第2章 美鈴

第11話:交通事故

 奈々は顔に大火傷を負い、ガーゼをあてられた上から包帯で何重にも巻かれた姿で、点滴を受け病院のベッドで眠り続けていた。


 枕元には店の黒服が立っており、すり傷きり傷で体中から消毒液の臭いがする美鈴は、丸椅子にちょこんと座っている。


 美鈴も昨日の月曜日は全身打撲で、1日中ベッドから動けずにいたが、警察が来て車を運転していた奈々の事を色々聞かれた。


 しかし奈々の親の連絡先が分からないどころか、苗字や奈々という名前も本名なのかさえ分からなかった。奈々の荷物も燃えた車の中にあり、調べようがない。

 

 そんな応対を見た警察は事件性を感じたのか、かなりしつこく2人の関係を聞いてきた。

 幸いにも美鈴には、一緒に車外に投げ出された自分のカバンがあった。その中から携帯電話を取り出し、担当の黒服に連絡をして事情を説明し、奈々の履歴書を店から持って来て貰ったのが今日だ。


 本名と住所は分かったが、親の連絡先は分からないままだった。

 美鈴は自分の無力さに悔し涙を浮かべて椅子に座っていた。


「俺、これから奈々ちゃんの車を見に行って、荷物あったら持ってくるね、ついでに入院に必要なものも買ってくるわ。あとオーナーにも連絡しておくから」


 午前9時過ぎという、夜の世界の人間は熟睡している時間帯であるが、担当の黒服はどこか眠そうな顔をしながらも、いつになく優しい言い方で一生懸命になってくれた。


「あたしは、お母さんが昼過ぎに病院に着くから、何の心配もないから……」


 美鈴がそう言うと、黒服は頷き病室を後にする。その後もしばらく奈々の横に座っていたが、奈々は目を覚ますことはなかった。


 ガーゼ交換の時間になったので、隣の自分の病室に戻り横になる。すぐに先生が来たので、上半身を起こし左肩のわりと大きいすり傷に消毒液を塗られながら、奈々の容態を聞いた。


「Ⅱ度からⅢ度にかけての火傷だけど、命には別状はないよ」


 心配をよそに世間話をするような話し振りで先生は語り、事務的に美鈴の背中の患部に治療が移る。

 美鈴はⅡ度からⅢ度の火傷がどのようなものかが判らなかったが、このまま目が覚めないのではないかと考えていたので、ホッと胸を撫で下ろした。


「いつ目を覚ますんですか?」


 背中の治療が終わり、左太股の患部を先生に診せながら聞くと、今、目を覚まさないのは、点滴の中に若干の睡眠作用があるからで、もう時期目が覚めると思いますよ、と語り、太股に消毒液を塗った。


「明日も午前と午後の2回点滴をして、明後日退院になります。その後は週2回の通院になります。1ヵ月後には傷跡も残ることなく完治します。岩倉純子さんは未成年だから、ご両親が来たらナースステーションまで来るように伝えて下さい」


 そう説明すると、先生は隣の健康そうな老婆のベッドに移り、笑顔で挨拶を交わしていた。

 美鈴の本名は岩倉純子、17歳で来月18歳の誕生日を向かえる、高校に行っていれば3年生の初秋の出来事だ。


 化粧の濃い若い看護婦は美鈴の太股に包帯を巻きながら、この後点滴をするからトイレに行きたかったら行ってきて、と、美鈴に敵対心を持っているか、ホステスを軽蔑しているのか分からないが、冷たく言い放ち、点滴の段取りを始めた。


 点滴をしながらベッドの上で横になっていると、美鈴の母が青ざめた顔で小走りにやって来た。2人の目が合う。


「お母さんビビッた顔してる」


 美鈴がクスクス笑い出した。

 それを見た母は安堵の表情を浮かべ、横に置いてある丸椅子に腰を下ろした。


「お母さん、警察から電話着たとき、腰抜かしたんだからね」


 怒るように堰を切って話し出し、新聞紙に包んでいた紫苑の花を取り出した。


「順子が好きな紫苑の花、ウチの裏の空き地に咲いてたから少し摘んできたんだよ」


 ハンドバックからミネラルウォーターを取り出した。500mlのペットボトルに口を付け、勢いよく半分飲んだ。


「これ、とりあえずの花瓶」


 笑いながらペットボトルに紫苑の花を挿した。

 白とピンクと薄紫色の3本の紫苑が、美鈴に自己紹介をしているように、花先がうな垂れていた。

 子供の頃にママゴトをした時の懐かしい香りが病室に漂う。

 母はベッドの下の収納スペースに下着や着替えの服を詰め始める。

 美鈴は目を閉じて香りを堪能した。


 ナースステーションの窓から母が来たことを見ていた婦長が、少し時間を置いて病室にやってきた。

 美鈴の怪我の具合を説明し、入院手続きの書類を渡す。すぐに退院できることを知った母は安堵した。


 母は子供との久しぶりの再会に、夢中で世間話をしていると、昼食が運ばれてきた。


「お母さんもう帰るからね。純子すぐに退院できるようだから、もう見舞いには来ないから、何かあったら電話ちょうだいね」


 母は軽い足取りで病室を後にする。美鈴は味気ない昼食を食べ終ると、奈々の病室に行った。

 医者の言った通り目を覚ましていたが、顔に包帯を巻かれたまま、植物のように天井を見詰めていた。


「奈々さん、起きたんですね」

 

 奈々は顔をゆっくり美鈴のほうに傾けた。


「何が……、どうなってるの……」

 

 まだ状況を把握していない奈々は、蚊の鳴くような声で聞いてくる。美鈴は横に置いてある丸椅子に座り、事故から今までの話を興奮しながら勢いよく話し出した。


 奈々は、うん、うん、と黙って聞いていた。


「美鈴……、ごめんね、痛い思いさせた上に、色々面倒かけて……」


 奈々は大粒の涙をこぼした。美鈴ももらい泣きをしたが、身内に連絡をするという使命を思い出し、親の事を聞いた。


「さっきも看護婦さんに聞かれたの、ウチの母親、田舎で生活保護を受けているの、私の仕送りと合わせて、何とか生計を立ててるから、心配かけたくないし、ここまで来るお金もないと思うから、伝えないで欲しいの」


 天井を見詰めながら、大草原で時間を過ごしているような、ゆっくりとした口調で、一字一句確かめるように話した。


「でも、お母さんには電話の一つも入れたほうがいいと思う……」

 

奈々に気を使いながらも言葉を返す。


「今まだ、全身打撲で足が上手く動かないけど、2~3日中に歩けるようになるから、その時に自分の口から教えるから……」


 美鈴はベッドに付いている名前の札を見た。

 『谷口奈菜子・26歳・O型』


 履歴書とも違っていた。

 きっと複雑な事情があるんだと察した。入店から約4ヵ月、すごく慕ってきた先輩のことを何も知らない、美鈴も履歴書には歳を1歳ごまかして書いていたことを奈々は知らない。美鈴はホステスの人間関係の儚さを感じた。


 そんな時に、店のオーナーと担当の黒服が、お2人さんお揃いで、と言いながら、奈々のすすけたバッグを持って病室に入ってきた。


「バッグは後ろの席にあったけど、携帯電話は運転席の足元で溶けていて、蓋すら開かない状態だったわ」


 黒服はバックを誇らしげに掲げた。

 奈々は、ありがとう、と言いながらも事情をよく呑み込んでいなかった。そしてオーナーに身内は来ない事を説明し、これからの話をした。


「わかった。俺が保証人になるわ。身の回りの世話は、適当な黒服を1人、毎日来させるから。それと何かと金かかると思うから、10万円置いておく。返さなくていいよ、見舞金だから」


 分厚い黒革の財布から、1万円札を数えながら10枚取り出して、ベッドの横の収納棚の引き出しに入れた。


「オーナー、あたしの分は?」


 それを見ていた美鈴が、お客を接客するような甘えた顔でオーナーに詰め寄った。お前は元気じゃないか、もう退院だろ、と相手にしてもらえなかった。


「そんなのずるい、エコ贔屓だ」


 美鈴は駄々をこねると、財布から1万円を取り出した。


「いいか、奈々ちゃんはウチの稼ぎ頭だからな。おまえも毎日お客を呼べるようになってから物を言え」


 急に冷静な口調でオーナーは美鈴に説教をし、見舞金として1万円を手渡した。


「今日と明日の自給払ってやるから、今から黒服に付き添って、奈々ちゃんの必要なもの一緒に買いに行ってやれ」


 美鈴を見ながら、オーナーは適当に1万円札を数枚掴んで財布から抜き取り黒服に渡した。領収書もらってこいよ、と微笑んだ。

 

 美鈴は早速、奈々の下着のサイズや好きな柄などをメモに取る。

 病院には、午後の点滴を夜にしてもらい外出許可を取った。


 

 そして黒服のベンツに乗り込み、1軒で何でも揃う郊外の大型スーパーに向かった。

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