10話:お買い物
外気は夏の重量感あふれる空気の空間から、秋の軽やかな空気の空間に音もなく変わった。
澄んだ青空の心地よい昼下がりの日曜日に、奈々の運転する黒の軽自動車の助手席に美鈴を乗せ、郊外のトイザラスに向かってハンドルを握っていた。
この頃の奈々と美鈴の関係は、同じ親から生まれてきたような、随分と知れた仲だった。
明日の月曜日に若林健二は誕生日を向かえるので、プレゼントを買うのが今日の目的だ。通常のお客のプレゼントはネクタイと決めていたが、若林健二は自分の気に入った服やアクセサリーしか身に付けない。たとえそれがプレゼントであっても、あからさまに文句をつけるわがままな性格なのだ。
そこをよく分かっている奈々は、普段、使うことがない、買ったこともない、目にすることもない雑貨、とりわけバラエティーグッツをプレゼントすることを思いついた。本人の意表をつき、感性を刺激して、また、可愛らしさもあるので大ウケ間違いなしで、使ってみて、遊んでみて、子供のように興奮してひと時を過ごすという計算があった。
しかし一つ懸念があった。若林健二は、あの日以来、本当に一度も店に顔を出さなかった。電話もメールも一切ない。
実際にあの日から数日すると本当に生理がきて、営業電話をかけることが出来なくなったのだ。
そんな奈々は一日千秋の不安の中、少し前に生理も終わり、再営業のタイミングをこの誕生日に狙いを定めていた。
明日は勝負の日。
店が閉店した後に、アフターでホテルに誘う。身体を餌に、若林健二の女性関係を洗いざらい詳しく教えてもらおうと考えていた。
そして結婚する気が有るのか無いのかを見極め、詰め寄る。もしお茶を濁すような曖昧な返事をするようなら若林健二のことはキッパリ解れて、麻生公彦に狙いを絞ろうと考えた。
奈々はすでに六本木で働き、最終的には銀座で成功を収めようという気持ちはなくなっていた。
最近、六本木や銀座でホステスをやっていた高校時代の友人たちが何人も、ホステス同士の生き馬の目を抜くような激しい競争や、お客がホステスに求めてくるかなり質の高い要望などから、みんな心が病んで地元に帰ってきていた。
基礎票ともいうべき人脈がいないホステスは、いつまで経ってもヘルプで回されるだけで、ドラマで観るような薔薇色の人生は夢ですら想像できない世界とのこと。
現実は貧乏そのもので、田舎で水商売をやっている方が無難に稼げると、口を揃えてこぼしているのだ。
自分自身の可能性を試すために無駄に時間を過ごすよりも、自分が一番高く売れる今の時期にお金持ちと結婚し、セレブな人生を送くるのが賢明である。
それでも普通の人よりは遥かに恵まれた人生を送れるので、それで良しと結論付けていた。
広く明るく原色が目に眩しい、ジャングルのようなトイザラスの店内には天井まで玩具が詰まれ、玩具箱の中を歩いている小人のような感覚だった。
美鈴はまるで放たれたジェット風船のように、小走りで右へ行ったり左へ行ったりしながら店内を散策し、商品を手に取ってはいちいち感動している。
「これ見て下さいよ、おちんちんの形をしたストローですよ」
爆笑しながら美鈴は、ストローを手に取り奈々に見せ、咥える仕草をした。値段を見ると200円だった。退屈なお客を相手にするときの営業ツールになればと、2人は5本ずつ購入した。
1時間以上見て回り、昔、イギリスのテレビ番組でお馴染みだった、テレタビーズの人形を買った。
宇宙人の子供の人形で、ボタンを押すと、『キャッハハハ』と笑ったり、『オッケー』との声を発する。
奈々はそのテレビ番組を観たことはないが、イギリスで大人気、遂に日本上陸! と手書きのPOPに書いてある。おもちゃ好きにはたまらない商品、ちょっとしたブランドなのだろう、これなら若林健二にも説明しやすい。
若林健二の子供の頃の顔は知らないけど、きっとこんな顔だったのだろうと想像できる程度の面影がある人形なので、ウケること間違いなし。高い声で笑う機械音も一度聞くといつまでも耳に残るので、病みつきになるはずだ。
トイザラスを出たのは午後6時を過ぎていた。
奈々と美鈴はこのあと午後7時に、10キロ離れた山の中腹にあるフレンチレストランを予約していた。
美鈴が雑誌を読んで、夜景が綺麗な本格派レストランだから一度は絶対に行きたいと言った所だ。
奈々の運転する黒い軽自動車は、軽やかな音楽を流しながら郊外を過ぎ、さらに人里離れた場所を走行していた。
「奈々さんはお客さんと同伴で食事するとき、どんな話をしてるんですか?」
助手席にちょこんと座っている美鈴が、何の脈略もなく話し出す。奈々はチラッと美鈴の顔を見ると、目を三日月にして奈々の顔を見ていた。
「特に意識したこと、ないんだけど……」
奈々は正面に顔を戻し、返事に困ったように話す。
美鈴は数日前に一度フリーでついたお客さんから同伴の誘いの電話を貰い、初同伴に喜び、お客の顔も思い出せないまま食事に行った。寿司屋の個室で食事をしたが、相手は50歳の無口な人で、テレビの話題も趣味も全然合わなくてかなり辛かった、という話を自虐的に語った。
「そういう時は、出てきた食べ物を、美味しい、美味しいと笑顔で食べていればいいの。美鈴を口説くわけでもなく無言の人は、おそらく自分の娘か奥さんの若い時か初恋の人を思い出して、1人で妄想を膨らませていて、黙って見ていたいだけだと思うよ」
奈々の見解を述べると、美鈴は充分納得したらしく、さすがナンバーワンですね、と希望を与えられた囚人のような笑顔になった。
「そうだ、これから行くレストランで奈々さん、お客さんの役やって下さい。あたし、美味しい、美味しいって食べてますから、変なところあったら指摘して下さいね」
ハンドバックから手鏡を出して笑顔の練習を始めた。マスカラを取り出し、まつげの調整もした。
そんな美鈴を見て奈々は、年内には結婚して店を辞めるつもりだから、ナンバーワンになる秘訣のすべてを教えてあげようと、心に誓い微笑んだ。
鼻歌交じりで唄を口遊みながら、軽快にハンドルを握っていた奈々の軽自動車が、手入れの行き届いていない雑木林に覆われた、見通しの悪い十字路交差点に差し掛かった。
その時、一時停止を無視した4トントラックが視界に入る。と同時に、急ブレーキの音を響かせながら、右側面に鈍い爆音をたてて衝突した。
まったくの不意を衝かれた2人は、何が起きたのかも、誰がどう悪いのかも分からないまま、2人を乗せた軽自動車は、勢いよく路外に突き飛ばされる。
シートベルトをしていなかった美鈴は、軽自動車から10メートルほど離れた路上に投げ出された。
そして軽自動車は、奈々を乗せたまま農家の庭先で勢いを失って停まり、横転した。
やがて炎上する。
4トントラックは十字路交差点で停まっていた。
運転手はフロントガラスに頭を強く打ち、ハンドルにもたれ掛かっている。虚しくクラクションを、静かな田園地帯一帯に響かせながら、気絶しているようだ。
美鈴はクラクションの悲鳴にも似た音ですぐに意識が回復した。
十字路のすべてからくる車が次々と停車し、すぐに数十人の人で溢れる。
路上で仰向けに倒れ、動くことの出来ない美鈴の周りには、安否を気遣う数人の人が集まり声を掛けてきた。車に人がいるの……、と力なく何とか伝えると、燃え盛る軽自動車の方に人々は走って行く。
力を合わせて奈々の救出活動が始まった。
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