23話:奈々の葛藤

 2週間が経った。


 奈々の顔は順調に回復していた。


 まだ元通りとまではいかないが、色の濃いファンデーションを厚めに塗り、店内の暗い照明の中においては、それほど気にならないであろうと考えていた。

 

 オーナーには入院の事から、事故の処理までの一切を世話になったので、あと1週間休んだ後は、週6で店に出ることにした。

 

 早く働いて恩返しをしたい気持ちで胸が一杯だった。

 奈々の武器である膨大な顧客の電話番号やメールアドレスのすべては失ったが、人間という一番怖い生き物を見定めた眼力に自信を深めていた。

 それ以前に松原真治から学んだ澄明な心でお客に接すれば、顔のハンデは充分に克服できると計算もした。


 店に出勤したら里美の天下はそう長く続かないだろう、とほくそ笑む。


 一昨日、新しく通っている皮膚科の先生から、化粧を許されたのだ。

 復活の感触が奈々の気分を明るくした。

 事故後初めて化粧台に座る。鏡に映る自分の顔もそれほど悪くない。

 ただ単にノーメイクだから変に見えるんだと思った。

 奈々は輝いていた自分を思い出すかのように、化粧を始める。

 忘れかけていた女という状態の記憶が蘇る。


 今日は遅れていたお見舞い返しを、松原真治と一緒に市内中心部のデパートに買いに行く。その後にホテルのレストランでディナーを食べる。ジュニアスイートルームも予約しているのだ。

 

 松原真治と自宅以外で会ったことがない。化粧が出来るようになるまで自宅で会うことにしていたのだ。

 

 そして今日という日が来た。

 奈々は陶酔境の気持ちで、この段取りをした。


 眉毛を上手に書いているとメールが着た。奈々のアドレスは数人しか知らないので、見なくても松原真治からだと分かった。


《何とか約束の午後7時までには、奈々ちゃんの家に迎いに行けそうだけど、どれくらい遅れたらヤバイの? 松原真治》


《最初に2人で買い物しようと思っていたけど、無理なら私1人で済ませておくよ。食事は午後9時に予約入れたから、ホテルのレストランで待ち合わせても全然平気だよ❤ 奈々》


 そう返信し、化粧の続きを始めた。

 入念な化粧を終え、時計を見ると午後5時30分だ。いつもならすぐにメールを返信してくる松原真治から、返事がこない。

 少し不思議に思い、センター問い合わせをすると、メールの受信はなかった。

 気を取り直して着ていく服を選んでいた。


 数分後にメールの着信音が聞こえた。

 走って携帯電話まで行き、クリックする。


《ごめん、いま峠で電波が有ったり無かったりするの。これから本気の峠に入るから圏外になるけど、7時に必ず行くから。遅れても10~20分だから待っててね。松原真治》


 奈々はメールを読み安心する。

 服選びの続きを始め、服を一度着てみてサイズを確認した。問題がなかったのでジャージに着替え、座椅子のようなソファーに腰を下ろしてテレビを点ける。


 午後6時50分になったのを奈々は確認した。

 メールも電話も来ないけど、準備した服に着替えて、外出の用意をした。午後7時ちょうどになっても連絡が来なかった。


《まだ? あと何分? 奈々》


 待ちきれずにメールを送った。

 7時10分になったので電話をしてみると、圏外だ。7時30分まで待ってみたが、何の連絡もない。松原真治の携帯電話は圏外のままだ。

 奈々はこの時間に峠を走っているということは、あと1時間近くは戻ってこないと考え、表通りに出てタクシーを拾いデパートに向かった。



 1人で買い物を済ませ、全部自宅に配送してもらう手続きも終えた。電話を掛けてみたが、まだ圏外だ。腕時計を見ると午後8時20分だ。

 奈々は隣接する予約したホテルまで歩き、チェックインの手続きを済ませた。ジュニアスイートルームに入ると、わりと広い空間の中に、食卓のようなテーブルが自己主張しているかのように置かれていた。

 意外と大きい窓からは街のネオンが輝いている。その夜景を楽しむためなのか、窓の前には応接セットが置かれていた。

 

 今の奈々には何の感動もなく、大きなダブルベッドの上に仰向けに横になる。今のこの状況を考えた。


 いつもならメールはしつこいくらい、1日に何度も入る。最高で56回だ。

 交通事故? と真っ先に思い付いたけど、交通事故で携帯電話が壊れても呼び出し音は鳴る。

 私がそうだ。

 ずっと圏外ということは故意に電源を切っている証拠だ。


 しかし今の2人の関係で、ズラしているとは考えられない。バッテリー切れか、もしかすると私をビックリさせる為の演出なのか、とも思った。


 午後9時になった。松原真治の携帯電話は圏外のままだ。

 レストランに行くと本当にビックリする演出があるのではと、ひそかに期待しながら、最上階のレストランに向かった。



 受付で名前を告げて案内された席には、誰も居なかった。


 ボーイに、食事は連れが来てから出して、とお願いしビールを注文する。

 レストランには宿泊客と思われる家族ずれが賑やかに食事を取っている。他には若いカップルが3組、器用にナイフとフォークを使っていた。


 ゆっくり飲んでいたビールも3分の1の量に減った。

 ボーイは何度も奈々の前を歩き、通り過ぎた。少し離れた場所に居る若いカップルは、奈々が何度も電話をかけている姿を見ていた。顔を近づけ合いながら何かを囁き合い、奈々の姿を見て笑う。


 午後9時40分になった。


 奈々はいい加減この場所に居ることが苦痛でたまらなくなる。

 席を立ち部屋に戻った。

 ダブルベッドに倒れるように横になった。

 

 無駄に広い部屋の空間が、心に開いた虚無の空間と重なる。虚しさを助長させ、涙が瞳に溜まった。


 真ちゃんが店に来て初めて出会った時、私の接客態度は冷たかったはずだ。2度3度来店して指名を貰ったあたりから、Bランク程度の接客をした。

 それにしてもあくまで客としか見ていなかった。にもかかわらず入院中は普通に優しく接してくれて、お見舞いに来た回数は数え切れない。

 

 当り散らす事もよくあったけど、いつも笑顔で私を包んでいた。そんな真ちゃんの事を好きになって離れられなくなった今、私が無視されている。

 人の心や気持ちが好きで男と付き合ったことは中学生以来のこと。心と心が通じ合っている大好きな相手に振られることはあるのだろうか、付き合ってから私に大きな変化は何もないから、落ち度があるとは思えない。

 むしろ、顔が元に戻りつつあるから、今のほうが良いに決まっている。本当に心と心が通じ合っているのだろうか、そもそも何で私のことが好きなのかが、未だにはっきりしないし、理由もよく分かったような、分からない感じだ。

 

 過去においては、男はみんな私のことを好きになるのは当たり前と考え、その理由をまともに考えたことなどはないけど、今は違う。

 

 事故直後のあの酷い顔の時から、根は素直で優しいから好きだと言っていた。何度も何度も繰り返してそう言うから、私は素直で優しい人だと洗脳された。

 

 今までそんなにいい人間だとは思ったことはない。なぜ洗脳したのか? 真ちゃんもそんなに悪い顔じゃないから、世間の女性からまったく相手にされないわけではないはずだ。

 

 私の貯金目当てに近づいたのか。

 過去に冷たい対応をしたことに対する、周到に計画した復讐ではないか。

 どこかの街で殺人を犯し、身元を隠すために私と偽装結婚を考えているのではないか。その殺人が猟奇的殺人だったら私の命も危ないのではないか。


 奈々は考え過ぎて、頭の中がパニックになった。大きく深呼吸をして、今日までの真ちゃんの行動や言動を一つ一つ思い出し、不思議なことがなかったかを考えた。


 

 やがてゆっくり瞼が閉じ、眠りについた。

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