18話 終止符

 智貴の目が見るからに泳ぎ出す。


(恵美、こいつの浮気に気がついてたのか!?)


 意外な真相に俺は間抜けなくらいに口を開いていた。


「気が付いてないとでも思ってたの? 妊娠してからあからさまに残業増えて、土日も接待ゴルフとかいって毎週出掛けるようになって……怪しまない方がおかしいでしょ?」


 智貴の顎から手を離した恵美はスマホを取り出し、開いた画面を見せ付けるように突き出す。その画面を見て智貴の顔が引きつる。


「浮気相手とのやり取り……智貴が寝てる間にずっと写真撮って残しておいたの。顔パスだけで安心してるなんてわたしのこと本当に信用してたのね。それか気付かないだろうと思って安心しきってたの?」


「……それは」


「ねぇ? どうして浮気に気が付いてたのに、今になって智貴にこれを教えたのか分かる?」


「どう……して」


 さっきまでの態度はどこへ行ってしまったのか、今では怯えきった小動物のような姿に成り下がってしまった智貴を俺は哀れんだように見つめた。


「妊娠して直ぐに離婚したら確実にお母さんに迷惑をかけちゃうでしょ? お父さんが亡くなった悲しみから立ち直って、ようやく自分の時間を楽しめるようになったお母さんの自由をわたしの勝手な選択で奪いたくなかったの。それと、もしかしたら颯太が生まれたら浮気をやめてくれるんじゃないかって淡い期待もしてたのもあった。けど、颯太が生まれてもあなたは浮気を続けて、さらにわたしへの態度が横柄になっていった。だからね、準備期間としてわたしはこの3年を過ごしてきたのよ」


「準備?」


「あなたと離婚するための準備」


 恵美はにっこりと笑う。その微笑みは智貴の平常心を打ち砕いた。


「わ、悪かった! 今までのことは全部謝る!」


 智貴は慌てて土下座をする。俺は思わず大きなため息を付いた。


(今さら土下座したって遅いだろう)


「今さら土下座なんてしたって許されると思ってるの?」


 俺の心とシンクロしたように、恵美が吐き捨てるように告げる。


「あなたが今までわたしにしてきたことを土下座だけで許されると思ってるなら、それは甘いんじゃないの? さっき智貴は言ってたけど、専業主婦なのに見返りを欲しがるなんて図々しいって……別にわたしは家事をした分の金銭的なご褒美を求めてたんじゃない。ただ今日もお弁当美味しかったよとか、いつもありがとうとか、そんな他愛ない言葉が欲しかったの。智貴が仕事で疲れてるときは、わたしなりに気遣ってお疲れ様とも言ってたし、それなりに料理にも気を遣ってきた。けど、それも智貴には伝わってなかったんでしょ? 浮気相手には毎日のように優しい言葉をかけてたけどわたしにはなかったのは、もう愛情はなかったってことでしょ?」


「愛情がなかった訳じゃない! 浮気は遊びで、本気で好きなのは恵美なんだ!!」


 ようやく顔を上げた智貴の顔は涙と鼻水でひどい状態になっていた。しかし、その姿に同情するなんてことはもうないだろう。それよりも情けないと落胆を覚えてしまうぐらいだ。


「智貴のことも本当に可愛くて……けど、お前にばかりなついてたから颯太とどう拘わったらいいか分からなくなっていったていうか」


 恵美がうっすらと笑みを浮かべる。


「それはあなたが拘わろうとしなかったからじゃないの? 仕事って嘘までついて浮気にのめり込んで、颯太のこと見ようとしなかった。そんな父親になつくはずないじゃない!!」


 どんなに言葉を並べても、最早それは言い訳にしかならない。それにようやく智貴も気が付いたのか、それ以上は喋らなくなった。


「もう智貴には愛情はない。わたしがお願いすることはただひとつだけ……離婚してください」


 それに対しても智貴は返事をしない。ただ床に脱力したように座り込んだままだ。


「わたしこの数日、智貴と離婚してもこの子とちゃんと生活できるように仕事も決めてきたの。だから、もうあなたは必要ない……あとの手続きや浮気の慰謝料諸々は弁護士に頼むつもりだから、今後連絡もする必要はないから」


 恵美は突如、俺に目線を向ける。


「ごめんね、颯太……怖かったでしょ? 今からばあばの家に行こうか」


 それは即ち、この家から出ていくという意味。俺は何も言わずにただ頷いた。


「なら、颯太の好きなおもちゃとかをリュックに入れて持ってきてくれる?」


 俺は素直にその指示に従い、子供部屋へと向かう。すると背後で一言、智貴が言った。


「颯太、さっきはごめんな」


 その謝罪に答えるべきか迷ったが、聞こえないふりをした。

 予め準備をしていたのか、恵美は数分も経たないうちに2階から大きな旅行バッグを持ってくる。俺の準備ができるのを見ると、智貴には目も触れずにそのまま玄関へと向かった。


「恵美」


 家を出ていく間際、智貴がそっと近寄ってきた。いつもの威圧的な態度をとっていた智貴とはまるで別人のような姿に、俺はすっかり抜け落ちていたある日の記憶を思い出す。それは智貴がはじめて恵美と結婚の挨拶に来た日の記憶だ。緊張しながらも俺に真剣な面持ちで挨拶をしてきたあの頃の智貴と今の姿が重なり合う。


「今まで本当にごめん……家は俺名義だけど、恵美名義に変えるから……俺が出て行ったら戻ってきていいよ。ローンは俺が払うから気にしなくていい」


「わかった」


 もともとは真面目な青年だったのだろう。どうして、そんな彼がこんな愚かな真似をしたのかは分からないが、俺は最後の情けを彼に向けた。


「パパ、いままでありがとう! ばいばい」


 笑顔でそう言うと、智貴の目からは次々と大粒の涙が溢れ落ちた。だが、懸命に笑顔をつくる。


「颯太、元気でな」


 その瞬間だけ、心がわずかに痛む。だが、もう智貴と恵美がもとの幸せな夫婦に戻ることはない。

 俺は恵美に手を引かれ、一時だけ我が家に別れを告げた。

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