第26話 すみれ2
灰本なら、うまい作戦でも思いつきそうだが、私にそんな小賢しい真似できるはずもない。
私はその勢いのまま、五十嵐の背中に体当たりした。
細身の体。思い切りバランスを崩して、前に倒れた。すみれは、目が落ちそうなほど丸々とさせて、唖然としている。すみれへ私は叫んだ。
「行くよ!」
「え?」
まるで意味が分からないという顔。そうなるのも仕方がないとは思うが、理由を説明している暇もない。
五十嵐が地面に手をついて、振り返ってくる。黒縁眼鏡の奥の瞳は、私へ一直線に向けられ、赤い炎を上げている。その熱で、レンズが今にもパリンと割れそうだ。時間がない。
「逃げるのよ!」
すみれの細い腕を掴んで、踵を返し、全力で走り出す。
数秒遅れて、五十嵐が追いかけてくるドドっと、思い足音が聞こえてくる。
走りながらすみれも今の状況を飲み込んだようだ。つかんでいた私の手を振りほどき、彼女も真剣に走り出す。
五十嵐は、細身で一見運動音痴そうなのに、意外と足が速かった。かなりあったはずの距離がどんどん縮んでいる。
走りながらすみれへ投げかける。
「この辺の土地勘あるんでしょ? どこか身を隠せそうな場所とかないの?」
「そんなの知らないよ!」
「じゃあ、どうしてここを選んだのよ!」
「あいつが指定してきたの!」
息があがる。更に、距離を詰められる。まっすぐ走っていたら、追いつかれるのは時間の問題だ。
ちょうど駅へと続く商店街に差し掛かった。足りない酸素を、何とか頭に送り込みながら、二人を尾行していた時に、頭に叩き込んでいた地図を思い出す。このメイン通りの脇には、人一人通れるかぎりぎりの細い道があったはずだ。
しつこく追いかけてくる五十嵐。
ちょうど、薄暗い路地が右前方に見える。お世辞にも綺麗とは、言えない路地だ。そこを使って、まいていくしかない。
「あの小さい道に入るよ!」
彼女に声をかけると少し後ろを走るすみれから「あんな汚いところ、嫌」と、拒否反応。
誰のせいでこうなっているのか。思わずムカッと来る。
「捕まりたいんだったら、勝手にどうぞ!」
捨て台詞を吐くと、渋々「わかった」と返事が返ってくる。
それを合図に、つま先を九十度変え、細路地へ飛び込んだ。
バケツ型ゴミ箱、ブルーシート、乗り捨てられた自転車、植木鉢、なぜか網戸まで様々なものが立てかけられたり、散乱している。ただでさえ、路地が狭いのに、障害物まであって、走りにくい。それでも、ひたすら走った。
入り組んだ構造は、ありがたかった。何度も曲がり角に差しかかり、不規則に曲がったり、進んだりを繰り返していく。すると、少しずつ足音が遠ざかっていた。
走っていた足を緩めて、なるべく音を立てないように浅い呼吸を繰り返して、酸素を補給する。この先は、なるべく音を立てないように、表通りへ戻っていく方が得策だろう。
しーっと唇に一本指をたてて、静寂を菫へ促しながら、ゆっくり移動を開始する。
全速力で走ってきた心臓の音が、やけに大きな音を出しているように思えてくる。静かに曲がり角を曲がる。その正面に車が頻繁に通っている大きな道路が見えた。希望の光だ。そこまで出れば、あとは人ごみに紛れてしまえばいい。
じっとりと変な汗が背中を伝う。
その時。後ろを歩いていたすみれが、「きゃー」と、叫び声をあげた。
五十嵐かと思い、慌てて振り返る。だが、そこにいたのは、ねずみ。舌打ちして、睨み付けると「だって、キモイんだもん」と、阿呆くさい返答。同時に、呆れと、嫌な予感が足元から這い上がった。
「見つけたぞ!」
後方の数メートル離れた角から、五十嵐が怒りの剣幕で現れた。
心臓が口から飛び出しそうになりながら、真横にステンレス製の物干しざおを発見する。
せめてすみれを逃がしてやらなければ。その一心で咄嗟に、手に取って構える。
もちろん、私には剣道の経験なんてない。ただの威嚇にしかならない。それでも、五十嵐は武器を持っているわけでもないのだから、勝算は多少なりともあるはずだ。
「先に行きなさい!」
「え? でも!」
「いいから、早く!」
叫んだところで、五十嵐が彼女を追いかけようと走ってきた。すみれは、怯えを含んだ瞳をして、大通りへ向かって走り出す。その間に、私は立ちはだかり物干しざおで突きをお見舞いする。
この時ばかりは、走りにくい路地でよかったと思わずにはいられない。細い路地のお陰で、五十嵐が避けるスペースもなく、腹部に思い切りヒット。うっといううめき声とともに、身体をくの時に折り曲げていた。
やった。心が歓喜で踊りそうになる。気を緩めたときだった。
その隙を狙っていたかのように、五十嵐へ向けていた物干しざおの先端をがっしり両手で掴まれていた。
しまったと思った時には、もう遅い。力の差は歴然。自分の武器が、一瞬で奪われ、相手の武器に早変わりする。
五十嵐のひび割れた眼鏡がギラっと光っていた。怒りが、燃え盛っている。
形勢逆転とは、まさにこのことだ。完全に劣勢だ。ひゅっと空を切る音がする。私の頭上に、物干しざおがあった。
せめて、逃げなければ。踵を返そうとしたが、足が竦んでしまっていた。
両手で頭を守り、しゃがみ込み身体を丸める。
来るであろう衝撃に備える。そんなことしかできない自分が悔しくて唇を噛む。
せめて、灰本には迷惑はかけたくなかった。せめて、灰本に気づかれない程度の軽傷ですめばいいと思う。だが、あの感じはぼこぼこにやられる可能性の方が高いだろう。今まさに振り下ろされようとしていた。切っ先が動き始める。
ぎゅっと目を瞑り、身を固くする。
刹那。
「おい! 何をしているんだ!」
大通りの方向から、鋭い声が細い路地に突き抜けた。
身体を丸めたまま、目を見開く。来るであろう衝撃は、こなかった。
恐る恐る上を確認する。振り下ろされようとしていた物干しざおが、私の体に接触する直前のところで、止まっていた。
五十嵐は物干しざおを投げ捨てて、後ずさる。そして、細路地の闇に紛れるように、来た道を駆け抜けていった。
「危なかった……」
全身から出たため息と共に、思わず本音が零れる。
いまだに、心臓はバクバク音を立てている。何度か深呼吸しながら、ゆっくり立ち上がり、大通りの方を見やると、背筋がぞっとした。
行く手を阻むように、仁王立ちしている男のせいだった。
逆光で、表情は見えない。だが、背後から物凄いオーラが出ている。それで、もう十分だ。いちいち表情の確認なんてしたくないし、できれば避けてその横を通りたい。しかし、やはり狭すぎる路地はそんなこと、許してくれるはずもない。
重い足取りで、渋々その男の前に立つ。刺激すれば、百倍になって返ってきそうだから、無言を選択する。
だが、それは逆効果だったようだ。イライラ度合が増しているのを表すように、黒い革靴のつま先が地面を小刻みに叩いていた。
「俺が、今何を言いたいのかわかっているよな?」
「……よくやった……という、お褒めの言葉では?」
「このバカヤロウ!」
地面が揺れそうなほどの太い大声量。
夜空いっぱいに響き渡った灰本の声のせいで、路地に潜んでいたネズミたちが一斉に逃げていった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます