第22話 尾行
五十嵐が黒い傘をさして、歩いていく。
「このまま電車に乗りそうですね」
「車は一旦置いていくぞ」
灰本と私は、最小限の荷物と折り畳み傘をもって、外へ出た。五十嵐は、真っすぐに最寄りの地下鉄へと歩いていく。
灰本はいたって自然体だが、私はつい背中を丸めて、こそこそとしてしまう。
「堂々としてろ。バレるだろ」
「わかってますよ」
そんなやり取りをしていると、五十嵐が地下鉄の入り口に差し掛かった。傘を閉じるために、振り返ってきて、思い切り目が合いそうになる。肩がびくっと跳ねて咄嗟に傘で自分の顔を隠して、難を逃れる。
ほっと胸をなでおろす。灰本の冷たい視線が痛かった。
私たちも折り畳み傘をしまいながら、五十嵐に続いて、地下鉄の階段を下りて、改札を抜ける。
「口は動かしながら、付かず離れずの距離を保て」
時々、灰本から尾行のコツが飛んでくる。
昨日はドラマでみる刑事の感覚が味わえるとわくわくしていたが、そんなものはすべて吹き飛んでいた。じっとりと、汗を握る緊張感が私を包んでいた。
電車が到着して、五十嵐が乗り込む。この時間帯は、電車内は空いている。五十嵐は、空席を見つけて座り、スマホを操作し始める。
私たちは、五十嵐が乗り込んだドアから二つ開けて乗り込み、五十嵐の姿が確認できる場所で腰を下ろした。ほうっと息をつきながらも、やはり気になってつい五十嵐の方へ顔がいってしまう。そんな私に苦言が飛んでくる。
「もっとリラックス。普通にしてろ」
「灰本さんほど、肝は据わっていないんです」
「よくいうぜ。ベニートへは、一人で乗り込んでいったくせに」
私が持ち込んだ事件以来、五カ月ほど月日が経っているが、ずいぶん昔のように感じる。
「不思議ですよね。あれがきっかけで、私ここにいるんだから」
ネットで見つけたサラシ屋。
『あなたの恨み、晒します』
という文言と共に、メールアドレスしか載っていない怪しさ満点のサイトから、灰本へ辿り着いた。
ここまで紆余曲折はあり、乗り越え、そして私がここで働くことになるなんて。人生何が起こるのかわからないというが、まさか自分自身がそんな体験をするなんて思いもしなかった。
「俺は、雇った覚えはないし、勝手に居座ってるだけだろ。まっとうな仕事を早く見つけて、早く出て行ってくれ」
相変わらず、冷ややかな反応にカチンとくる。
「女性の依頼人は、私がいると知った途端、みんなほっとした顔してますよ。私がいなくなったら、絶対灰本さん困りますからね」
渋谷に到着を告げるアナウンスが流れた。
五十嵐の自宅は、その更に先。それなのに、五十嵐は傘を握りしめて、立ち上がる。降りる準備を始めていた。
「もしかして、女に会うんですかね?」
「張り込み、一日目で簡単にしっぽがつかめるはずないだろ」
「じゃあ、なんで降りるんです?」
「買い物とかじゃないのか?」
「こんな時間に?」
ポンポン言い返していた灰本が、止まり、顎に手をやって考え込む。
「間違いない。絶対これから、女と密会ですよ」
全く信用できないという顔を寄越す灰本に、私は自信満々の笑みを浮かべてやる。
渋谷到着する。
勢いよく降っていた雨は、やんでいた。雨も傘もないお陰で、視界は良好だ。
こんな時間でも、渋谷の人通りは相変わらず多い。
五十嵐は迷う素振りを見せることなく、力強く歩みを進めていく。
「ほらね。絶対女ですよ」
灰本の顔には、その可能性は高いかもしれないと書いてある。私は、ふふんと自慢げに鼻を鳴らすと、灰本は明らかに嫌な顔をしていた。
そうこうしている間に、怪しい雰囲気の場所へ入り込んでいた。
自然と私の口も重くなっていく。
密着度の高いカップルたちばかりで、目のやり場に困ってしまう。そんなカップルたちに、客引きの男が次々に声をかけている。
とてつもなく、居心地が悪い。心を落ち着けようと、灰本をそっと見やる。なんの動揺もない端正な顔立ちのせいで、もっと胸がざわざわしてくる。
唯一落ち着く先は、目の前にいる五十嵐だけ。つい、その背中ばかり凝視してしまう。
その時だった。突然、五十嵐が立ち止まった。私の足も、同調するように止まってしまう。
「止まるな。その歩け」
尾行が気づかれてしまうと、灰本から指示が飛んでくる。だが、足が動かない。
そして、五十嵐が振り返ってきた。私はただ目を見開き、固まってしまう。思い切り目が合うのは、時間の問題。
自然にしようとすればするほど、体が硬直して動かない。
その瞬間、急に腕を掴まれた。
あまりに突然のことで、何が起きたのかもよくわかなかった。
気づけば、私は灰本の腕の中。少し遅れて、灰本に抱き締められているという状況をやっと理解する。
心臓が口から飛び出しそうになる。急激に体温が上昇していた。同時に、抗議の声をあげようとしたら、ぎゅっと灰本の胸に頭を押し付けられ、囁かれる。
「動くなよ」
完全に固まって、灰本の腕の中で身を縮めることしかできなかった。
本当の時間にして、数分の出来事だったのだろうが、やけに長い。
拘束が解かれた時には、五十嵐の姿は消えていたが、そんなことどうでもよくなっていた。
顔が熱くて仕方ない。耳まで真っ赤になっていることは、いちいち確認しなくてもわかる。その割りに、頭の中は真っ白。
心臓も全力疾走している時のようなほど、早くなっている。
そんな自分に恥ずかしさが相まって、まともに灰本を見ることができず、ちらっと視線だけやってみる。
何事もなかったかのようにスマホを弄っている灰本がそこにいた。しかも、そこから清涼感ある風までも、吹かせている。
余裕のある男感が半端ない。
ルックスだけはいい灰本だ。こんなこと外国のような挨拶代わりとでも思っているのかもしれない。
それが、癪で仕方ないのに、どうすることもできず、相変わらず体温が高い。
何とか深呼吸で、少なくなった酸素を補給していく。すると、意気揚々と自慢する子供のようにスマホを私へ見せてきた。
「さすが、俺だな。見てみろよ。いいのが撮れた」
灰本は、自画自賛し、満足そうな笑顔を浮かべている。
画面いっぱいにうつっていたのは、五十嵐と女が笑顔でホテルに入っていく瞬間だった。
なるほど。私は、ただの隠れ蓑の道具。抱きしめているふりをして、五十嵐をスマホでずっと撮影していたというわけか。
すべてを理解すると、一気に熱が下がって、無性に腹が立った。
「よかったですね」
投げやりに言い放ち、無性にむしゃくしゃする胸の内をどうにかするのに、精一杯だった。
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