幕間 霧猫の集会
その人が現れるのは決まって、霧の出た夜だった。
深夜零時近く。終電間際、いつもの退社時刻に家の近くの公園を通りかかる。
夕立が降ると盆地のこの一帯は夜霧が立ち込めやすく。また、入り組んだ路地のせいで長く暮らした住民でも簡単に道に迷う。
そんな時、決まっていつも迷い込むのがこの小さな公園だった。
公園入口の車止めの奥は真白な霧が立ち込め、奥がどうなっているかは伺い知れない。むろん公園内もここから家への道順も知悉しているが、濃い霧の中を歩くのは疲れた。
少し休もうと思ってベンチへ近づくと、霧の奥、遊具に揺れる人影が見える。
真夜中のブランコに腰かけていたのは大層な美人で、しかし不思議と違和感がなかった。
モデルのような美貌にプロポーションを持つ女性は、ロングスカートの裾を揺らしている。
明らかに異常な状況なのに警戒心を抱かせない。また近づいてくる俺に一切の警戒もない。
霧の流れに巻かれ、どこか麻痺したような頭のまま、前にここで餌をやった野良猫のようだな、と、てんで場違いな感想を抱く。
まるで自分を待っていたかのようにブランコから見上げてくる美女は、やっぱり昔エサを上げた野良猫と、面持ちがよく似ている。
しかし残念ながら期待には応えられない。
うなだれ、悄然と隣のブランコに座る。沈み込む。美人は黙ってそれを見ている。
「野良猫さん」
「――はい?」
「ごめんね。今日はエサ、持ってないんだ」
その告白に、美女は首を傾げた姿勢のまま、上品に笑い始めた。
あー。おっかしい。あの子が好きになるわけね。そんな謎の言葉を呟いてから、美人は目尻に浮いた涙を拭った。正直笑いすぎだと思う。
美女はその笑顔のまま。突然に、日傘の話をはじめた。真夜中、霧の中で、日傘の話だ。
美人いわく。日傘とは、楽園の扉でもあるのだという。日傘を開けば、楽園もまた開かれるらしい。日傘は、降りかかる人生のさまざまな憂いから自分自身を護り、遠ざけ、別の世界に連れていって、無関係でいさせてくれる。そんな最強無比のツールであるらしい。
日傘なんてただ単に、女が日焼けを防ぐためだけのものだとばかり思っていた。およそ日傘なんて一度も使った事のない野郎にとっては、実に斬新な解釈である。
そう思ってふと美女の手元を見ると、やっぱり同様に手ぶらで、日傘なんて持ってない。
――そんなに日傘が素晴らしいなら。皆が日傘を、片時も手放さずにいればいいのに。
そう所感を述べると、美人はどこか悲しげな表情を隠すよう、ブランコを漕いだ。
「……日傘を、なくしてしまった子の気持ちも。どうか――考えてあげてね?」
反動をつけ立ち上がると。美女はその言葉だけを残し、霧の奥へと去っていった。
残業明けの熱が戻ってきた頭で、地面を見ながら考える。
――そんなに大切なものならば。絶対になくしたりなんか、しなければ良いのだ。
――自分にとって大事とわかっているものを、むざむざと失っておきながら。
――なくしてしまった人の気持ちなんて……正直、想像できるはずもない。
後姿が見えなくなって程なく、霧は嘘のように晴れ、深夜の公園に佇む自分だけがいる。
――だが、まあ。伝えたかったのはきっと、そういう事じゃないんだろう。
疲れを纏う身体で、熱を帯びた頭で、重い手足を引きずりながら考える。
すべてを覆う霧の中と等しく。自分も今、逃げようのない現実の中にいる。
「……またね――野良猫さん」
約束なんてしなかったが。またもう一度、会える気がしていた。
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