一章 水騒動の殺人
太陽は出ているのに、太陽は出ていなかった。
別府の思考は平常だったが、別府の周辺が平常ではなかった。いまは葉月だ。天候にはなにひとつ問題がなかった。ほんらいならば、燦々と照らすお天道様に悩まされているはずだ。出かけるまえに、鐘の音もきいていた。
刻限もわかっていた。午前よりまえの刻限にまちがいなかった。
先週と同じように蒸し暑い晴天が、平常につづいているはずだ。
しかし、じっさいには太陽は出ているのに、日の光は差しこんでいなかった。
……ありえない。
身体からは汗ひとつ出なかった。肌も痛くなかった。喉は渇きはじめていた。
平常ではなかった。異常な天候を目のあたりにしていた。緊張感から喉が渇いた。
蛇崩町は不気味な漆黒が延々とつづいていた。
……八月だぞ。別府は胸の内でつぶやいた。
きょうはすべてがおかしかった。
暑いどころではない。吹きすさぶ風すら寒かった。
葉月なのに、全身に寒気を感じた。ちょうど鐘の音がきこえてきた。まだ午前だ。夕刻ではなかった。しかし、街並みのすべてが暗闇につつまれていた。
昼間なのに昼間ではなかった。道を行き交う人々は半裸どころか、上着をかさねていた。両手を合わせて、神仏に祈りを捧げている者もいた。だれも声をあげていなかった。蝉すらも鳴いていなかった。冬のように寒く、夜のように暗かった。別府のあいた口は塞がらなかった。
恐怖のあまり、口をとじることを忘れていた。別府は蛇崩町の表通りを歩いていた。
蛇崩町、珍しい町の名前だ。その昔、巨大な大蛇が目撃され、命名されたらしい。大雨がふったとき、崖のあいだから巨大な大蛇が出たと云うのだ。別府はこの命名を信じていなかった。
おそらく、大雨時に水かさがまして、蛇がのたうちまわるように、氾濫したことから名づけられたにちがいない。洪水はときに大蛇のように町を襲うからだ。
しかし、いまはべつの考え方をもっていた。
もしかしたら、蛇崩町には、ほんとうに巨大な大蛇が生息していたのかもしれない。
すでに大蛇によって、町が飲みこまれたあとなのかもしれない。だから空が暗いのだ。上空をおおっている暗闇は、大蛇の胃である。 黒い雲は胃液の脈動だ。
……いつのまにか、われわれは捕食されてしまった。大蛇の体内にいる。消化を待つだけの餌にすぎない。
別府は自嘲した。
……ありえない。馬鹿げている。
……しかし、それくらい突飛じゃないと説明がつかない。
両目をこすっても、そらに光は差しこまなかった。
……蛇崩町にいったい、なにが起きはじめているのだ。
別府は急激な天候変化に、頭を抱えていた。まわりの風景から逃げるように、となりに目を向けた。未堂棟は、別府におくれて歩いている。そらを見上げていた。
未堂棟の口は半びらきのままだった。
別府とはちがう意味で口をあけている。未堂棟は幼少のころ、頭を強く打ってから、思考力に変調をきたしていた。集中力が高まったときしかことばを発さなかった。
いまの状態だと話せても、一言、二言だ。
別府はきょうという日を不気味に感じていた。きょうだけは葉月から真冬にうつりかわっていた。晴天なのに真っ暗だ。日本の終わりかと思った。
しかし、未堂棟は反対のようだった。心無しか、瞳の奥が踊っている。
……特別におびえる日ではないのかもしれない。
……わたしが無知なだけだろうか。
別府はみずからの常識を疑いはじめていた。未堂棟にきいても答えられない。だれかまわりにいないだろうか。会話できる相手を探した。そのとき、目のまえをひとりの男が走り抜けていった。長い棒を担いでいる。棒の両端に、おおきめの桶を釣りさげていた。
水売りだと思った。八月によく見る姿だったからだ。
「そこの水売り、ちょっといいか?」
「は、なんでしょうか」
「どうして、きょうはこんなに暗いのだ」
「知らないのですか? きょうは数十年に一度の日食の日ですよ」
「日食だと?」
「ええ。おふれが出ていました」
別府は上空を見上げた。……これが日食か。きいたことはあった。遭遇したのは、はじめてだ。日食は、太陽と月がかさなったときに起きる。日の光が一時的に奪われる現象だ。
じっさい、江戸時代後期には複数回の日食が起こっている。その内のいっかいは、旧暦の正午に起きていた。当時の瓦版などに記述がのこっていた。
きょうの日食とまったく同じ現象が起きていた。
昼九時頃日輪寅卯之間に虹立一刻にして消殺ス、日も亦自然に色薄く……(正午、太陽の右横に虹立ち、一時間ほどで消滅する。太陽の光も弱かった)寛永元年の瓦版より。
別府は上空をまじまじと見た。
鉛色の空だ。月がお日様を食べている。日食とはよく云ったものだ。太陽の外周は赤く光っていた。中央に黒い点が見えている。
蛇の目のようだった。別府を絶えず見つめているようで、不気味に感じられた。
別府は喉元をさわった。
不気味な天候の正体を知ってもなお、喉の渇きはおさまらなかった。
「日食か。ようやく謎が解けた。礼を云う。ところで、おまえの名前はなんて云うのだ?」
「瑞木新七でございます」
「すまないが、水をいっぱいくれるか」
彼はふかぶかと頭をさげた。
右手を左右にふった。無理だと述べていた。
「すみません旦那。わたしは水売りではないのです」
瑞木は桶のふたを少しずらした。全開ではなかった。周囲はいまだ暗い。桶のなかは見えなかった。ゆらいでいる水面だけが見えた。淀んでいない。透明の水がはいっているにちがいない。
彼が水売りではないことがわかった。
当時、飲み水は貴重だった。
葉月のころでも、よく水売りが闊歩していた。
水売りは、そのままの水を売るわけではなかった。
桶内に溜めた水に、白砂糖や果汁を混ぜるのだ。水は貴重である。多く売るために、かさまししていた。ゆえに、水売りの水は甘くて、とろみがあった。
安価であり、とおりがけに買うことができた。
「わたしは水売りではなく、水屋です」
桶を担いでいても、水屋やと水売りとはことなる仕事である。
水屋は水をそのまま売る仕事だ。
「いまから下屋敷の桶内にある水を補充しに行きます。だから売り物ではないのです」
水を運ぶ職業と言える。たくわえのある旗本や御家人が雇う場合が多かった。
屋敷に水を余分に置いておくために依頼するのだ。
すでに取り引きが終わった水とも云える。
別府は素直に諦めた。
「そうか、引きとめて悪かったな」
瑞木は会釈した。走り去っていった。日常的な会話をしたおかげか、別府の緊張は解けていた。喉の渇きは消えていた。ふたたび、別府と未堂棟は歩き出した。
蛇崩町の表通りの道は長く、始点から平坦ではなかった。
行人坂と呼ばれる坂道へとつづいている。道中を行き交う人は多い。
瑞木は人々のあいだを縫うように駆けていった。
別府は彼の向かうさきを見上げた。白塗りの大屋敷がそびえ立っていた。
日食の漆黒に負けないほどの白妙だった。行人坂の頂上である。瑞木の行き先は別府と同じだった。表通りの終点だ。
「あの白壁の建物が大村の下屋敷か」
別府と未堂棟は観光のために蛇崩町に来たわけではない。
一ヶ月まえに起きた殺人事件について厳しく言及するためにやってきたのである。
外廻り同心として、お上にたのまれた仕事だった。
肩衣の内側には、主人に突きつける手紙をいれてあった。奇しくも、水屋の瑞木と話すことで下屋敷の場所もわかった。蛇崩町は江戸の外れに位置している。
江戸時代の城下町は、どこも几帳面に整備されていた。地震や火事が起きたとき、被害が最小限になるように、区画分けされているからだ。
別府にとって、見慣れた風景だった。
表通りの両脇には、江戸黒と呼ばれる煤を塗った外壁がつづいている。外壁の向こう側には、瓦葺きの二階家がならんでいた。二階家の多くは商人の住まいである。
表通りは区画ごとに木戸が立てられている。殺人事件などが起きると木戸番が木戸をとじるのだ。出入りを不可能にする。いまも木戸番が立っている。町内の警備は、しっかりと行われているようだ。まだ、なにも起きていない。
木戸はひらいたままだった。
別府たちは町人地区にはいった。蛇崩町の町人地区は、見るかぎり、六十間ほどの広さあった。九尺から二間ほどの家屋が等間隔につづいている。
建物間の距離を離していた。火事地震の対策である。区画ごとに隔たりをつくることで、共倒れを防いでいる。
区画のすみに、空き地や広い道が設けることで、さらなる被害を食いとめるのである。現代換算でいえば、百メートルほどの距離で縦道と横道が交差していた。
町人地区は格子状になっている。
大概は、大通りの正面に、御家人の屋敷が建てられることが多い。
表通りの正面にある家屋は、高い地位の象徴である。
蛇崩町では大村昌村の下屋敷があてはまるようだ。
瑞木新七の背中は、見る見ると、ちいさくなっていた。下屋敷の背景と同化していった。下屋敷は、いまでいうところの別荘だ。
現在と同じく、坂のうえに建てられることが多かった。
威厳と景観の問題もあるが、それだけではない。
坂のうえのほうが飲み水を確保しやすい点がおおきい。玉川上水から供給される場所、湧き水の出る場所、木々が溜めこむ雨水、多くの水は坂のうえに集まり、少しずつ下界へとおりる。高い場所ほど、多量の水をさきんじて扱える。
江戸時代では渇水が頻繁に起きていた。飲み水の確保は、生きるうえでの最優先事項だった。身分の高い者は、こぞって水源を確保しようとした。
この行動がのちに、おおきな問題となることが多かった。
いわゆる、水騒動である。江戸時代のころ、水の管理は重要な事象だった。
別府は大村の下屋敷をにらみつけた。
水の管理は、最初から御家人などが担当しているところも多い。
しかし、蛇崩町のように、あとから拡張された場所だと、簡単ではない。
昔から水場を管理している平民とのちに暮らしはじめた領主のあいだで、いさかいが起きることがあった。いままで水番人をしていた者が、領主の命令によって、職ごと追い出されることもある。
そのせいで、住民に水がとどかなくなることもあった。
不満に思った平民に夜襲されることもあり、水騒動はおおきな問題となっていた。
別府は懐から紙封筒をとり出した。奉行所の証文がはいっていた。
大村家の水騒動についての調査報告だった。
大村家が起こした水騒動を調べること、それが蛇崩町に来た理由だった。
別府と未堂棟は息を切らしながら、蛇崩町の行人坂をのぼり切る。
徒歩でも険しい道だった。目のまえには大門がそびえ立っていた。目的地だ。大村家の下屋敷である。瑞木新七に四半刻もおくれた到着だった。
大村家の下屋敷は、表門と裏門が設けられている。
正面の表門には門番がふたり、立っていた。
別府は証文を見せた。領主との面会を申しいれた。
しかし、彼は首を横にふった。
「すみませんが、裏手にまわってもらえないでしょうか?」
「どうしてだ。なぜ、はいれない? ここが表門のはずだ」
「ええ、そうなんですが」
右側に立っていた門番、所沢弥彦が背を向ける。
「大村様は正面の土倉におられるのです。お上のとりきめにより、土倉にちかづける者は、かぎられているのです」
別府は表門の三倍ほどの高い建物に目を向ける。
土倉だ。
「ああ。そうか。出入りを完全に封じているのか」
大村昌村は、すでに蟄居処分を受けていた。
蟄居とは刑罰のひとつだ。閉門したうえ、一室に謹慎させるものだ。
内部者も部外者も、一切の立ちいりを禁じられる。
「さきほど、水屋の瑞木新七と会った。彼も裏門からはいったのか?」
「いいえ。土倉の桶を補給してもらうために、表門からいれました。身体をあらためましたが、なにももっていませんでした」
さきほどの別府と同じように、ふたをずらして、水面を見たらしい。
「瑞木を土倉のなかにいれたのか?」別府はたずねた。
「いいえ。いれていません」
門番の声はおおきくなった。
「水桶や食事は、土倉の隙間からいれられるようになっています。ですので、ひとりで土倉の横をとおるだけです。錠前もかけております。大村家としても、昌村様が外に出られないように最大の配慮を行っているのです」
門番は言い訳するように蟄居の状態を説明した。
じっさい、別府は大村昌村の蟄居が守られているかどうかには、興味がなかった。蟄居で済まないかもしれないからだ。
こんかいの訪問によって、大村昌村の罪は、さらに、おもたくなる可能性があった。
別府は未堂棟をつれて、裏門へとまわることにした。
裏門には正装した武士が立っていた。文官のようだった。彼は佐々木五郎と名乗った。用人だった。屋敷外の問題を対応する人間である。
現代的な表現をすれば、秘書である。
「同心様、きょうはどういったご用で来られたのですか?」
別府は彼の威嚇的な質問を流した。
外廻り捜査の同心が来た理由はわかっているはずだ。
そう云いかえさなかった。
「この下屋敷が建てられたあと、蛇崩町でひとりの平民が殺された。むろん、知っているな」
「ええ、存じあげています。蛇崩町の水場を管理していた作間藤三郎が死体として見つかった事件ですね。存じていますとも」
当時の瓦版、いまでいうところの新聞には、大村家の水騒動と書かれた。
飲み水の奪い合いである。江戸時代では城下町が広がるにつれて、玉川上水と神田上水が飲み水の供給源として整備されていった。
清浄な飲み水が木樋をとおって、それぞれの町に流されていった。木樋のとどかない町では、平民が湧き水や雨水を濾過していた。
しかし、その木樋が城下町の外れまでとどくようになると、問題が起きた。
重要性が極端にましたのである。水路の要所を管理する水番人が必要になってきた。水路に毒物を流されたり、上水に腐乱死体が浮かんでいると、城下町におおきな被害が出る。綺麗な飲み水が無事、分配されているのか、見張りが必要になった。
いままで、蛇崩町の水場を管理していたのは、平民の作間藤三郎だった。
しかし、あたらしく蛇崩町の領主になった大村昌村が介入をはじめる。
水番人の作間と大村のあいだで軋轢が生まれたのである。
作間は、蛇崩町に満遍なく、飲み水を行きわたらせようとした。
いっぽう、大村昌村は自分たちの住まう下屋敷に、多くの飲み水を確保しようと動いた。双方の天秤が釣り合うほどの水はなかった。
奉行所はお互いに話し合うように指示した。
役人が動けば、武家側に配慮が生まれるかもしれない。
そうなると、住民の不信感を生みかねない。
静観をきめこんだのだ。
そして、悲劇が起きたのである。飲み水ではなく、ひとりの命が奪われた。
「こちらへどうぞ」
佐々木は同心のふたりを下屋敷のなかに案内した。
正面の座敷にあがった。ふすまを引いた。
茶室のようだった。佐々木はふり向いた。
「作間藤三郎殿はわれわれの仲間が身勝手に殺してしまいました。悲しいすれちがいでした。まさか、身内のひとりが暴走してしまうとは思いませんでした」
佐々木は奉行所に報告してきたとおりに、口をまわしていた。
「結局、彼は我にかえったあと、腹を切って、詫びることになりました。その責任問題として大村様が蟄居されることになったわけです。非常に悲しい事件でしたね」
別府は封筒をひらいた。
あたらしく調査した報告書を見せつけた。
「われわれは奉行所からの依頼により、作間が殺されたときの状況を綿密に調べることになった。どのように殺されたのか。犯人は単独犯だったのか。目撃者はいないのか……」
「……それで?」
佐々木の顔には、緊張の色が浮かんでいた。
「作間藤三郎は蛇崩町の長屋に住んでいた。この下屋敷から南に一区画、おりたさきだ。すぐちかくだ。目と鼻のさきで、被害者は暮らしていた」
下屋敷の裏手には小高い丘が広がっていた。その丘の大部分は、溜め池になっていた。町民は蛇崩れの大蛇池と呼んでいた。大蛇がとぐろを巻くように、濁った水が張られているからだ。
通称、蛇崩池である。
作間家は先々代から水場の管理をしていた。水路だけではない。蛇崩池の水番人でもあった。溜め池に雨水などを溜める。渇水のときに、周辺の新田へと流していた。
渇水で問題になるのは、飲み水だけではない。翌年の収穫物がへることが問題になる。溜め池は収穫物の維持に役立っていた。
しかし、いっぽうで災いもあった。
大雨がふると、溜め池が氾濫する恐れがあったのだ。江戸時代では、溜め池の氾濫は頻繁に報告されていた。氾濫を防ぐことも水番人の役割だった。
貯水量が上限をこえるまえに、ちかくの河川に剰余分を流しこむのである。新田の管理は蛇崩町を守るために必要不可欠だった。だからこそ、作間藤三郎はちかくの長屋に居を構えていたのである。
「丑三つ時、作間の住む長屋から、人の争う音がきこえてきたらしい」
別府は両腕を組んだ。
「長屋は薄い壁を隔てて、大勢の町民が暮らしているからな」
「……凶行を目撃した者がいたと云うのですか?」
佐々木は恐る恐るきいてきた。
「いいや。直接、見た者はいなかった」
安堵の息が漏れる。
「しかし、長屋にはいったところを見た者はいる。身分の高い者がふたりいたらしい。複数人の証言だ。まちがいない。長屋に、はいったのはひとりだけだ」
別府は自分の頬を斜めになぞった。
「最初は木戸のまえで話していした。しかし、急に、ひとりの男が押しいった。悲鳴がきこえる。長屋から男が出てきた。男の上着は血に染まっていた。つまり、佐久間を殺した下手人だ。その男の顔には、頬に斜めの古傷があったらしい」
佐々木は押し黙った。
「おまえたちはあとから、死体を奉行所に運んできた。腹を切った男だ。われわれは徹底的に検分した。頬に古傷はついていなかった。つまり、下手人である可能性は低いことになる」
別府は記録の施された文を叩いた。
「われわれの仲間には、似顔絵の上手い者がいる。腹切りした男と、もうひとり、べつの人物の似顔絵を書かせた。長屋の者に見せに行ったよ。彼らはこぞって、うしろで待っていた男と長屋内にはいった男だと答えた。腹を切ったほうが前者だった。とうぜん、下手人は後者だ」
腹を切った男の似顔絵をさげた。
「こちらの似顔絵の男はだれか。長屋にはいった者はだれだったか。真の下手人はだれなのか」
別府は一歩、二歩、進んだ。
佐々木の懐に踏みこんだ。
「もう多くは語らなくてはいいはずだ。大村家の当主、大村昌村は幼いころ、頬にふかい傷を負ったときいている。古傷だ」
「……」
佐々木は黙った。
「身分の高い者が平民を斬る。これはよくあることだ。しかし、人斬りが許されているのは正当な理由があるときだけだ。ただの人斬りは、旗本でも御家人でも罪に問われる」
「大村様はただいま、蟄居されています」
「蟄居以上の罪という意味だ。水騒動を円満に解決できなかった。これは大村家に問題がある。奉行所は穏便に解決するように命じていた。それを最悪の形にした。責任は領主にあると判断する。奉行所は真意をたしかめたがっている」
「……どうなさるつもりですか?」
「まず、大村昌村がほんとうに、長屋にはいったのかを確認する。作間を殺したことを認めれば、蟄居よりおもたい罪に問われる」
「認めなければ?」
「奉行所に呼び、目撃者たちに顔を見てもらうことになる。最後まで捜査することは決定事項だ」
別府はあえて云わなかった。
もしも、殺人を否定したうえで、目撃者が大村昌村を下手人だと指摘した場合、ただでは終わらない。この犯行は悪質だと判断される。
そうなると、大村家は改易処分となる。
領主の命だけでは、終わらない。
「はっきり云おう。われわれは水番人の作間藤三郎を殺した下手人は大村家の当主、大村昌村だと考えている」
別府はすでに算盤の身だった。下屋敷に来たのは算盤の珠を弾くためだ。
大村昌村は算盤の珠がうえに行くか、したに行くかを選ぶだけだった。
素直に蟄居以上の罪刑をとるのか。意地を張って、改易をとるのか。
二択を迫っていた。
佐々木は返答に困っていた。彼の考えていた以上に、奉行所が本腰をいれていると気づいたにちがいない。露払いとしての一手は出てこなかった。
別府は上空を見上げた。日食は終わりつつあった。
徐々に、太陽がほんらいの明るさをとりもどしはじめている。
別府はあすにでも、この事件が解決すると考えていた。
うしろから足音がきこえてきた。ひたひたと鳴っていた。
別府の耳にようやくはいった。
横を見た。
未堂棟が立っている。動いていない。
……ちがう。気配はうしろだ。
視界にはいった。ひとりの男が歩いていた。
佐々木は不敵な笑みを浮かべた。見おぼえのある顔だった。
未堂棟の左目がわずかに脈動した。まだ、ひらきはしなかった。
しかし、たしかな異変が起きはじめていることを感じているようだった。
別府は殺人事件が終わったものだと考えていた。
まさか、これから新しい殺人事件がつぎつぎと起こるとは思ってもいなかった。
じっさいのところ、大村家の水騒動、その本番は、まだはじまってもいなかったのだ。
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