十章 未堂棟青人の覚醒

「もう朝か」

 別府はゆっくりと上半身を起こした。

 となりの布団に目を向けた。

 敷き布団もかけ布団もていねいに畳まれていた。

 布団のうえには箱枕が置いてあった。


「……未堂棟?」

「こっちだよ」

 反対側からは、明快な声がかえってきた。

「おそい、お目ざめだね、卯吉?」


「こっちの台詞だ」

 別府は安堵混じりの溜め息を漏らした。


「身体は問題ないのか?」

 未堂棟は左膝を立て、右足をのばしていた。

 左手で頬を支え、右手にはうちわをもっていた。

 ぱたぱたと風をおくってきた。


「うん。一晩休めば、このとおりだよ」

 うちわを人差し指ひとつでもちあげた。

 落ちそうで落ちなかった。

 覚醒まえの未堂棟にはできない芸当だった。

 そういう遊び心すら見せないはずだ。

「だつたら、いまの状況もわかっているか?」

「むろんだよ。ずっと見ていたからね」

 片目の未堂棟と両目の未堂棟では、まるで人格がことなるように思えるが、経験と記憶は同一である。ふたりでひとりの未堂棟だった。


「いまから井戸に向かうことになっている。九兵衛が待っているはずだ」

「わかっているよ」

「準備はできているか?」

「夜まで身体も意識も、もつと思うよ」

「待て。夜だと?」

「ああ、ほかにも見たいものがあるからね。宿屋にもどってくるのは、おそくなるかもしれない」

 未堂棟は別府のまえをとおった。

 戸口に手をかけた。

「見たいものとはなんだ?」

 別府は布団を撥ね除けた。未堂棟は返答せずに、そそくさと宿屋から出て行った。

 いっしょに来れば、わかると云いたいようだった。

 別府は羽織を着て、未堂棟のあとを追いかけた。


 早朝のためか、行人坂に町人の姿は見えなかった。井戸のまえには見張り数人と九兵衛が立っていた。九兵衛は腕を組んでいた。顔をしたに向けていた。

「九兵衛、井戸の様子はどうだった?」

 未堂棟は快活に声をかけた。未堂棟はきのうの夜に倒れこみ、宿屋に運ばれた。

 しかし、いまは朗らかに接してくる。

 九兵衛は未堂棟の急激な変化に戸惑っているようだった。

 別府に目線を合わせている。うなずきをかえした。

「ええと」九兵衛は遠慮がちに話しはじめた。

「井戸には、だれもちかづいていません。やはり木樋図に書いてあったように下屋敷のところで上水がとめられていたようです。ツタなどが涸れていた形跡も見つけました」

「だったら、やはり、上野は井戸のなかに隠れることができたわけか?」

 別府は勇み足で云った。

「徒労に終わらずに済んだ。すぐにでも本縄をかける準備をしなくてはならない」

 上野は現段階では早縄である。

 早縄とは容疑者として、身柄を押さえている状態のことだ。事情聴取の段階である。下手人だと判明すると、本縄となり、お白州におくられる。

 捕縛する縄は、段階が進むにつれて、縄の種類がかわるのだ。

「いいえ。それが無理なのです」

「無理だと? どうしてだ?」

 ふたりのあいだを未堂棟がすり抜ける。

「ああ……。たしかに無理だね」

 未堂棟は木のふたをもちあげていた。人差し指を井戸に向けた。

「卯吉も見てごらんよ」

 別府はゆっくりと歩みよった。慎重に井戸をのぞきこんだ。

 ……底が見えない。……水がのこっている。

 目と鼻のさきに水面があった。井戸のなかは泥水でみたされていた。下屋敷と行人坂の泥水はあらかた排水されているが、ふだんから使われていない井戸は、だれも手をつけていない。

 泥水の一部は乾いていた。内壁に泥が付着していた。

 未堂棟は木のふたを井戸にもどした。

「ご存じのとおり、下屋敷は蛇崩池の濁流に襲われました。そのときに地下の木樋に流れこみ、留め金を壊してしまったようです。じっさいに確認しました。まちがいありません」

「それでは氾濫の時点で、泥水が流入をはじめていたのか? 木樋をとおって行人坂の井戸まで?」

 別府はきいた。

「ええ、しかも常にみたされていたので、桶で外に出すこともできません。事件の夜から泥水でいっぱいだったようです」

「……上野が井戸に隠れるのは不可能か……」


 別府は意気消沈していた。未堂棟は意に介さず、淡々と九兵衛に話しかける。

「九兵衛、お願いがあるのだけれど?」

「なんですか、青人様」

「だれが見てもわかるように、見張りをふやして欲しいんだ」

「見張りですか。いいですけど、井戸のまわりですか?」


「ううん。そうじゃない。井戸はもういいんだ」

 あっけらかんと答えた。

「下屋敷と蛇崩池のまわりに人を立たせてくれるかな?」

「構いませんが、事件と関係があるのですか?」

「まずは証拠隠滅を避けるためかな。上野さんに書院まではいられてしまったわけだし、見張りをふやすことは大事だよ」


 そして、未堂棟は奇妙なことを云った。

「下手人にはすべての準備を終えてから、あらわれて欲しいんだ。下手人はかならず、今回の事件の締めに来る。かならずね」


 九兵衛はふかく追求しなかった。

「……わかりました。すぐに手配します。ですが、青人様はどうするのですか。上野に井戸の事情を話しに行くのですか?」

「いいや。きのうの夜、卯吉が話したとおりだ」

 運ばれているあいだも起きていたらしい。

「佐々木さんのかよっていた剣術道場へと行く」

 未堂棟は別府の背中を押した。

「――まだ調べたいことがあるんだ」

 そのまま行人坂をくだっていった。

 未堂棟はすでに、別府より表通りにくわしいようだった。

 迷わずに、直進していった。

 経子と会った火除けの空き地をとおりすぎる。

 南側の路地へはいると、立派な道場が見えてきた。

 道場の木製看板には太刀示元流と書かれていた。

 未堂棟は音を立てるように正面の戸を叩いた。

「だれか、いませんか」

 しばらく待ったが、返事はない。未堂棟は表門の戸口を引いた。敷地内にはいった。

 木刀の風切り音と荒い息が断続的にきこえてくる。奥に板張りの稽古場が見えた。剣術の指導が行われているようだった。中庭に主人らしき人物は見当たらない。

 別府たちは稽古場のまえまで歩いた。

 道場のなかで一生懸命、練習をしている青年が大勢いた。

 剣術の向上にひたむきな様を目にすると、別府の行きつまっていた心が、そのまま彼らの木刀でふり払われるような爽やかな感奮を胸の奥底に生じさせるのだった。


 青年たちのまえには、姿勢正しく直立した好々爺がいた。

 どうやら彼が主人らしい。老人はふたりの存在に気づき、ちかづいてきた。

 未堂棟は事情を説明した。彼は剣術道場の師範代だった。

「同心様がなにようですかな」

 師範代の伊藤は顎のひげをさわりながら、たずねた。


「殺害された佐々木はこの道場の門下生だったときいています。彼の話をききたいのです」

 伊藤はとおい目を外へと向けた。

「ああ、佐々木はよく知っておる。ちいさいころからかよっておった。実直な男だった。剣の腕はまずまずだが、これときめたら、夢中になれる性分をもっておった」

「大村家に仕えるようになってからも道場にかよっていたときいています。まちがいないですか?」

「……あそこの壁に木札が三枚ある。見えるかな」

「はい。名前が書いてありますね」

「門下生のなかでとくに剣術に優れた者の名前じゃ。一枚は佐々木五郎だ。剣の腕が昔とはくらべられないくらいに、あがっておった。百人勝負の試験もなんなく打ち勝ちおってな」

「それで?」

「ついに佐々木は高弟のひとりになった。高弟は道場にいつ来て、いつ練習してもいい。希望するなら自分の道場をもち、弟子をとっても構わない。それが高弟の待遇じゃった」

「……じつは殺害現場のちかくから木刀が見つかったのです。もしかしたら、佐々木さんの木刀が道場からなくなっているのではないかと思い、確認に来たのです」

「木刀か。道場の裏手にしまっておったはずじゃ。ついてまいれ」

 別府と未堂棟は伊藤の背中を追っていった。

 門下生のうしろをとおり抜けた。道場の反対側にも引き戸があった。外廊下がつづいている。周囲には高い塗り壁があった。

 外から侵入するのは、むずかしいようである。

 板張りの道場の両端には隙間はない。

 屋舎をとおらずに、裏手にはいることはできないようだった。

「なにをしている。こっちじゃわい」

 伊藤の立ちどまっていた場所は神社の手水舎のようだった。

 高い屋根といっぱいの水にみたされた石水槽があった。水槽には柄杓が立てかけられていた。門下生の水飲み場のようだった。

 伊藤は古びた六尺箪笥に左手を置いていた。

 箪笥のまえには、からの四斗樽があった。

 四斗樽のなかに門下生の使っていた竹刀や木刀がはいっていた。

 六尺箪笥のほうには道場で見たのと同じ木札がかけられている。


「高弟の三人には荷物をしまえる場所を用意していた。練習に必要なものは箪笥のなかにはいっている」

 未堂棟は佐々木の木札のある戸を引いた。なにもはいっていなかった。

「彼の木刀は見あたりませんね」

「おかしいのう。もち出しおったのか」

「不躾ですが、ほかのふたりの木刀を見てもいいですか?」

「かまわん」

 未堂棟はうえの戸棚を引いた。

「ほかの高弟は木刀を置いていますね。おや、これは……なんですか。赤い跡です」


 木刀の柄には手形がついていた。

「素振り練習の成果じゃ。太刀示元流はまめができるまでふり、まめが潰れるまでふる。高弟の使う木刀には血がにじむ跡がのこる。これが彼らの自信になる」

「佐々木さんの木刀も同じですか?」

「ああ。むしろ、だれよりも練習していたから、くっきりとした赤い手形が木刀についておった」

 別府は未堂棟の目を見た。お互いにうなずいた。

 別府は風呂敷を思い出していた。

「下屋敷の外で見つかった木刀と同じだ。あの手形は、下手人に打ちのめされたときに、抵抗した跡ではなかったのか」

「伊藤さん、この道場に佐々木と関連して、よく来ていた人物はいませんか?」

「そうじゃのう……。佐々木と古くから付き合いのあった女性がよく来ておった。おぬしらは知らんかもしれんが……」

「炊馬経子ですか?」

「おお、そうじゃ。彼女の弟も道場にかよっておるので、よく来ているよ。ほれ、この奥に台所家屋がある。いまでも暇があれば、門下生に握り飯をふるまってくれる」

「そうですか。わかりました。ご協力、感謝いたします」

「なんだ。もう、かまわんのか?」

「ええ、たくさんのことを知ることができました。……いや、最後にもうひとつだけいいですか?」

「なんでも答えよう。佐々木を殺した下手人を探しておるのじゃ。最後の餞別のつもりだ」

「剣術道場のある区画では上水の供給が滞っています。佐々木さんの仕えているさきが、いまの水番人です。彼は師範の貴方に現状を語っていませんでしたか?」

「ああ、そういえば、水不足は一時的なものだから、心配するなと云っておった」

「一時的? 具体的におぼえていますか?」

「はっきりとは云わなかった。ただ、大村家にたくわえができれば、町民にも恩恵が出る。だから、しばらく水不足になることを我慢してくれと云っておった」

 未堂棟が鋭く眼光を光らせた。

「その話をきいて、この剣術道場では足りない飲み水の分を水屋にたのむことにしたのだ」

 伊藤は石水槽に右手を向けた。

「そうですか」

 未堂棟は視線で石水槽を追った。


「たくさんの門下生がいるようですが、どれくらいの頻度で補充しているのですか?」

「ふつかに一度といったくらいじゃのう。欠かさずに来てくれるから、いまのところは大村家にも不満はなかった」

「佐々木さんが最後に来たのはいつですか?」

「四日まえだった。いつもどおり、素振りを千回もつづけ、みなを驚かせておった」

「経子さんはそのときにいらっしゃいましたか?」

「ああ、おったぞ。ただ、弟の練習が終わって、佐々木の素振りが六百回ほどになったときに、名残惜しそうにかえったことをおぼえておる。それからは来ていない。佐々木が死んで、いまは傷心しているじゃろうて……」

 経子の好意は周知のようだった。未堂棟はふかく、お辞儀をした。

 門下生のうしろをとおった。

 剣術道場から出ていった。

「結局、剣術道場からえられた手掛かりは、木刀が佐々木のものだったとわかったくらいか」

 別府は云った。

「下屋敷の三つの殺しには繋がらなかったな」

「とんでもない。重要な情報ばっかりだったよ。つぎに行く場所で、ずっと疑問に思っていた凶器の謎が判明するかもしれない」

「凶器の謎だと」

 別府は足をとめた。疑問の声をあげる。

「どういうことだ。こんどはどこへと向かうのだ?」

「自身番だ。役人のいる場所だね」

「休むためか?」


「まさか、目当ては死体だよ。大村昌村と大村菊太郎、ふたりの死体を見たいんだ」

「いったいなんのために?」

 未堂棟は着物をはだけさせた。

 左胸を人差し指で叩いた。つぎに首元を叩いた。

 どちらも、人間の急所だった。


 未堂棟は、心臓部と呼吸器官に手掛かりがのっていることを示した。

 別府の疑問は解決されなかったが、それはたしかに、凶器と密接に関係のある答えだったのである。

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