3話:若林健二

 指名のお客は今日同伴するはずだった若林健二わかばやしけんじだった。


 事故の事が少し気になり、ビップルームCに戻ることなく席に向かう。今日は3人での来店で、他のホステス2人は席に着いて水割りを作っていた。里美さとみと新人の美鈴みすずだ。


「事故で、怪我は大丈夫だったの?」


 奈々ななは若林健二の全身を確認するように、隣に座った。

 里美の隣に座っている、分厚いメガネをかけたスーツ姿の髪を七三に分けている60歳代の人が目を大きく開いた。


「なんで専務が事故を起した事を知ってるの?」


 その人は、若林健二の会社で経理部長をやっている杉本さんという人だった。奈々はマズイことを言ってしまったと思い口をつぐみ、愛想笑いを浮かべた。

 

 若林健二の表情を見ながら次の発言を考えていた。


「部長、この店、先方の方と打ち合わせが終わり次第、接待に使おうと予約してたんだけど、事故後にキャンセルの電話をしたんだよ」


 若林健二はオーバーに手でジェスチャーを付けながら部長を上手く納得させた。そして、みんな何か飲んで、と言った。奈々は黒服を呼ぶ。


「じゃあ、デキャンターでお茶貰おうかしら」


 奈々がお客と同じルイ十三世をお茶で割って飲もうと、レディースグラス約5杯分のお茶が入る、デキャンターの容器でお茶を頼んだ。流し目で里美に目を移す。


「同じものを頂くかしら……」


 隣に座っている部長に伺うように目を移し軽く会釈をした。黒服に、レディースグラス持ってきてね、と言った。

 奈々はもう1人のワイシャツにネクタイを締め、青いジャンパーを羽織っている50歳代のお客の隣に座っている、新人の美鈴に目を移した。


「今あたしの中でマイブームの、クーニャン。お願いします」


 美鈴は元気にカクテルを頼んだ。奈々は反射的に舌打ちをする。


 指名の私がお客さんのボトルをお茶で割って飲むといっているのに、ヘルプの美鈴がカクテルを飲むとはどういうこと、若林健二が入れているルイ十三世を何とかみんなで空けて、ニューボトルを入れて貰おうと考えているのに、たかが1,500円のマイブームで、50万円の仕事がパーになる、だから美鈴の誕生日にはドンペリが余るのよ、との思いで美鈴を数秒睨み付けた。

 

 美鈴は奈々に気付くことなく、そわそわと隣のお客を見ている。


「事故処理は今までかかったの?」


 奈々が若林健二に聞くと、事故処理の後に3人で居酒屋に行って食事をしていたとの事だった。


「こちらの方は?」

 

 奈々は青いジャンパーの人の方に手を差し延べて聞く。若林健二が話し出す前に、その男は名刺を差し出してきた。


「専務のお父さんが今の若林建設を立ち上げた時から、贔屓にしてもらっている保険屋で、佐藤と申します」


 ひどく丁寧に頭を下げた。若林健二は35歳独身で、100億円を売り上げる土建屋の専務だ。奈々が結婚してもいいかなと思っている一番の人である。


「よし、乾杯するか!」


 若林健二は、女の子の飲み物が揃った事を確認すると、音頭を取った。そして1杯目は3人とも一気に飲んだ。美鈴は慌ててお客の水割りを作り出す。


「部長さんは、他の店にお気に入りでもいるのかな?」


 里美は、杉本部長が膝元で操作している携帯電話を覗き込むようにして聞いた。

 いや、別に、と言いながら、メールを送信し終わり里見の顔を改めて見る。

 あんた、いくつ? と聞き、里美は正直に22歳と答えた。

 杉本部長は、娘と同じ歳だ、顔もどことなく似ているよ。と親しみの表情で語る。


「じゃあ、ずっと杉本パパの隣に居ていい?」


 里美は甘えた声で囁いた。杉本部長は、勿論だよ、こんなオヤジの隣でよければ、と赤ら顔で声を弾ませた。

 それを聞くや里美はすかさず黒服を呼び、私、場内入ったから、と場内指名を入れる。


「今日は娘の誕生日なんだ。東京の大学に行ってるから会えないけど、プレゼントの代わりにお金を振り込んでくれって」


 杉本部長は目じりを下げて話した。


「えっ、そうなんですか」


 里美は喜びを共有した笑顔で声を上げる。数秒経っても何の言葉も発しない杉本部長を見た里美は言葉を続けた。


「今日はパパの娘さんのお祝いをしましょうよ、いいでしょう専務?」


 若林健二の顔を見ながらピンク色の声で聞いた。


 そうだな、めでたい事はみんなで祝ったほうがいいな、と記念日好きの性格を出す。里美は通りがかった黒服に声をかけ、ケーキを買いに行くようにお願いし、ケーキを買って来たら一緒に、ドンペリとフライドチキンも出すように、と小さい声で的確に指示を出した。


 ヘルプについて20分程度で指名を取り、言葉巧みにドンペリにフードメニューまで注文させる技術、さすがこの店のナンバーツーだと奈々は感心して見ていた。

 

里美がどんなに戦闘モードになっていても、ドンペリバックと場内指名代以外は、すべて私の売上げになる。


 里美が頑張る理由は何か考えた。

 私の太客、いや店の太客に自分を印象付けて、枝の客を狙っているのかと思ったが、それなら当たり前すぎる。里美が戦闘モードになる必要もなく、いとも簡単にやってのける。


 若林健二以外の若林建設の社員を根こそぎ自分の客として取り込み、若林建設のまとまった売上げをバラバラに解体する。

 私の売り上げを大幅に減らす。

 プライドの高い私は店に居づらくなり、店を辞める。

 その後、若林健二を含めた、若林建設の売上げを、自然と、あたかも当たり前のように、自分の売上げにする。

 

 そして不動のナンバーワン。

 これはかなり高度な里美の、ひさしりて母屋おもやを取る、作戦だと警戒する。


「奈々、今日おとなしいな、男に振られたんか?」

 

 里美が何を話しているのか、会話をじっくり研究していた奈々が、我に返った。


「最近身体がだるくて、今日病院に行ったら、疲労が溜まっているから、ビタミンCをたくさん取れって言われたの……」


 演技がかった喋り方で力なく話す。

 若林健二は手に持っていた吸いかけの煙草を口にくわえ、額に手を当てて熱を測った。疲労だから熱はないの、と奈々が言うと、それもそうだよな、と額に当てていた手を取った。


「ビタミンになるものなんか食べたら?」

 

 奈々の言わんとしていることを悟ったのか、若林健二が言った。


「ケンちゃん、男の人の中で一番優しい、今日なんかね、黒服は仕事休むなって言うし、お客さんは家に帰れば? って言うしね、板挟みですごく辛かったの」


 悲痛な声で話し終えると、黒服を呼んでフルーツの盛り合わせを頼んだ。


 里美は杉本部長に連絡先を教えるためにテーブルに顔を埋め、携帯電話の番号を名刺の裏に書いていた。

 奈々の会話を聞き、一瞬手が止まる。

 奈々は若林健二に侵略してきた里美から、主導権を奪い返し、見事に防衛した。

 里美は頬をつりあげた。


 20分もすると黒服がやってきた。


「若林様、オーダーを頂きましたお食事をビップルームAにすべてご用意致しました。ルーム使用料は頂きませんので、ごゆっくりおくつろぎ下さいませ」


 丁寧な挨拶の後に、黒服に案内されて3人はビップルームAに向った。奈々たち3人はお客のグラスと自分のグラスを手に持ち、忘れ物がないかをチェックしていた。


「最初の運送屋からも場内指名取ったさ」


 里美は自慢するかのように言った。

 奈々はあの貧乏サラリーマンからどうやって指名を取ったのかが知りたかったが、そうなんだ、と興味がないように振舞う。


「さすがはナンバーワン、ツーですね、あっという間にパーティーですもんね、あたしすごいものを見たって感じです」


 美鈴は無邪気に明るく話す。


「美鈴ちゃん、私はルイ十三世を空けようと頑張っているの、仕事なんだから、クーニャンという、自分の嗜好しこうは忘れてくださいね」


 美鈴の態度を見た奈々が、ムッとした表情で苦言をていした。


「あなたの誕生日の後にドンペリ7本入れてるけど、あなたの営業が足りないからだからね、わかる? 7本だよ! 露骨にドンペリ飲みたいって言うと、必ず客は嫌がるんだから。ドンペリ1本入れるのに、どれだけ苦労していると思っているの!」


 里美はその性格上はっきりものを言った。

 18歳入店3ヶ月の美鈴は泣きそうな顔で、ごめんなさい、と両手にグラスを持ったまま、軽く頭を下げて謝る。


「ビップに入ったら、美鈴ちゃんはドンペリをピーチネクターで割るのが大好きだと言いなさい。炭酸ガスが抜けて飲みやすいし、酔わなくなるし、3本くらいなら入れても気にしないお客だから、頑張るんだよ」


 奈々は美鈴にそう指示を出しビップルームAに歩いた。

 里美も、あなたの在庫だからね、と言葉をはき捨てて歩き出した。


 ビップルームAのドアを開けると、オーバーなくらい大きくてまるいデコレーションケーキに、風呂桶のような大きさのバスケットに入ったフライドチキンに、大きなトレーがそのまま入れ物になって飾り盛られている、フルーツの盛り合わせの3点が、テーブルを占領していた。

 

 早速全員席に着き、申し訳程度に置かれている1本のドンペリを6つのシャンパングラスに注ぎ、杉本部長の意外と長い挨拶で杯を上げた。


 少し残ったドンペリも、それぞれのグラスに注ぎ足し空にしたが、しばらく経っても美鈴はなかなか話し出さなかった。奈々は見かねた。


「美鈴ちゃんはドンペリがすごく好きなんだよね、ピーチで割ると美味しいんでしょ?」


 奈々は美鈴を脅かすように見た。

 そうなんです……、と美鈴は良心の呵責に苛まれているかのような声を上げる。

 その言葉を聴くと、奈々は若林健二を見詰めた。


「そんなに美味いんなら、俺も飲んでみようかな」


 若林健二が興味を示したので、ピーチとドンペリをもう1本頼んだ。今まで遠慮がちでおとなしかった保険屋の佐藤さんは、ビップルーム備え付けのカラオケに興味を持ち始め、操作方法などを美鈴に聞いていた。


 佐藤さんは大のカラオケ好きで、めぼしいカラオケ大会にはほとんど出場している程だ。今日は若林建設との付き合いなのでキャバクラに来たのだが、本当はカラオケのあるスナックに行きたかったのだ。


 佐藤さんは水を得た魚のように歌本を膝に広げ、リモコンを操作した。若林健二と杉本部長の二人に気遣いで歌を勧めながら、自分の歌を続けて何曲も入力した。

 

 若林健二は、ピーチ割のシャンパンってただのジュースだぞ、と自分の分を余し、それを飲んでいる美鈴を子供扱いにしてからかって面白がっていた。

 

 美鈴は歌に夢中の佐藤さんの接客を気にすることなく、ドンペリを飲むことに徹する事が出来た。

 

 どんなジャンルの曲を歌っても、さすがに上手い佐藤さんのカラオケをBGMに、酒宴は深まっていく。


「すし取るか?」


 若林健二は佐藤さんと杉本部長の楽しそうな姿を見て、今日はもう他の店には行かないと決めたようだ。奈々も里美も美鈴もすしという言葉を聞いて、お腹空いた! と同時に合唱する。


「ケンちゃん、美鈴ちゃん指名してあげていい?」


 奈々は空間を支配している、割れた演歌のがなり声にも負けない声をあげて若林健二に頼んだ。

 忘れててごめんね、と美鈴の顔を見ながら快く場内指名を入れた。

 

 それから30分くらい経つと、ルイ十三世はニューボトルになった。ドンペリも若林健二が面白がり、美鈴に一気飲みを何度もさせていたので、3本目になっていた。テーブルの上も居酒屋状態で、唄いっぱなしの佐藤さんは、さらに続けて8曲も予約を入れている。

 

 杉本部長は里美を溺愛したのか、口を開けば可愛い、可愛いと言っていた。

 里美はこんな楽な営業はないとばかりに、ただ寄り添い甘えている。

 

 そんな状況の中、奈々に指名が入る。

 若林健二は、いけ、いけ! ヘルプは可愛い子よこせよ、と立ち上がる奈々のお尻を叩いて見送った。

 

 結局この日奈々は、メールで呼んだお客3人と若林健二と麻生公彦の5本の指名が入り、月曜日にしては上出来だった。


 店長に里美の事を聞くと3本だ。

 その内の2本は、私の客の若林健二と常連になるはずも無いフリーで来た運送屋の場内指名だから、本当の指名客は1人と考え、ほくそえんだ。

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