第4話
朝。
冷たい風が青年の頬を撫ぜる。
「寒い……」
体力を使い果たしたのか目を開けることもままならない。まどろみの中、身体を動かそうとしてもほとんど動かない。昨夜のデジャヴュか。それとも昨日の恐怖の夜の始まりに戻ってしまったのか。全ては夢だったか。
モゾモゾと身体を動かしてみる。どうやら縛られている訳ではないようだ。しかし重い。息苦しい。力を振り絞って目を開けてみる。眼の前には昨夜の猫耳少女の寝顔。青年を敷物のようにしてうつ伏せですやすやと寝ている。そして彼女に他の獣耳たちは折り重なるようにのしかかっている。その数およそ5人?5匹?
「おとうさん……おかあさん……」
寝言だろうか。少女がつぶやく。
動かせる範囲で首を動かし辺りを見回すと、数十の獣耳たちが横たわり健やかに眠りこけている。
「おっもたいな、これ」
青年が積み重なる獣耳の山から抜け出そうと懸命に身体を動かしていると、小さな猫耳の少年が駆け寄ってきた。人間の年齢で言うところの5歳位だろうか。
「そんちょー。にんげんおきたよー」
少年はかがみ込んで青年の顔を覗き込んだかと思えば、立ち上がり今走ってきた方に向かって声を上げる。声の先からまた別の声が。
「起こすのを手伝ってあげなさい」
その声に応じて、少年は「うん」と大きく頷いて、青年の頭を掴み、山から引き抜こうと思いっきり引っ張ろうとする。
「まって!絶対首ごと駄目になるから。落ち着こう」
焦り止めに入る青年。少年は不思議そうに顔を覗き込む。
「いま手を出すから、ちょっと待ってくれないかな」
焦り顔で青年は問いかける。問いかけながら必死で山の中から腕を出すために体を捻る。体を捻り腕を引き抜いたその時彼の腕は、山の一番下、つまり猫耳少女の身体に沿う形となった。少女は身体を這うその感覚に耳の先からつま先まで身震いさせる。
「なに!?」
少女はその勢いのまま、自身の上半身を跳ね起こした。彼女の上に重なっていた、他の獣耳達を吹っ飛ばしながら。結果的に青年を跨ぐような形になっている。少女が来ていた布切れは腰巻きも解け、胸元がはだけてしまっている。
青年は「耳と尻尾以外はほぼ人間なんだ」と気の抜けた感想を抱きながら、彼女が振り上げた拳を遠く見つめるしかできなかった。猫耳と尻尾はピンと伸び、毛は逆立っている。
自分が必死に動いてもびくともしなかった人の山を、いとも簡単にどかしてのけるのだから、この少女の膂力は自分より遥かに強い。
半ば諦めもあった。彼にできるせめてもの行動は、両手を頭の上に上げて抵抗の意思がないことを示すだけだった。
「お前はー!」と少女がその拳を振り下ろした時。
「やめなさい、ヒルデ」
先ほどの齢のいった掠れた声が静止をかけた。拳は青年の頭のすぐ横の地面に突き刺さっている。少女は拳を地面に突き刺したまま、声のもとを睨みつけている。
「ヒルデ。そのそいつを勝手に寝床にしたのはお前じゃからな」
男の言葉を受けて、飼い主に怒られた子猫の様に不服げな表情見せるヒルデと呼ばれた少女。猫耳は力無く折り畳まれてしまった。
「わかったよ、村長」
ヒルデはそう言うと立ち上がり、はだけた胸元を隠す様に着直す。短い下衣からはすらりと綺麗な足が伸びており、青年の身体を跨いでいる。
「お主。昨夜の宴、なかなかに楽しいものじゃった。その前の非礼を詫びたいところだが、そんな泥だけでは話もままならんじゃろう。近くの水場身体を流してきなさい。話はそれからじゃ」
村長と呼ばれる獣耳が青年から少し離れたところで話しかける。
「ヒルデ、案内してあげなさい」
「なんであたしが?」
「お前も泥だらけじゃ、他の者は見ての通りまだ眠りこけておるじゃろ」
「村長がいけばいいじゃん」
「儂はもう浴びておる」
青年は身体をゴロンと回転させて声の方向を見る。獣耳の男が立っていた。狼の様に長い耳とふさふさの尻尾。
昨夜、獣耳達を仕切っていた男だった。
(獣耳と言っても色々と種類がいるみたいだな)
腕を組んで村長を睨みつけるヒルデ。村長もその視線を気にも留めず見返す。
少しの沈黙。
「……ほら、起きて。ついてきなよ」
村長に気圧されたのかぶっきらぼうに、ヒルデは青年に向けて手を差し出す。立ち上がり、身体についた埃を払う青年。
「ひるで、これー」
と先程、青年の首を引き抜こうとした少年が布切れを何枚かヒルデに渡す。
ヒルデは布切れを受け取り、一枚だけ抜き取って、残りを青年に向けて放り投げる。
「あとはあんたの分。さぁいこ」
ヒルデはこちらを見向きもせずに歩いていく。
(見たこともない、獣耳。やはり、俺は全然知らない世界に来てしまったんだな)
青年は改めて自分の置かれた状況を理解する。
「遅いぞー」
考えを巡らせているうちに随分と先まで行ってしまったヒルデがこちらを振り返って、青年を呼ぶ。
(しかし、まぁ。昨日の夜はどうなることかと思ったが、なんとなく心底悪い奴らと言うわけではなさそうだ)
ヒルデは何も言わずに青年の前をいき、その後ろをついて歩く青年。
先程までいた場所、昨夜、火炙りにされかけた場所は村の中心部だったようで、燃えカスとなった丸太を囲むように十数の小屋が立ち並んでいた。
木造の平屋で、ちょうど『三匹の子豚』の次男がこしらえた小屋のようだと男は考えていた。
(あの老獣耳が村長と呼ばれていたから、なにかしら集落的なものかと思っていたが……獣の耳をつけた人間の集落か)
水場への道すがら、数人の獣耳とすれ違った。
人の背丈の半分ほどの樽に水を一杯に入れて担いで運ぶ者。
ガラガラと車輪の転がる音がする。農作物だろうか。見たことのない根菜を積んだ荷台を引く者。
道端に座り込んで、枯れ草を編んでいる者。
薪を割るもの。
(なんというか、牧歌的だな)
昨晩、自分事を襲った者達と同じとは思えないほどの、のどかな生活。
住居と呼ぶには、心もとない佇まいの小屋が並ぶ区画を超えると、木々の生い茂る森の中に入る。少し冷たい風が、葉を揺らし、カサカサと音を立てる。温かい日差しが木漏れ日となって二人に降り注ぐ。
森に入って進んだ先で、青年は足で何かを引っ掛けた感覚を覚えた。
その後すぐに、軽い金属同士のぶつかり合う音が鳴り響く。その響きは連続して村の方まで駆けていった。
「鈴の音?」
「あんまり鳴らすなよ。獣が寄ってきたの知らせるための仕掛けだ」
「獣がいるのか?」
「森なんだから当たり前だろ」
ヒルデはそこまで言うと、そうだといって腰巻きに差してあった木製の短い棒を差し出した。
「万が一はぐれたら、これを吹いて。だいたいの位置がわかるから。耳は良いからね」
その棒は一方の端に吹き口が設けられ、表面には複数の穴が開けられていた。
「これは笛?」
「そ。狩りに出る獣人はたいてい持ってる。今は使わないからあんたに預けておくよ」
それだけ渡すとヒルデは再び前を歩き始めた。
そこから少し進んだ先には小さな川が流れていた。太陽の光を反射して水面はキラキラと輝いている。川の流れに逆らって必死に泳ぐ小魚の影も見えた。
「ほら。入りなよ。あたしは向こう側にいるから。泥流し終わったらここで待ってて」
ヒルデは面倒くさそうにそう言うと、川の上流の方に向かっていった。
(嫌わてんのかな、僕)
昨晩のことも相まってなんとなくそんなことを考えながら、小川を覗き込んだ。流れがゆるく、水面は鏡のように青年の姿を反射させる。
(これが、今の僕の姿……)
この世界に来て、初めて自分の姿を見ることになった。彼自身、”向こうの世界”で死ぬ前の、身体の衰えを微塵も感じていなかったのできっと若い身体なのだろうと思ってはいたが、そこに映るのは見目麗しい青年の顔だった。
切れ長の目に、紺碧の瞳。鼻筋はすっと伸び、唇は薄い。前世と変わらない黒髪は前も後ろも結構な長さまで伸びている。髪の長さに対して、髭などの体毛は生えておらず、ちょっと不思議な感覚だ。
前世において、彼の晩年はその日を暮らすのもままならない状態の中で、髪や髭は伸び放題のことのほうが多かった。
年の頃は10代後半といったところか。ヒルデと呼ばれたあの猫耳少女とあまり変わらないのようだ。
水浴びのために衣服を脱ぐ。獣耳たちが着ていたものよりは多少上等なもののようだ。
とはいえ前世の洋服とは根本的に素材の質から違うようで、布は薄く、ところどころ破けており、裾は既にボロボロだった。
この身体の元の持ち主はそんな人物だったのだろうか、と思いを巡らせる。細身ではあるが鍛え上げられており、腕や胸の筋肉は隆起している。
「君は一体誰なんだ?」
小川で身体をすすぎ終えた青年は、渡された衣服を着直して川辺に座り込みつぶやく。見慣れぬ自分の顔が水面に浮かぶ。川の流れが、映る自分の顔を歪ませる。じっと見つめていれば前世の自分の顔になるのではないかと、見つめてみるが何も変わることはない。小石を投げ入れてみれば、ポチャンという音とともに広がる波紋が、自分の顔をかき消す。
と同時に、静かだった森が一気にざわめく。小鳥の群れが飛び立ち、小枝をへし折るような音が背後から聞こえた。
青年が振り向いた先には、巨大な猪のような牙を持つ生き物が鼻息荒くこちらを見つめている。青年が知っている猪と違うのは本来2つあるはずの瞳がひとつしかない、1つ目の猪であるということ。そして、その図体が2倍以上ありそうだということ。
明らかな異形。
「これはまた嫌な予感しかしないが……」
完全に目があっている。鋭利な牙を持つそれは、激しく首を上下に揺らす。後ろ脚で何度か地面を蹴り上げる様は、既にあちらが青年を獲物として捉えていることを物語っている。猪は目算で2mを超えるであろう巨体を揺らす。
(くる!)
次の瞬間には、強靭な脚力が生み出す爆発的なスピードでの突進。激突音と砂利の上を身体が引きずられる音。
青年は猪の両の牙を辛うじて握り、その突進を受け止めていた。身体は少し後ろに下がり、足が地面にめり込む。しかし身体への直接的なダメージは皆無と言っていいだろう。
(反射的に身体が動いた!ただ……)
猪は首を激しく動かそうと力を込める。同時に青年の身体を押し込もうと後ろ脚を蹴る。力は拮抗しているが少しでも気を抜けば、放り投げられるか、牙で突き刺されるかのどちらかだ。
青年の身体はジリジリと押し込まれる。靴が地面にめり込む。腕の筋肉は膨れ上がり、今にも血管が破裂しそうだった。
取れる手段はひとつしかなかった。
甲高い笛の音が森中に響き渡った。
「ヒルデー!!助けてくれ!!襲われてる!」
青年は叫んだ。獣耳の少女の名を。一縷の望みを託して。
彼女が向かった川の上流の方の茂みがガサガサと揺れた。そして気がつけば、青年の頭上に黒い影が落ちる。
「メノ・ボアか!上物だ!あんたそのまま押さえておいて」
青年が上を見上げると、布切れで胸元を隠しながら落下してくるヒルデと目が合う。そしてメノ・ボアと呼ばれる1つ目の猪にまたがる。そのまま上半身をメノ・ボアに押し付け、首に腕を回して、締め上げる。
(猪にチョークスリーパー!)
腕が回った瞬間、より一層強い力で首を振り回すメノ・ボア。青年は更に強くその力を押さえつける。しばらく暴れ回った後、くぐもった断末魔とともにそれから力が抜け落ちるのを感じた。
巨体が地面に倒れ込む。ドシンという音が聞こえるようだ。
ヒルデはふーっと息を吐いて伸びをする。
「こりゃ、なかなの大物だ。今日は肉が食えるぞ」
倒れた猪をパンパンと叩きながら満足げな表情のヒルデ。青年はというと、まだ緊張が取れていないのか、牙を握りしめたまま、中腰の体勢で固まっていた。
「それにしてもあんた結構いい身体してるんだね」
ヒルデは青年の身体をまじまじと見ながら言った。そこで青年は自分の衣服がはだけて上半身が露わになっていることに気がつく。
「このサイズのメノ・ボアの突進を受け止めるなんて、村でもあたしくらいだよ。できるの」
そこで漸く、褒められているということと、自分の命が助かったことに気がつく青年。
「はは、それなりに鍛えていた……からね」
小さく「みたいだ」といった言葉は聞こえたのかどうかはわからない。
「ちょっと見直したよ。あんた戦士か?」
「いや、ちょっとわからないんだ」
不思議そうな顔のヒルデ。
「まぁいずれにしても、ありがとう。助かったよ」
そうしてその場にへたり込んでしまう青年。
「色々聞きたいこともあるけど、ちょっと休ませてくれ」
「……動けないの?」
「ちょっと腰が抜けちゃったみたいだ」
ヒルデは「ったく」と言いながら左肩で彼を担ぎ、逆の肩で、メノ・ボアの巨躯を担いだ。
「ちょっと」
「獣は早く締めないと、肉が不味くなるんだ。このまま運ぶから」
そう言うとヒルデは一人と一頭を抱えて村の方駆けて行く。
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