第39話 聖女 2

――同じ頃、


 イーシャは200尋ほど浮いてカルビナの街を北から見ていた。カルビナまで3里ほどの距離だった。

 カルビナは国境の街らしく国内の他の都市よりも高く堅牢な防壁を廻らせ、防壁の上にも盛大に篝火をたいていた。南北に長いいびつな四辺形をしている。街中も中心に近い所にある市庁やくばと神殿の周囲や、市街の東に位置する領主館の周囲にはいくつもの篝火が見える。神殿と領主館の周囲は市街を囲む防壁とは別の壁を廻らせている。

 しかしそれ以外の平民の住む地域は暗く闇に沈んでいた。カルビナの南の壁に沿って通る街道はその両側に商店や交易所、宿屋、それに風俗店などが並んでいるはずだが、ほとんど灯りは見えなかった。戦争になるかもしれないことは庶民の間にも知れ渡っていて、共和国との交易も人の行き来も少なくなっていたからだ。


 イーシャはゆっくりとした速度でカルビナに近づいていった。近づくに従って防壁の上の巡回通路をパトロールする警備兵が目に付くようになった。明らかに通常の警備体制ではなく強化されている。しかし夜は見通しがきかないし、どれほど頻度高くパトロールしても隙間はできる。イーシャはしばらく観察した後、パトロールの間隙を狙ってふわっと市壁の内側に着地した。途中まで自然落下に近い落ち方をして地表2尋でブレーキをかけ降り立ったのだ。領主館に近い北側の市壁だった。




 マリエは遅くなってすっかり冷めてしまった夕食を食べていた。聖女とは言っても身分は修道女であり、冷めた食事を再度温めるなどと言うことは慣例としてできなかった。また一人で食べるのも味気ないのだが、他の修道女達は同席を遠慮した。そういう時だけ聖女という肩書きが邪魔するのだ。後ろに世話係の二人の中年の修道女を侍らせてする食事は、マリエにとってなかなか慣れないことの一つだった。

 二人の修道女はマリエの世話係であると同時に監視役でもあった。マリエは強い能力ちからを持った聖女だった。心球を12個、同時に操るのを見てルバイドルケ大神官長は唖然としたのだ。普通は6個から8個だった。12個の心球を操る聖女など100年は遡らなければいない。大きな能力を持った聖女の出現に上層部は喜び、同時に恐れた。だから他の修道女達とあまり親しくなることを上層部は嫌がったのだ。強い能力を持つ聖女は歓迎できるが、その聖女が周りに人が集まることは歓迎できない。個人の能力ちからが高いのに、派閥までできては面倒だというのが神殿首脳の考えだった。

 マリエが食事をしないと周囲の修道女や護衛兵も待っている。それもマリエの居心地を悪くしていた。自分が忙しいときは先に食べるように言ってもだめだった。


 マリエはフォークに刺したジャガイモを口に運ぼうとして何かにびっくりしたように手を止めた。じっと北を見ている。正にイーシャが自由落下にブレーキをかけたときだった。


「どうなさったのです?マリエ様」

「何か、とんでもない量の魔素を持った存在があらわれたわ」


 ほんの短い間だけの感知だった。直ぐにその気配は小さくなったが、気配を感じた瞬間に細い蜘蛛の糸のような触手をつないだ。カルビナに着いたとき街全体に薄い結界を張っていたのだ。結界にひっかかる存在があればそういうつながりをつくることができる。ほとんど本能のようなものだった。


 そしてぞっとした。


――人間、なのかしら?――


 巧妙に隠されているが恐ろしく密度の濃い魔素の塊だった。


「くせ者ですか?」


 もう一人の従者が訊いた。


「分からない」

「油断ならない共和国が相手です。どうせ只交渉しているだけだなんて思っていませんでした。何を狙っているのか分かりませんが、追跡させましょう」

「……危ない」


 マリエのつぶやきは二人の世話係にも聞こえたはずだが無視された。一人が神殿騎士に捜索するように命じるために部屋を出て行った。もう一人が街の地図を出してきて実際の方向と同じになるように机の上に置いた。


「マリエ様が感知されたのはどこです?」

「危ないわよ。しつこいけれど」

「それをするのが神殿騎士の仕事です」

「そう……。忠告はしたわよ」


 マリエは地図の一点を指で指した。


「感知地点はここ、そして」


 聖女マリエは顔を上げて北の窓の外を見た。もう一度地図に視線を戻して、


「街中へ移動中で、いまはここ」


 その指はイーシャの動線を正確になぞっていた。




 イーシャはゆっくりと闇を拾いながら移動していた。探知を大きく広げてカルビナの内部の様子を探りながら、だった。どの程度の武装勢力がいて、どう配置されているのか知るのが最大目的だった。


(通常戦力が2個兵団、街の東側に駐屯している。そこからカルビナへパトロールが出ている。パトロールの拠点が街中に12カ所ある。神殿の近くに居る2個大隊の戦力は神殿騎士だろう。どちらもひどく緊張している。まあいつ共和国との戦闘が始まるか分からないのだから無理もないが。……うっ?)


 自分の方へ近づいてくる1個中隊の神殿騎士に気づいた。小隊単位で活動している通常のパトロールとは編成が違う。それに神殿騎士は普通神殿の周囲から離れない。イーシャの居る場所に最短距離で近づいてくるように思える。イーシャは通り3つを急いで移動してみた。神殿騎士は移動した方へ方向を変えて近づいてくる。


(まさか、私の居る場所がばれている?)


 慌てて身体を探った。何か小さな魔法が背中にくっついているのに初めて気づいた。服越しではほとんど分からないほどの魔法だった。


(これは、……誰かの結界魔法の欠片ね)


 迂闊な話だが今まで気づかなかったほど小さな欠片だった。その小さな欠片でこちらの居場所を特定することができる者がいる。


――こんな相手が居ることが分かっただけで十分だ。


 イーシャは撤退することにした。共和国の敵になる神聖連合の兵力を毀損するつもりは、このときはなかったからだ。


「いたぞ、あそこだ!」


 神殿騎士の中隊が2つ向こうの街路に現れた。魔法を使った探照灯がイーシャを照らした。イーシャは無言のまま飛び上がった。そのまま高度を保ってカルビナから離れた。



「うっ!」


 聖女マリエはいきなり対手とのつながりが切れて右手で胸を押さえた。


「マリエ様!?」


 びっくりしたようにお付きの修道女が声を上げた。


「大丈夫よ。急に対手が遠ざかったの。びっくりしただけ」


 そう言いながらも背中を冷や汗が伝っていた。


「こんなスピードで……。しかも飛べるのね」


 イーシャが遠ざかるスピードはマリエが想像したこともないほどのものだった。つながりが切れるのに時間はかからなかった。

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