第33話 交渉?

 イルディアが自室から出てくると、食堂にイーシャが座って茶を飲んでいるのに気づいた。まだやっと日が昇って明るくなり始めたころだ。


「おはよう」


 イーシャの方から挨拶した。


「おはよう、久しぶり」

「そうね、30日ぶり?」

「正確には32日ぶりね。忙しかったの?」

「ええ。まあ」


 何をしていたのかなどとは訊かない。どうせイーシャが言うはずはないからだ。それでもイルディアはおおよそのことを推測していた。イーシャの不在中に、ブレソラン王国と戦争が始まったし、フェリノザへの補給が滞っているらしい。後者については発表されている訳ではないし、一般の平民が知っているわけでもない。しかし、ルーケビド方面から流れてくる噂話もあるし、娼館で気を緩めた将校達がときどきふっと口を滑らせることもある。第一次の補給隊が散々な目に遭ったこと、自分たちが二次、三次の補給を命じられるかもしれないこと、ラベルニク神聖連合ともさらに険悪になったことなど、娼婦おんなから噂話を集めているイルディアは知っていた。そしてそれらの事態の後ろにイーシャがいるのだろうと推測していた。


「こんどは首都こっちで動くの?」

「ううん、骨休め」

「そう、働きづめは良くないものね」


 イーシャはふっと笑った。


「そういうわけで今日はちょっと買い物に行ってくるわ」

「気をつけてね。戒厳令はかなり緩んだけどまだ引っ込められてないから。夜間外出禁止令もね」

「はいはい」


 そういえば市壁を乗り越えて市中に入ってきたときに見た警備隊のパトロールも、完全武装なのにどこか緩んでいたなと思いながらいい加減な返事をした。





「くされ坊主どもが!足元を見て好き勝手言いおって」


 交渉相手が部屋を出てから声が聞こえなくなるまで遠ざかるのを待って、会議室にグラドス・リキサーク軍務卿の大声が響いた。


「善良な領民が三人も死んだ、だと!共和国こっちは120人も失っているんだぞ」

「まったく、あんな国境近くの村など匪賊の溜まり場に違いないのに、証拠がないからとふんぞり返っていやがる!」


 軍務卿に同調したのはディクルス・スタジーブリ内務卿だった。


「そう言えば輸送隊指揮官のアンガス少佐はグラドス・リキサーク卿のお身内だったとか……、お悔やみいたそう」

「あっ、いや。国のために身を犠牲にしたのです。軍人として本望だったでしょう」


 グラドス・リキサーク軍務卿は唇をかみながらそう答えた。内務卿の言葉とは裏腹にその口辺にかすかな嘲りが浮かんでいるのに気づいていた。


 輸送隊指揮官の少佐は軍務卿の甥だった。凡庸な男で少佐にまで昇進したのは軍務卿の身内だったからというのが唯一の理由だった。リキサーク軍務卿はアンガス・リキサークという男を少佐に昇進させて輸送大隊の指揮官とし、その補佐に優秀な大尉を副長として送り込んだ。最前線に出すつもりはなかったが、苦戦しているフェリノザ方面への補給を命じたのは、第一次の補給隊として注目されると見込んだからだ。補給任務は後になるほど重要さと困難さは増すが目立たなくなる。最初の輸送隊というのは目立つ。軍務卿の身内が派手な行為で人の口に膾炙することは軍務卿としても望むところだった。それだけに思いもかけず輸送に失敗し、死んでしまった甥を間抜けと罵倒したかった。


「さて、元首閣下にラベルニク神聖同盟の言い分を伝えなければなりませんな。気は進みませんが、ディクルス・スタージブリ内務卿、グラドス・リキサーク軍務卿、ご同道願えますかな」

「そうですな、リドリー・フィジルダ外務卿。しかしあの無礼な言い分をルガリオス閣下がどうとられるか、下手するとラベルニクとも開戦になりかねませんな。そう思いませんか?グラドス・リキサーク軍務卿」

「そ、それは」


 軍務卿は口ごもった。


「三正面作戦になりかねませんな。まずいんじゃありませんか?」


――分かっているくせに、念を押すな。このくそったれ!――


 リオネール共和国の国力は、軍事力を含めて近隣の諸国より頭一つ、二つ抜きん出ている。単独で闘えばどの国にも負けはしない。いや二カ国を相手にしても十分に勝機はある。しかし三カ国を同時に相手するのは荷が重い。順番に叩き潰していくつもりだったができれば一カ国ずつ、というのが自分勝手なもくろみだった。その最初がラクドミール公国だったのだ。少し離れていて小うるさい存在だった。放っておくと他国、ジェムシェンガやラベルニクとの戦に当たって後背地になりかねない。そう考えて最初に叩いたのだが、思惑通り他国は傍観していた。


「それは、まあ、リドリー・フィジルダ外務卿。確かに三正面作戦は少し荷が重い。なんとかジェムシェンガかブレソランを潰してしまうまでラベルニクとは事を構えるのはあまり気が進みませんな」

「やはり」

「いや、外務卿。いざとなれば軍は三カ国を相手にするくらいの力はありますぞ。ただもっと楽に勝つ道があればそれに越したことはない、というところですな」

「分かります。ギリギリの勝負はできれば避けたいものですからな」

「さて、どの程度の妥協ができるか、元首閣下の意見も聞かなければならんでしょう。もう日が暮れてますが、軍務卿、内務卿、元首閣下のところへ参りましょうか」

「そうですな、暗くなっても報告に来いと言われてますからな」


 このときは三人とも妥協の余地があるつもりだったのだ。




「デタノス様、上手くいきましたな」


 豪華な馬車の中で後部座席に座った豪奢な神官服を着た太った男に、向かい合わせに座った痩せた男が話しかけた。神官服の男はラベルニク神聖同盟から派遣された交渉団の責任者で、向かいに畏まっているのはその補佐役の官僚だった。交渉の場だった中央政庁から泊まっている最高級の宿まで歩いてもそんな時間はかからないが、安全のため、あるいは見栄のためには短距離でも馬車を駆る必要があった。交渉団の他の要員は後ろに続く2台の馬車に乗っている。神聖同盟から来た20騎の護衛が周囲を固めていた。


「まあ。これまで共和国は舐め腐った態度をとっていたからな。その代償も払わせてやる。北ではハチェット砦で苦戦していて、東ではブレソランと睨み合っているんだからな。このうえ神聖同盟我が国ともめる余裕はあるまいよ。こちらの言い分を聞くよりないわけだ」


 丁度いい口実ができたからこの際ジェムシェンガ、ブレソランと協力して共和国を叩くべきだという意見もあった。主には軍部からの意見だった。しかし、この戦で例え共和国が勝ったとしても消耗して神聖同盟ともう一戦する力は残っていないだろう、恩に着せて、共和国の国庫から引き出せるだけの物を引き出すべきだという意見が通ったのだ。デタノスはその最先鋒だった。



『まあ、戦は我々に富をもたらさない、それより共和国の金庫をさらえる方がいい』


 と言うわけだった。



「まったくあのルガリオスの泣きっ面を見たいものですな」


 官僚服の男がそう言ったときだった。ドンッと言う音と共に男の直ぐ横をすごい勢いで何かが通り過ぎた。音につられてそちらを向いた男は馬車に穴が開いているのを見た。

 同時に、直ぐ近くで、


「ギェー!!」


 と言う悲鳴が聞こえた。慌ててそちらに視線を移すと、デタノス大神官の胸に矢が突き立っていた。弩弓に使う大きな矢が矢羽根の所までデタノスを貫き、背もたれに縫い付けていた。


「デ、デタノス様!!」


 呼びかけてもがっくりと首を垂らしたデタノスはもう何も反応しなかった。



 たちまち始まった大騒ぎを半里離れた貴族の館の屋根の上からイーシャは見ていた。定位置に戻ってもぞもぞと動く右手を服の上からポンポンと叩いた。

 弩弓の矢は何度も市壁を乗り越えているうちに手に入れたものだった。それを右手がカタパルトの要領で投射し、イーシャが念動でブーストを掛け、狙いを定めたホーミングのだ。右手の動きだけでも矢は届いただろうが馬車を突き破るほどの威力を持たせ、狙いを正確にしたのはイーシャだった。


「さてさて、どうなるかしらね」


 誰言うともなくつぶやいて立ち上がると、イルディアの宿に帰るために屋根伝いに跳びながら平民街の方へ向かった。


「あっ、夜間外出禁止だから店も閉まっちゃったわね。買い物し損ねたわ」




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