16話 修羅場

 それから一ヶ月、智貴を見送ると慌てて身支度を整え、俺を直子に預けて恵美は出掛けるようになった。だいたい昼過ぎには戻ってきて、帰宅して慌ただしく家事をする。そんな落ち着かない日常が続いてはいたが、恵美の表情は前よりも生き生きしているように感じた。

 智貴の方は浮気を隠す気がなくなっているのか、最近は帰宅時間が日付が変わるギリギリの時間帯が多くなっている。そのおかげで嫌な顔を見ながら夕飯を食べなくてもいいのは有り難いのだが、恵美がどう感じているのかだけが気掛かりだった。


「今日もパパはたぶん残業で遅くなるだろうからご飯先に食べちゃおうか」


 表向きは何も気にしていないような笑顔を浮かべる恵美。だが、それは颯太を不安にさせないために気を遣っているからだろう。どんなひどい男だったとしても、かつては愛し合った仲なのだ。情は簡単には捨てられない。離婚を決意したとしても、智貴の浮気を知れば傷付くだろう。


(だが、知らずに終わるわけもないだろうからな……その時は俺が全力で支えてみせるさ)


「今日は颯太の好きなスパゲッティだよー」


「スパゲッティだ!!!!」


 目の前に置かれたのは子供の好きな食べ物の定番とも言えるナポリタンスパゲッティ。ウインナーと玉ねぎとピーマン、そして主役のパスタがケチャップで色付けされて綺麗に混ざり合っている。

 だが、俺は人生で一度もパスタと言うものに興味がなかったため食べたことがなかった。しかし、今では大好物リストのひとつに加わっている。

 一口食べるとトマトの酸味と甘味、ウインナーの旨味、野菜の食感が一気に口に広がっていく。この美味しさに気が付いてからは、スパゲッティの日が待ち遠しくて仕方なくなってしまった。


「おいしい!!!!」


「颯太、本当にスパゲッティ好きになったよね」


 恵美は勢いよくスパゲッティを口に頬張る俺をまじまじと見つめる。


「前は玉ねぎとピーマンが入ってるからあまり食べなかったのに」


「いまは好きだもん!!」


 確かに初めはピーマンと玉ねぎが異様に苦く感じた。それは子供に味覚が関係していたのだろう。

 しかし、大人の男が娘の作ったものを残すなど言語道断。苦味を我慢して食べ進めていくうちに慣れてきたのか、今ではすっかり気にならなくなった。


(きっと緑茶も飲み続ければ慣れるかもしれないな。明日また直子の家に行ったら緑茶を淹れてもらおう)


 そんなことを呑気に考えていた。

 すると、突如インターホンが鳴る。恵美の穏やかだった顔が一瞬にして緊張で強張った。勢いよく椅子から立ち上がり、玄関へと走る。俺も嫌な予感から食べるのを中断し、恵美の後を追った。


「開けるのが遅いぞ!!」


「ごめんなさい。今日も残業で遅いと思ってて」


「言い訳はいい! 飯は?」


「その……今日も外で食べてくると思って」


 帰って早々不機嫌アピール全開の智貴はリビングテーブルを見て舌打ちした。


「スパゲッティ? 俺さ、言ったよな? 子供じみたメニューは嫌だって」


「ごめんなさい。けど、この一ヶ月夕飯は外で食べてきてたから」


「だからってずっと家で食べないわけじゃないだろ!? いつ旦那が帰ってきてもいいようにご飯を用意するのが専業主婦だろうが!!」


 持っていた鞄を荒っぽく恵美に投げつける。


「だったら、今日はご飯要るとか要らないとか連絡してくれればいいじゃない。そしたらわたしだって」


「夫婦なんだからそこは察しろよ!!!!」


 今日はやけに苛立っているのか、智貴の口調はいつもより荒い。

 俺は苛立ちを募らせながらも、必死にそれを押し殺した。


(くそ、身体が子供じゃなかったらこんな奴ぶん殴ってやれるのに!!)


「俺はスパゲッティなんて食わないからな。風呂は先に入るから、その間に別のもの作っておけよ!!」


 着ていた上着を脱ぐと、またそれを恵美に向かって投げる。いつもなら、恵美は謝って終わる。

 だが、今日は恵美の様子が少しだけ違っていた。


「料理はそんな短時間でできるものじゃないの。今日は悪いけどスパゲッティで我慢してもらえないかな?」


 恵美の思わぬ返答に、智貴の眉毛がつり上がる。


「は? 我慢して嫌いなもの食えって? お前、旦那をなんだと思ってんの?」


「なら言うけど……智貴もわたしをなんだと思ってるの?」


 いつもは俯いて智貴に従っている恵美が視線を合わせ、恐怖に立ち向かおうとしていた。


(恵美……戦うつもりなのか?)


 俺は恵美の力強い眼差しに心を熱くさせた。


「なにって、お前は俺の妻だろう? なに言ってんの?」


「違うよ……智貴はわたしを都合のいい家政婦としか思ってない。ううん、家政婦よりもひどい。奴隷だよね」


「は?」


「家政婦はお給料出るもの。けど、わたしはどんなに尽くしても何も返ってこない」


「なに? 専業主婦のくせに見返りとか期待してんの?」


 智貴の言い方がどんどん恵美を蔑む言葉になっていく。


「俺は一日中頑張って仕事してきてんの。家事しかできないお前とまだなんもできない子供を俺が養ってんだろ? こうやってなに不自由なく生活できてるのは俺のおかげ……なのに見返りまで欲しいとか、お前図々しいんじゃない?」


「図々しい?」


「だってそうだろ? ていうか、旦那の世話もまともにできないお前に見返りなんて必要か? 逆に俺が見返り欲しいくらいだよ!」


 馬鹿にしたように鼻で笑う智貴を見た瞬間、俺は我慢の限界を越えた。

 隣の子供部屋へ駆け込み、目に付いた積み木を掴む。そして、体全身を使ってその積み木を智貴目掛けて投げた。威力と高さはあまりなかったが、積み木は見事に智貴の膝に命中した。


「いって!!」


「颯太!?」


 智貴の視線と怒りの矛先が俺へと向く。


「颯太、人になに投げつけたんだ!!」


 正体がばれてもいい。後先を考える余裕はもうなくなっていた。

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