第二部第二畜 レディ・ボーデン・プレゼント
歴史の暗闇からある日突然現れた監禁少年、カスパー・ハウザーには、その出自に幾つかの説が立てられている。
ひとつはお馴染みの、「英雄ナポレオンの隠し子」説である。これは主に……
――発見時に彼が持っていた手紙が「父と同じ」騎兵にさせようとする内容であったこと。
――生母と推測されるステファニー・ド・ボアルネがナポレオンの養女となったこと。
――同居していた時期とナポレオンの後継者が未だ生まれていなかった時期の重複。
――縁遠い養女ながらも「フランスの娘」と大層な称号を嫁入り道具に貰っていること。
――ステファニーは結婚後そのまま、新郎カールより別居を命ぜられていること。
――その和解にナポレオン自身が介入してもいること。
以上の点が、論拠として挙げられている。
そしてもうひとつ唱えられているのが、「バーデン大公後継者説」である。
バーデン大公家とはステファニーの嫁ぎ先で、カールはそこの当主にあたる。
二人の息子は夭逝し、成人したのも三人の娘だけだったため、後継ぎは得られなかった。
しかしながら死産とされた長男が、赤子の死体とこっそり取り換えられ、世に隠され監禁されたまま育てられた結果がカスパー・ハウザーだ、とする説である。
この説の論拠とされたのは……
――成長に従ってカスパーの顔がバーデン大公に似てきたこと。
――貴賤結婚で生まれた子供に爵位継承権はないものの。継承権のある嫡子をすべて葬ることで、爵位を継承しようと目論んだ、庶子(庶兄)の母親たる妾がいたとされること。
以上の点が論拠として挙げられている。
反論として。
バーデン大公国を継承するバーデン大公家ではあるが、当時のカールは公子に過ぎず、子供を幽閉しておくような城や監禁係、莫大な諸経費まではとても用意できなかっただろう、という点が指摘されるが――
しかしこれらはそのまま、カスパー・ハウザーが当時の成人年齢で唐突に監禁より解放され、街へ放り出された理由にもなり得る……
「歴史講釈はそのくらいにしておいてですね波多良さん」
「――はい」
歴史の案内人ごっこをしていたらナローデに声を掛けられた。
「そろそろ。現実に、帰ってきてくださいよ?」
「――ここ異世界ですよね?」
微笑んで揚げ足を取ると、顎を掴んで強制的に正面を向かされた。
「現実逃避やめろっつってんですよ……」
耳元で囁くナローデ。俺達の前には、金髪の美少女が腕を組んで仁王立ちしている。
ここは首都バイエルンの中心部。王宮前の一等地、大貴族のお屋敷が並ぶ貴族街の一角だ。その中でも最も大きな屋敷のひとつへと招かれた俺達二人は、贅を凝らした客間へと通された。すると、窓際に立っていたその少女が振り返り――
――俺と目を合わせた。
そこから急遽、俺の歴史探訪(正史)が幕を開けたわけだが……
「……」
俺と少女とを往復する、ナローデの視線がすべてを物語っている。
黄金の髪に聖翠の瞳。整った容姿はお互い、とてもよく似ていた。髪質まで似ている。
年は俺よりひとつふたつ下くらいだろうか。白のドレスシャツにフリル付きのスカートが、成長期の清楚な印象を引き立てている。
だが美少女はこちらをガン見し続けている。
「…………」
長い凝視を経て、美少女は腕組みを解いた。口許から微笑がこぼれる。
「本日はお招きに応じていただき。誠に嬉しく思いますわ。
恐らくは……はじめまして。聖騎士にして聖人の、聖ケスパー・ハタラー卿。
――自己紹介は必要でしょうか?」
「ああいえ、レディ。お初にお目にかかります――レディ・ボーデン」
その名で呼ばれた少女は、及第点といった顔で頷きを返した。
以前、帰る使用人たちの馬車を尾けていった先がこのでかいお屋敷だったので。招かれた先がここであると解った時点で、招待者の正体には察しがついていた。
しかしこんな若い子だとは思わなかった。もっとババアだと思っていた。
「毎日、人を遣って下さって有難うございます。お陰で快適に暮らせております」
少女はよく弁えているな、という顔で俺の感謝を受け入れる。
そう。俺が無人の空き家へ左遷された事を察知し、目ざとく使用人を送ってくれたのはこの年下にしか見えない少女なのだ。
「感謝は――別の形で返して頂けたなら、とても嬉しいですわ?」
手指を組んで、少女はソファーへ客人を誘う。
ナローデともども対面のソファーへ沈みこむと、メイドが入ってきて紅茶を注ぎ始める。
「と――仰られますと?」
柔らかく指を組む少女は、ふたたび俺の顔を凝視する。
「……」
ちら、と傍らのナローデに一瞥をくれてから、少女は乗り出していた上体を戻す。
「ねえ――私たち。似ているとは……お思いでなくって?」
質問した先は俺ではなく、ナローデだった。
「失礼ながら……ええ。お二人とも、まるで兄妹のように、よく似ておいでですわ」
少し戸惑いながらも、貴人に失礼のないように答えるナローデ。
メイドのナローデは本来使用人なので後ろで立って控えていなければならない身分だが、首都内で暮らすにあたり「後見人から随行を命ぜられたお目付け役の身内」という事にしてあるので、片眼鏡に肩の膨らんだマダム風の服装を身に纏い、家庭教師兼お目付け役のババ『波多良さん?』いやいやお姉さんに見えるようにして常に同行できるようにした。
ナローデの答えに満足するように眼を閉じると、少女は再び俺を見た。
自分に似た顔を穴が開く程見つめてどうしたんだろう。
「そうですね。私もそう思います。でも私より、父に――よく似ています」
少女が口にした父親とは、もちろんボーデン大公の事だ。
ボーデン大公はこのバイエルン王国の貴族ではなく、隣国のボーデン大公国の世襲君主であるらしい。現在の当主が覇王ケポレオンの係累から妃を迎えた事からもわかるように。その成立と所領の維持には、覇王の存在が色濃く影を落とすものであったのだという。
そして覇王亡き今、頼みとする後ろ盾を失い、その領土は今もなお周辺勢力より蚕食を受け続けているらしい。
いくぶん友好的な隣国バイエルンの首都へ、こうして当主の娘が滞在しているのは。戦乱を避けた疎開の意味合いも強いらしい。
ただ、もちろん国王血族としての役目はそれだけではなく――
「私は探していたのです。――かつて我が国が失った、栄光のひとかけらを」
外交官のような目つきで、少女は俺を眺めやった。
その口調はさながら。かつて亡くした兄弟に、再会したかのようではあったが……
「後嗣を失ってより……わが公国はつねに、優秀な後継者を求めています」
瞳はどこまでも冷めていて、利を計算する商人のそれにしか見えなかった。
「ナロンベルクの辺境に現れ。一夜にして聖騎士、そして聖人の称号を得たケスパー・ハタラー。民が噂する通り、その貌は我が父に酷似しています」
ですが、欲しいのは青く尊いだけの血ではありません、と少女は両手を掲げる。
「遠征で戦力が払底していたとはいえ、バイエルンの首都を単騎で屈服させ、王にまで膝をつかせるその戦力。その力――我が公国のため、お役立て頂けませんか?」
二コッ、と決めた笑顔は角度といいあざとさといい、きっと美少女の必殺技なんだろう。
そしてそれ以上何も言わず、ただ微笑み続けるこの沈黙は。きっと相手に己の置かれた現状を思い出させるための間なのだろう。
――王に屈辱を与えたとして左遷された人間に、使用人を送って世話してやり。
――「とりあえずどっか攻めてこい」と無茶振りされた人間に、指標を与える。
答えを待つ笑顔に向けて、俺は口を開いた。
「その様子だと俺が何を命じられているかは、もうご存じのようですね。
シャウエッセン、ハンブルグ。――候補をふたつまでは絞ったんですが、まだ決めかねてまして」
「あら。話の早い方は好きですわ」
少女は湯気を立てるティーカップをどけ、机上に豪奢な縁取りのハンケチーフを広げた。
ハンケチーフと見えたそれは、ポケットサイズの世界地図だった。布製で、世界大陸に主だった都市が刺繍され、地名まで入れられている。いかにも王族の持ち物だ。
少女の細い指が。ボーデン大公国、バイエルン王国、シャウエッセン、ハンブルグ……と順に指さしてゆく。
「……シャウエッセン属州。元は我が公国の版図でありました。今は敵勢に包囲され、やむなく領主も独立自衛を強いられてはおりますが――気脈は通じております。
包囲軍を蹴散らしての解囲作戦となれば、魔導軍も呼応して出撃する事でしょう」
シャウエッセン市は貴族が多く、魔導軍と呼ばれる魔術師部隊を擁しているらしい。
「稀なる強い魔力の持ち主――青い血の貴方が、街に自由をもたらしたとなれば。
貴方の旗の元へ集い、忠を捧げんとする貴族も大勢現れることでしょう」
味方が増えれば僻地に左遷されることはもうない、と言外に言われた気がする。
ゆったりと微笑むその瞳は、まるでこちらの野心を見透かすかのようだ。
いや、野心ないけど。
利害の一致を訴えたい彼女に、俺も相手の利益について考えてみる。
祖国は攻められ、自身は隣国に避難し、その上で人をけしかける――となれば。
「もしも仮に……敵対勢力に包囲されている都市、そこを解放して『ボーデン大公の意向である』と告げたなら……ゆくゆくはその都市の代官を貴女が務める、てとこですか?」
借りは何であれ返さないと大きな利子がつく。だから金貸しはいなくならないのだ。
「あら。代官になるのは貴方かも知れませんわよ?――この私の、夫として」
「……」
胸の谷間に手を添えて告げた少女は、おのれの美貌に自信があるのだろう。
美少女の色仕掛けもまあ――相手とよく似た顔でなければ、効果があったかも知れない。
兄弟かも知れない人間相手によくやるわ、という顔で見ていると、美少女は苦笑した。
「……ここで。私に、『むしろ兄弟でない方が都合がいいですわ』と頬を染めてみせるくらいの可愛げでもあれば――良かったんでしょうけどね」
並んで座る俺とナローデを興味深げに見回してから。
「さすがは聖騎士、聖人、と言ったところですわね。――潔癖でいらっしゃる。
それに……噂とは違って。とても、一途な方のようですわね?」
何を言われてるのか判らない顔のナローデの横で、俺はじわりと汗を滲ませる。
「そんな殿方なら――本当に。貴方を、兄弟と呼んでみたかったですわ。
……そうだ、一度試してみましょうか?」
美少女はいたずらっぽく片目をつむり、お願いするように片手を立てる。
「――いいお返事を期待してますわよ……お兄ちゃん?」
* * *
「可愛かったですね……」
「可愛かった……」
屋敷から追い出された俺らが二人並んで述べるのは、さっきの少女への感想だ。
といっても外見が可愛かったと当たり前の事を言っているわけではない。
「あれはズルいですね……」
「ああ、ズルいわぁ……」
人を「お兄ちゃん」と呼んでみせた直後、美少女は顔を真っ赤に染め、背を向け、そして使用人へ命じて俺達を客間から追い出させた。さすがに恥ずかしくなったらしい。
そしてお屋敷からも出て行かされたわけだが――
「ああいうの見せられちゃうと。腹も立たないですね……」
「ああ。ガンバってんだなぁ、て思うわ……」
別に。貴族少女の似合わぬ媚売りに、感銘を受けたわけではない。
自身はなんら祖国防衛の役に立たず、外国へ疎開している年少の身ながら――
使用人の派遣。直接交渉。果ては年若い自分の肉体まで取引材料にして、なんとか祖国防衛の役に立とうとしている。
ずっと年下なのに見上げた覚悟だ。ああいうのが本当の貴族だと思う。
「いやー。ああいうの見せられちゃうとねぇ。おじさん――弱いんだよねえ……」
「ええ。本物の、ノブレス=オブリッジ、というものですね……」
「ねぇナローデさん? 若い子のああいうの、おばさんも弱いですよね?」
「誰がおばさんですかぶっ飛ばしますよ」
「ぶっ飛ばしてから言わないで下さい……」
地に伏しながら俺は失言の代償(腹パン)の痛みを堪え、立ち上がる。
こんな痛み――あの子が背負うものの重さに比べれば、どうという事はない。
「比較対象のレベルが全然違う気がするんですが……」
雑音は無視して。
俺は首都の空、彼方に在るはずの包囲都市を思い浮かべる。
見えぬ鎖に縛られた貴族少女の為にも――必ずや、自由をもたらさねば。
「さて。それじゃあ――ハンブルグを解放してきますか!」
「ここまでの流れ全部無視かよ!」
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