2話:麻生公彦
指名の席に行く前に、ビップルームCに戻った。途中だったメールをチェックする。8件の受信があったので、今日店に来てもらう客、明日、明後日、同伴出来そうな客を、メールの文脈から読み取り返信文を考えていた。
「
黒服がドアから顔を出し急かす。
店の為なのよ、女で商売しているこのヒモ野郎! というような眼つきでチラッと睨みながら、同じ文章で8件すべてに送信し、客からの返事を待つことなくビップルームCを後にした。
席で待っていたのは、最近週に2度は顔を出す
市役所に勤めているので、いつも地味な紺のスーツを着ている。
カバンも腕時計も安さが自慢の国産品。どこから見ても標準的な公務員だ。
父は4期勤める市議会議員で、実家は代々農業を営んでいた。
十数年前に所有する何10ヘクタールという農地が、用途変更で宅地に変わった。数十億円というお金が転がり込んできてからは生活環境が一変する。
しかし派手な生活をすると、世間様の妬みから誹謗中傷をされかねない、その結果、自分の公務員という立場や、父の議員としての評判も悪くなり、大変やりにくくなるので、世間体を極端に気にしていた。
奈々も始めて接客したときは横柄な態度を取っていたが、支払いの時に超高額所得者しか持つ事が許されない、ブラックカードを出した。
奈々は木葉が木から落ちるように、ゆらゆらと風情を出しながら、あたかも当たり前のように、違和感なく自然と態度を変えていったのであった。
「月曜日から来てくれるなんて、どうしたの?」
奈々は慣れた様子で隣に座り、カクテルを注文した。
「昨日の日曜日、市民団体との川のゴミ拾いがありまして、休日出勤したのです。今日はその代休で明日と明後日は有給休暇を取りました。この3日間で河川から見る広域行政の有り方について、自分なりに検討してみようかと思っているのです。そうすれば僕のゴミ拾いも意義のあるものになると思いまして……」
麻生公彦は上司に有給休暇を取る理由を述べているかのように説明する。
奈々は水割を作り終えると、置物のように隣で頷き、講演が終わるのを待った。
黒服がカクテルをテーブルに運んできた。これ下げて、とテーブルに用意してあった焼酎のボトルを奈々は黒服に渡した。
麻生公彦は焼酎とウイスキーのシーバスの2種類のボトルを店にキープしていたが、焼酎は同僚と一緒に来た時に出すボトルだ。
「とりあえず乾杯しましょ」
奈々はグラスを手に取り、麻生公彦が軽くグラスを当てるとスマートに一口飲んだ。
「奈々さんはキャバクラという業種の費用対効果について、どうお考えですか?」
いつものように、質疑応答をするように話し出す。
これは単純に、高い金を取っているのだから、セックスをさせろ、と言っているように聞こえるが、決して乱暴な事を言う人間ではないので、素朴な疑問を聞いているだけだと奈々は考えた。
「30年前と比べてお酒の値段は2倍になったけど、人件費は10倍になったの。だからお酒を売るというよりは、普段街で見かけないような綺麗な女性になって、お客さんの日常とかけ離れた世界を作り上げて夢を体験してもらうの、大人のテーマパークって感じ。ここの飲食代は入園料みたいなものかな……」
この店に勤める時の面接で、オーナーに言われた事を不確実ながら思い出して説明した。
平常心を装いながらカクテルを一口飲んだ。
麻生公彦はまだ納得しないような顔で、シーバスを飲み干す。
「料金設定の必然性と業界としての方向性は分かりました」
それを聞いた奈々はホッと胸を撫で下ろし、麻生公彦のグラスを取って水割りを作った。
「でも奈々さんは僕の質問には答えていません」
奈々は顔を少し引きつらせながら、水割りを麻生公彦の前に置く。
「奈々さんの言うところの、入園料に対する対価として、夢があるということは分かりました。ですが僕が知りたいのは、その夢という無限性の定義をまず教えて頂き、そしてその定義付けられた夢の、どの部分に価値基準を置いているのかということを述べられた上で、その正当性を教えて欲しいのです」
麻生公彦はグラスを手に取り奈々の顔を見詰めながら
「私が隣でお話をすることは、何の価値もないって怒ってるの?」
目を
「ごめんなさい、そんなつもりで言った訳ではないのです。気を悪くしたなら謝ります」
麻生公彦は言い訳をするように早口でしゃべり、左肩に乗っている奈々の頭に自分の頭を重ね、寄り添う。
「ねぇ……、私のことただの水商売の女って考えているの?」
聞き取りにくい小さな声で呟いた。
麻生公彦は、えっ! と聞き返し慌てて話し出す。
「女性としてすごく魅力的です。僕も今年で33歳になりますので、真剣にお付き合いしたい女性なのです」
寄り添っていた体勢を急に元に戻し、水割りを口から少し零しながら、また一気に飲み干した。奈々はグラスが空いたことを確認し、麻生公彦に微笑みかけた。
「じゃあ、お祝いしよう!」
奈々は闊達な声で仕切り直しをする。
テーブルに置いてある柿の種を一粒手に取り、麻生公彦の口に運びながら、黒服を呼ぶ。シャンパンのドンペリとピザを頼んだ。
ドンペリは4日前に、
この店はボトルの代金の1割が指名ホステスに入るシステムになっているが、ドンペリの販売価格が3万円に対して5千円くれるというのだ。
またピザだが、調理が必要なフードメニューは、出来上がるまでにある程度の時間がかかる。60分ごとにセット料金が発生するこの店では、時間延長の可能性が広がるのだ。
通常お客入店後、30~40分を見計らってオーダーすると、食べている最中にセット時間の終了が来るのだ。
フードメニューにキャッシュバックはないが、自分の売り上げ実績にはなる。
店に貢献度の高い優秀なホステスは、指名が入っていない時は、他のホステスのヘルプに回されることなく、フリー客の席に回してくれる。指名に繋がらないヘルプを担当しなくていい上に、のびのびと新規開拓が出来るのだ。
奈々に指名が入っていない時などは、ほとんど無い。売上もダントツの一で、店の細かい仕組みなど気にしたことはないが、テーブルを飾りたいので、フードメニューの注文は習慣になっていた。
ピザはその中でも調理時間が長いので、延長確定なのだ。
会話の要らない恋人気分にしばらく浸っていると、ドンペリが出てきたので慎重にシャンパングラスに注ぎ、グラスを聖夜のように静かに合わせた。
「奈々さん、今の乾杯は何に対しての乾杯なのですか?」
わりとにこやかな表情で聞いてきた。
「キミちゃんのそういうところ、私イヤ。理屈抜きで嬉しくて楽しいから乾杯なの」
少し突き放したように言いながら、シャンパングラスを傾ける。
麻生公彦は一層笑顔になり、ドンペリを気取って飲んだ。
ピザも程なくテーブルに並び、太ることを気にしながら2人で味わった。
まったりとした時間を過ごしていると、黒服が奈々を呼びに来た。
「ごめん、呼ばれちゃった……、ちょっと待ててくれる?」
そう尋ねると、いや、僕この辺で帰ります、とお勘定を頼んだ。
飲食代などを気にしたことがない麻生公彦は、ブラックカードをスマートに出し、支払を済ませる。
どこか弾んだような足取りで入口まで歩き、奈々はそれを笑顔で見送った。
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