第二部第一畜 拳王の帰還

 一度途切れた意識がまた繋がれば、三週間ぶりの覚醒の感覚。

 当然、三週間ぶっ続けで原稿を書いていた身体ではない為、目の痛みも頭の重さもない。

 そして実に爽快な目覚め。若いっていいな。


「ふう――さて。……やっと戻ってこられた」


 ぱちんと目を開けば、見知らぬ天蓋が飛び込んでくる。ていうか天蓋付きベッドなんて、随分といいものに寝ていたんだなぁ、不在中の私。

 三週間ずっとこれに寝ていたのかな? しかしそれにしては体中が痛いような……


「、あれ? おーい、波多良さーん? 帰ってきましたよー?」


 窓から差し込む光はすでに茜色で、夕刻の部屋には私以外の人影はない。

 辺りを見回しても部屋に転がるのはせいぜい、切断されたロープくらいのものだった。

 ……切断されたロープ……?

 不穏なアイテムに眉を寄せつつ、部屋を出て、三週間ぶりとなる社畜を探す。


「波多良さーん。どこですかー。わたくしです、帰って来ましたよー?」


 ここは随分と広いお屋敷のようだった。さながら近世西欧のタウンハウスにも似て、両開きの正面扉の手前にはシャンデリアが煌めいている。カクテルパーティでも開けそうな大広間には深紅の絨毯が引かれ、ゆるくカーブを描く大階段が二階まで続いている。

 私の声に反応してか。その階段正面、厳重に封鎖された部屋より物音が響いた。

 ……厳重に封鎖された部屋……?

 階段を上ってよく観察すれば、室内窓の奥に幾重にも渡され、打ち付けられた板が見える。どうやら部屋は内側より封鎖され、さながらバリケードでも築かれているようだ。

 まるで外敵の侵入を防ぐかのように。


「波多良さん……? そこに居るんですか……?」

「もう――もう騙されないぞ!」


 扉の向こうから響いた返答は、切り口上だった。


「ナローデさんのふりをすればいくらでも引っかかると思ったら大間違いだ!」


 切羽詰まったような声は、紛れもなく波多良慶のものである。


「えっ……? 波多良さん、どうしたんですか……?」


 私の不在中に何かあったのだろうか。ゾンビパニック的な何かが。


「やっと原稿上げて三週間ぶりに帰ってきたら。一体、何がどうなってるんです?」


 内側から打ち付けられたドアに手を当てる私に、返ってくるのはあざ笑うような声。


「フッ、下手な演技はやめろ! ナローデさんはそんなしおらしい声なんて出さない!」


 あ。(心の中の何らかのゲージを一メモリ進める音)

 扉の向こうの波多良さんはすぐ眼前に迫る危機にも気づかず、得意げに笑っている。


「本当にナローデさんだって言うなら! これから考える事が脳内に伝わるはずだ!」

(ナローデさん現世で編集会議にパンイチで出席してきたんですかお疲れさまーっす!)


 あ。(心の中で何らかのスイッチが入る音)

 私は逆さ貫手の構えを取り、迷いなく五指を突き出した。




「フッ……どうだ! 今考えた事を言ってみろ! できないだろう!」


 偽物め!と勝ち誇る俺だったが、バリケードの向こうの声がナローデさん本人かどうかを確認する事に固執し過ぎて、肝心な事を忘れていた。

 ばぎゃあ、と物凄い破砕音を立て、目の前の扉と板数枚がまとめて突き破られる。

開いた破砕孔から飛び出したのはたおやかな女の細腕で。開かれた五本の指が破片を掴むまま、ぐっと握り締められる。握りつぶされた扉の欠片が、俺の頬をかすめた。


 ――ああ。

 扉の破片を粉々にした拳が再び開かれ、伸ばされ、そして迷いなく俺のこめかみを掴む。


 ――そうか。ナローデさんが本物だった場合を……全く考慮していなかったな……。


 古流武術アマゾネス(魔力強化)の前では、こんな板数枚など一時しのぎにすらならぬ。

 さっき板切れを粉砕したばかりの女の五指に力が籠もり、俺は頭蓋骨を粉砕される恐怖に固まるが、しかし予想に反しそれ以上ナローデさんの握撃が炸裂することはなかった。

 代わりに物凄い力で頭部を引っ張られる。無論――バリケードに向かって、である。

 女の細い腕に引かれるまま。まるで当然のように俺の身体はバリケードと扉をまとめてぶち破り、扉前へと転がり出た。最初に素手でぶち破られた穴を潜り抜ける事ができた頭を除いて、全身くまなくバリケードをぶち破る事になった。満身創痍である。


「――他に何か。言い遺すことは?」

「おかえりなさいナローデさん……」


 なんかもう人体ではあり得ないようなポーズで深紅の絨毯に沈む俺に遺言を訊ねてから、一度溜息をつき、ナローデさんは拳に光を灯した。追加攻撃ではない。治癒魔法である。


「何やってんですか波多良さん……。私の偽物でも出たんですか?」

「いやぁやっぱり本物は一味違うぜ……」


 床にあぐらをかいて肩をコキコキ慣らす俺だが、無言で返答を待つ仁王立ちのナローデに、説明不足がさらなる暴力に直結する未来を読み取ったためとりあえず口を動かす。


「あぁそれより。こうしてスケジュール通りに戻ってきたって事は――原稿ちゃんと書けたんですか?」

「一巻分きちっと仕上げてきましたよ。昔から速筆で通ってますのでね」


 おおすげえ、と感心する俺の前で、ナローデさんは辺りを見回している。無意識にカレンダーでも探しているのかな。


「あれから三週間、ですか。その間に――何がありました?」


 自分の身体をぺたぺた触って、着ている寝間着を確かめている。あ。今疑惑の眼差しをこちらへ向けた。そして早くも殺意の灯火が輝き始めている。いや違う。違うぞ。俺は別に、意識を失ったナローデさんを着替えさせたりなんかしてはいないんだ。

 ――俺は。


「あー……確かに。ナローデさんからしてみれば。俺の背中で意識を失って、三週間経ったら、ここに居るわけですもんねえ」


 はよ話せ、という拳圧を感じて(拳圧?)、俺は説明を急いだ。


「ナローデさんが意識を失っ、……現世に帰ってから――」


 言葉を選んだ俺にナローデが首を傾げる。違和感に気付かれる前に、俺は続けた。


「――無事に、王都バイエルンに着きまして。貰ってた紹介状とか出して、町に入れてもらおうとしたんですけど……」

「まず町に入るところからですか」


 ナローデは呆れているが、内戦下の土地では町へ入れてもらうのも一苦労なのだ。


「まあ、ご想像通り。疑われまして……竜騎士団を呼ばれて、実力を示せとか言われて」

「あー。それで? 軽く、蹴散らしたんですか?」


 続きを促すナローデも『遺産』の強さは目の当たりにしている。並の兵では相手にならない。


「そうです。そうしたら今度は、聖騎士団とか、もっと大勢呼ばれちゃって……」

「……あー」


 ありがちなテンプレ展開、みたいな顔をするナローデ。


「で? それもまた、蹴散らしたんですか?」

「はい。――」


 俺は街外の草原に大勢の竜騎士と聖騎士が横たわる惨状を思い出しながら答えた。

「――そうしたら何故か、騒ぎになっちゃって。町の中でけたたましく鐘が鳴り始めて、町の入り口から大勢の兵士が出てきて……」


 どうしてか町の守備兵まで、悲愴な表情で突撃してくるので、倒すのが心苦しかった。


「なんかねえ……たかが実力示すだけの事に。ここまでしなきゃならないのかな――って」

「いや気づきましょうよ! ソレもう既に実力を測られてるんじゃない、って事に!」


 完全にただの敵認定されて全面戦争に突入してるだけですよ! とのナローデの突っ込みの通りなのだが。当時はまるで気づかず、延々とお相手してしまった。


「んでまあ――死にかけつつ、隊長クラスの敵全員倒すまで戦ってしまったんですが……」

「なぜそこで全力出しちゃうんですか……手を抜いて負けたふりとかしましょうよ……」


 俺は入社直後に覚え込まされた、古ぼけた額縁の墨書を思い出す。


「ウチの社則は、『倒れるまでは立っていろ、仕事できなくなるまでは手を動かせ』なので」

「だから貴方もう社畜じゃないんですよ……?」


 それに、そんな扱いされてるのに会社を『ウチ』と呼ぶのはどうなんですか――などと、愛社精神とは無縁な指摘をしてくるナローデ。ふっ。忠誠心というものを知らぬフリーランサーはこれだからな。……あれ? 涙が止まらないぞ? どうしてだろう?


「グスッ――ええと、どこまで話したんでしたっけ? 地獄の新人研修?

 ……ああそうそう。で、向かってくる隊長級がいなくなったら、次は――王様が」

「――王様? あぁーなるほど。王様が現れて、戦いを止めに入ったんですね?」


 これまたありがちな展開、みたいな顔で展開を先読みするナローデ。


「いえ。違います。――王様が、降伏してきました」

「降伏しちゃったの⁉」


 俺はまるで一幅の大画のごとき、王様の降伏時の光景を思い出す。

 草むらには累々と気絶した兵が倒れ、その合間を縫って進んでくるバイエルン王。背後にはもう護る者のいなくなった、かつて己の統治していた首都が煌びやかに聳えている。全ての犠牲と責任を背負い、悄然と進む王に続くように。悲劇的な未来を想像してさめざめと泣く女子供、既に己の命数は定まったと諦め切った町の古老らが列をなし。我先にと町から逃げ出す市民たちを背景に、待ち受ける全身鎧の騎士――という己が運命に向かって歩み寄ってくる。

 いやまあその全身鎧ってのは、単に当惑し立ち尽くしているだけの俺なんだけど。


「で。王様が、苦渋に満ちた表情で『民と都には手を出すな。どうか、この王の命ただひとつを以て、戦勝の贄としてくれ。――まさか、この歴史ある王国が、ただ一人の賊の前に敗れ去るとは……』とか言い始めて、後ろの民衆たちも泣き始めたから。ああ自分別に賊じゃないですよ、って言って、最初に見せた書類を出したんですよ」

「――書類?」

「あー、町に着いた時最初に門番に見せてた、聖騎士の証とか、列聖申請書類とかです。

 まあだいたい戦いに巻き込まれてボロボロになってたんですが……どうにか読めたんで、王様に見せたらなんか、『あー』って納得してくれて」

「それ絶対、納得したんじゃないと思いますよ……」


 勝てそうにない相手が「敵じゃない」って言ってきたからまあ話合わせただけでしょ、とナローデは言う。

 ともあれ。そこからはトントン拍子に物事が進んでいって、現在に至る。


「いや端折らないで下さいよ。王都を攻め滅ぼしかけといて、信用して貰えたんですか?」


 そこは俺にも不可解な点だった。苦笑する。


「……ナローデさんが予想した通り。俺も、最初は疑われるんじゃないか、って思ってたんですけど。意外でしたね。俺が聖騎士という話も、さらには聖人かもしれないという与太話さえも、王をはじめ皆、あっさり信じてくれましたよ」


 何でですかね?と首を傾げる俺に、ナローデは渋面を向けた。


「それ信じてくれたんじゃないですよ……」


 気分ひとつで自分達の命運を左右できる相手が目の前にいて。そしてその相手が「自分は聖騎士だ」「聖人だ」とか言い出したから。話合わせただけでしょ……とナローデは言う。

 なるほど。そうだったのか。


「道理で。聖騎士だとか聖人認定とかすんなり進む割に、『神聖なる王権に土をつけた』とかやたら非難されるわけです。――だから、こんな二つ名がついたんですかねえ?」


 俺はステータス画面を開き、ナローデに見せてみる。

 二つ名:「バイエルンの屈辱」new!


「何ですかこの歴史イベント的な二つ名……。思いっきり、王様の敵扱いされてんじゃないですか……」



 げんなりした顔のナローデは、俺の胸に揺れる複雑な略綬へ目を止めた。


「で。『バイエルン王室竜騎士団 副団長補代理見習心得』という役職を命ぜられまして」

「役職名からしてもう、思っきし持て余されてんじゃないですか……」


 屋敷の窓に目を止めたナローデは、その外の田園風景にも気づいたらしい。


「でも『王権に泥を塗った者を王の傍へ置いておくわけにはいかない』とか皆が言うから、この郊外の騎士団公邸に滞在するように指示されまして……」

「全力で厄介払いされてんじゃないですか……」


 在れた屋敷内を見回すナローデは、自分達以外のひと気が皆無な事にも気付いたらしい。


「騎士団の所有する公邸のひとつと言われて来たものの、他に誰もいなくて……」

「ソレほぼ左遷とか幽閉って言いません……?」


 ナローデは手近な窓を押し開け、鬱々とした屋敷の空気を換気し始めた。


「こんなとこ居たら病気になりますよ波多良さん。さっさと出て行きましょう?」


 いや執筆終えた誰かさんが戻ってくるの三週間待ってたんだよ、とは言いづらい。


「いやまあ、そうしたいのは山々なんですが……実は、任務も命じられていて……」

「任務……。副団長補代理見習心得としての任務、って……何ですかねえ」


 ナローデの声色が物語る通り。王都の皆から持て余されるのが任務かなあ。


「『その有り余る戦闘能力で、ちょっと近隣の都市を解放して来い』――と命じられました」

「……。配下の兵士とかはつくんですか?」

「一切なしです」

「軍資金とか糧食とかの支給は?」

「一切なしです。ていうかここに来てからも食料の支給は一切ありません」

「既に兵糧攻めを受けてんじゃないですか……。ていうか。単に『死んでこい』っていう命令じゃないんですかそれ」

「あー。正式な命令書も貰ったんですけど、『近隣の都市を包囲する賊を討伐してこい』って命令文の末尾に、書いてありましたね。――『王の敵に死を』って」

「思いっきり皮肉言われてんじゃないですか……」


 王の敵に死を。ダブルミーニングである。むろん俺も含まれる。


「――別に、そんな命令。従わなくてもいいんじゃないですか……?」


 ひどい待遇なら全部放り捨てて出て行きましょうよ、とフリーランサーは言う。


「聖騎士の聖人・聖ケスパーが。命令違反をするような人物じゃあ――マズくないすか?」

「手に入れたばかりの肩書に思っきし縛られてんじゃないですか……」


 モラルとか人からの評判のために死ぬ気ですかアナタ、みたいな顔をしているナローデ。

 俺は安心させるために、腹蔵の秘策をチラつかせてみる。


「まあ――一応、考えている策はあるんで」

「敵に向かって単騎特攻してこい、みたいな命令のどこに策を弄せる余地が……?」


 俺が輝くような笑顔を向けてみせると、ナローデはだいたい答えが分かったようだった。


「あーハイハイ。どうせまた、社畜にとっては聞き慣れた命令、とか言うんでしょう……?」


 すごいなあよくわかったなあひょっとして心が読めるのかなあ。


「ふざけてんですか……。さすがにわかりますよ……。

 貴方が元気になる時ってだいたい、ろくでもない無茶ぶりされた時じゃないですか……」


 そりゃまあ、元気じゃなければ、その無茶ぶりに応えられないからなあ。


「ここ異世界ですよ……? 貴方もう社畜じゃないんだから逃げていいんですよ……?」


 異世界だろうが現実だろうが、逃げた先に成長はない。(キリッ)


「どうして成長に繋げようとするんですか……。異世界じゃもっと楽にして下さいよ……」


 いやむしろ。異世界だからこそ――いくらでも失敗できるじゃないか!(キリッ)


「どうして社畜をする事に関してだけはやたら意識高いんですか貴方……。

 まあいいです。波多良さんがそのヒドい任務を受ける気満々なのはよくわかりました」


 ヒドい任務って言っても。攻略先の都市は、俺の自由にしていいって言われたんですよ?


「それ、『どうせどこ行っても死ぬだけだから好きにしろ』って言われてるだけですよ……」


 俺は地図を取り出して、いくつもの都市を示してみせる。


「ハンブルグ。シャウエッセン。アルトバイエルン。――いやーどれ食べるか迷いますね」

「食べ物じゃないんですよ……。よだれ垂らしながら自分の死に場所選ぶのやめて下さい」


 ちなみに候補は絞ったんですか?と訊かれ、肉料理にあふれた地図から顔を上げる。


「あー……二つまでは、絞ったんですが……最後の決め手が、ちょっと……」


 頬をかき言いよどむ俺に、ナローデは不思議そうな表情を向けた。


「何かあるんですか?……ああ、そう言えば気になっていたんですが。

 三週間食料もなしに無人の館で過ごしてたって割に――波多良さん元気そうですよね?

 それにお屋敷の中も随分と片付いてる。……どうしてですか?」

「あー……」


 三週間動きあぐねていた理由のもう一つが、まさにそれだった。


「――実は。ここに移らされてすぐ、どこかから大勢の使用人が毎日、屋敷を訪ねてきて……家事全般をしてくれているんですよ」

「使用人? ……誰の差し金ですか?」


 ナローデの疑いの眼差しは無理もない。ナロンベルクでも味方いなかったからなあ俺ら。


「俺もそう思って、誰が寄越したのか使用人たちに尋ねたんですが。『さる身分あるお方』から遣わされました、としか答えないんですよ」

「うっわ怖ぁ……。そのうち毒殺とかされそう……」


 まあ俺も最初はそう思った。


「相手から怪しいと思われるのを見越してか、その『さる身分あるお方』は、堂々と自家の紋章がついた馬車で使用人を送り出してきました」

「首都中の大勢を敵に回して、首都郊外へ放り出された波多良さんに、ですか……?」


 敵の多い人間を味方につける奴はいない。まあナローデの言っている事は正しい。

 その紋章は偽物とか、他家の紋章だったりするんじゃないですか、と疑うなろう作家。

 まあ俺もそのくらいは調べた。


「聞いたんですけど、紋章付きの馬車とか偽造して使ったら即、死罪になるらしいですよ」


 でもやる奴ぁやるでしょ、という疑い顔のナローデ。


「あと一応、使用人たちが帰るときにこっそり後をつけたりはしました。

 馬車は首都の中央部、貴族街のど真ん中にあるでかいタウンハウスへ入っていって――」


 門に刻まれた紋章は確かに同じだったが、表札なんぞ出ているはずもない。


「近くを歩いてる人に、このお屋敷は誰のお屋敷か、と訊ねたら……あれ?」


 名前を忘れた。確かに聞いたのに、その貴族の名前をど忘れした。


「あれ、名前忘れた……」

「ちょっ、しっかりして下さいよ波多良さん! 何で覚えてないんですか!」


 いや覚えてはいるんだ。いるんだが、何かこう――引っかかって出てこないだけだ。


「何だっけなあ……そう。冷蔵庫、いや、冷凍庫の中にあるやつ……」

「……何で貴族の名前を思い出そうとして冷凍庫が出てくるんです?」


 いやなんか、確かそんな名前だったんだ。


「そう……俺が子供の頃。誰の家の冷凍庫にも、だいたいそれが入ってたんだよ……」

「昔の冷凍庫に入ってるもの……氷ですか?」


 いやそれ電気式じゃない冷蔵庫じゃん。いつの時代だよ。そんな昔じゃないよ。


「うーん、近いけどもっと普通のもの……そう! アイス! アイスだよ!」


 アイスは氷じゃないですか、みたいな顔でナローデが見ている。


「いやアイスクリームだから。ホラ、アイス屋の店頭で冷やされてる、アイスの入ったデカいバケツ――みたいなのがあるでしょう?」


 はあ、と答えるナローデはあまりアイス屋とか行かないタイプの女子か。


「昔はさあ……どこの内の冷凍庫にもああいう、巨大なアイスのバケツみたいなのがあったんだよ。普通に市販してたから。デカいプラケースで」


 ええ⁉ そうなんですか⁉ と驚くナローデはやっぱり世代が下らしい。


「そんな大量のアイスを家で買ってどうするんです?」

「いやどうするって普通に食うんだけど。……まあ家族みんなで食べても、食い切るまでに二、三ヶ月はかかったな……」


 今から考えると、アイスは賞味期限がないからこそできる力技である。


「それまでずっと同じ味のアイスを食べるんですか? 飽きません?」

「いやまあ昔はそんなに味の種類とかなかったし。おやつで毎日出されるし……友達の家に遊びに行っても、夏場はだいたい、アレが出てきたな。

――ああ、あとカルピスな。気持ち、濃いやつね」

「ああ~そっちはわかります」


 後半にのみ同意するナローデ。そっち(カルピス)は世代を超えるのかよ。


「……で? そのアイスが、貴族とどう繋がるんです?」

「ん? あぁ、貴族の名前の話だったっけ。確かその商品名が、似ていて……

 ――思い出した! そう、レディ……レディボーデンだ!」


 レディボーデン。俺らが子供の頃はアイスと言えばいつもコレだった。

 そしてどこの家の冷凍庫にもだいたいこれのデカいプラスチックバケツがあったのだ。

 ああ良かった。ようやく胸のつかえが取れた。スッキリした顔となった俺に、ナローデは何やら複雑そうな顔を向けてくる。


「レディ・ボーデン……レディは尊称ですよね。貴族の女性への」

「まあそうでしょうね」

「ということは、貴族のボーデンさんが使用人たちの送り主って事ですよね。誰です?」

「いやまったく知らん人ですね」

「まったく知らない貴族が、波多良さんがめっためたに打ちのめした軍部や王室の意向に反してでも、使用人を遣わして家事の面倒見てくれたっていうんですか?」

「いや……奇特な人もいるもんだなぁ、って」

「もう少し疑問というものを持ちましょうよ……」


 て言われても知らん貴族だしなぁ。反主流派の駆け引きとか、色々あんじゃないか。


「明らかに状況が不自然じゃないですか……。

 ていうか。その貴族の名前、絶対ボーデンじゃあないでしょう。

 わたくし――その家名、どこかで見覚えありますよ?」


 えっ。バイエルンに着く前から三週間ずっと現世に帰ってて、たった今目覚めたような人が、何で貴族の家名に見覚えなんてあるんだよ。

 俺の驚きの表情にナローデはひとつ溜息をつくと、おもむろに目の前に光る画面を浮かび上がらせた。そのまま、ホログラムキーボードに指を走らせる。


「――ほら。やっぱり、記憶違いじゃなかった」


 ナローデが呼び出し入力したのは、インターネットブラウザのようだった。宙に浮かぶ画面には、見慣れたwikiのページが表示されている。


「え? カスパー・ハウザーのwikiなんて急に検索して、どうしたんですか?」


 ナローデが検索し表示したのは、カスパー・ハウザーのwiki項目。

 黙って指をさす一節には、このように表示されていた。




[カスパー・ハウザー:バーデン大公後継者説]


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