第2話 不在の証明(前編)

 ◆2月24日 午前8時40分



 不在の証明は、存在の証明よりもはるかに難しい。

 それでも、桜野さくらの涼正りょうせいは不在を主張した。


「いません」

「いやいや、絶対いるって」


 このやり取りを始めてから、すでに十五分が経過している。いい加減、つまらないことに時間を費やすのはやめにしたい。

 涼正は、メガネの位置を直した。


「ですから、何を根拠に『いる』とおっしゃるのです」


 語気を荒らげるという最終手段を取った涼正に、コーヒーカップを両手で持つ男は楽しそうにこたえる。


「じゃあ、君が『いない』って言う根拠は? 桜ちゃん」

「その呼び方はやめてください」

「えー、いいじゃん、かわいくて」


 水渕みずぶちはじめは、事務所の来客用ソファーに足を上げて座りながら、部下である涼正にうらめしそうな目を向けてくる。しかも、起床一時間半をすぎたというのに、寝癖を直さないどころか、スウェットを着たままだ。これが、三十路近い男の平日の朝だろうか。


 否、と涼正はいいたいが、現実ならば受け入れるしかない。

 あくまで「目に映る現実」ならば。


 水渕は探偵だ。二年前まで、いわゆるキャリア警察官だったことは、見た目からも内面からも想像できまい。

 だが、水渕は名ばかりのキャリアではなかった。世間をさわがせた事件をいくつも解決している。名実ともにエリートだった。


 大学時代に法学部だった涼正が、進路に悩んだ末、国家公務員試験を受けたのも、キャリアの道を数年で捨てて、探偵助手になったのも、水渕の型やぶりな才能にかれたからにほかならない。


 だが、それはそれ、これはこれだ。


 涼正は、手にしていた書簡を、水渕に見せるべく机に置いた。それは水渕宛てに届いた依頼状だった。


「いくら警察からの依頼でも、妖怪の調査などばかげています」

「いいじゃん。面白そうで」


 そう言って、水渕はコーヒーをすすった。


 水渕のもとにはときどき、警察から極秘の依頼がやってくる。そのどれもが、公には扱えない、いわくつきの事件だった。


 水渕の能力が、いまだ警察に買われていることは、助手である涼正としても誇らしい。だが、今回の依頼はいただけない。


「だいたい、存在しないものをどう調査するつもりですか?」

「だーかーらー、いるんだって、妖怪。ほら、これ見なって」


 終わらない問答にあきたらしい水渕が、背中の後ろから新聞を取り出す。それは十日前の記事で、印のされている部分には、深夜に若い男性の遺体が海辺の公園で発見されたことが書かれている。遺体に目立った外傷はなく、死因は心臓発作とみられるそうだ。


「これが何か?」


 小首をかしげた涼正に、水渕が待ってましたとばかりに口角をつり上げた。


「公にはされてないけど、これは怪鳥かいちょうのしわざだ」

「怪鳥?」

「そう。妖怪のうわさ自体は、半年くらい前からあるけどね。今回は、俺たちで怪鳥の正体を突き止める」

「怪鳥だという根拠は?」

「目撃者がいる。しかも複数人。全員が、現場付近から巨大な鳥が飛び去るのを見たって証言してる」


 目撃証言は、ときとして事件をひも解く鍵になる。だが、人間の感覚や記憶がきわめて曖昧なものだということも、また事実だ。


「その証言に、信憑性しんぴょうせいはあるのですか?」

「ある」


 水渕は言いきった。そして、テーブルのポットからコーヒーを注ぐ。


「目撃者同士につながりはないから、互いにしめし合わせた可能性は低い。それに、証言の内容が『巨大な鳥』だよ? そんな話が重なるなんて、偶然だと思う?」


 突拍子とっぴょうしもない証言が重なる可能性は低い。つまり、証言は事実。水渕の言い分では、怪鳥が存在することになる。

 それでも、涼正は怪鳥が存在するなど信じられなかった。


「何かを、怪鳥と見間違えたのではないですか?」


 深夜の話だ。ビニール袋が飛ぶのを見間違えた可能性もある。対象物のとぼしい海辺で、遠近感覚が鈍り、サギなどの鳥を巨大に感じた可能性もある。

 涼正の主張に、水渕はため息をついた。


「要するに、桜ちゃんは自分の目で見たものしか信じないわけだ」

「そうです。それから、ちゃんづけはやめてください」

「じゃあ、サクはどう?」

「……」


 涼正は反論しようとしたものの、これ以上、むだな話はしたくなかった。

 目をすがめた涼正を見て、水渕は寝癖のついた頭をかいた。


「君は、本当に真面目だね。髪も、一流企業のエリートみたいにセットしちゃって。もう少し、人生楽しんだほうがいいよ」

「では、私も言わせていただきますが、あなたには生活態度を改めていただきたい。仕事は遊びではありません。非現実的な証言を信じる暇があるのでしたら、自分の目で真実を追う努力をしてください」


 涼正は、無感情に言った。それに対し、水渕は口もとを笑みの形にゆがめて、立ち上がった。


「だったら、君は、自分の目で真実を追う努力をしてくれるわけだ」

「ですから、それは……」


 言いかけた涼正の唇に、水渕が指を当てて、口を閉じさせた。涼正よりやや背の高い水渕が、身をかがめて顔をのぞきこんでくる。


「俺、努力とかできない性格なんだ。お手本見せてよ」


 ささやくような、そしてなぜか反論できなくなる声だった。

 水渕が、涼正の口から指をどける。かわりに、手にしていたカップを押しつけてきた。


「というわけで、俺は隣でもう一眠りするから。あとはたのんだよ」


 言い残して、水渕は仮眠室に向かった。

 上司がいなくなった部屋で、涼正はからのカップを手に、しばらく立ちつくしていた。




 ◆2月24日(満月) 午後11時35分



 水渕のデスクにこれ見よがしに置いてあった資料によると、ことのあらましは次のとおりだ。


 二月十四日の午前零時ごろ。


 現場は、市街地から車で十五分ほどのところにある海辺の公園だ。第一発見者は帰宅途中の中年男性。亡くなったのは、近くに住む二十三歳の男性で、林道に倒れていたという。生前の写真を見るに、端整な顔立ちだ。


 死亡推定時刻は、遺体発見とほぼ同時刻。目立った外傷はなく、死因は不明。薬物および毒物の反応もない。


 そして、公園およびその周辺で、三人が死亡推定時刻に現場から巨大な鳥が飛び去るのを目撃している。昼間、目撃者たちに聞きこみをしたものの、有力な情報は得られなかった。全員「間違いなく巨大な鳥だった」としか言わない。


 涼正は、公園脇にある駐車スペースに車をとめた。

 潮の香りが鼻をつく。夜空をあおぐと、満月が昇っていた。


 公園は南側が海で、街灯に照らされた歩道がある。歩道沿いのベンチや、海を望む柵のまわりには、週末のデートを楽しむ男女や、サークルの集まりらしき学生たちが何組かいた。


 背後を振り返ると、林があった。灯りのついた遊歩道が見える。


 涼正は、あらためて公園内を見回した。


 清掃が徹底されているようで、怪鳥と見間違えるようなビニール袋は落ちていない。鳥の姿もない。もし、鳥や袋が飛んでいたとしても、ここには木や街灯といった対象物がまばらにあるため、大きさを間違えるとは思えなかった。


 つまり、涼正の仮説は成立しないということだ。ならば、本当に怪鳥がいるのだろうか。


(まさか)

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