九章 上野左衛門のアリバイ崩し

「上野はどこにいる?」

 別府は駕籠の外へと飛び出した。

 すぐ様、蛇崩町の表門に立つ九兵衛にきいた。

「行人坂にある番所の牢にいれました。木戸のなかの座敷牢です。いまは火事場泥棒の扱いにしてあります。来てください。案内します」

「わかった。上野にはききたいことが山ほどある。町内預けとして、木戸の牢にいるのは都合がいい」

「作間政信のほうはどうでした?」

「いまのところは下手人と断定できない。殺害現場と距離の問題が解決できなかった。まァ、とおくにいた者よりもちかくにいた者のほうが犯行は容易なのはまちがいない」

 九兵衛はうなずいた。

「上野だったら、風呂敷をとおくに置いたあとにもどってこられます。闇夜にまぎれたら、簡単ですからね」

「それでも人垣のなかにいた問題を解決しなければならない。下手人への道は、なお険しい。だからこそ、上野が下屋敷で捕まったのは重要だ。しっぽを出したと云えるからだ」

 別府は先頭を走る九兵衛に、おおきい声できいた。

「いったい、上野はなにを盗もうとしていたんだ?」

「ああ、そうですね……」

 歯切れの悪い返答だった。

「なんと申せばいいでしょうか?」

「こんかいの殺しと関係しているものを盗んだのではないのか?」


「……関係しているのかはわかりません。……判断できないのです。じかに見てもらったほうがはやいでしょう。彼の抱えていたものは番所に運んであります」

 交互にふっていた足がおそくなった。

 九兵衛の爪先が二回、地面を叩いた。軽快な音が響いた。

 大通りを抜けたあと、足音がとまった。

 九兵衛はふりかえった。番所に着いたのだ。木戸のとなりに小屋が建てられていた。現代では交番と呼ばれている場所だ。行人坂の手前に位置していた。

 遠方に下屋敷の表門も見えていた。

 別府が佐々木の死体を発見した直後に、報告した町木戸でもあった。

 九兵衛が引き戸をあけた。

「土階段のしたに上野のいる座敷牢があります」

 九兵衛は番所のなかにはいった。すみによせていた文机を引いてきた。文机のうえには、書物が五冊ほどのっていた。

「なんだ、これは?」

「上野がもち出そうとしていたものです」

「これが?」

「ええ」

「ほかにはないのか?」

「ありません。彼は下屋敷の書院に忍びこんでいました。物音に気がついた役人がとり押さえました。そのときに抱えていたのがこの書物です。身体中を調べましたが、書物だけでした」

 別府は書物の背表紙を見た。

「いろいろな書物があるようだ。男色大鑑、五人組帳、蛇崩町絵図、大和本草、清水木樋図、書物の種類としては草双紙が一冊、人別帳簿が一冊、本草書が一冊、切り絵図が二冊となっている」


 別府は五冊をひっくりかえした。

 表紙と裏表紙に気掛かりな箇所はなかった。

 書物をめくった。埃がぱらぱらと落ちてきた。

 隠し書きも見当たらない。めくるたびに、埃が上空に舞っていた。

 となりにいた未堂棟が「くしゅん」と反応した。

 控えめに鼻孔をすすった。

「上野はこの五冊だけをもち出そうとしていたのか? ほかにはなにもしていないのか?」


「ええ。書院から出てこようとしてところ、鉢合わせしたようです。書院のなかもかわりはありませんでした。状況からして、この五冊を盗もうとしたのでしょう」

「どの書物も三つの殺しとかかわっているように思えない。男色大鑑は井原西鶴の作品だ。彼は男女仲をよく描いているが、この男色大鑑は武家社会の衆道が題材となっている」

 別府も男色大鑑はすべて読んでいた。殿様の愛した少年が浮気する話をよくおぼえている。最後に少年を斬り殺してしまう展開があって、衝撃を受けたのだった。別府は惚けた気持ちを忘れるように男色大鑑を文机のすみに置いた。つぎを手にとる。

 五冊のなかでも珍しいのは五人組帳である。


「五人組帳には近隣の五戸に住む者の名前が書かれている。領主に提出されるものだ。少しまえの記録らしい。古くなった五人組帳を書院に置いていたか。まァ、不思議ではない」

 五人組帳を男色大鑑のうえにかさねた。また、手にとった。

「こっちは大和本草だな。有名な書物だ。植物の子細が記されている。挿絵が多いのも特徴だ。作者は貝原益軒だ。本草綱目という書物を参考にしたらしい。薬の材料になる植物の紹介が多い」

 別府は数枚、めくってみた。原本の本草綱目の写しがはさんであった。崩し字になっていない。大陸の字体のままである。

 麻麦稲類の項目を写したようである。

 別府は気にとめなかった。五人組帳のうえに置いた。

「蛇崩町絵図と清水木樋図は切り絵図だ」

 切り絵図は湯島の門前町でも登場した。地図の一種だ。

 比較的、狭い範囲の地図である。

「蛇崩町絵図は表通りや裏路地の町割りになっている。清水木樋図は木樋と井戸の位置が記されているみたいだ」

「大村家は蛇崩町の管理をしています。水番人の仕事も引き継いでいますから、どちらも書院にあってとうぜんですね」

「とり立てることのない書物に見える。だが……」

 別府はふたつの切り絵図を見て、思いつくことがあった。上野のいた場所は行人坂の途中だった。

 どちらの切り絵図も下屋敷と行人坂のまわりのものだった。

「上野は人垣のなかで発見されている。ここだ」

 人差し指を立てる。

「途中にちいさい脇道があるではないか」

 別府たちも宿屋に行ったとき、行人坂から脇道にはいった。

 切り絵図には、細い路地まで詳細に記されていた。

「そういうことか!」別府は両手をはたと打った。

「上野がどうやって人垣にひそんだのかわかったかもしれない」


 別府は五冊の書物を手にもち、座敷牢のほうへと向かった。

 九兵衛が駆け足で追いかける。

 未堂棟は書物の表紙を見つめながら、ゆっくりと歩を進めた。

 牢屋は普通、土のうえに格子で仕切った場所になる。

 しかし、ここは木戸と隣接しているために、座敷牢のようになっていた。

 床は畳み張りだが、四方は土の壁である。

 ……なにも見えない。暗い。


 顔よりちいさい格子窓だけが外と接している。すでに太陽は落ちている。木戸の牢は外よりも暗かった。別府のうしろから手提げの行灯をもった九兵衛がはいってきた。

 上野は右手で行灯の光を遮っていた。両目を凝らしていた。

 別府は九兵衛から行灯を受けとり、上野の顔にちかづけた。あまりのまぶしさに、牢のすみへと逃げていった。行灯を椅子のうえに置いた。座敷牢の全体がぼんやりと照らされる。

 すみずみまで見えるようになった。

 上野は別府たちの格好を見て、同心だとわかったようだ。

「ああ、ようやく出してくれるのですか?」

 彼は両手で格子を握った。隙間から鼻先を出した。

「それとも夕餉をいただけるのですか? もうお腹が鳴って、仕方ないのです」

「どうやら、いまの状況がわかっていないようだな」

 別府は凄んだ。

「おまえは下屋敷から書物を盗み出した。火事場泥棒にそうとうする。混乱にじょうじた窃盗だ。火事場泥棒を死罪とする町奉行も多い。市中引き回しや斬首だ」

 こびりついた笑みはかわらなかった。

「つまり、いまのままだと牢屋から出られないまま、死んだとしても横暴ではない」

 土埃で汚れた顔には絶えず、微笑みがつくられている。

 笑い顔のお面をかぶっているようだった。

 上野の鼻筋は高い。まっすぐとのびている。

「嫌ですね。おそろしい顔をして……」

 上野の声はお琴の糸を弾いたように、ゆっくりとゆれていた。

 すりよってくるような抑揚である。

「わたしが下屋敷の書院にいたのは親切心のすえなのですよ」

「親切心だと?」

「ええ。書物は知識のもとでしょう。われわれの宝です。もしも最後の水門が壊れてしまったら、書物が水浸しになってしまいます。そうなると読めなくなりますからね」

「書物を守るために外に運び出そうとしていたと?」

「ええ! おわかりいただけましたか!」

 別府は冷めた目で上野をにらんだ。

 九兵衛は腕を組み、上野のいる牢にちかづいた。

 ふたりは高圧的な態度で彼に迫った。

 しかし、上野のことばに、まともな反応を示したのは、意外にも未堂棟だった。


「――蛇崩池の最後の水門は、偶然にも無事でした。その水門までも壊れてしまった場合、下屋敷の書院は濁流に呑みこまれるということですか?」

「ええ! そのとおりでございます。まだ蛇崩池には大水がのこっています。いたちの最後っぺも起きましょう」

 未堂棟の左目はとじた。別府はかわりに云った。

「……だが、べつの考えもできる。書物のためではなく、みずからの保身のために手掛かりを処分しようとしたのかもしれない」

「保身のためですか?」

 上野は両手を広げ、大袈裟に振る舞った。

「嫌ですね、お侍様。書物では人を殺せないでしょう?」

「もちろんだ。たしかに殺せない」

 別府は書冊のうちの二冊を彼のまえに置いた。

 蛇崩町絵図と五人組帳だった。

「だが、手掛かりにはなりうる。おまえは下屋敷からもっともちかい場所で目撃された。行人坂の途中の人垣のなかにいた。まちがいないな」

「ええ、そうです」

 蛇崩町絵図をひらいた。

「蛇崩池がここだ。まっすぐにくだると、下屋敷、行人坂、町木戸とつづいている」

「外れとはいえ、城下町ですからね。城下町は網目のようになっているものですよ」

「……殺人のあった刻限、われわれは蛇崩池の氾濫を見に行った。そこで佐々木の死体を発見した。瑞木のつぎの死体を発見したことになる。そして、すぐにここの木戸をとじるように伝えた」

「そうなんですかァ、初耳です」

「しかし、じっさいには木戸番に報告に行かずとも、おそかれはやかれ、殺人事件は発覚したはずだ。死体を見つけなくてもな」

「いえいえ。同心様の賢明な働きがあってこそですよ」

「おべっかはよせ。おまえたち、作間家の者は、以前、蛇崩池が氾濫したとき、排水の対応をしている」

「ああ、ご存じでしたか」

「つまり、蛇崩池が氾濫したとき、濁流が行人坂をくだることを知っていたと云える」

「そんなこともありましたねェ」

「木戸番には常に三人以上の役人が控えている。夜中には書き役の者はいなくなるが、それでもふたりはいる」

「でしたら、きのうもふたりいたのですね」

「……ああ、ただし、ひとりはほかの木戸へと知らせに行くので、実質、木戸をひとりで守ることになる。そうなると、人手が足りなくなる。だれかが下屋敷と行人坂のあいだを見張らなければならない」

「その話のどこが、殺しと関係しているのですかねェ」

「余裕がなくなってきたように見えるが……?」


「いえ、同心様がなにを云いたいのかわからないもので。わたしは商売人です。はっきりと結論をききたいものです」

 別府は五人組帳をどさっと、切り絵図の横に置いた。

「木戸番は人手が足りなくなると、ちかくの町民に協力させる。そのときに呼び出されるのが五人組の名簿にのっている者だ」

「へえ、そうなんですか」

「五人組とは江戸幕府が町村につくらせた組織のことだ。近隣の五戸で、ひとつの組としている。治安をゆるがすような事件が起きたとき、互いの連帯責任で取り締まりにあたらせる」

「五人組なんて、町のみなが知っていることですよ」

「問題はこの五人組帳だ。どこのだれが動くのか記されている。おまえがもち出そうとしたのは、はたして偶然だろうか?」

「……なにが云いたいんです?」

「おまえは蛇崩町で夜に殺しがあったとき、木戸にちかい五人組が選ばれることを知っていた」

 別府は背後の青年に声をかけた。


「九兵衛、蛇崩池の氾濫が起きたあと、五人組が行人坂のまわりを見張っていたのだったな?」

「はい。木戸番は五人のうちのひとりを正面に立たせました。前後にあいだをあけて四人、そして、木戸にのこっていた役人が、後方から見ていたようです」

 九兵衛は覚え書きを見ながら話しつづける。

「彼らは安全を確認しながら、下屋敷のまえまで徐々に進んでいきました。最初に集まってきた野次馬は彼らにはさまれていました。これが人垣です。そのうちのひとりが上野だとわかっています」

「五人組の町民とはいえ、役人のかわりだ。その事実をほかの者にどうやって知らせていた?」

「木戸に用意していた深編み笠をかぶらせていたようです。ほかの木戸番も使っていました。事件発覚後、表門の番所から夜警が来ましたが、その足軽たちも深編み笠を使っていたようです」

「深編み笠に紋様などの特徴はあったか?」

「いいえ。旅の者などの用いる普通の深編み笠です。主に旅の武士が使っていたものです。夜にかぶる者はいませんからね。町民ではないと知らせるのに、ちょうどよかったようです」


「特徴がない。つまり、どこでも買える笠になる。万屋だったら、なおさら、簡単に手にはいるものにちがいない」

「わたしが五人組のなかに混じっていたと云うのですか?」

「いいや。それは無理だ。五人組は、そもそもお互いに見知ったものだから、相互監視になる。おまえはべつの方法をとったのだ」

「べつの方法?」

「おまえは三人を殺し、凶器を東地区の外に置いた。汚れた服を処分した。氾濫だ! と声をかけ、意図的に町民を起こした。そのなかにまぎれこもうと考えた。この仕掛けには事前準備が必要だ」

 別府は切り絵図の一点を示した。行人坂の横の石階段である。

「おまえは町内で殺しが起きたとき、役人たちがどう動くのかを確認していた。たとえば、藤三郎が殺されたときもそうだ」

 上野は藤三郎の従兄弟である。だが、親しくはなかった。

「長屋で男が殺されたと報告が来る。木戸はとじられる。五人組が呼び出される。夜警は下手人が逃げていないか、すべての道を辿る。どの事件でも同じだ」

 別府は迷路遊びのように、切り絵図に指先を這わせていた。

「おまえがこの動き方を知るために、大村家と協力して、藤三郎を殺したとも考えられる」

 上野は一瞬、真顔になった。しかし、すぐに柔和な笑みにもどした。上野は藤三郎の死について、余計なことばを発さなかった。

「なんにせよ、おまえにとって知りたいものは……」

 別府は三本の指を立てる。

「五人組、深編み笠、夜警の動き方だった」

 語気を強めた。


「この三つさえ知っていれば、あとは場所の問題になる。おまえは仕掛けを成功させるために大村家の書院に何度も来ていた。切り絵図と五人組帳を読むためだ」

「わたしのような市井の者が立ちいれる場所ではありませんよ」

「そうか? おまえは随分と大村昌村と親しかったようではないか。大村家で目撃されてはいないが、昌村が万屋に来ているのを目撃した者はいる。逆もあったと考えるほうが自然だ」

「……店主とお客の関係で会っていただけです。わたしから下屋敷にはいったのは片手の指の数くらいです。下屋敷のどこに、だれがいるかまではまったく知りません」

 とおまわしに自分が下手人ではないと云った。

「もしも、わたしが書院を利用したことがあるとして、いったい、なにがわかるんですか?」

「人垣のなかに途中からはいることができる」

「いったいどうやって?」


「切り絵図を参考にしたのだ。夜警の役人はたびたび、行人坂を横切っていた。すべての道を辿ることが夜警の基本だからだ。そして、見張りの五人組は町民だった」

 五人組帳には身分の高い者は見当たらなかった。

「普通の町民は夜警の者とは顔見知りではない。笠だけが目印だった。すると、なにが行えるか。わかってくるのではないか?」

「そういうことですか!」

 背後にいる九兵衛は感心の声をあげた。


「たしかに可能です」

「おまえは深編み笠をかぶり、夜警のふりをしたのだ。五人組に、はさまれた人垣のなかにいれば、現場不在証明になる。左右の五人組は下手人を探すために、人垣の反対側に目線を向けていた」

「待ってくださいよ」

 上野は右手をあげた。

「一度、はいってしまえば、出て行かなくても気づかれない。うしろにまわりこんで、最初からいたように見せかけた」

 反論した。

「その仕掛けには無理がありますよ」

「どうしてだ?」

 別府は上野の供述を引き出そうとする。


「だって、わたしは、なにももっていなかったのですよ。ねェ、そうですねよね?」

 九兵衛にきいた。

「ええ、上野は手荷物をなにも、もっていませんでした。笠もなかったです」

「だからこそ、深編み笠を利用した。都合がよかった」

「どういうことですか?」

 九兵衛は首をかしげる。

「行人坂は下屋敷の敷地内ほどではないものの、濁流がくだっていた。そうだな?」

「ええ。足下が濡れるほどには流れていたようです。目撃者は大雨の日のようだと云っていました。泥水は坂道の両脇に落ちていったみたいです。さすがに、木戸まではとどかなかったようですが……」

「九兵衛、おまえは深編み笠がどうやって、つくられるのか知っているか?」

「作り方ですか?」九兵衛はぽつぽつと答えていった。

「大概はヒノキなどを薄く削って、細長い形にしたあとに、縦と横に編んで、丸い笠にしますね。ほかにも藺草や藁を木綿糸で束ね、ひとつに巻いていく方法もあります」

「どの作り方にせよ、深編み笠は草木のくずを集めたものだ。手作業で編まれるものだから、手作業で、もどすことも簡単だ。上野、おまえは深編み笠を懐のなかで、くずにもどしたのだ」

「ああ、笠を解いて、草木にかえたのですね。くずは濁流に運ばれる。行人坂から外へと流される。下手人は氾濫によって密室殺人を行いました。その濁流をまた利用することで、笠の証拠も消し去ったわけですか」

「ふぅ」溜め息が正面からきこえた。


 上野はなぜか口惜しい様子で、「不可能ですね。その仕掛けは成立しません」と云った。

「行人坂の石階段は、使えませんでしたからね」

 秘密にしたかった話を、仕方なく説明しているようだった。


「たしか、三つの殺人と凶器の発見場所が正しかった場合、わたしが人垣にいるのは時間的に不可能だった。だからこそ、下手人ではないと思われていたのですよね」

「そのとおりだ。当初はな」

「同心様はわたしが変装すれば、途中から人垣のなかにはいれると考えた。そして、人垣は時間の経過ごとに下屋敷のほうへと進んでいた。九兵衛でしたか。彼が云っていましたね」

 上野は格子のあいだから右手を出した。

 一瞬、身構える。

 彼は蛇崩町絵図の横道を四箇所、叩いていた。

「ここです。木戸のちかくに最初の石階段があります。人垣の移動は時間ごとに進んでいました。もしも、わたしが下手人だったら、ここは利用することはできませんよね」

「ああ、間に合わないからな」

「そうなると、変装の仕掛けは中腹にある石階段を利用した。同心様はそう云っているんですよね」

「のこっているのは中腹の石階段しかない」

「しかし、この下屋敷にちかいほうの石階段は崩れているのです」

「なに?」

「のぼることもできません。おりることもできません。おそらくですが、いまも崩れていると思いますよ。濁流によって、地盤がゆるんだのでしょうね。踏み場もありません」

「だが、おまえはたしかに……」

「ええ。夜警の人が行き来していたところを見ていますよ。しかし、それは木戸にちかいほうの石階段です。中腹のほうの階段は下屋敷にちかいため、氾濫の影響が出ていたのです」

「むっ……それでも……」

「石階段を使わずに、のぼってくることもできるかもしれませんが、それだと夜警のふりをするのは無理でしょう。笠をかぶった者が土壁をのぼってきたら、おかしいでしょう」

 別府はきつく口をむすんだ。九兵衛は口元を、への字にしたままだった。上野はにやりと口角をあげていた。未堂棟ひとりが口唇をひらいた。


「――どうして、上野さんは石階段が崩れていることを知っていたのでしょうか。万屋とは関係のない方向ですよ」

 全員がはっと顔を見合わせた。

 別府から順番に、塞がっていた口があけられていった。

 口をとざした者は座敷牢にいる男だけだった。

 上野は苦虫を噛みつぶしたような表情にかわる。


 未堂棟は彼の行動にひとつの仮説を立てた。二十六回目のつぎの手だった。

「――上野さんはきょうと同じように、下屋敷へと侵入する機会を狙っていたのではないですか。だから、氾濫の直後にあらわれた。石階段をおりて、下屋敷に向かおうとした。しかし、壊れていて、挫折した。これで彼の行動のすべてに説明がつきます」

 彼はあわてふためいていた。笑顔のお面は外れている。

 別府はこの仮説が外れていないことを確信した。

「だとすると、問題は動機だ。どうして下屋敷へとちかづこうとしたのか。上野、おまえは、なにを企んでいる?」

「……ずっと云っているじゃないですか。書院の書物を安全な場所に移すためですよ」

「うそを云うな。隠し事はおまえのためにならんぞ」

 別府は胸倉をつかもうとした。

 右手で制止したのは未堂棟だった。

 未堂棟はあきらかに活動的にかわっていた。

 解決がちかいのだ。

 左手は書物へとのびていった。

 清水木樋図だった。細い指でめくられる。人差し指が中央を示した。

「――わたしが気になったのは清水木樋図の流れです。木樋は下屋敷をとおり、井戸を中継地として、各区画にくだっています。でも、下屋敷の正面の木樋には×がつけられている」

「……ほんとうだ。下屋敷の手前で、上水がとめられている。ちかくの町内には、ほかの木樋から水がまわされている。どうして、こんなに面倒なことをしているのだ」

 上野はみるみると青ざめていた。

「――大村家は多くの水を吸いあげていたようですね。瑞木さんからも飲み水を売ってもらっていた。水に困っていた。彼らは、どうしてそんなに綺麗な水を必要としていたのでしょうか?」

「たしかにおかしい」

 別府は眉のあいだにしわをつくった。

「大村家で生活していたのはせいぜい、五、六人だ。女中も西区画の別宅に暮らしていた。ただ、生活するだけにしては、使っている水が多すぎる」

 未堂棟は黙っていた。思案するためかもしれない。小休止していた。かわりに別府の頭がまわりはじめる。目ざとく木樋の絵図を見ていった。円の印を発見する。


「井戸だ……」

「えっ、なにか云いましたか?」

 九兵衛がききかえした。

「ほら、ここだ。行人坂の途中に井戸がある。坂道だから気づかなかった。石階段の横に、井戸があるみたいだ」

 上野は黙りこんでいた。

「……すべてはおまえのもくろみどおりか?」

 上野は相手の様子を探っているようだった。

「大村家に水を独占させたのも意図的だった。蛇崩池の氾濫も意図的だ。三つの殺人も意図的ならば、人垣の場所も、もちろん、意図的だったのではないか?」

 上野は暗闇から、じっと耳をかたむけている。

「おまえは万屋の仕事をつうじて、大村昌村と交友をふかめていた。なにかにつけて、飲み水を確保しておくように誘導した。行人坂への木樋をとじさせるためだ。地震や火事などを理由に説得した」

 別府は早口で息巻いた。

「おまえの目的は井戸から水を抜くことだった。遠方に凶器を置くと、すぐに下屋敷へともどり、行人坂をくだった。そして人垣がのぼってくるよりさきに井戸のなかに隠れたのだ」


 行人坂の井戸は意図されたものだったにちがいない。

 別府は清水木樋図の×印をなぞった。

「下屋敷の木樋からは水がおくられていない。ゆえに井戸は涸れていたはずだ。人間が隠れるにはちょうどいい場所になる。おまえは井戸にはいり、ふたをした。隙間から外の様子をうかがった」

 徒歩を示唆するように、人差し指と中指を交互に動かした。

「井戸のまえに人垣が来る。おまえは地上に出て、なに食わぬ顔で合流した。人間が隠れるための仕掛けだ。これで現場不在証明が崩れる。一転して、おまえの犯行が可能になる」

 上野はなにも反応しない。

「おまえは容疑者のなかで唯一、自由に動けた人間となる。しかも、下屋敷に無断で侵入した。手掛かりを処分するためだ。おまえのもっていた書物には井戸や木樋の絵図があった。井戸の場所が書かれている。おまえはわれわれに気づかれることを避けようとしたのだ」

 彼は無言を貫いていた。

「どうした。ずいぶんとおとなしいではないか?」

「……とくに云うことは、ありませんからね」

「下手人だと認めるということか?」


「ちがいますよ。じっさいに井戸をたしかめないと、わたしが下手人ではないと証明できないでしょう。だからです。わたしはしばらく牢屋から出られない。なにもできることはないのです」

 上野は格子にちかづいた。

「それに……」

 また、笑顔のお面が張りついていた。

「わたしはうそをついていました。正直に云いますよ。だから、どうか、罪を軽くして欲しいのです」

「きこうではないか」

「じつは、書物を安全な場所に移そうとしたのではありません」

「だったら、なんのためだ?」


「売るためです。書物は好事家に高く売れますからね。人垣のなかにいたのも、侵入しようとしたからです。石階段をおりようとしたのも下屋敷にちかづくためでした」

 上野が盗んだものを売っている。この話はすでに何度かきいていた。彼の話に破綻はなかった。別府はききかえした。

「人殺しではなく、窃盗が目的だったのか?」

「ええ。でもね。きいてくださいよ」

 上野は語気を強めた。

「そもそも、水番人だった藤三郎さんを大村家に殺されたのです。日頃の生活が困窮してしまった。大村家から損失分を拝借したいと思うのも、とうぜんではないですか」

 顔を動かさないまま、格子に両頬をくっつけていた。

 両目から大粒の涙がこぼれていた。まばたきひとつもしない。

 涙の落下だけ動いていた。

「わたしもまた被害者なのです。うゥ、どうか哀れみをください。恩赦をお願いします」

 別府はこれ以上、追求することがなくなっていた。

 九兵衛と顔を見あわせる。立ちあがった。

 上野に背を向ける。

「窃盗がどの程度の罪になるかは奉行所の判断だ。お白州にて、同じことを云うがよい。また、用事があれば来る」


 上野は頭をさげつづけていた。

 別府は彼の釈明を信じたわけではない。

 ただ、井戸の状態を見ないかぎり、本縄を出すわけにもいかないのも事実であった。

 別府は九兵衛といっしょに座敷牢の階段をのぼっていった。

 だいぶ、時間が経った。外の町を出歩いている者はいない。前日の事件もあって、木戸はすべてしめることになっていた。

 蛇崩町は人口の規模から、厳しい取り締まりは行っていなかった。

 しかし、一夜に三人も死人が発見されたのだ。

 江戸の城下町と同じ閉め方にかわったのである。

「この暗さでは井戸を調査しても、見落としが出るかもしれない」

 別府は云った。


「そうですね。明朝のほうがいいでしょうね」

 九兵衛が答えた。

「自身番から手のあいている役人を呼び、行人坂の井戸を見張るようにたのんでくれ。目視できるようならば、井戸のなかとまわりも調べておくように」

「わかりました。卯吉さんと青人様はどうしますか?」

「きのうの夜に寝泊まりした宿屋にもどるつもりだ。未堂棟を休ませたいからな。朝から夜まで動きっぱなしだ」

「……あれ、その青人様は?」


 木戸番に未堂棟の姿はなかった。

 別府はあわてて、座敷牢へと引きかえした。

 未堂棟の左目がひらいていた。

 二十九回目だった。

 ふたりの会話には間に合ったらしい。


「――上野さんは被害者の佐々木五郎とどのくらいの面識がありましたか? 最後に会ったのはどこで、いつですか?」

 未堂棟がきいていた。

「たまに下屋敷で話をする程度です。殺される日の午前にも会いました。そのときに、ふたりの同心様が来ることをきいたのです。彼は泊まることを想定していたようで、必要なものを買い走らせるために、そばに仕えていてくれとたのんできました」

 別府は未堂棟のとなりへと駆けよった。

「ただ、その日は日食でした。わたしは日食の絵図を書いた瓦版を受けとりに、江戸東町に出かける予定だったので、断りました。蛇崩町にかえってきたのは夕刻でした」


 未堂棟はすかさず左目をひらいた。

 ついに三十回目だった。

「――貴方は佐々木さんが木刀をもっているところを見たことがありますか? 道場からもってきた素振り用の木刀です」


「いいえ。見たことがないですね。少なくとも、きのう、裏口の土間で話したときは、もっていませんでしたよ」

 未堂棟はふかぶかとお辞儀をして、座敷牢から出て行った。

 木戸の外に出るなり、ふらふらとよろけてしまった。

 膝から崩れ、頭から地面に落ちようとしていた。

「おい、だいじょうぶか!」

 別府は寸前のところで未堂棟の身体を支えた。

 左腕で肩をつかみ、首を固定させる。

 九兵衛が行灯をちかづける。別府は未堂棟の様子をたしかめるように顔をよせた。未堂棟の両目はひらいていた。いつものように片目だけではなかった。

 だが、気心知れた軽口はきこえてこない。


 ……まだ目覚めてはいないのか。

「未堂棟、未堂棟」

 軽く頬をさわった。さきほどまで意識はあったはずだ。

 しかし、別府が支えた途端、両目をとじてしまった。肩が熱い。

 未堂棟の身体は、地面とほぼ同じ高さにあった。

 硝子細工のような透きとおった瞳は見えない。

 目ぶたは完全におりていた。口角は少しあがっている。

 か細いが、息をしているようだ。

 別府はほっと胸を撫でおろした。


 しかし、安心はできない。首元には熱がこもり、顔から胸元まで赤くなっていた。未堂棟の両手は別府の腰をまわって、反対側に流れていた。

 両足は別府の正面に流れている。

 苦しい体勢だが、身体を起こそうとしなかった。

 糸の切れた絡繰りのように、みずからの力を感じられない。腰から足のさきにかけて、細波のようなけいれんを起こしていた。

 ぐったりと身体が折れている。別府は未堂棟の脇から片腕をいれ、背中に手をまわした。もう片方の手を膝のしたにいれる。

 綿のように軽い身体をもちあげた。

「卯吉さん」

 九兵衛の顔は曇っている。

「……だいじょうぶだ。頭を酷使したときの症状だ」


「幼少期に負った怪我の影響ですね。いまも、後頭部に傷がのこっている。どうします。蘭方医を探しますか?」

「いいや。いつもと同じだったら、しばらく休めば、問題ないはずだ。きのう、泊まった宿屋にもどる。きのうの夜からきょうの夜まで調査をつづけ、身体に限界が来ていた」


 別府は九兵衛に背を向けた。

「井戸の手配はたのんだ」

「わかりました。あすは井戸のほうに来られますか?」

「ああ、そのあとに未堂棟の気にしていた木刀を調べに、剣術道場に行くつもりだ。なにも見つからないかもしれないが、一応は見ておきたい」

 別府は手をあげ、九兵衛にわかれを告げた。

 未堂棟を抱きかかえたまま、暗闇のなかを走りはじめるのだった。

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