第36話 怒り

 鳥肌が立ったと同時に、憎悪が頭の中に隙間なく広がっていく。

 心臓がバクバク音を立てる。

 陽菜も、こんな奴に殺されたんだ。生きる価値もないやつに、殺された。いくら非難しても、どんなに辛辣な言葉を投げつけても、なにも響かないような心のない人間に。

 あんたみたいなやつが、死ぬべきだった。

 そういいそうになって、理性を総動員させて飲み込む。息が上がる隙間をついて、溢れた。

 陽菜は死んで、どうしてこんな奴が生かされているのか。理解できない。こっちは、大事な人を殺されたのに、どうして死に追いやった相手を殺しちゃいけないの。

 ドンと机を叩く。

 叩いた手の甲が、真っ赤になった。骨に響くような痛みだ。ズキズキとした痛みで、理性をつなぎとめる。


 「お客様。怒りを鎮めてください。子供がおびえてますよ」

 店長らしきスーツを着た男性がやってきて、強い非難の目をよこして、冷たく言い放たれる。

 その一方で、目の前にいる富永へは、眉を寄せて同情していた。私になるべく聞こえないように、富永の耳元で囁く。

「大丈夫かい? こういうことされるのは、初めて?」

 耳を疑った。

 それに対して、富永は健気な子供を演じていた。大丈夫です。自分の童顔を最大限に利用して、同情を買うように、困ったような笑顔を浮かべる。そんな富永に店長は「危ないから、行きなさい」と、指示を出していた。

「すみません。助かります。お騒がせして、すみませんでした」

 富永は、ゆっくり立ち上がり大きめの学ランが、緊張感が抜けたとばかりに、だぼっと下がった。そのついでとばかりに、店長へ感謝を述べて長身の頭を下げていた。その頭が上がるとき、富永は私の方へ視線を送る。目を細め、綺麗な弧を描く口元。それがゆっくり動いた。

『ざまぁみろ』

 

 店長が、励ますように富永の肩を叩き、早く行けと促す。そして、店長が再び私へ向ける顔は、子供を守る正義の味方のような顔をしていた。子供を苦しめる悪党を目の前にしたように、目の端が鋭く吊り上がっている。その先に私がいた。

「あなたがやったことは、子供に対する虐待ですよ! 次は、ないと思ってください!」

 鋭く言い放ち、様子を見守っていたウエイターの方へすたすた歩いていった。

 そこではじめて気づく。店内にあるすべての視線が、すべて私に向けられていて、例外なく私を軽蔑している。


 この世の中はおかしい。

 あの日、思ったことが、ここでも再び繰り返されている。

 

 子供の仮面を被った悪魔。

 大人の同情をかう方法も。自分がどんな顔をすれば、味方につけられるのかも。どう立ち回れば、優位に立つことができるのかも。

 そして。どうしたら相手を負かすことができて、踏みつけられるのかも。

 

 そんな奴、生きる価値もないはずだ。

 それなのに。

 世の中は、そいつを守ろうとする。まだ高校生なんだからと。まだ、子供なんだから、と。大人の方が、踊らされている可能性すら、疑いもせず。見た目が子供だからという理由だけで、無償で守ろうとする。

 あの日の絶望と同じだ。口の中に鉄の味が広がる。


 支払いを済ませようと席を立ったときには、二度と店に来てくれるなと厳しく冷たい顔を向けられた。肩にかけた鞄は、着た時よりも数倍重く感じた。

 全身ズタズタに引き裂かれたような痛みが襲ってきて、立っているのもやっとだった。人にぶつかりながら、フラフラ歩く。その時、頬季節外れの少し冷んやりした風が頬をパチンと叩かれた。

 

 「関わるな」灰本の鋭い声が蘇り、ハッと目が覚める。

 その瞬間。灰本が私をかかわらせようとしなかった理由が明確になった気がした。

 灰本は、私が陽菜と翼を重ね合わてれば確実に暴走するから外されたのだとばかり思っていたが、本当の理由はそうじゃなかった。

 本当の理由は、今回相手にする敵は、正論なんか通用しない相手。相手の方が、私なんかよりもずっと冷静で、何枚も上手で頭がきれる。そんな奴に対して、いくら感情論を振りかざしても、こちらの方がズタズタになることを見越していた。

 店長が言っていた言葉が、蘇る。灰本は、誰かが傷つくことを恐れている。

 灰本にかかっている呪い。そのせいで、私を仕事から外した。


 拳を握って、前を見据える。

 冗談じゃない。

 全身の酸素を入れ替えて、新しい血液を送り込んで、私は走り出した。


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