ていねいな暮らし

小狸

短編

 小説をネット上に投稿アップし続けていたら、作品数が、早150作品を迎えた。


 僕のような職業作家でも何でもない人間が、「作品」なんて取ってつけた言い回しをするのもやや気恥ずかしいが、それでも何となく今の心境を残しておきたくて、ここに記しておく。


 150である。長編の章分けを含めれば、ゆうに200は超える。


 いや、だから何だという話か。


 多く書けばいいという話ではない。


 早く書ければ良いという話でもない。


 読まれること。


 その過程を経ずして、小説は小説にはならないのだ――と僕は思う。


 最近の自作を振り返ると、まあ見るも痛々しいものばかりである。


 どうも僕は、己が心理状態と作風が接続する傾向にあるらしい。


 ここ数カ月は、特に酷かった。


 個人的にも、精神的にも、所謂いわゆる「しんどい」日々が続いた。


 キリキリと血管に血流が流れるたびに痛みが走るような(勿論実際に痛みが走っている訳では無い、『それほどに日常的に自責感に苛まれることが多い』ことの比喩表現である)、そんな感覚である。


 残酷なことにそれでも回っていくのが、社会というものである。


 そしてそのし器の残滓を拾い集めて、僕は小説にしているのだ。それは「しんどい」ものになって当然である。


 僕はこんな機会でもなければ、一度投稿した自作を見返すことは基本的にしない。ただし今回は流石に振り返ることにした。


 そして「あの時は大変だったな」などと思うなどした。


 そう思えるようになっただけでも、儲けものだろう。


 しかし、ちびちびと陰鬱な私小説を書き続けて150である。良く続いたものだなと思う。


 元来僕は、積み重ねとか、継続とか、そういうことは大変苦手である。一日の中の習慣ルーチンとして組み込まれてしまえば造作もないのだが、その習慣化、行動の深部に到達するまでに、とても時間が掛かるのだ。


 今の時代のことだ、私のこの「物覚えの悪さ」にも、病名が付くのだろう。


 何にでも名前が付く。


 名前を付けて、保存される。


 良い時代になったと快哉かいさいを叫ぶ者もいるだろうが、果たしてどうなのだろう。


 それは、今までどこにも分類されず、どこにも所属することの無かったものを、無理矢理舞台に引き上げることにならないだろうか。


 例えば幼少期を思い出してみてほしい。クラスの中でも、ちょっと「変わった」子がいたとする。


 そういう子に、今の時代は病名が付き、分類されるのだ。


 枠に。


 まあ。


 何でもかんでも顕在化、分類することは決して良い事ばかりではない――という風にまとめたかったのだが、上手くいかなかった。


 人生、上手くいかないことばかりである。


 それは誰の人生でも同じだろう。むしろ上手くいくことは、奇跡である。


 ほとんどの事柄は、そのまま通らない。


 その確率を下げるためにひたすら努力するのが、人間という生き物なのだ。


 と。


 なんだかそれらしくまとめてみた。


 失敗する危険性を下げるために、努力を報わせる。


 実に僕らしい、マイナスの側からの考え方だと思わないだろうか。


 多分――否、必ず、僕は今日も明日も明後日も、失敗をする。


 自分の人生がどういうものかは、もう十数年生きてきて、大方掴めてきている。


 その度に、どうして生きているのかを問い続け、自責の念で頭をむしることだろう。


 表題の「ていねいな暮らし」とは無縁の、泥まみれの、汗臭い、地道で、地味な、いつ報われるかも分からない努力のような何かを、積み重ねていくのだろう。


 ――いつか。


 いつかそんな自分でも、肯定できるようになったら良いな。


 そう思ったこの瞬間を、忘れずにいようと思う。


 駄文散文どうかご容赦。


 これからも、どうぞよろしくお願い致します。




擱筆かくひつ

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