三章 蛇崩池の来襲

「いま、なんと申した?」

 経子はうつむいていた。

 別府はたしかに変死体ときいた。変死体とは、常識的ではない死体のことだ。ただの絞殺死体、刺殺死体のことではなかった。

 まるで死因のわからない、不気味な死を遂げた人間のことだった。しかも、ひとつではないということばは、別府の怖気をふやしていた。


「……藤三郎さんは……長屋の周辺でおかしな人物を見ていないか。そう、ききました」

 彼女は婉曲的に話しはじめた。

「おかしな人物?」

「ええ。わたしは……どういうことかききました」

 ごくりと喉を鳴らした。別府も息を呑んだ。

「さいきんの蛇崩町には、異変が起きていると云うのです」

「異変だと?」

「はい。ただごとではない様子でした。わたしはそのときにはじめて、蛇崩町の異変のあらましを知ったのです」

「それが変死体か?」

「そのとおりです。同心様は蛇崩町で、たくさんの変死体が見つかったという話を知っていますか?」

 別府は首を横にふった。

 大村家の領主が作間藤三郎を殺した。

 それよりまえの出来事は報告されていなかった。


「春が終わり、夏にはいるころの話です。河川で溺死体があがり、その数は少しずつふえていたのです。藤三郎さんは水番人をしています。河川の見回りをしていました。仕事上、いちはやく気づいたのです」

 ……変死体がふえた。別府は思いあたるものがあった。

 流行病だ。当時は九州を中心にコレラが伝播していた。コレラは日本の北にある国から伝染してきた。朝鮮半島や琉球から徐々に広まってきた。

 江戸時代後期では、いまの中国である清国と英国が戦争になっていた。戦争の被害は悪環境を生む。日本は異国への対応に頭を悩ましていた。隣国で流行していたコレラも、異国による脅威のひとつだった。日本は関所によって、旅人の出入りを制限し、被害を最小限に抑えていた。

 しかし、完全に防ぐことはむずかしかった。徐々に感染は広まっていた。コレラは飲み水から感染することが多い。水際で伝染病を防ぐためには河川の見回りが不可欠だ。当時の江戸では木樋をつうじて、各地に水が運ばれていた。

 コレラが流行するとしたら、河川と下水からになる。もしも、上流にコレラで死んだ人間が浮いていたら、一気に蛇崩町へと広がるにちがいない。

 藤三郎は河川の衛生面を気にしていたのではないか。


「でも、それは流行病の類ではないと云っていました」

 経子はつぶやいた。

 別府の憶測は否定される。だが、念を押した。信じられなかった。

「コレラが原因ではないのか?」

「はい。人為的なものだと云っていました」

「人為的だと! 変死体の続出が?」

「蛇崩町では溺死した者だけではなく、道中で倒れた人もいました。寝たきりになって精神が錯乱する者もあらわれました。水を飲もうとする者が多く、河川に死体が集まったようなのです」

「それだけでは流行病ではないと断言できない。体調が悪ければ、喉も渇くだろう。ほんとうにコレラではなかったのか?」

「はい。町医者にも確認をとっていたようです」

「だったら、まちがいはないか」

「それに変死した人は、かならず怪しい男と接触していたらしいのです」

「怪しい男だと?」

「覆面と頭巾をかぶった男でした。藤三郎さんは覆面の男がつぎつぎと殺しまわっていると云いました。しかも、町内の長屋によく出没していると云うのです」


 変死体となった者は商人が多かったらしい。長屋に移りはじめた者ばかりだった。元商人が急に金まわりが悪くなって死んだ。作間藤三郎は他国から流れてきた盗賊の仕業だと考えていた。盗賊が商人を陥れ、最終的に殺していると踏んだのだ。だから、蛇崩町の各方面をおとずれていた。

 長屋に暮らしている知り合いに忠告していたのだ。

 変死体の事件を解決しようと思っていたらしい。

 しかし、経子に忠告した直後に、藤三郎は大村家の当主に斬殺されてしまった。

 結局、葉月になって、変死体の見つかる数はへったらしい。

 藤三郎の心配は杞憂に終わった。別府はいまの話を頭のすみに追いやった。藤三郎は変死体の急増から狼藉者の出入りを心配していた。しかし、いまでは解決している。

 こんかいの事件とは関係のないことだ。ひとまず、変死体の話を区切ることにした。

 いまの問題は水騒動だ。

 

 別府は経子に大村家の扱いが正当かどうかをきいた。

 彼女は大村家を悪く云うことはなかった。

 しかし、経子の意見を丸呑みにはできない。

 大村家に従順ということは、佐々木にたのまれたとき、みずから進んで、真実とはことなる証言をする可能性も考えられるからだ。

 すでに宿屋は目のまえだった。

 彼女は案内を終え、下屋敷にもどっていた。

 別府のうしろにはぴったりと未堂棟がくっついていた。

 未堂棟は顎に手をあてている。なにかを思案しているようだった。

「……残念だ。重要な話はきけなかった。このままだと、大村家は蟄居以上の罪科にはならない」


 ……変死体の件は些末な問題だ。

 ……重要なのは水騒動のほうだが、なんの情報も得られなかった。


 別府は力なく、のれんをくぐった。

 宿屋の主人がちかづいてくる。

「ふうっ」

 おおきな溜め息をついた。

 別府は大村昌村を調べにきた。彼は藤三郎を殺害したにもかかわらず、部下に罪を肩がわりさせている。奉行所としても、一方的な人斬りは厳しく取り締まっている。

 しかし、大村家はすべての調査が終わるまえに手を打っていた。被害者の親類四人に仕事を与えていた。ほんらいならば、人質のような対策をとられるまえに、そうおうの罪科を与えなくてはならない。しかし、時間がかかってしまった。初動調査がおくれた。同心側の手落ちだった。

 最初に勢いがあって、最後に尻すぼみになることを龍の頭、蛇の尾と云う。きょうの別府はまさに竜頭蛇尾だった。ほんとうの下手人に真実を突きつける。

 そう意気こんでいたが、下屋敷に着いたときにはすべてが終わっていた。

 大村昌村が犯行を認めたとしても、追加の罪科は与えられない。

 身分の差を利用した人質が待っている。

 まるで蛇が蛙を食べているようだった。不格好に膨らんだまま、消化を待っている。そうおうの罪科は真実といっしょに飲みこんでいた。もう吐き出されることはない。

 別府はみずからの信念の落ちこみを感じていた。

 目のまえでは宿屋の主人が見上げていた。

 部屋を借りに来たのに、黙っているからだ。


「いいや。まだだ!」

 別府は両頬を軽く叩いた。

「まだ同心の職務は終わっていない」

 宿場の主人が身じろいだ。お侍の格好をした男が急に大声を出した。驚くのもとうぜんだ。別府は詫びた。ふたつの部屋を借りようとした。しかし、一部屋しかあいていないらしい。

 別府は頭を抱えた。

 別府と未堂棟は、幼いころ、いっしょに育ったが、同格ではない。

 ふたりのあいだには明確な格差が存在していた。

 別府の父親は未堂棟の実家に仕えていた武士だ。年齢がちかかったので親しくしていたが、ほんらいならば、ふたりっきりで話せる間柄ではない。

 未堂棟が頭を強く打ち、理性を失ったからいまの関係が成立している。別府はどこかで身分の差を感じていた。未堂棟に引け目をおぼえていた。

 同心や与力よりうえの立場にいる者だと意識していたからだ。


「わたしが外に出ていてもいいのだが、同じ部屋にするか?」

 未堂棟の目線が縦にゆれた。とうぜんという反応に見えた。未堂棟は別府よりさきに部屋に向かった。早足で歩き出した。多少の怒りを感じた。

 ひとりで、桐材の箱階段をあがっていった。

 泊まる部屋は二階だった。別府はあわてて、未堂棟の背中を追った。

 未堂棟が最後の階段を踏んだとき、身体が倒れこみはじめた。別府は急いで、未堂棟のうしろにまわった。右肩を右手で支え、左手で左腰にふれた。なんとか転倒するのを防いだ。

 未堂棟の身体は万全ではない。覚醒するまでは目を離せない。いつのまにか、支柱に音を立てて、ぶつかることもあった。

 こんかいは、間に合った。別府は安堵の溜め息をついた。

 未堂棟が最初に頭を強く打ったとき、別府はすぐちかくにいた。いっしょに遊んでいたのだ。

 しかし、未堂棟の身を守ることはできなかった。

 別府のいちばんの後悔だった。


「……たのむ。わたしから離れないでくれ」

 別府は未堂棟を抱き起こした。未堂棟に怪我はないようだ。未堂棟はみずからの胸に手をあてる。ゆっくりと息をととのえた。

 未堂棟はなにも答えなかった。顔を反対に向けた。

 まだ、ご機嫌斜めらしい。

 上階にあがる。別府は宿場の二階を見わたした。二階には六室、用意されていた。支柱に番号札がかけられている。宿場の主人にきいた番号を探した。あった。右手のいちばん奥だった。

 たった十歩で辿り着いた。 ふすまを引いた。

 ……狭い。正直な感想だった。

 ふたりで同宿するにもかかわらず、四畳しかなかった。申しわけ程度に布団がふたつ敷いてある。布団は中央がかさなっていた。布団を離す空間がないのだ。

 ふすまに四脚の机が立てかけられている。机すら置く場所がなかった。もちろん、悪い点だけではない。四畳の部屋にも、いいところはあった。

 

 葉月なのに室内が涼しい。風通しがよかった。

 奥側の板張りは腰の高さまでしかなく、四角い空間があった。

 障子窓だ。広くとっている。

 別府は窓側に駆けよった。欄干と呼ばれる手すりが備えつけられていた。窓枠に腰をおろせるようになっていた。身をのり出した。日食のときがうそのようにあかるい。

 強い光がふりそそいでいた。

 外は炎天下だ。陽炎がゆらめいていた。……蒸し暑い。ただ、高低差のおかげで、吹きおろしの風が流れこんでいた。微風は心地よかった。

「これは絶景だ」

 別府は蛇崩町の景色をながめた。

 宿屋は蛇崩町の端に建てられている。大村の下屋敷まで、屋根の高い建物は存在していない。直線上に下屋敷があった。ながめられる。長屋から下屋敷まで段々になっている。

 別府は順番に見上げていった。下屋敷の表門。蟄居している土倉。佐々木と話した武家屋敷。出入り口となった裏門。すべてを見終わると、目線は一点にとどまった。

 さきほど、おとずれたときには注目しなかった。気づかなかった。下屋敷のすぐうえに、蛇崩池が広がっていた。着目しなかったことが不思議なほど、圧迫感があった。

 下屋敷におおいかぶさるように、溜め池がつくられている。

 雨水がまんぱいに溜められていた。

 水面が薄く光っている。陽光を反射していた。光っては消える。光っては消える。そのくりかえしだった。蛇崩池の名前にふさわしい。

 ……まるで蛇の鱗だ。

 蛇崩池にはおおきな水門が設けられていた。城下町になるまえは直接、新田に流しこんでいたらしい。いまではあかない。とじたきりになった水門だ。

 別府が呆然とながめていると、うしろから足音がきこえた。未堂棟のうしろにひとりの男が立っていた。宿屋の主人だ。

「お気に召しましたか?」

「ああ、大層な景色だ。部屋も気にいったよ」

「それはうれしく思います。ほら、正面に溜め池があるでしょう。蛇崩池と云います。じつはあの池にはおもしろい由来があるのです」

「おもしろい由来?」

 別府はつづきの話をうながした。主人は未堂棟と別府にふたつのお茶をわたした。窓の外を見据えた。慣れた話し口だった。彼は蛇崩町と溜め池の逸話を語りはじめた。

 別府も知っている有名な話だった。

 その昔、蛇崩町の周辺では長く大雨がつづいたらしい。三日三晩、大雨がふりそそいだ。小山は多くの水を含み、樹木の根だけでは土中の水を支えられなくなった。

 当時は溜め池もなかった。余分の雨水を放流できなかった。ついに、小山は土砂崩れを引き起こした。土砂崩れは長屋と新田を飲みこんだ。周辺は壊滅状態となったらしい。

 難を逃れた町民は押しつぶされた町並みをながめた。すると、見る見ると土砂の一点が隆起しはじめた。巨大な大蛇が這い出てきたのだ。大蛇はそのまま蛇行し、かなたへと消えた。

 町民は驚きのあまり、天に祈った。そして悟った。

 大雨から土砂崩れが起きたのではなかった。大雨によって大蛇が目ざめた。土中から這い出てきた。だから土砂崩れが起きたのだ。


「大蛇の崩した町、それゆえに蛇崩町と名づけられたのです。生きのこった町民は、二度と大蛇が目ざめないように溜め池をつくりました」

「それで蛇崩池か」

「はい。代々、生きのこった町民の子孫が蛇崩池を管理してきたのです。いまは、途絶えてしまいましたが……」

「もしかして、作間藤三郎のことか?」

「ご存じだったのですね」

「長屋で殺されたときいたが?」

「はい。残念なことです。蛇崩町の治安を気にしていて、町民から人気がありました」

「作間藤三郎の血縁者は水番人を継ごうとしなかったのか? 多少の心得はあったはずだ」

「期待する声はありました。作間家につらなる大人は、まだ四人いましたからね。別区画に住んでいた炊馬経子、新田の世話をしている作間政信、それと……」

「水屋の瑞木新七と万屋の上野左衛門を加えた四人だな。だが、継ぐ気があったのならば、どうして物言いをしなかった。奉行所の者も来ていたはずだ」

 主人は別府と未堂棟の姿を一瞬、恨めしそうに見つめたあとに、頭をさげた。


「……蛇崩町はいまや城下町に組みこまれています」

 人口の増加に加えて、城下町は広がっていた。

 蛇崩町もあとから組みこまれた町のひとつだった。

「水番人は重職です。謀叛から守るために身分の高い者が就くのが普通です。飲み水に毒物をいれられたら、終わりですからね。江戸としても、平民にはまかせられないと思ったのでしょう」

 彼は淡々と話した。

「そのなか、蛇崩町の発展と同時に大村家の下屋敷が建てられました。蛇崩池の正面です。地下には飲み水の流れる木樋がとおっています」

 おおきな溜め息をこぼした。

「藤三郎さんが殺されたとき、彼らに委託されるのは仕方ない。みなはそう考えたのです」

「しかし、事情が事情だ。すんなりと、水源をまかせていいのか。いまでも、飲み水は大村家が優先的に使っているときいた。不平不満は出なかったのか?」

「もちろん、ありました。当初は四人とも、よくは思っていなかったようです。とくに作間家にかかわる者は……」

「待て」

 別府は右手をあげた。気になることばがあった。

「四人とも? 炊馬経子も不満をもっていたというのか?」

「ええ。そうですが、なにか?」

「どういう理由で経子は不満だったのだ?」別府はきいた。

 主人は経子が生活面で苦しんでいることを話した。彼女には弟が三人いる。両親はすでに死んでいた。生活費を工面するのに苦労しているらしい。女中の給金だけでは足りないと云うのだ。

 彼女は藤三郎から水番人の仕事を引き継ぐことを期待していた。

 すべての水場の管理とまでは云わない。

 蛇崩池の水門管理だけでも、多額の扶持を受けられるはずだった。

 しかし、結果的には大村家に職務ごと奪われてしまった。

 女中の仕事には就けたが、ほんらいの恩恵からは、ほどとおい。

 経子はふだん、大村家の女中部屋で暮らしている。

 しかし、いったん、長屋通りの区画にかえると、ひたすら、愚痴をこぼしているらしい。


 別府は経子から大村家に不満はないときいていた。

 われわれには朗らかな態度を見せていた。

 しかし、じっさいには一物を抱えていた。

 やはり、第三者からきかないとわからないものだ。

「ほかの三人は大村家に対して、どう思っているんだ?」

「そうですね。藤三郎さんが殺されて、もっとも腹を立てているのは、作間政信さんでしょうね。四人のなかでも、とくに恨みを抱いていると思います」

「被害者の義理の弟だったか。ふたりは仲がよかったのか?」

「はい。彼は行き倒れの孤児でした。その政信を百姓だった藤三郎の父親が拾ったのです。兄弟のように育てられたときいています。政信は兄の藤三郎に強い恩義を感じているようでした」

「しかし、私利私欲のために義兄を斬殺された。まちがいなく大村家を恨んでいるか」

「ええ。さいきんでは新田の世話も疎かになっているようです。蛇崩町にいるのも辛いようで、湯島町まで足を運んでは丁半しているようです。いつも酒浸りだとききました」

「義兄の死から立ち直れていないんだな」

「仕方ないですね。逆に、あまり頓着していないのは瑞木新七さんです。彼はあくまでも蛇崩町の治安さえ守れていれば、だれが水場を統治していても構わないという考え方です」

「水屋の瑞木か。仕事熱心な様子だったな」

「ただ、蛇崩町の外れ区画でも、水不足になっていますからね。そのあたりは憂慮しているかもしれません。なにもかも、下屋敷で多くの水を使っているせいです」

「なるほど、そのあたりも調べることにする。最後のひとりはどうなっている。万屋ときいた。大村家の者は好んでいないらしい」

 佐々木はとおまわしに盗賊ではないかと疑っていた。

「上野の左衛門ですか。評判はたしかに悪いですね。品揃えがいいのも怪しい。大陸の物も売っています。ただ、恨んではいないかもしれません」

「どうしてそう思う?」

「上野は大村昌村さまと面識があるときいています」

「面識? 彼は蟄居している。殺人事件が起きるまえの話か?」

「いつごろから顔見知りかはわかりません。ただ、ふたりで万屋にはいっていくところを見た者がいます。よくきく話です」

 別府は佐々木の話を思い出していた。

 上野の万屋で買い物することがあると云っていた。

「いつごろ、会っていたかわかるか?」

「さいきんも目撃されていますね。刻限はいつも夜中です」

「夜中になんの用事だ? 無断外出ではあるまい」

「はい。蟄居が一時的にあける日にたずねているようです。とおりすがりの者によれば、談笑しているようだと云っていました。いつも、長く滞在しています」

  別府の想像よりも親しいようだ。

「会話の内容をきいている者はいないか?」

「さすがにそこまでは……。しかし、おそらくですが、瓦版などを買いに行っているのではないでしょうか」?

 大村昌村は外からの情報を完全に遮断されている。

 瓦版にはさいきんの大事件がすべて記録されている。

「蟄居しているあいだに、世間ではなにが起きているのか。それを知るために万屋にかよっていたのか?」

「くわしい事情はわかりません。ただ、万屋にかよう理由は、ほかにないと思っただけです」

 別府は考えこんだ。おかくないだろうか。この話は矛盾している。さきほど、下屋敷に行った。そのとき、大村家に仕えている佐々木は万屋の上野を嫌っているようだった。

 少なくとも、別府にはそういう態度をとっていた。

 しかし、大村昌村はただの客という間柄以上に、上野と親しくしているようだ。目撃者は大勢いる。一度の買い物ではないはずだ。ふたりの親密性を佐々木が知らないわけがない。なにか事情があるのだろうか。大村は領主だ。上野は商人である。

 上野のほうから、歩みよっている可能性のほうが高い。

 もしも、上野になんらかの目的があって、大村昌村と接触していたとしたら、なにが考えられる。

 ただでさえ、上野には、火事場泥棒の疑いがある。目的は情報だろうか。

 大村家の警備を確認したあと、盗みにはいるつもりかもしれない。


 ――藤三郎を殺された仕返しに、泥棒にはいろうとしているのではないか。


 別府はそう疑っていた。胸中に不安という染みが広がった。

 別府はなにも身分の差を憂い、大村家に追加の罪科を与えようとしているだけではない。

 当時は平民が武家屋敷を襲うことが頻発していた。

 奉行所は平民の武器を奪うなどして対策をとった。しかし、望むほどの効果は出なかった。そこで身分の高い者に、そうおうの罪科を与えることで、平民の溜飲をさげようと考えた。別府たちは、むしろ大村昌村を守るために動いているとも云えるのだ。別府は考えこんでいた。宿屋の主人が申しわけなさそうに云った。

「あの……もうさがってもよろしいでしょうか?」

「ああ、すまない。助かったよ」

 宿場の主人は退室していった。夕餉の準備があるらしい。外では太陽が落ちはじめていた。だいぶ、時間を使ってしまった。

 しかし、別府の想像以上にいまの状況を知ることができた。


 ……やはり、すべての人間が大村家を許しているわけではなかった。


 炊馬経子は期待を裏切られ、生活費に困り果てている。

 作間政信は家族を奪われ、賭博と酒に溺れていた。

 瑞木新七は蛇崩町を心配し、大村家を見張っている。

 上野左衛門は加害者と接触し、なにかを企んでいた。

 三者三様だ。

 蛇崩町に暮らしている町民も、大村家に不満を示している。

 藤三郎が殺されたことで憤慨しているうえに、大村が優先的に飲み水を使うことで、末端の区画は水不足に陥っていた。この点には強い対処をしなければならない。

 みな、大村家に、ある程度の憎しみを抱いているのだ。


 ……大村家のお取り潰しまではいかないかもしれない。

 しかしだ。

 ……町民が納得するような強い態度を示す必要がある。


 別府は奉行所への報告内容をつくりつつあった。じっさいに綴りはじめるのは大村昌村と面会してからだ。それまでは、わずかな暇を堪能しようと思った。腰の帯をゆるめる。

 未堂棟がゆるりと別府にちかよってくる。正面に立った。腰をおろした。欄干に手をかける。別府と同じように帯をゆるめていった。

 未堂棟は障子窓の底面にすわった。別府と正面で向かい合っていた。目線は外に向けている。未堂棟の右側の頬は、夕日で赤く染まっていた。

 ……こう見ると、子どものころとあまりかわらない。

 別府は未堂棟の横顔を呆然とながめていた。

 宿屋の主人が夕餉を運んでくるまで、落ち着いた時間はつづいた。主人は女中といっしょに、おぼんを運んできた。おぼんには四枚の皿がのっていた。

 白米と焼き魚、味噌汁と漬け物だった。おわんにいっぱいの白米が盛られている。ちかくの新田からとれたものらしい。焼き魚は、あゆだった。

 あゆの口から長い串が刺されている。蛇崩川の上流から釣ったあゆだ。新鮮だった。味噌汁には豆腐と大根、かぶがはいっていた。漬け物はたくわんと梅干しのふたつだ。別府は舌鼓を打った。とれたての食事はどれも美味しかった。

 夕餉を食べ終わったころ、別府は備えつけの蝋燭に火をつけた。


 宿場の外は、すでに真っ暗だ。暦は葉月、つまり、八月の夜だ。当時の日本は太陰太陽暦を採用していた。旧暦である。月の満ち欠けから暦をつくっていた。

 新月から新月までのあいだを一ヶ月としている。

 そうなると、必然的に一ヶ月のはじまりは新月であり、朔の日となる。日食とは月が太陽をおおい隠すことで生まれる。つまり、日食の起きる日はかならず新月であり、ついたち(月立ち)だった。

 きょうは一ヶ月のなかで、もっとも夜の暗い日なのである。


「そろそろ寝るか」

 いつもよりも就寝がはやくなるのも仕方ないことだ。

 別府と未堂棟は静かな眠りに就いた。

 お互いの寝息のきこえる距離で眠るのはひさしぶりだった。

 とうぜん、別府はつぎに目ざめるのは、翌朝だと考えていた。

 大村家の領主と面会し、藤三郎に手をくだしたことを認めさせる。収入の一部をとりあげ、蛇崩町の整備に使うように指示するつもりだった。そうすれば、平民の怒りを抑えられると考えていた。

 しかし、物事は順調に運ぶものではない。とくに同心の場合は下手人をあげるまえに、喫驚仰天な出来事が起きるものである。

 蛇崩町にその異変が起きたのは真夜中のことだった。


 最初はなんでもない、ちいさな風音だった。虫の音よりもわずかな音だった。別府が目ざめることもなかった。その髪をふるわし、寝がえりを打たせるだけだった。

 別府は安穏の眠りのなかにいた。

 次第に、そよ風が障子窓をとおりはじめる。何回も何回も隙間風が侵入していた。軽風が絶えず流れこんでいた。微風は就寝をふかくしていたが、その内、断続的な破裂音にかわりはじめる。

 遠方では凶変が土壁を打ちつづけていた。障害物を破壊していく音だった。直線的に進んでいる。同心の眠る宿屋のほうへと向かっていた。


 しかし、宿場も長屋通りもまだ、平静を保っていた。

 東弐丁目に住む者はだれもが寝静まっている。だれひとりとして、悲鳴をあげる者はいなかった。木戸番でさえ、うたた寝している。

 だが、恐怖はひたひたと忍びよっていた。彼らに向かって、死のにおいをちかづけている。木々をかいくぐり、白い漆喰の壁でとまり、強度をたしかめるように、とんとんと首を打ちつける。

 外壁は簡単に亀裂がはいった。そして、つぎつぎと、その穿孔のなかに飛びこんでいった。もう風音では終わらない。ついに大蛇は下屋敷に牙を剥いたのだった。


 最初に目をあけたのは、未堂棟だった。すでに目視できる距離まで、悪意はちかづいていた。遠雷のようにうねりを打ち、風音は轟音にかわっていた。圧倒的な変貌は空振さえ起こしている。

 連続殺人を彩るための大破壊だった。

 板張りの壁は、がたがたとふるえていた。

 別府はこめかみを押さえた。ようやく目ざめたのだ。


 ……なんだ、耳鳴りがする……。

 外からおおきな音が……おかしい……。

 ……ただごとでは……ない。


 身体を起こしたのは丑三つ時をすぎたころだった。

 新月の夜だ。まったく月が出ていない。ふかい暗闇のなかだった。

 未堂棟は中腰で立っている。左手を欄干に置いていた。

 右手で別府の肩をゆらしている。起こそうとしていたらしい。


 ……なにか、異常事態が起きたのか。


 別府は、窓にちかよった。目が慣れるまで時間がかかった。

「これは……いったい……」

 自分の目を疑った。

 窓の外に、大蛇を見たからだ。おおきな牙が土倉を咬んでいる。下屋敷を喰らっている。長い尾を左右にふっている。不気味な音をはなっている。外壁の崩壊音は、人間の悲鳴のようだった。裏手に生えていた樹木は根こそぎ、刈りとられている。

 宿屋の主人が話していたことを思い出した。

 そう、土中から大蛇が出てきたのだ。

 それは蛇行するはげしい濁流だった。下屋敷の屋根以外、すべて飲みこまれている。

 下屋敷の敷地内は、黒い水によって、おおわれていた。汚れた水だ。溜められた雨水だった。

 蛇崩池の水門があけはなたれたのだ。大村家の下屋敷は行人坂の頂上に位置している。さらに、直上にある溜め池が崩壊すれば、滝から落ちる水のように、下界へとおりていく。

 お腹をへらした濁流は下屋敷だけでとまらない。

 町内の東番地までとどくにちがいない。

 下手したら、この宿屋まで、牙を剥くかもしれない……。


 ……しかし、だれが……。

 ……いったい、なんのために……。


 別府は呆然と立ち尽くしていた。下屋敷の破壊されていく様を、ただ、ながめているだけだった。いっぽう、動きがはやかったのは、もうひとりの同心だった。


 左目が脈動していた。口唇がふるえた。別府とは反対に動き出していた。

 とざされた一帯にある下屋敷は、いま、この世の終わりのような崩壊に巻きこまれている。


 水騒動の解決に来て、まったくことなる水騒動と出くわした。

 とんでもない、はじまりだった。

 別府は怖気に憑かれていた。

 手足が動かなかった。大通りに出てきた町人たちも同じである。

 思考停止していた。

 気が動転するのは、とうぜんである。

 冷静な思考をもちつづけている未堂棟が卓越しているのだ。

 未堂棟は素早く事件性を示唆した。異常と現実のあいだに立った。


「――蛇崩池の氾濫が意図的だとしたら、どうして、新月の夜に、この大犯行をしたのでしょうか?」

 一回目だった。別府はふりかえった。

 消えていた。姿がない。ちかくにはいなかった。


 未堂棟は半裸の身体を隠すように、上着を羽織っていた。

 部屋の外へと駆け出していた。

 別府はあとを追った。ふたりは狂気の渦巻く下屋敷へと向かうのだった。

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