第37話 ハチェット砦
イーシャは共和国とジェムシェンガ王国の最前線になるフェリノザへ南から近づいていた。ここは入り組んだ情勢のままどちらも迂闊に動けないにらみ合いになっている。
フェリノザの北、まさにジェムシェンガ王国との国境の手前にハチェット砦があり、そこに共和国の2個兵団が駐留していた。ハチェット砦と向かい合うように1里の距離を置いて王国のレムダリエ砦があり、共和国軍と睨み合っている。フェリノザはハチェット砦の後背のはずなのだが、ジェムシェンガ王国軍が間道を通って攻め込み占領してしまった。フェリノザの住民の大半は町の外に逃げ出し、3千人ほどはハチェット砦に逃げ込んでいる。
占領されたフェリノザの南に急遽派遣された共和国軍(寄せ集めの)1個兵団が布陣している。4枚重ねのサンドイッチ状態になっていて、どこが迂闊に動いても均衡が崩れそうでにらみ合いが続いている。
遠くに灯りが見え始めた。イーシャは高度と速度を落とした。灯りから1里ほど離れて着地した。そこからは地上を移動して近づく。
イーシャは空を飛んで移動するのは夜に限っていた。昼間ではどこから見られているか分からないからだ。地上移動でも
フェリノザの南に展開している共和国軍の篝火が近くなってくる。上空から見たとおり、フェリノザを占拠しているジェムシェンガ王国軍と対峙しているため、篝火の数も兵の数も北側――フェリノザ側――に偏っている。それでもポツポツとある篝火と不寝番の兵達の間をすり抜けて共和国軍の陣地内に入っていった。篝火は一定の範囲を照らすが残された暗闇も多い。その上、張り番の共和国兵の関心はもっぱら北に向いていて侵入は簡単だった。陣地内を闇を拾いつつ天幕の間をイーシャは進んでいった。
共和国軍陣地の丁度真ん中辺りに通常の天幕より一回り大きい天幕が一張り立っていた。入口に2人の見張り兵が立っている。中に人の気配が一つ、横になって寝ているようで動きはない。右手を天幕の裾をわずかに開けて浸入させた。司令部用の天幕だと思われた。中で寝ているのは司令部の要員、不寝番付きだからおそらくは司令官だろう。右腕には視覚がないため人相などは分からないが、どこにどんな体勢で居るかは分かる。カーテンで仕切られた奥に簡易ベッドを置いて横になっている。いびき(聴覚がないため聞くことはできないが空気の振動を感じることはできる)にあわせて胸が上下動しているのも分かる。
横たわっている男より少し上まで右手が浮いて、半尋の距離まで近づいた。右腕の人差し指の爪がすーっと伸びる。伸びた爪を男の頸部に当てて押し込んだ。寝ていた男の目が驚愕したように開かれた。切断された頸動脈からザッ、ザッと血が迸った。男は口を悲鳴の形に開けて、しかし声を出すことはできなかった。出血している場所に右手を持ってきて押さえたが直ぐに力を失って手がパタリと落ちた。
直ぐに天幕から出てきた右手を回収してイーシャは天幕の間を走った。司令部の天幕内の惨劇はまだ周囲に伝わってない。共和国軍陣地の北に設置してある防護柵が見えたところで飛び上がった。見張り兵のうち勘のいい者が、何かが上空を過ぎるのを感じたが暗闇の中でイーシャを視認することはできなかった。200尋の高さで一気にフェリノザの上空を通り過ぎた。ちらっと見下ろした街の中はあちらこちらに篝火がたかれ、不寝番の兵が隊列を組んでパトロールしていた。フェリノザにこもるジェムシェンガ王国軍にとっては北と南に敵が居る。だから篝火も周辺に重点的に配置されていた。逆に街の中心部は真っ暗だった。占領下でも街にとどまることを選んだ住民もいるが、ジェムシェンガ軍の兵以外の人間が動いている様子は全くなかった。
ハチェット砦の砦壁にふわっと着陸した。壁上の巡回兵の居ないところに降りて直ぐに砦の内部に目を走らせた。篝火で照らされていないところも多いが、灯りがないことはイーシャが視ることの妨げにはならない。
――あそこみたいね――
イーシャが降りたのは砦の東側の砦壁だった。南側の砦壁に沿って無骨な造りの、窓の少ない建物が5棟並んでいる。5棟とも同じ形のようだ。兵舎には見えないその建物群は倉庫に違いなかった。誰にも見つからないように素早く砦壁を飛び降りて倉庫に向かった。
砦は街に比べると敷地が狭く、中に居るのは軍人が多いと言うことで不寝番のパトロールも多く、中の空気はピリピリしている。それでもイーシャが誰にも気づかれないように倉庫にとりつくのにそれほどの時間はかからなかった。建物にとりついて下から見上げると壁の高いところに小さな空気抜きの窓が付いている。飛び上がって窓枠に手をかけて中を確かめた。一番東にある建物から順に見ていった。外から差し込むわずかな明かりだけでも大体の様子は分かる。1棟目、2棟目は武器、防具が入っていた。3棟目は食料、主には乾燥させたり塩漬けや燻製にした肉や魚、芋類、乾燥させた野菜などがまだ三分の二ほど詰まっていた。
――そして、4棟目、
(あった!)
小麦粉を入れた袋が山積みになっていた。小窓をくぐって倉庫の中に飛び降りた。飛び降りたのは小麦粉の袋の上だった。ナイフを取り出して、手近の袋に穴を開けた。10袋ほど切り裂いたところで飛び上がって小窓に戻り、切られた袋の近くで小さなつむじ風をいくつも起こした。小麦粉が舞う。倉庫の中に小麦粉を万遍なく舞わせると急いで倉庫から離れた。気配を探ってもう一度砦壁の上に飛び上がった。小麦粉を舞わせた倉庫の小窓に向かって小さな
ドカァ~ンと大きな音がして屋根が吹き飛び、瓦礫が舞った。
イーシャは飛び上がると南に向かった。振り替えると砦の中に大きな炎が立っていた。粉塵爆発は一度では済まず、二度、三度と続けて起こり、火の勢いはますます強くなるようだった。イーシャはにやっと笑うともう振り返ることもなくひたすら南を目指した。
こうして共和国のハチェット砦は備蓄していた食料、武器、を失ったのだっだ。
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