幕間 青空会
――遠い、学び舎の記憶。
〝あの子は日傘をなくしたから〟
皆がそう囁き交わし、ある日突然、仲間外れにされるクラスメイトを見てきた。
制服という薄い鎧に恐怖を隠す私は、当時その爪弾きの原因を「皆が共有していた高価な日傘を、うっかりその子が紛失してしまったから」くらいにしか考えていなかった。
今にして思えば。作家になる者としては、あまりにも想像力が足りていなかっただろう。
しかし。楽園の住人としては、必要な想像力の欠如であったのだ――今でもそう思う。
* * *
「じゃ。数週間ぶりの再会を祝して……カンパーイ」
チン、とグラスが控えめに打ち合わされると、私は黄金色の液体を煽った。
普段なら泡へ口をつける程度に済ますそれを、きょうはいきなり飲み込んでみる。
喉を走り抜ける苦みは確かにあの人の言う通り――現世を思い出させる味かも知れない。
思わず顰めかけた顔を戻し、水滴の浮いた飾り気のないグラスから顔を上げれば……そこにはなぜか、無言でこちらを見つめる仲間たちの顔があった。
「え……何。みんなして」
私がたじろぐと、いつもの仲間たちは気まずげに顔を見合わせる。
「いや――ナツが乾杯からいきなりビールとか珍しいな、って」
「それに――いつもは口つけるだけなのにガッツリ行くからどうしたのかな、って」
「探偵かよ!」
私の突っ込みに笑う二人とはもう長い付き合いになる。卒業した女子高の同級生で、今は同業者の作家仲間だ。ただ書いている内容の毛色はだいぶ異なるが。
いやまあ長い付き合いだからわかっているのだが。これは心配してくれているのだ。
「まあまあ二人とも。ナツも飲みたい気分なんでしょ。――それで、何かあった?」
ストレートな二人をいさめ、控えめに相手の変調を訊ねてくれるのは隣席の瑤子である。在学中から変わらぬ優しさが正直眩しい。あと相変わらずの美貌も眩しい。気品も眩しい。
「うう、ヨウの優しさが沁みる……。ヨウコセラピー……。」
目を瞬いた私が瑤子を拝むふりをすると、向かいの二人もふざけて真似をした。
「ちょっと、謎のセラピー開催しないでよ。で、新作のプロットとか通らなかったの?」
だいぶ突っ込んだ心配をしてくれる瑤子は同業者だから事情に詳しいだけではなく、昔からただただ単に、優しい子なのだ。
「んー別に、いや、ちゃんと通りました。新作企画進行中。これから執筆に入るかな」
「なんだ、よかった」
深く訊かないのは同業者としての嗜みである。心底ホッとした様子で、瑤子はカクテルへ口をつけた。向かいの二人もおのおの、好きな酒を一杯目から頼んでいる。私も普段ならそうしていたところだ。
流石に長い付き合いだ、仲間の眼は変化をよく見ている。そそくさと一杯目を片付けていつもの注文に戻ろうとする私を、当然ながらおとなしく見逃してはくれなかった。
「それでナツ、ホントにどうしたの? 一体どういう心境の変化?」
すばらしい笑顔でグラスを指さしてくるほうが富士子で。
「苦いお酒がダメな子供舌のナツが。自分からビールを頼むなんて」
きらきらした瞳で人の味覚を否定してくるほうが、好子である。
「子供舌言うな」
私の反撃にけらけら笑う、富士子好子の仲良しコンビは、とある綽名を頂戴している。
「腐女子……」
「「その名で呼ぶな」」
不名誉な称号に憤慨する二人であったが、実際二人とも、筋金入りの腐女子なのである。
その趣味?を生かし、富士子は主に薔薇ものを書いているのだが、好子のほうは逆に百合ものを書いていたりする。二人の文章はなかなかに耽美で、読んでいて恥ずかしい。
「「そして失礼なことを考えるな」」
またこの通り、人の心を読むのにも長けている。
「「いや……、ナツの考えてる事が特別わかりやすいだけだから」」
「やかましい」
さらに息もぴったりである。この息の合った連携は、とりわけ相手を追い詰める時にこそ真価が発揮されるという点がじつに厄介である。
低レベルにぶつかりあういつもの私たちを見て、瑤子はいつものように微笑んでいる。
「――で? なんで突然、にっがいビールなんて飲もうと思ったの?」
狩人(ハンター)が動き始めた。その瞳は酒の肴を見つけた喜色に溢れている。
私はなんでもない事のように答えてみせた。
「べつに。最近たまたま、変な主張を聞かされて。ちょっと気になっただけ」
「変な主張?」
「……。え、それ話すの? いいけど――本当に変な主張だよ?」
期待のまなざしでうんうん頷く二人。物好きだな。
「……飲み会の最初とか、ビールを飲んで皆――『あぁ~』とか言うでしょう?」
「あぁ~。言うねぇ」「確かに。それが?」
「……。あの『あぁ~』はね、『現実というものの苦さを共通認識として再確認する社会人の悲鳴なんだ』……って主張なんだけど」
二人の口が縦長に開かれ、ほー、と感嘆めいた声を漏らした。えっ。今の主張に、感心すべき点なんて一ミリも存在しなかったように思うんだけど。
「……それ言ったのって、どういう人?」
「んー。なんかね、学生時代、ずっと居酒屋でバイトしてたんだって」
「どんな居酒屋だよ」
それは私も同感だった。三人で笑い合う。
「どういう経緯で知り合った人?」
「あー。いやホラ私、社畜異世界転生ものばっか書いてるじゃん?」
とは言うものの、目の前の二人も社畜BLものや社畜TLものを多く書いている。
「……でも社畜の経験がないから。実際の社畜の人を紹介されて、少し取材してたんだ」
「「ほっほおぉ~~ん」」
謎の鳴き声で同時に納得を示す二匹のフクロウ。いや何に納得したんだろう。
じっとりとした視線から逃れるべく、私は横を向いてグラスを煽る。こんなものがあるからいけないんだ、と、つつき回される原因になったビールを喉へ流し込んでいると、
「……男だな」
「……男ね」
ゴッファ、と私は盛大にむせた。横では瑤子までもがうんうんと頷いている。
「ゲホッ、グホッ――」
「この反応……間違いない」
「パターン黒です! 司令!」
口を綺麗に拭いてから、掛け合いを続ける二人へ食ってかかる。
「ちょっと! そういうのじゃないから! てか人が呑んでる時そういうのやめてよ!」
二人の眼が、言質を取った、と言わんばかりにぎらりと光る。
「ほほぅ――『そういうの』」
「『そういうの』とは何を意味しますか。三十字以内で答えなさい。(十点)」
現国のテスト問題かよ。
「アタシたちはー、ただ単にー、その人が男か女か訊いただけだよー? ねー、ヨシ?」
「それなのに。ナツは一体何を訊かれていると勘違いしたのかなー? ねー、フジ?」
息のあったコンビネーションで獲物を仕留めにかかる狩人二人。
「いやさっきの『男』の発音の仕方は! 明らかに片仮名三文字だったでしょ!
『オトコ』だったでしょ!」
「でも顔が真っ赤ですよ奈津子先生」
ぱし、と頬を押さえてから気づくがもう遅い。初歩的なひっかけだ。
ケケケ、と悪魔二人が笑い合う。
「おぼこいのう」
「おぼこいのぅおぼこいのぅ、ギギギ」
謎の広島弁で笑う二人だが、お前らだって年齢=恋人不在歴である事は知っているぞ。
「ラクーン市生まれのラクーン市民はラクーン弁を喋れ」
ラクーン市とは腐女子が生まれ出ずる場所の比喩表現だ。ちなみに全員神戸出身である。
「あっ出身地差別だー!」「すみません先生そういう作品は当社からはちょっと……」
作家あるあるで反撃してきやがった。今コンプラとか出版コードとか厳しいからな。
ぐぬぬとうなだれる私をよそに、二人は何やら感慨深げな表情になり、腕を組みうんうんと頷いている。
「いやー。あのナツにもついに。春が訪れたかー」
「言い寄る男は数あれど。誰ひとりとして振り向かせられず、爪痕ひとつ残せぬ。そんな『鋼の女』ナツに――ついに傷をつける男が現れたかー」
「ちょっと……話盛るのやめてよ……」
やっと入った大学も中退し、生計を立てるべくひたすら働いていた頃の、昔の綽名だ。
黙ってにこにこ聞いている瑤子を横目で窺うと、ん?と不思議そうな眼差しを返される。本当の美人の前でこんな話をされても恥ずかしいだけだ。
「見て下さいよよこの恥じらいの表情。完全に乙女、いやメスの顔ですわー」
「これほど赤くなるなんて。完全に心奪われてますわー」
「恥ずかしがらせてんのは他でもないアンタ達でしょうが……」
横の瑤子が掌で扇いでくれる様子からして、私の顔は本当に赤くなっているらしい。
「ふぉっふぉっふぉ。心に傷をつけられた次は。果たして、どこに傷をつけられる事になるんでしょうなあ?」
「ふぉっふぉっふぉ。全くですなあ。もっとデリケートな部分かもしれませんなあ?」
「おいセクハラ親父ども今すぐにセクハラをやめろ……」
その時、瑤子がのんびりとした挙措で手を叩き、とびきりの笑顔を皆へ向けた。
「でも。ほんとにナツに好きな人が出来たなら――それって凄く、嬉しいことだよね?」
沈黙。
瑤子の汚れなき心の眩しさに、私の眼は潰れるかと思った。
向かいのアンデット二体も、今にも浄化され消滅しそうな顔をしている。
「……えっ? 何? 私、変な事言った?」
戸惑う瑤子を前に。私達三人(一人と二体)は一斉に両手を合わせ、この尊き存在を拝み始め、そうして第二次ヨウコセラピーが開催された。
「だから、さっきから何なのそのセラピー……」
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