第38話 聖女 1
ハチェット砦を後にしたイーシャはまっすぐリオナに戻るのではなく、少し遠回りになるがルーケビドに寄っていくことにした。共和国がルーケビドでラベルニク神聖連合と外交交渉を始めたという情報がイルディア経由で入ったからだ。交渉がどんな様子なのか知っておきたかった。
共和国の方針としてラベルニク神聖連合と戦争を始めることは決まっていた。交渉は時間稼ぎだった。共和国としてもさすがに三正面の戦争は考えてなかったのだ。
そのためにはラクドミール公国に駐留させている
ラクドミール公国に駐留する共和国軍司令部はカテゴリー1がカテゴリー2に交代することを渋ったが本国からの命令では従わざるを得なかった。しかし、占領下でも抵抗を止めない旧ラクドミール公国内の治安は相当に悪化することが予想された。神殿の裏書きがされた誓約書に騙されたことに憤慨する亜人達の跳梁跋扈が酷かったのだ。逃げることを放棄して闇雲に突っ込んでくる亜人達の攻撃は、あとに多数の亜人の死体とそれに数倍する共和国軍兵の死体を残した。カテゴリー2の軍ではさらに損害が増えることが予想された。
カテゴリー1の部隊を引き抜かれれば占領地を維持できるかも危うかったが、最悪ラクドミール公国領を放棄することも考えられていた。
貴族領の治安維持が主目的の領軍を外敵と戦う軍にすることも必要だった。素質では国軍に劣らない兵が多かったこともあり、訓練すれば戦力として使える可能性はあった。しかしどの領軍とどの領軍を組み合わせるか、誰が指揮を執るのか、その時の命令系統がどうなるのか、戦力として使う前に片付けておかねばならない問題が山積みだった。ルガリオス二世が強権を発動して決定していったがほぐさなければならないしこりは残るのだ。そのための時間を稼ぐためにも決裂しないように上手く交渉を長引かせる必要があった。
ラベルニク神聖同盟は39の領土持ち貴族の連合体だった。連合の中心に神殿があるため神聖同盟を名乗っている。領土内の内政は各領主が独自に行っていて、かなりの自治権を認められている。連合全体としての方針や外交、その延長としての戦争などについては特に有力な二つの貴族家――ヴァルヴォーザ家とスティーフル家――と神殿が合議して決めていた。この2家の貴族はほぼ同じ勢力をもっていた。つまり同じくらいの広さの領と同じくらいの人口と同じくらいの富を持っていて何かにつけて張り合っていた。その間を上手く取り持っているのが神殿という構図だった。
各領の中に神殿があり、その周囲に神殿領を持っていた。一つ一つの神殿領は大きくはなかったが同盟内の神殿領を全てあわせるとヴァルヴォーザ家、スティーフル家の領よりも広く人口も多かったのだ。だからこそ両家を何とかまとめることができていたと言ってもいい。
ルーケビドと向かい合う形に神聖連合の街があった。ルーケビドから2里の距離を置くその街はカルビナという。ルーケビドもカルビナも国境側に防衛用の柵を設け、国境を挟んで出入国の審査をするための関を置いていた。
カルビナの中心に近いところに神聖連合の街らしく神殿が建っている。神殿の奥まったところに一般信者は入れない特別な区画がある。もちろん神殿の幹部のためのスペースで、重要な客のための部屋もある。その部屋に今、若い女が滞在していた。紺と白を基調とした修道服を着ているが、よく見ると布地も縫製も並の修道服とは比べものにならない上質のものだった。またフードを外した頭部に細いティアラを戴いているのも並の修道女ではないことを示していた。
――その部屋の中で、
女は胸の前で両の手のひらを上に向け、手のひらの少し上空で綺麗な軌道を描きながらくるくると回っている親指の爪くらいの大きさの球を一心に見つめていた。球は全部で12個あった。互いに適切な距離を保ちながら一つの意思の下に舞うように回るそれらは思わず見とれるほど見事な動きだった。
「マリエ様」
側に控えて居る修道女が遠慮がちに声をかけた。中年のこの修道女の服も質の良いものであることがうかがえた。声をかけられて球の動きがピタリと止まった。若い女が球から視線を外して声をかけた修道女を見た。
「もう一刻になります」
そう言われて若い女は窓の方を見た。レースのカーテン越しに見える外は既に真っ暗だった。
「本当ね。もう真っ暗だわ」
そう言いながら女は首を少しかしげた。
「やはり、良い卦は出ませぬか」
そう言われて女は頷いた。宙に浮いていた球がパラパラと手のひらの上に落ちてきて、そのまま吸い込まれるように女の手の中に消えていった。
「どうしても赤い球が残るの」
「そうですか。やはり……」
「この戦に巻き込まれてはいけない、ということだと思うのだけれど」
「デタノス様が殺されて、ルバイドルケ様もブラミレド様も、マリエ様のお言葉が耳にはいらないほどカリカリしておいでですから」
「聖女様のお言葉を聞かないなんて……」
もう一人側に着いていた中年の修道女が少し憤慨したように言った。
若い女――マリエ――は聖女だった。神殿の位階に組み込まれていないのは常に聖女が存在するわけではないからだ。聖女は神の言葉を聴く。さっきまで聖女マリエが操って心球を通じて。だから具体的にどうこうしろという言葉ではない。もっと漠然とした啓示だ。この心球を出せて、操れることが聖女の条件だった。だからときには数十年の空白期間があった。マリエも12年の空白期間の後に見いだされた聖女だった。3年前のことだ。
今回のリオネール共和国との交渉も、交渉の余地などないという神官や貴族を宥めて、取りあえず共和国の言い分を聞くという所まで持ってきたのは聖女マリエの力だった。
心球の啓示に漠然とした不安が拭えなかったのだ。心球をどのように動かしても後に赤い心球が残る。動かし方によって1個から数個までの差はあり、赤い色も濃淡がある。しかし赤い球――先行きの不安――は消えない。赤が必ずしも先行きの不安を表すわけではなかった。しかしこの場で出てくる赤はどうしても心に引っかかるのだ。
マリエとしてはリオネール共和国との戦は避けたいが、神殿内や民衆の間で戦に傾く勢いは抗しがたいものがあった。なんと言っても大神官長が殺されたというのは大きなショックを神聖同盟内にもたらした。それでもマリエの要請を受けて共和国との交渉を持ったのは、その間を利用して戦の準備をするというつもりもあったからだった。
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