第3章 シン奈々
第21話:奈々退院
火曜日から日付が水曜日に変わった午前一時に、奈々は約束のメンズバーの店の前にやってきた。
赤い野球帽に、若干色の付いたメガネをかけ、両頬にはガーゼを当てている。今までは口にマスクも当てていたが、いかにも怪しいのでやめていた。
病院とコンビニに行く以外は、外に出る事がほとんどない生活を送っていた。
お酒を飲むのは事故以来初めてになることに、多少の不安を感じていたので、昨日の夜、缶ビールを3缶飲んだ。頬が火照り感情が滑らかになった。忘れかけていた女という状態の記憶が蘇った。
今日、自宅を出る前にクローゼットから一番お気に入りの服を出して着てみると、体型に変化はなかった。
入口のドアを開ける。
思っていたよりドアは軽かったので勢いよく開いた。
長いカウンターの中でポツンと立っていたマスターは、手持ち無沙汰の様子で入口を見た。
他にお客はいない。
知り合いに会う自信が持てない奈々は気が付かない振りをして、逆の隅にそっと座る。マスターは、いらっしゃいませ、と声をかけた後に、不審者を見るようにそっとおしぼりを出し、飲み物を聞いてきた。
「美鈴の名前でターキー入ってる、と思うんだけど……」
自信なく答えると、深く野球帽を被っていた奈々の顔を覗き込み、名前を思い出そうとしていた。
目玉が左右にキョロキョロ動いているのが判ったので、同じ店の奈々です。と事故後、真治以外の男性に初めて微笑んだ。
「えっ、この間、夏樹さんと3人で飲んでいた、奈々さん?」
マスターは夏樹海人をチラッと見て、聞こえるような声で驚いた。
事故大丈夫だったの? 災難だってね、とオーバーに言いながら、返事を待つわけでもなく、壁に並んでいるボトルを探し始めた。
夏樹海人は遠くに座っている奈々を見ながら、この間は迷惑かけてすみません、と一礼して、一人ですか? と聞いてきた。
奈々は美鈴と2人きりで話したいことが山ほどあったが、今から飲むボトルはそもそも夏樹海人からの貰い物だ。それに今日も爽やかな印象で感じがいいし、前回かなり本音をぶつけ合ったので、今さら気を使って格好をつけることは何もない。夏樹海人の考え方も聞いてみたいとも思った。
美鈴も店が込んでいたら、あと1時間は来られなく、1人で飲んでいるのも暇だ。
「もうすぐ美鈴も来るけど、また3人で飲みましょうよ」
事故後、真治とマスター以外の男性に初めて微笑んだ。
夏樹海人は頬を緩ませながら席を立ち上がり、自分のグラスを手に持って横の席に座った。挨拶もそこそこに済ませている最中に、マスターが水割りを奈々の前のカウンターに置いた。
顔をジロジロ見ながら不躾に事故の話を聞いてきた。時系列に沿って細かく話した。奈々にかかわるすべての人が興味を持っている顔の火傷のことも、誤魔化すことなく素直に現状を話した。
隣で黙って2人の会話を聞いていた夏樹海人も状況を直ぐにのみ込んだ。
「ちょっと顔見せて」
夏樹海人は目を輝かせた。
心配しているというよりは、面白がっているように見える。嫌がる奈々のメガネを外すと、これはヤバイね、と驚き、ガーゼも外してみて、といきなり左頬のガーゼを捲って見た。
奈々は半分捲れたガーゼを手で押さえて、メガネ返して、と手を差し伸べた。
「これはブスだわ」
眉間に皺を寄せて夏樹海人はメガネを渡した。
「火傷の痕が綺麗に直る塗り薬、東京で売ってるよ、綺麗に直った人に会ったことがある……」
夏樹海人はまだ話し続けると思い奈々は顔を寄せていたが、間合いを取るように水割りグラスに口を付けた。
奈々もつられて水割りグラスを口に運ぶ。
夏樹海人のいう塗り薬はCローションの事だと思った。インターネットで検索するとヒットする件数が圧倒的に多いからだ。火傷の痕が綺麗に直った、と言っているけど、元々どの程度の火傷をしたのかが判らなければ何の参考にもならない。
「塗り薬は、Cローションかどうかは判らないけど、火傷の痕が綺麗に直った人の火傷の程度は、顔面が全体的にただれていて、家族が隔離したくなるほどだと言っていたよ」
「奈々さんなんて問題じゃないの?」
マスターはまたオーバーに聞き返した。
「その人に比べたら奈々さんはミスユニバースだ」
例えが古いとマスターは笑った。夏樹海人も笑ったので奈々も事故後初めて2人の男性を前に笑った。奈々の予想外に火傷を
マスターはビールを夏樹海人からご馳走になる。奈々にも乾杯を求めてきたので、グラスを合わせた。
「彼氏どうなったの? 羽振りのいい土建屋と土地成金みたいなの?」
口元にビールの泡を付けたマスターが、からかうように訊いてきた。この表情は絶対に振られたに違いない、と悟っている顔だと奈々は感じた。
期待通り彼氏に振られた話を、極端に怒りを込めて話した。
「それはいいことだ」
夏樹海人は頷いた。
何がいいことだ、私が男に振られるということは、すべての前提が覆るということだ。今まで考えていた社会の常識が通用しない場所を地獄というなら、まさに今の世の中は地獄だ、と奈々は言いたかった。
「地獄極楽は心にあり、ってことわざがあるんだよ」
夏樹海人が続けてためになりそうな話をするものだと思い、奈々は身体を少し傾けた。
そのとき入口のドアが勢いよく開いた。
美鈴だ。
少し酔っているのか、奈々の顔を見た瞬間に奇声を上げた。
椅子に座っている奈々の後ろから抱きついた。
「奈々さん、会いたかった」
美鈴は夏樹海人の隣に座り、奈々の顔をしばらく見た。
美鈴の心配に答える形でメガネと野球帽をゆっくり取った。
美鈴の目はみるみる大きく見開いていく。瞳に映っている顔は、入院していた当時とは比べものにならない、少し皮膚が赤らけている程度であった。
「顔治ったじゃないですか! 本当にCローションが効いたんですね。なんか元の顔よりも良くなりそうな勢いですよ!」
美鈴は歓声とも思える声を上げた。
マスターも夏樹海人も、事故当時はどんな顔だったのかを想像し顔を見合わせた。
美鈴は満足げな表情で奈々の顔をつぶさに見入っていた。そしてマスターにグラス一杯の水を貰い一気に飲む。大きく深呼吸をして胸の内を話しだした。
「初めて病院で顔を見せて貰った時、すごく不謹慎なんですけど、気持ち悪い顔だと思ったの。そして、奈々さんを哀れむ気持ちがあたしの心を支配したんですけど、その心の奥深くには、あたしがこんな顔にならなくてよかった、と他人事のようにも考えているところがあったんです。そんな自分が嫌で……」
奈々に小さく頭を下げた。
夏樹海人もマスターも言葉を挟めなかった。
お通夜のような表情でグラスを見詰めている。
数秒にも数分にも感じた。
「美鈴……、あんなに憎まれ口を叩いたにもかかわらず、本当に私のことを考えて、すごく悩んでくれてありがとう、その私に対する無償の気持ちは、どんな形になっても返すからね」
奈々は呟いた。
「無償の気持ちは無償だから、べつに返して、いらないですよ」
美鈴は自分が来てから店の雰囲気が沈んだと悟り、明るく話した。
奈々は沈んだ顔のまま、また口元が動こうとした。
「今日は奈々ちゃんの復帰の日だから派手に飲もう!」
マスターは長年の経験から、店の空気を切り替える時は今だ、と考えて声を上げた。
独自に開発したカクテルを特別にご馳走してくれた。
抹茶のリキュールを使った和風カクテルだと自慢した。
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