椎骨折、下半身麻痺という状態を頭に思い描きながら、病院を教えてもらった。
隣町の大きな総合病院に着いたのは午後6時を回っていた。1階の総合案内で病室を聞くと、5階の集中治療室と言われた。
なかなか来ないエレベーターに苛々しながら5階に着くと、ナースステーションの隣に病室はあった。
中に入ると消毒液が充満した6畳ほどの生活感がまるでない、冷たい白いコンクリートの空間にベッドが1つ、世間から取り残されたかのようにぽつんとあった。
松原真治は肩まで布団をかけ、眠っていた。
首にはコルセットを装着し、額には包帯が巻かれている。吊るされている点滴のパックに目をやる。量はほとんど減っていないので、少し前に松原真治は寝たんだと思った。
このまま起こさないでおこうと声はかけなかった。
奈々は病室の丸椅子に静かに腰を下ろし、ほとんど外傷のない顔を眺めていた。10分くらい経つと松原真治の目が、ゆっくりと、そしてはっきりと開いた。
「肝心な時にいつもこうなんだ……、初めて奈々ちゃんと会った時も、気持ちと全然違う事、話したし……」
松原真治は奈々が病室に居ることに驚いた様子もなく、奈々のほうに少し首をかしげ、ゆっくりと口を動かした。奈々は布団の上から松原真治の手と思われる部分に手を沿え、ただ頷く。
「奈々ちゃんなら分かると思うけど……、いま、こんな状態で奈々と会いたくないんだ……」
「私、真ちゃんの邪魔にならないようにお見舞いに来るね。これでお相子になって、ちょうどいいよ」
松原真治の手を布団の上から力強く握り締めた。
「いや、お願いだから来ないで欲しい……、奈々ちゃんのこと忘れたいんだ」
力無く話すと、かしげていた首を元に戻し、天井を見詰めた。
数拍の無音状態が訪れたので、奈々が話し出そうと思ったとき、また語り始めた。
「病名を聞かされてからずっと考えていたんだ……、俺はこの先、車椅子生活で、障害年金生活者になるんだけど……、もうトラックに乗れるわけはないし、市から仕事を斡旋してもらっても、低所得者になることは間違いないんだ……」
「私、もうすぐ店で働くから、お金なら心配ないよ」
奈々の声は、誰もいない乾いた病室に響き渡った。
「それが嫌なんだ、同情されながら一生生きて行くのって辛いよ……、退院したら誰も知らない町で、第二の人生を歩みたいんだ。頼むから……、俺のささやかな幸せを奪わないでほしい……」
目を充血させながら虫の鳴くような声で話した。
また数秒の沈黙が流れた。
奈々はとにかく何でもいいから話をしなければと思った。
「でも、歩けるようになる人だって、いっぱいいるんだよ。奇跡の回復って昔テレビでよくやってたけど、今はみんな歩けるようになるから、テレビでも取り上げないんだって」
統計を取ったわけではない。そんな記事を読んだわけでもなければ、話を聞いたわけでもない。
松原真治にとって勇気付けになったのか、ただの気休めと捉えたのかも分からない、だけど口が動いた。
松原真治は鼻から大きく息を吐いた。
「歩けるようになったら連絡する……、それまでは本当に会いたくないんだ……、もう眠るから帰って……」
咲いた花がしぼむように、赤く充血した目が閉じた。
奈々は鼻水をすすりながら席を立った。
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