7話:美鈴は奈々派
カーテンの隙間から太陽の光が狙ったように
ベッドに寝ていた奈々はその熱い不快感で重い瞼を開けた。手探りで携帯電話を取り、時間を見ると午後5時だった事に驚き飛び起きる。
ズキンズキンする頭を押さえながら風呂場に行きお湯を出した。浴槽が一杯になる15分間の間にメールチェックをしておこうと、18畳ワンルームの散らかった部屋の中心にある、座椅子のようなソファーに座る。
着信11件、送信者をさっと見た。
《今起きた。美容室に行くの7時過ぎに変更しておいてね、9時に同伴で入るから》
と送信して風呂に入る。
30分で風呂から上がると頭痛薬を栄養ドリンクで流し込み、
《ケンちゃん今いま仕事中? 奈々今起きちゃったさ!(汗。これから急いで美容室って感じだけど、今日店のビル前で落ち合って一緒に出勤できる? 8時30分くらいだけど……、急にごめんね。 あなたのおんなの奈々❤》
メールを送ると、携帯電話を持ったまま化粧台に行き、髪を乾かした。
髪がほぼ乾き終わった頃にメールの着信音が鳴る。
《奈々の寝坊助、遊びすぎだ(笑。俺はすでに同伴中、今日店には顔を出すから、たまにはやらせろ❤ 愛しのケン》
メールを読み終わると奈々は、新たな同伴相手を探すために、今日届いたメールをすべて読み直した。
《前略 昨日は最高の夜でした。その後真直ぐ自宅に帰り、今度は最高の夢を観ようと思いましたが、興奮状態が覚めずに寝付くことが出来ないのでした。気が付きますと朝という現実を迎えることになり、その落胆はこの時間になりましても、隠す事は決して出来ないのです。さて私こと、この度、奈々さんと正式にお付き合いをさせて頂き、昨夜祝福をした訳でありますが、彼氏としてどのくらいの頻度で同伴出勤すればいいのかという、現実的な問題が浮かび上がりました。お恥ずかしい話になりますが、現職でなおかつ他の職業に就いていない、所謂、専業として生計を立てているホステスの方と、お付き合いをさせて頂くのは初めての経験でございます。社会通念上考えまして、私がどのような身の振り方をしたら良いのかが、正直まるで解らないのであります。かといって同僚に相談できる話でもありませんので、是非今後の明るい未来の事も念頭に置き、ご教授頂きたいと切に考えております。本来であればこちらからお伺いをし、お話を聞くのが礼儀ではございますが、なにぶん緊急性を要する問題だとの位置づけを致しましたので、まずは取り急ぎメールにて失礼させて頂きます。麻生公彦》
奈々は長いメール文を読み終え、今後の付き合い方のことを思い描くと、出勤前からドッと疲れが出てきたが、さっき若林健二に送ったメールを少し変えて送信した。
そして鏡に向って化粧を始めた。
眉毛を書いているとメールの返信が着た。
《分かりました。彼氏としての義務を早速履行したいと思います。前回送信済みのメールの用件は、店内にてご教授願います。麻生公彦》
奈々は、携帯電話の液晶画面を見ながら大きく深呼吸をした。
《ありがとう! 奈々❤》
と送信した。
化粧も終わり、冷蔵庫からアセロラヨーグルトを取り出して立ったまま食べた。まだ頭はズキズキしていたが、部屋に脱ぎ捨ててあった、昨日着ていた服にまた袖を通し、座椅子のようなソファーに腰を下ろして、今日お客から着たメール1件1件に丁寧に返信を送った。
店の契約美容室に着いたのは午後7時40分だった。するとこの時間にいるはずもない美鈴が髪をセットしている。声をかけながら美鈴の後ろに立ち、鏡越しに事情を訊いた。
やはり二日酔いで只の寝坊だ。
青白い美鈴の顔を見ながら奈々は隣の席に座った。
「昨日どうやって帰ったかすら、覚えてないんですよ」
美鈴はダミ声で喉をからしながら尋ねた。
昨日は夏樹海人がホスト役になって、恋愛観の話で盛り上がった。最後は奈々と美鈴の利害関係が一致した。
奈々は松原真治と絶対に付き合わない、そしてもしまた店に来たら、美鈴をヘルプで必ず付けることを黒服に頼む約束をし、美鈴は、若林健二と麻生公彦が店に来た時には、おもいっきり場を盛り上げる。
この約束で合意すると美鈴は嬉しさを隠しきれずに、なぜかマスターも巻き込んで、一気コールをかけてはワイルドターキーを飲み続けた。
マスターから泣きが入って店を出たのは、午前9時を回っていた。夏樹海人は責任を感じたのか、タクシーチケットをまだ冷静な奈々に渡した。奈々が美鈴のアパートを回って自宅に帰ったのだ。 そのことを奈々は美鈴に話した。
「昨日も、いや今朝も迷惑をかけて、その上、遅刻までさせてしまって、ごめんなさい……」
美鈴は呟くように謝った。
「いいの、もう頭痛も直ったし、昨日は美鈴の話、すごく面白かったから」
奈々は頭痛の辛さを表情から消して、無理に元気な笑顔を作った。そして美容師にブローの指示を出した。
「でも遅刻の罰金って、1万円ですよね……」
美鈴は思い詰めた表情で呟き、奈々さんの分、あたしが払います、とわりと大きなダミ声で言った。奈々はその声の大きさに驚き、ピクッと肩が弾んだが、美鈴のほうにゆっくり顔を向けた。
「今日も同伴なの、8時30分に店前で」
美鈴は、えっ! と口と目を大きく開けて驚いた。私ナンバーワンだから、と奈々は改まった表情を作り勝ち誇る。
「美鈴も一緒に同伴入れてもらうから、担当の黒服に連絡しなさい」
それを聞いた美鈴は、本当にいいんですか? と言いながら、肌の血行が良くなった。鏡の前に置いてあった携帯電話で連絡を入れた。
「罰金1万円取られると思っていたら、同伴料3千円貰えるなんて、枯れた薔薇、復活って感じです。あたし奈々派に入っていてよかった」
奈々は派閥を作った覚えなどはないが、言われて気持ちが良かったので黙って笑顔を作った。美鈴は奈々のセットが終わるまでの間、隣でずっと賛辞を送った。
8時20分にビルの前に着くと、麻生公彦はすでに待っていた。さっそく美鈴の話をすると、美鈴の顔を見ながら、奈々さんのお願いであるから、もちろん構いません、と美鈴に軽く会釈をした。
美鈴も奈々もつられて会釈をする。
出勤すると平日で時間も早いということもあり、広い店内にお客は3組しかいなかった。
奈々と美鈴は衣装に急いで着替えると、麻生公彦の席に行き、隣に奈々が、向いの水割りセットの前に美鈴が座り水割りを作った。
私たちもなにか貰うね、と奈々はシーバスのボトルに目をやると残りが少なかった。キミちゃんと同じもの頂くね、と黒服を呼びデキャンターで緑茶を頼み、美鈴をチラッと見た。私も同じもので、と言った。
美鈴もやっと分かってきたと、奈々はホッと胸を撫で下ろす。
「食事はまだ済ましていないのではないのですか?」
奈々と美鈴は麻生公彦の顔を同時に見て、うん、と元気よく返事をする。フードメニューのオムライスを2つと、チーズの盛り合わせを注文した。
奈々はいつも通り世間話から会話を始めたが、麻生公彦は心なし元気がなく、返事が上の空だった。通常であればメールの話を切り出し、理路整然と語りだすものだと思っていたので、拍子抜けがした。
美鈴も空気が読めなく困り果てた様子だったので、奈々の方からメールの話を切り出す。
「私、キミちゃんが彼氏になったからって、特別に何かをしてもらおうとは考えていないから。キミちゃんこそ私に何かして欲しい事があったらいつでも言ってね」
麻生公彦に笑いかけると、美鈴も、うん、うん、と大きく頷いて聞いていた。麻生公彦は呆気に取られた顔で数秒間奈々の目を見ていた。
「美鈴さんは我々の関係をご存知なのですか?」
「昨日、美鈴ちゃんと朝まで飲んで語り合ったの、指輪も見せたよ、だからキミちゃんとのこと全部教えちゃった」
奈々はそう言いながら美鈴を見て、2人で頷いた。
「奈々さん、公彦さんの事すごく褒めてましたよ」
美鈴は昨日の約束通り笑顔で援護射撃をすると、麻生公彦は赤ちゃんのような、無邪気な笑顔を初めて見せた。結婚式には呼んで下さいね、と美鈴も赤ちゃんのように笑い返した。
奈々は昨日から美鈴を妹のように可愛く見えていた。
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