20話 再出発
直子と恵美との生活に慣れつつあった日、少しだけ変化が訪れた。智貴が恵美に電話を掛けてきたのだ。電話の内容は分からなかったが、俺が寝たふりをした時に恵美と直子がそれについて話し出す。
「今日、智貴からあの家から引っ越したって連絡がきた」
「そう。離婚届はもう出したの?」
「まだみたいだけど、近いうちに出すって言ってたから……離婚が確定しても、まだいろいろ手続きもあるし、颯太の保育園も決まってないから暫くはお母さんに迷惑かけちゃうかも」
「それはいいのよ」
どうやら、智貴との関係も近いうちに決着がつくようだ。俺は安堵しながらも、少しだけ不安にも感じていた。離婚したら恵美はシングルマザーになってしまう。今は直子が健在だから何かあれば頼れるが、いずれは直子も年を取って、あの世へと旅立つ日が来るのだ。そうなった時、恵美はひとりで颯太を育てていかなくてはならなくなる。もしも恵美が病気をしたらと、そんな最悪な未来が頭を過った。俺のように交通事故にあって、恵美に何かあったら颯太はどうなってしまうのだろう。
自分がこんな状態に陥ってしまったからこそ、そんな想像ばかりが駆け巡る。
「なんならずっと家に居たら? 無理にひとりで頑張ろうとしなくていいのよ。颯太くんだってまだ小さいんだから、わたしが近くに居た方がいいじゃない」
「それもありがたいんだけどさ……せっかくお母さん、いろいろ楽しみも増えてきたのに颯太を任せてたらまた何も出来なくなっちゃうじゃない。それに、一応わたしと颯太の家もあるんだから、暫くはふたりで頑張っていきたいんだ。もしも何かあった時は頼っちゃうかもしれないけど」
恵美はにっこりと笑う。
「大丈夫だよ! わたし父さん譲りで体は丈夫だし、まだまだ若いからね!」
「本当にこうと決めたら頑固なんだから……そういうところもお父さんそっくりね」
ふたりは同時に笑い出した。
恵美は確かに俺に似て頑固な性格だ。それは良くもあり、悪くもある。
頼りたい時も我慢してしまうことがあるのが大きな欠点なのだ。
(俺はこれからどうしたらいいんだろうか)
この現象が一時的なものなのはなんとなく分かっている。いつまでも颯太の中にいられる筈はない。
だとしたら、俺がまだ残っていられるうちに恵美に何をしてあげられるだろうか。
父親として何もしてあげられなかった人生。恵美に幸せになってもらうために一肌でも二肌でも脱ぎたいところなのだ。
だが、名案など簡単には浮かんではこず、俺はそのまま眠りに落ちた。
それからまた一ヶ月が経ち、俺は恵美とともにあの家へと足を踏み入れる。
家電や家具はそのままの状態だったため、とくに変わったところはない。変化があるとすれば智貴が使っていた服や小物がすっかりとなくなっていることぐらいだろう。
「掃除してくれたんだ」
ぼそっと恵美が呟いた。俺が知る智貴は家のことなどせず、ただ恵美を顎で使っていた。てっきり家事ができないタイプなのかと思っていたのだが、部屋の様子を見る限りそうではなかったらしい。リビングのフローリングは埃ひとつ落ちていないようにピカピカにされていたし、キッチンも綺麗に磨かれていた。
智貴は元々のクズではなかったに違いない。ただ夫としてという考えに偏りが出てしまったのか、はたまた浮気相手の女に悪影響を与えられてしまったのか、それは今となっては分からない。
ーーいかんいかん、こんなことばかりを考えていては気が滅入ってしまう。
これから再出発して、恵美と生きていかねばならないのだ。こんなところでウジウジと湿っぽいことを考えている暇などない。
俺は気合いを入れ直し、恵美を見上げた。
「ママ、ぼくなんでもてつだうからね! ぼくがママをまもるから!」
恵美の表情がみるみるうちに笑顔へと変わる。
「ありがとう、颯太……けど、ママも強いからね! 今はママが颯太を守るよ」
腕を曲げ、筋肉を見せるポーズをとった。いつぞや、智貴に技をお見舞いした光景が俺の頭に浮かんでくる。
「ママ、つよかったね。どこであれおぼえたの?」
恵美が護身術なんて習っていたことなど聞いたこともなかったので、ずっと知りたいと思っていた。俺は興味津々で瞬きせずに恵美の返答を待つ。
「ママのお父さんに言われたんだよ」
「え?」
(俺が? いつだ?)
全く記憶にない。
「ママが大学っていう学校へ行きたいってお父さんに言ったらね……ひとりで暮らすんなら強くならなきゃダメだよって言われたの。きっと危ないこともたくさんあるから、ひとりで頑張れるようにしなさいって言いたかったんだと思うんだ」
恵美は懐かしそうに話すが、やはり記憶にない。
(恵美にそんなことを言ったことすら忘れているとはダメな父親だな)
情けなさに溜め息が出そうになる。ただ、俺が何気なく言ったことを恵美は実行し、思いもよらないところでそれを発揮させてくれた。会話が少なく、俺が言ったことなど何も聞いていなかったんじゃないかと思っていたが、そうではなかったことを知って嬉しく感じた。
「けどね」
恵美がそっと俺の頭を撫でる。
「もしママが困ったときは颯太がママを助けてね」
「うん!!」
俺は絶対に誓うと全力で頷いた。
「さて、明日からママもお仕事頑張るぞ!!」
「ぼくも頑張る!!」
そこで恵美があっと、何かを思い出したように声を上げる。
「そうそう、颯太に言うの忘れてた。やっと保育園が決まったから、来週からはばあばの家でお留守番しなくて済むからね」
「ほっ……いく、えん?」
「たくさんお友だちできたらいいね」
自分が一度提案したことだった。
だが、今は少しだけ後悔した。
(いい年のおっさんがどうやって友達をつくるんだ!?)
思わず叫びたくなる。
またしても俺に試練が降り掛かろうとしていた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます