幕間 青空会後

「――ヨウ、あのね。ちょっと相談があるんだけど……」


 飲み会終了後。違う駅へ向かう二人に手を振って別れてから、すぐに私は切り出した。


「またねー!……うん? 恋の相談?」


 二人にいつまでも手を振っていた瑤子は振り返り、いたずらっぽく問い返す。

 その美しい瞳にはいつも通り、とらえどころのない光が揺蕩っていて、同性の私でもどきっとするような魅力を放っている。

 そして同時に――


「もう、ヨウまで。本当にそんなんじゃないんだからね」

「あはは、ごめんごめん。ちゃんと真面目に聞くね?」


 ヨウは傍らの喫茶店を指さした。自動ドアの前に立ち、私はヨウに振り向く。


「……そういえばずっとお茶ばかりでまたお茶だけど、大丈夫?」

「大丈夫大丈夫」


 この子は飲み会でもいつも最初の一杯だけお酒に付き合い、あとはお茶を飲んでいる。それでいて酔った人間に合わせることも忘れない。ヨウは気遣いの細やかな人なのだ。

 夜の喫茶店は客も少なく、とても静かだった。控えめに響くアップライトのピアノ。


「久しぶり……あ、そうでもないか。数週間ぶりに会ったけど、二人とも変わってなかったね」

「そこは変わってほしかった……」


 私の返答にくすくすと笑う瑤子。エスプレッソから立ち上る湯気がやわらかく幕を張る。

 もう家に帰って眠るべき時間なのに、友達の相談事を真剣に聞くために濃いエスプレッソなんて頼んでくれたのだ。瑤子はいつだってやさしい。

 ――そう。「あの子は日傘をなくしたから」と宣告された時も、変わらず微笑んでいた。


「ナツ?」


 薄い膜の向こうより声を掛けられ、私は記憶の霧を払う。


「あ、ゴメン。……別に、あの二人の前ではできない相談……って訳でもないんだけどさ。でもホラ、絶対茶化すから」


 瑤子はたまにしか見られない喜劇を見た後のように、思い出し笑いをしている。

 瑤子も同業者の枠に入るが、実力を買われ、王道ファンタジーを書く事を許されている。

 なんの奇も衒いもない王道ファンタジーを書いて出版することを許されるのは、ベテランだけだ。まだ若手の瑤子がそれを成し遂げているのは、文章力の高さと、それに――


「……うん? どうしたの?」


 ――私の視線に気づいて微笑み返す瑤子に再び湯気の膜がかかる。膜の向こうの美貌はより幻想的な雰囲気を纏って、瞳の奥の捉えどころのない光も、煙るように妖しく煌めく。


「やっぱり本人の醸し出す世界観……かなあ」

「なに? 何の話?」


 無邪気に問い返す瑤子は本当に分からないのだろう。自分自身がファンタジーであると。

 荒廃しきった世の中と人の心だけが転がるこの現代においては、純白のきれいな心根の持ち主は、もう存在し続けるだけで価値があるのかも知れない。

私とは違うのに。私達とは違うのに――学生の頃からいつまでも、友達でいてくれる。


「どうしたの? 中原中也みたいな顔してるけど?」

「汚れちまつた悲しみに――ってやかましいわ」


 二人で笑い合う。

 私は考えが顔に出やすい性分なのか、よくこうして仲間たちにからかわれる。

 だが。中でもいちばん、私の心を読むのに長けているのが――


「相談っていうのは……さっき話に出てた、男の人のこと?」


 私はうなずく。


「そうなんだけど、違くて――」

「うんうん、ちゃんとわかってるよ。恋愛相談じゃないけど……その人がどういう人か。別の人から意見を聞いてみたいんだよね?」


 私はうなずく。察しのよい瑤子の前では、私はまるで子供みたいだ。


「……ゴメンね瑤子。私もその人のこと、まだよく知らないんだけど。いろいろと規則や義務があって、自分で調べることができないんだ……」


 現世へ戻るにあたり、神様から守るよう言われたルールはみっつ。

 ひとつ。神様の存在や、その契約内容について誰にも明かさない。これは契約時にも言われたことだ。

 ひとつ。過去の、まだ私と知り合いではない波多良慶には接触しない。タイムパラドックスを起こしてしまうから。

 ひとつ。タイムパラドックスを惹起する要因となる行動を一切起こさない。まあ執筆を理由として三週間前の世界に戻してもらう以上は当然の事だ。

 もしもひとつでも破った場合は。神様に関する私の記憶の一切を消し、この企画もなかった事になる――

 そして私は出版化につなげられない企画ばかり抱えたオワコン作家へと逆戻り――


「……でも。それでも、ナツは調べたいと思ったんだよね?」


 思考を先回りしたかのような瑤子の言葉に、私は黙ってうなずく。

 ふと、瑤子が珍しくも、邪悪っぽい笑みを浮かべた。似合っていない。


「私も同じ仕事してるから守秘義務の厳しさはわかるけど。――考えを読ませて、それを回避するなんて。ナツもなかなか……悪い手を使うようになったね?」


 私はあわてて両手を振った。


「そんなつもりじゃ――」

「うんうん、わかってるよ。……ナツは、私なら。その人のことを知る事ができるって――そう考えたんだよね?」


 私はうなずく。何も事情を話していないのに、瑤子の慧眼には驚かされるばかりだ。

 うーんと伸びをしながら、瑤子はつぶやいた。


「私とその人って、そんなに似てる?」

「いや全然」


 生けるファンタジーと現実に囚われた社畜である。対極もいいところだろう。

 瑤子は弾けるように笑って、そしてこめかみのあたりを指さした。


「全然似てないのに、私なら調べられる、って思ったんだ。――また、いつもの?」

「――そう。いつもの。勘」


 あまり平坦とは言えないここまでの人生を、私はおもに勘に頼って生き延びてきた。

 その、私の勘が告げるところによると。


 ――あの人、波多良慶は……恐らくなにかを隠している。

 ――なにかを伏せたまま、私や神様の企画へ、ごく積極的に協力している。

 ――そして、その隠された何かを探り出せる人物がいるとしたら。

 ――すべてを見透かすようなどこか遠い瞳を持つ、この瑤子以外にいない……


 勘、という著しく説得力に欠ける言葉を聞き、瑤子は天を仰いだ。


「奈津子の勘かぁ。……それじゃ私も、友達としての信頼に答えるしかないかな」


 天井を見つめていた瑤子の顔が戻ってきて、私に笑みを向ける。


「……あなた。奈津子じゃない、よね?」


 私は息をのんだ。

 穏やかな笑みを向けてくる瑤子の言う通り、この身体は私であって私ではない。

 三週間前、つまり今この時点での本当の私は――自宅マンションに籠り、企画会議を通るプロットを考え出すため呻吟輾転しているはずである。

 執筆のため三週間前に戻りたいと言った私に神様は、別の肉体を用意した。といっても本物と全く見分けがつかないほどの、精巧な複製体だ。ただしこの複製体は、三週間後に役目を終え、塵も残さず消える仮初めの肉体である。

 誰にもばれないと思っていたのに。どうして――わかったんだろう。


「あー……中身はナツ本人っぽいんだけど。なんか、外身がねえ……うーん、質感?」


 向かいの席より手を伸ばし、ぺたぺたと私の顔を触っている瑤子。

 私はぎゅっと目を閉じた。

 波多良さんの調査を瑤子に頼んだことはまだしも、瑤子に偽物の私と見破られたこと。

 明確な規約違反だろう。きっと私の記憶は消され、企画も終了、元のスランプ作家へと戻される。

 ――ごめんね、波多良さん。物語の主人公に、してあげられなくて。

 最後に浮かんだのはなぜか、あの人生脇役みたいな社畜への謝罪の言葉だった。

 私は目を閉じたまま静かに、断罪の瞬間が訪れるのを待つ。

 しかしいつまで経っても神様の叱責が聞こえる事はなく、瑤子の手の感触だけが顔中を這い回っている。

 ――神様も見ているはずなのに。今のはセーフ、だったのかな。

 鼻先へふわりと香りが漂い、思わず目を開けると、そこには私の注文したストロベリーココアを差し出す瑤子の心配顔があった。


「……ごめんね。つまらない冗談で、怖がらせちゃったみたいだね。ナツの今回のクライアントって、ちょっと――怖いところなのかな?」


 そりゃ神様だからまあ。私は無言でうつむくしかない。


「オッケー。守秘義務も厳しいみたいだし、詳しい事は聞かないよ?」


 物わかりの良い瑤子さんにおまかせ、と彼女は豊かな胸を叩いた。

 私が瑤子に調査を頼む気になったのは。この洞察力と、やさしさと、それに――


「……ふうん。近くに勤めてる人なんだ。じゃ、一週間後この時間、ここで会おっか?」


 企画を始める際に神様から受け取っていた、波多良さんのパーソナルデータを渡してから。私が偽物である事を考慮してか、瑤子はそんな提案をしてきた。

 私はちょっとした過去のトラウマから、色々な場所に資産を分け保管している。本人証明書類の一切がなくとも引き出せる現金類もまたそれに含まれるため、別に新しい連絡先を用意するのも、どこかのホテルで長期間缶詰になるのも、全く困らないのだが。


「……そうね。一週間後にまた、ここで――お願いできるかな?」


 詮索の一切をしないまま、瑤子は上着を手に取り、笑みを残して席を立つ。


「うん。――じゃあ一週間後。調査結果を、お楽しみにね?」


 店外へと消えてゆく後姿。ふと気づけば、ガラス窓の外は一面の夜霧に覆われていた。その白濁の帳へ瑤子の背中が呑み込まれてゆくのを、私はなんとなく見送ってしまう。

 ストロベリーココアを飲み干し、慌てて私も席を立つ。


「……瑤子? 駅まで一緒に帰ろう……?」


 呼びかける声は、夜の街の明かりを映す橙の霧に、ぼんやりと吸い込まれて消えた。


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