第5話 覚醒

 イーシャはふと目を覚ました。猛烈な空腹感がある。のどもからからで唇がひび割れて腫れ、開けにくい。それでも何故か体は動く。もうろうとしていた意識が戻っている。


――死ななかったのか?だが、これは……?私はどうなったのだ?――


 目を開けた。目の前に落ちた右腕が見えた。ふらっと立ち上がった。派手な音を立てて手枷と首枷が弾け飛んだ。体を覆っていたボロ布が滑り落ちる。骨の浮いた体が露わになった。体表面が内出血だらけだ。バキバキと音をたてて折れた肋骨が修復されている。肋骨が元の位置に戻ると傷ついた肺の治癒が始まる。落ちた、つまり身体から離れた右手にも魔素が充満している。


――だが、これは、この力は、いったい……?――


 右手に視線を当てた。それが握りこぶしを作りまた開いた。


『付いてくる?』


 右手がいらだたしそうに“結んで開いて”を繰り返した。


『肯定なら1回、否定なら2回、保留なら3回、握りこぶしを作りなさい。付いてくる?』


 右手は1回、握りこぶしを作った。


『行くわよ』


 右手がふわっと浮いて、イーシャの後ろに付いた。周りにいた男達がぎょっとしたように動き始めたイーシャを見た。イーシャとの意識が混じり合う。


――この船は気に入らない、周りの人間達も気に入らない――


 左手をかざす。メインマストに掌を向け、手首を捻った。メインマストが根元から折れて軍船ふねの船首部分を激しくたたきつけた。前部艦橋が音を立ててつぶれた。こんなことをするのは初めてだった。しかしなぜか、どうすればどうなるのかはっきり分かっていた。


 たちまち大騒ぎになった。


「こいつだ!こいつが何かやったんだ」


 イーシャのことを見ていた海兵や水夫たちが叫んだ。


 甲板にいた海兵や水夫がイーシャを取り囲み敵意のこもった目で見つめた。取り囲んだ海兵が武器を構えた。イーシャの体から陽炎のようにすさまじい殺気が立ち上っている。残りの2本のマストも次々に根元から折れ飛んだ。


「この化け物め!」


 長剣を振りかぶった海兵がイーシャめがけて突進してきた。その男に向かって左手を振るった。人差し指の爪が大人の身長よりも長く伸びている。海兵は剣でその爪を受けようとした。劍ごと海兵の身体が臍のところで真っ二つになった。ナイフでチーズを切るように、剣は根元から切断されている。臓物と血が派手に周囲に飛び散った。武器を構えた男達の動きが一瞬止まった。


「えっ?」


 戦闘状態にない軍船の上で彼らは武器は持っていたが、防具は身に着けていなかった。しかし鉄の劍ごと海兵の身体が断ち切られたのははっきりと見えた。劍で防ぎきれない攻撃!?海兵や水夫達の足が止まり、思わず一歩下がった。

 逃げ腰になった海兵や水夫を次々にイーシャの爪が襲った。いきなり伸びてきて首を貫くのだ。イーシャが手を横に薙げば防ぎようもなく身体が切断される。物陰に隠れても爪は盾にした物を易々と貫いてくる。これまでイーシャに加えていた行為を思い出した。訳の分からない恐怖が男達を襲った。


――冗談じゃない!こんなの相手にできるか――


 背を向けて逃げ出した男達をイーシャは次々と始末していった。この軍船に乗っている敵を見逃すつもりも容赦するつもりもなかった。




 見える範囲の敵を全部始末して、後部艦橋から下に降りた。船内への扉を開けた途端に排泄物と汗の悪臭がした。漕ぎ手奴隷は櫂に縛り付けられているのだ。食事も排泄もその場でしなければならない。


「なんだ、てめえは」


 降りてきたイーシャを見て、漕ぎ手奴隷の監督官が鞭をイーシャに向けて誰何した。イーシャは面倒くさそうに監督官に向けて左の掌を突き出した。監督官が座っていた椅子からはじかれたように後ろに飛んだ。太った男の体が何かに挟まれたようにベシャっと平たくつぶれて壁に張り付いた。100人の奴隷達が唖然としたようにイーシャを見つめていた。


 イーシャが監督官の座席に近づいていった。漕ぎ手のリズムを取るための太鼓の横に、大ぶりの水差しを見つけたからだ。海上では真水は貴重だ。監督官は奴隷達には必要最小限にも満たない水しか与えなかったくせに、自分のためには大きな水差しいっぱいの水を確保していた。イーシャは水差しを取って、半分ほど残っていた水を一気に飲んだ。体の隅々の細胞にまで水分が満ちたような気がした。


 水差しを置いて、奴隷達に向き直った。


共和国軍やつらと闘う?それともこの軍船ふねと一緒に沈む?」


 水を補給しても未だ声は掠れていた。


「姫様!」


 立ち上がった獣人族の男に見覚えがあった。亜人部隊にいたことがある。


「キーエス」


 狼獣人の名前も覚えていた。


「はい!!」

「闘う?」

「勿論!」


 そう答えたとたんにパンと音を立ててキーエスの足枷が外れた。キーエスが息をのんだ。


「こ、これはいったい」

「お前はもう奴隷じゃない。死ぬときでもお前に鎖が付いてないことは保証する」


 声が、ずっとスムーズに出るようになった。漕ぎ手奴隷の全員に聞こえた。


「姫様!」


 キーエスが平伏した。それを見て次々に男達が立ち上がった。


「俺も!」

「俺も、闘うぜ」


 イーシャがパチンと指を鳴らして、あっという間に全員の足枷が外れた。2振りの長剣が男達の前に投げ出された。甲板で片付けた海兵が佩いていたものだった。


「取りなさい、この船を制圧するわよ。甲板にはもっとたくさんの武器が落ちているわ」


 男達が我先に甲板に駆け上がっていった。武器があれば人間ヒト族になど負けはしない。


「姫様これを」


 どこから出したのか、キーエスが差し出したのは大きなセーラー服だった。イーシャは初めて自分が裸でいることに気づいたように自分の体を見下ろした。垢の浮いている、内出血だらけの痩せた体だった。右腕の肘から先がない。内出血はイーシャの側を通る海兵や水夫が面白半分にイーシャを殴ったり蹴ったりしたせいだ。


「ありがとう」


 イーシャがやせこけた体に大きすぎるセーラー服を纏う間、キーエスは目をそらしていた。痛ましそうな表情で。



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