二章 蛇崩町の変死体

 別府は茶室に立っていた。縁側へとよった。

 砂利を蹴る音がちかづいてきていた。男の輪郭がこくなった。

 ……何者だ。

 目を凝らした。

 だれよりも素早く反応したのは、別府ではなかった。佐々木だった。

 強張っていた顔を一瞬で、ゆるませた。

「瑞木新七さんではないですか!」

 佐々木は声高に彼の名前を呼んだ。

 別府は思い出した。さきほど、日食についてたずねた男だった。瑞木は水屋としての仕事を終えたようだった。軽い足取りで歩いていた。


 日食は終わりはじめているようだった。

 蛇崩町に日の光が差しこみはじめていた。瑞木は六尺の半纏、木綿の腹がけ、長めの股引、金剛草履という出で立ちだった。

 当時の庶民の一般的な服装だ。ジーンズ、シャツ、スニーカーのようなものだ。佐々木は晴れ晴れとした表情で瑞木を見ていた。

 瑞木はまだ状況をつかめていないようだった。


「……この方々はどなたですか?」

 不穏な空気を感じたようだ。瑞木はたずねた。

「外廻りの同心様たちです」

「……同心……。それでは叔父上のことで?」

「叔父上だと?」

「ええ、瑞木新七は藤三郎の甥にあたる人物なのです。水屋として、われわれどもが雇っているのです。われわれ大村家が!」佐々木は強調した。

「やはり、部下の手前勝手な行動とはいえ、大村家の不始末ですからね」

「戸主を失った弁償を行っていると云いたいのか?」

「いえいえ。勝手にしていることです」

「……被害者のほかの縁者も雇っているのか?」

「ええ。作間家の遠縁である炊馬経子もいます。下屋敷で女中として雇っています」

「その女中は、どこでなにをしている? 見えないようだが……」

「ほかの者といっしょに食事の準備をしております。台所は出入りを禁止しております。いまの刻限は床の間には出てきません」

 別府はふかくうなずいた。身分の高い者が蟄居する場合、その場所から離れることができないため、部外者に毒を盛られる可能性があった。蟄居するほどの罪を犯した者は、恨まれている場合が多い。

 ゆえに、だれもいれないように台所を閉鎖する。よくある話だった。

「彼女を呼んできましょうか?」

 佐々木は廊下へと足を向けた。廊下のさきが、台所への唯一の出入り口らしい。

「いいや。それよりも、ほかの縁者を知りたい。大村家が藤三郎を死に追いやったあと、懇意にしている者はだれがいる。瑞木と経子のふたりだけなのか?」

 別府はあえて、棘のある云い方をした。

「ほかにもいます。部下に探させたところ、作間藤三郎の縁者だとわかった人物は、近辺に、もうふたりいました」

「だれだ?」

「義理の弟である作間政信と従兄弟である上野左衛門という男です」

「ふたりはどんな仕事をしている?」

「政信は田畑で作物を育てています。この下屋敷のうえにある蛇崩池を見ましたか?」

「とおくからながめた程度だな」

「蛇崩池は溜め池になっています。飲み水ではなく、泥のついた雨水です。蛇崩池の水は、町の左右にある新田に流しています。大村家が許可しているのです」

「そもそも、蛇崩池の管理は作間家が担当していたはずだ。もとのままということではないのか」

「……え、ええ。そうです」

 佐々木は「彼らの仕事を無理に奪いはしなかった」と声に出かかっているようだ。

 しかし、われわれの心象を悪くする恐れがあるために控えているようだった。


 別府は横目で瑞木を見た。

 うつむいていた。表情が見えない。微動だにしていなかった。しかし、口惜しい点もあるにちがいない。身内の命を不当に奪われた。

 自分たちはその罪を軽くするための人質にされている。これが現在の状況だ。

「最後のひとりは、なにをしている?」

「万屋でございます。表通りに店を構えています」

「その上野とかいう男も、大村の下屋敷を出入りしているのか?」

「いいえ……いいえ。直接的な取り引きはしていません」

「なぜだ」

「彼には……あまりよくない噂がありましたので」

「よくない噂?」

「喧嘩っぱやい男だという評判です。それだけならいいのですが、火事の現場でもよく目撃されているようなので……」

「……火事か。事実ならば、問題があるかもしれないな」

 別府は佐々木の危惧をすぐに理解した。火事と喧嘩は江戸の花ということばが有名である。当時は火事が多かった。しかも、放火である。主人への不満から火をはなつ者が多かった。

 短気な男を召し仕えると、放火の危険がふえる。極力、敷地内に置きたくないと考えることは自然だ。

 火事の現場で目撃されているのも、雇うことをむずかしくしていた。

 火事には泥棒がよく出る。火事にじょうじて、屋敷内に忍びこもうとする者がいる。火の手のよくあがる場所で目撃される人間は、それだけで危険だ。

「万屋か」


 上野が万屋の仕事をしている点も怪しかった。火事場から盗んだ品々を商品として売っている可能性があるからだ。ただでさえ、大村家は上野の縁者を殺している。

 下屋敷を自由に出入りさせるには危険すぎる。

 別府は押し黙っていた。佐々木は沈黙を不満と捉えたようだ。あわてて弁明した。


「上野と格別に懇意にしているわけではないですが、ふだんの買い物は彼の万屋を使っています。部下や女中だけではありません」

 別府は佐々木のことばに耳をかたむけていた。

「先日も蟄居が数刻だけ解かれる日に、大村様が万屋へと買い物に行ったはずです。もしも、われわれが彼から職を奪おうとしていたのならば、万屋は利用しなかったでしょう」

 別府は手元の覚え書きをひらいた。

 たしかに五十日、五と十のつく日には、数刻の猶予を与えられているようだ。蟄居はあまりに厳しくすると、自死する恐れもある。五十日のみ、自由な時間を与えられている。

 大村昌村は短い時間を使って、万屋へと向かったようだ。なにを買ったのかはわからないが、さして重要ではないはずだ。


 大村昌村はひとりの客として利用した。大村家として、とおまわりに雇用しているとも言える。

 別府は報告をあらためる必要があると思った。

 たしかに大村家の当主は作間家の戸主を殺した。水番人という仕事を不当に奪った。平民の生活を圧迫した。作間藤三郎の死は、ちかしい親類にも被害を与えた。

 奉行所はそういった平民への不当な行為をおおきく問題視していた。さっこんでは、御家人の横暴が目立っていた。奉行所は武家への取り締まりを強化したばかりだ。

 ゆえに、平民の職務を奪った事実は突きつめなくてはならない。

 その調査に別府たちはやってきた。

 大村昌村は作間藤三郎を殺し、縁者を困窮の道へと追いやった。

 ここまでは問題だった。

 しかし、大村家は事件後、作間家の親縁を贔屓にしていた。瑞木新七は水屋、炊馬経子は女中、作間政信は新田作り、上野左衛門は万屋、いずれも食べていけるように便宜を図っている。

 もしも、大村家を額面どおりに改易したら、彼らからふたたび、稼ぎの要所を奪うことになる。

 それは奉行所の望んだ罰則とはことなっていた。別府はしかめっ面を押さえた。

 佐々木は長い息を吐いていった。改易の峠はこえたと察したのだ。


 瑞木新七はひたすら頭をさげていた。表情が見えない。

 水屋の彼が同心のまえをとおりかかったのは、大村家にとって、わたりに船だった。

 しかし、本人がどう思っているかはわからない。職を失う覚悟をもった申告があるかもしれない。

「瑞木、おまえは大村家に対して、どう思っている?」

 別府は探りをいれた。彼が不満を云えば、話は一変する。大村家が罪の意識から贔屓にしているのか。罪を軽減するために人質にしているのか。

 ふたつは性質のことなる問題だ。

「叔父は……殺されました。斬殺されたのです」

 瑞木は顔をあげずに淡々と話した。

「そのとき、大村家の領主様と部下のふたりが目撃されています。有名な話です」

  声質からは怒りを感じなかった。

「わたしは叔父とよく遊んでもらいました。非常に男気があって、優しくて。身内だけではなく、町民のことも考えたうえで、飲み水の管理をしていました」

「……だったら、さぞ、悔しかったのではないか?」

「はい。否定はしません。しかし、死人は蘇らないのです。叔父に手をくだしたという者はすでに死んでいます。どちらもこの世にはいないのです。もうだれも……」


 自嘲気味に笑みを浮かべる。ほんとうの下手人はこの敷地内にいる。大村昌村が直接、手をくだしたのだ。別府はそう口をはさまなかった。

 瑞木のなかで整理がついているのならば、同心の出る幕ではない。

「喧嘩両成敗と云えるでしょう。われわれにはいまの蛇崩町の生活があります。町民としての生き方があります」

「身内が殺されたことは不問にふすと云うのか?」

「……はい。もしも、同心様が大村家を再調査すると云うのならば、とめはしません。しかし、それならば、いまの蛇崩町にとって、いい方向になるように進めて欲しいのです」

 昔よりいまが大事だ。模範的な返事だった。佐々木は腰帯をゆるめている。大村家にとって、もっとも口にして欲しいことばを瑞木は云ったのだ。

 追加の刑罰は必要としてない。蛇崩町の平穏を求める。

 大村家の望みどおりの答えだった。


 しかし、別府は額面どおりには受けとらなかった。大村家の用人、佐々木のまえでは、悪態もつけられないはずだ。水屋としても、大口の取引相手にちがいない。彼に話をきくならば、ふたりきりの状態ではなくてはならない。

 瑞木は大村家の部下が勝手に殺したと云った。瑞木は町民のひとりだ。長屋の目撃証言を知らないとは思えなかった。瑞木はまだ大村家に対して、恨み辛みをもっているのではないか。

 別府は勘ぐっていた。

 じっさい、大村昌村におもたい罪を与えるのは領主の身を守るためでもあった。

 領主に不満をもった平民が押しいりや放火で殺そうとする例がある。とくに蟄居している者など格好の標的だ。大人数でかこまれたら、ひとたまりもないはずだ。

「それで佐々木?」

「はっ、なんでしょうか?」


「大村昌村とは、いつ面会できるのだ?」

「きょうは八朔の日です。家康公が江戸入りした記念日でございます。立場上、われわれは粛々とすごさなければなりません」

「そうだったな。江戸幕府管轄の奉行所から刑罰を受けているなか、八朔の日に本人が面をあげる。背信行為にあたるか……」

「ええ、ですので、一日、おくらせることになりました。あすの昼間に蟄居をあけるように指示を受けています。そのときならば、お会いすることが可能です」

「あすの昼間だな。わかった。また来よう」

「……ええ、お待ちしております」

「ところで、蛇崩町のどこかに宿屋はあるか?」

「表通りの裏手にありますよ。おおきい宿屋ではありませんが……。よろしかったら、われわれの屋敷に部屋を用意しましょうか?」

「いいや。職務上の問題があるのでね。馴れ合うわけにはいかない。宿屋に一泊するよ。足でかよえる距離か?」

「ええ。奥まった場所にありますが、とおくではありません。女中に案内させます。しばしお待ちください」

 佐々木は会釈したあと、台所に向かった。

 別府と未堂棟、そして瑞木の三人がとりのこされた。瑞木はまだ水屋の仕事があると云った。別府は「ほかの町に行くのか」とたずねた。

 彼は首を横にふった。町内のほかの区画に行くらしい。遠出はしないと云った。あすの朝にふたたび、大村家へと飲み水を運ぶからだ。瑞木は下屋敷の水を早朝と昼間、にかい、補充するらしい。

 瑞木はひとり、下屋敷の裏門へと向かっていった。

 別府は彼のうしろ姿が消えるまで、ながめていた。

 もう会うことはないと思っていた。

 仕事熱心な男を見送っていた。こんどは最初の目撃とはことなり、後ろ姿を最後まで見ることができた。日食は完全に終わっている。刻限はとっくに正午をすぎていた。見通しがよくなっている。

 蝉の鳴き声もきこえてきた。

 

 別府はそらを見上げた。太陽が完全に出ている。日の光が強く差しこんでいた。

 身体中から汗が流れ、肌に痒みを感じた。口内から水分を奪われる。いつもの葉月だ。見慣れた光景だった。蛇崩町は平穏な日常にもどっていた。

 背後から床板を踏む音がきこえてきた。茶室の戸がひらいた。

 佐々木が立っていた。若い女中をつれている。

 彼女は炊馬経子だ。別府はすぐにわかった。経子は斬殺された作間の遠縁にあたる。経子を同心のおともにする。予想できる展開だった。佐々木にとっては事件後の反省を示し、別府にとっては雇用の確認がとれる。

 お互いにとって、都合がよかった。


 別府は背中を反った。骨の関節が音を立てる。ひとまずの仕事を終えた。

 別府たちは不当に職務を奪わせないためにやってきた。

 同心が来て、日中に話をきいてしまえば、彼らの時間を奪うことにもなる。

 いっぽう、女中ならば、問題はない。

 大村家の雑務をこなすのは、女中の仕事の延長だからだ。

「……彼には悪いことをしたかもしれない」

「瑞木新七さんのことですか? 引きとめただけです。とくに迷惑をかけたとも思えないのですが……」佐々木は云った。

「瑞木新七は水屋だ。水屋と云えば、夏過ぎにおいても、忙しい仕事のひとつだ。日中は飲み水を求める者が多い。稼ぎどきでもある。一時的に引きとめたことで、懐にはいる銭を少なくしたはずだ」

 多くの水屋は足を使っている。飲み水を遠方の地から確保する。質の高い玉川上水などから大量の水を汲み、運んでくる。両肩におもたい水を釣りさげて、諸国を歩きまわるのだ。城下町と山々を一日に何度も往復する。夕刻に水を汲み、夜中に眠り、早朝から昼間まで売る。

 その貴重な時間を奪った。普通に考えれば、嫌な顔ひとつしてもいいはずだった。


 しかし、彼は淡々と仕事をしていた。

 別府は立派だと思った。

 佐々木はそんなことかと肩をすくめる。

「瑞木さんならば、だいじょうぶだと思いますよ」

「だいじょうぶ? 忙しくないということか?」

「彼は代々の水屋ですからね」

 佐々木が云うには、瑞木新七は飲み水の保管庫をもっているらしい。蛇崩町の外れにある洞窟から水を運んでいる。湧き水が出ているわけではない。寒々とした洞窟のなかに、おおきな桶を設けていると云うのだ。湖川の上流から飲み水を運び、洞窟内の桶に溜めている。だから、ほかの水屋ほど忙しいわけではないらしい。

「彼らの家系は昔から水にかかわる仕事をしていました。蛇崩町にあらゆる水を供給していたのです。その昔、日照りで大変な被害にあったらしく、渇水に備えて、最低限の飲み水を溜めているのです。前任の水番人からたのまれているようですね」

「なるほど、すべては蛇崩町に住む町民のためか」

「ええ。この町の者ならば、だれでも知っていることです」

「瑞木新七の戸主、前任の水番人だった作間藤三郎は、よほどできている者だったわけだ。町民からの信頼も厚かった」

「そうですね、彼ほどの人物は………あっ……」


 佐々木は途端に罰の悪そうな顔をした。とうぜんだ。佐々木は大村家の用人だ。作間藤三郎を賞賛すれば、自分たちへの非難に繋がる。大村昌村は藤三郎を殺した。蛇崩町の恩人を殺したことになる。

 身分差を利用した乱暴狼藉だ。

 奉行所が厳しく抑えようとしていることだった。彼は失言をとりかえそうとする。

 別府は片手をあげる。佐々木を尻目に茶室を出ていった。

 帰り際、ゆっくりと敷地内を見た。下屋敷の北側には書院と離れ座敷があった。大村昌村の甥である菊太郎が住んでいるらしい。

 とくに用事もない。挨拶する必要もなかった。

 別府は下屋敷の裏口へともどった。

 女中の経子が駆け足で追いこしていった。

 彼女は左手を高くあげた。同心の進むさきに左手を向けているらしい。ていねいに案内しようとしているのがわかった。

 経子は黒地の小袖を着ていた。長い帯をうしろむすびにしている。髪の毛は短い。ほかの女性のようにゆいあげるまでもなかった。前髪は目よりもうえの位置にあった。

 垂れさがった眉、色素の薄い肌、細い肩幅は幼く見えた。両手を右へと左へとふる様は与えられた仕事を必死にこなそうとしているように見えた。


「同心様はどのように蛇崩町にいらっしゃいましたか?」

 経子は道すがら、きいてきた。

「伝馬のとまる宿駅から歩いてきた。宿駅から大村家の下屋敷まで正面にまっすぐ進んできた」

 伝馬とは徳川家康によって、本格的に整備された制度だ。各所へと素早く情報を伝えるために、専用の馬を用いる。各地の宿駅には健康的な馬が用意された。多くの宿駅は五街道に設けられている。

 江戸時代後期では、宿駅のあいだを馬が何度も往復していた。

 宿駅は旅行者や貨物を送る役割も担っていた。

 蛇崩町では、宿駅が駕籠や馬をとめる場所になっていた。身体の弱い未堂棟を長時間、馬にのせることに不安があったので、別府たちは大型駕籠にのってきた。

「そうですか。宿駅から下屋敷はさぞ長い坂道に感じられたでしょう。大村家の下屋敷はこの町でもっとも高い場所にありますからね」

「いやいや。日食もあったから退屈しなかったよ」

 別府はみずからの無知を棚にあげた。自嘲気味に答えた。

「あははっ、それはよかったですね」

 経子は無邪気に笑った。すぐに「こほん」と咳をいれた。さすに不躾だと感じたのかもしれない。彼女は同心がどういう者なのか、正確に理解していないのかもしれない。礼儀正しくしようとするいっぽうで、本人の性格が見え隠れしていた。別府はその率直すぎる反応に好感がもてた。

 うそをつくのが得意ではなさそうだと判断した。

 経子は滑るように行人坂をおりていった。

 別府と未堂棟があとにつづいた。彼女は突然、ふりかえった。視線を東に向けた。

「蛇崩町は区画ごとに分かれています。下屋敷は北の参丁目にあります。それぞれの区画は番号と丁目がつけられているんです。目印として木戸が立てられています」

「のぼってくるときに見た。非常に行きとどいているね」

「まァ、木戸はふだん、ひらきっぱなしですけどね。木戸番の人もいつもいるわけじゃないです」

「そうか」

「お泊まりになる宿屋は、東の弐丁目にあります」

「東の弐丁目ってことは表通りから外れるのか?」

「ええ。すぐ横の脇道にはいることになります。北東の木戸をふたつこえたさきに宿屋があるんです」

 経子は軽い足取りで坂道を曲がった。

 石階段をおりていった。別府もつづこうとした。

 ふと立ちどまる。正面の行人坂を見た。坂道はゆるやかに地面をかたむけながら、宿駅までつづいていた。蛇崩町の表通りだ。


 となりの脇道は裏通りだった。とおくに長屋が見えていた。作間藤三郎は下屋敷のそばの長屋で殺されたはずだ。……このちかくで暮らしていたのかもしれない。

 別府は過去の殺人に思いを馳せた。すぐに彼女の背中を見失わないように追いかけた。いくつかの木戸をこえる。

 北の弐丁目には小川が流れていた。小川の両端は木樋によって遮られていた。新田へとつづいているようだった。東の壱丁目をこえると、小川は完全に消えた。

 行き交う旅人の数がへりはじめる。そのかわりに走りまわる子どもがふえてきた。徐々に、別府の視界にとおくの景色がはいらなくなる。地形がかわっていた。

 身体が楽になった。足に力をいれなくても、身体がかたむかなかった。平坦な道だ。蛇崩町の坂道が終わったのだ。


 屋根のうえに、のぼり旗が見えてきた。宿屋だ。別府は到着するまえに探りをいれることにした。経子に大村家について、たずねた。彼女はあっけらかんに答えた。

「大村家はわたしによくしてくれますよ。まァ、まだ仕事をはじめたばかりですし、敷地内でまかされていない場所もありますが、これから慣れていけると思います。とくに不満はございません」

「まかされていない場所とは、大村昌村の籠もっている土倉か?」

「いいえ。ちがいます。たしかに大村様とはお会いしたことはないです。でも、それはお隠れになっているからです。壁ごしに話したこともありますよ」

「だったら、どこがはいれないのだ?」

「敷地内の北にある書院です。書院だけは立ちいりを禁じられています。ちかづくのも注意されています」

「どうしてだ? なにかあるのか?」

「単純な話です。わたしは読み書きが達者ではないのです。だから書院の整理がわからないのです。北の書院の片付けは、佐々木五郎が担っています」

 別府は納得した。文字を読めない者にとって、手紙の文に綴られた走り書きはただの落書きに見えるはずだ。捨てられてしまうかもしれない。

 江戸の城下町には筆学所がそこらじゅうにある。

 当時の町民の識字率は高かった。しかし、城下町の外れまで教育が行きとどいているわけではなかった。経子は読み書きのかわりに自分の手先の器用さを話しはじめた。

 炊事場の仕事が馬のようにはやいことを自慢しはじめる。

 本題から逸脱していた。別府はとおまわしの質問を諦めた。

 殺人事件について直接、きくことにした。


「経子、作間藤三郎と大村昌村の水騒動は知っているか?」

「ええ。きいています」

「被害者とは面識はあるのか?」

「ええ、頻繁には会っていないですが。ああ、ただ……」

「ただ? なにかあったのか」

「いいえ。いま思い出したのですが……。藤三郎さんが亡くなるまえ、わたしのところに来たのです」

「珍しいことなのか?」

「ええ。当時、わたしの住んでいた長屋は南の弐丁目です。蛇崩町の区画を三つ隔てている場所です。わざわざ来られたので、わたしは声に出して、驚いたのをおぼえています」

「いったい、なんのためにあらわれたのだ? 大村昌村と問題になっていた飲み水の話をするためか?」

 彼女は首を横にふった。

「まったくちがう話です。しかも、その内容がおかしいのです」

「おかしい?」


 経子はその内容を完全に思い出すために立ちどまった。

 遠方をにらんでいた。一点を見つめていた。動かない。

 彼女の視点だけが手元にちかづいていることはわかった。

 瞳孔が徐々にひらいている。黒目がおおきくなっていた。

 自分の心のなかを見ようとしている。

 彼女の変化は突然、やってきた。思い出したのだ。経子の両肩はふるえはじめていた。両目の瞳孔はひらいたままだ。

 黒目が左右に、はげしく動きまわっていた。

 何度も口をひらき、何度も口をとじていた。

 彼女の全身は細かく動いていた。怯えていた。別府は右手をあげた。会話のつづきをうながした。彼女の両肩はびくっと、ふるえる。振り絞った声は抑揚を失っていた。

「……へ、変死体です。たくさんの変死体が出ているという話でした」

「なっ」

 別府は声にもならない声を出した。


 ――変死体だと!


 別府は、まだ、蛇崩町の裏で進行していた事件を、なにひとつ、つかんでいなかったのだ。

 蛇崩町をおおっている恐怖は、顔をあげている最中だ。

 殺人事件の饗宴は、これからだったのである。

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