第21話 張り込み

 翌日の夕方過ぎ。私は、張り込み用のお菓子と飲み物をビニール袋いっぱいに詰め込んで、事務所前に止まっている車の助手席に乗り込んだ。その途端、灰本は、これ見よがしに、はぁっとため息をついていた。

 

 遊びじゃないんだぞ、楽しそうにするなとか、ぶつぶつ文句を言われながら、五十嵐の会社前に到着。灰本の運転で、会社の入口から少しだけ離れた場所に車を止めて、エンジンを止める。

 五十嵐の顔をスマホの画面に表示させて、握りしめる。杉山から送られてきたものだ。

 黒淵眼鏡、切れ長の瞳に特徴的な大きな鼻。目までかかるくらいの長さで、少しウェーブのかかった黒髪だ。背は百七十センチと添えられている。灰本が百八十くらいといっていたから、それより、拳ひとつくらい低いくらいだと、イメージする。

 

 漲るやる気を、フロントガラスの奥にある会社の入り口へぶつけていた。仕事が終わった人々が一気に放出されている。

 一方の灰本は少しシートを倒して、私とは真逆のやる気のなさそうな態度で、雑談が始まっていた。

「今日、大学いったのか?」

「いつから、私の保護者になったんですか? 心配されなくても、ちゃんと真面目に受けてきました。卒論も無事終わったし、単位も取り終えて、無事卒業できますよ」

 ふふんと胸を張ると、すかさず「就活は?」と聞いてくる。卒業を素直に喜んでくれればいいのに。本当にひねくれている。

「今、それ言わないでくれます? 一度失ったやる気を取り戻すには、時間がかかるんです。今は目の前に集中。ほら、灰本さんもやる気出して。見逃しちゃいますよ」

 瞬きをするのも惜しいくらい、私は外の様子に気を配り、被りつく。灰本は、ため息をついて、目を閉じはじめていた。

 

 仕事終わりの人々の波が一段落しても、五十嵐本人の姿を全く見つけられなかった。暇な時間ばかりが過ぎていく。張り込みという言葉に期待しすぎていた分、落胆は大きかった。このフラストレーションを、チョコレートの甘さでごまかし続けていたのだが、とうとう、それだけで耐えきれなくなる。

 

「張り込みって、こんなに地味で詰まんないものなんだ……がっかり」

 口を尖らせて呟くと、灰本の閉じていた瞳がゆっくり開いていた。

「ドラマの見過ぎ。すぐに対象者が出てきてたまるか」

 灰本は、しかめっ面でいうと、シートを元に戻していた。助手席と運転席に置いてあった私が持ち込んでいたスナック菓子へと、手を付け始める。パリパリといい音が鳴る。

「今更ですけど、本当にいいんですかね」

 私もつられて、手を伸ばしながら、呟いた。

「何が?」

 口の中のもそもそ感をお茶で流し込む。相変わらずの灰本は、お菓子をパリパリ食べている。

 

「私、灰本さんの仕事、すごく共感できるんです。だって、警察でも暴けないような犯罪を暴いて晒せば、世論が動いて、警察の重い腰も上げざるを得ない。すごくいい流れができる。上手くいけば逮捕につながって、被害者も救われる。それが本来のサラシ屋の、灰本さんの理想の姿なんでしょ?」

「そんな崇高な理念なんて、掲げた覚えはない。俺には、ただ晒したい相手がいるだけだ」

 一瞬見せた本心に、はっとする。

 灰本は、伸ばしていた手を引っ込めて、ハンドルにのせた両腕に顔をのせていた。涼しげな瞳を遠くに向け硬い表情で、壁を作り始めていた。

 

 人には、踏み込まれたくない領域がある。私もあるから、その気持ちはよくわかるし、これ以上無理に踏み込もうとは思わない。以前、灰本が話して聞かせてくれたことを思い出す。


 新聞記者をしていた親友の天海。

 大物政治家の大きなネタを掴んで、奔走している道半ば、死を遂げた。原因は自殺とされたが、おそらく真実はきっとねじ曲げられたのだろう。 天海が掴みかけた黒い何かが白日の下に晒される前に、一人の命と共に葬り去られてしまった。

 その話をしてくれた時の灰本からは、隠しきれない後悔が滲んでいた。

 彼の気持ちは、手に取るようにわかる。

 もしもあの時、ちゃんと考えてやれていたら。もしも、違う言葉をかけていたら。もしも、追いかけるのを止めていたら。違う今があったかもしれない。もしも。もしも。

 そればかりが、頭をめぐり続ける。

 

 これは、私の憶測でしかないが、きっと間違いないだろう。灰本がサラシ屋をする目的は、天海の死の真相を突き止めて、犯人を晒すためだ。

 

 灰本の真意に触れて、心臓が早打ちする。色んな思いが押し寄せてきそうだ。

 何とか落ち着かせるようと、私はふうっと息を吐く。

 

 窓を見ると、ポツポツの雨がフロントガラスにあたりはじめていた。視界が悪くなる。灰本がワイパーを動かして、水を流していく。


 人の波は、激減していた。未だに、五十嵐の姿は見つけられない。今はともかく、話題を変えよう。頭をぐるぐる回転させて、今更ですけどと、とりえず付け足してみる。

 そのあとにもくもくと出てきたのは、この案件はについての疑問だった。

  


「私は、今回の件、受けるのはやっぱりどうかなって思うんですよね。不倫は、法的には問題ないわけだし……」

 灰本は、ゆっくりシートに背を預けて両手を頭の後ろにやる。

「この仕事は、法に縛られているわけじゃない。そこは、考えなくていい。むしろ、考えるな」

 そうかもしれない。考えてしまえば、動けなくなる。

 会社からで出てくる人々は、傘をさし始めていた。灰本からやる気は相変わらずみえないが、瞳だけは見逃さないように、少しだけ注意深くなっていた。

 

「灰本さん、本当にこの依頼をお金だけで引き受けようと思ったんですか?」

 会社の入り口を注目しながらずっと、歯の間に挟まったままだった以前と同じ質問を繰り返していた。どうしても、灰本は金だけで動くとは、考えられない。

「もちろん」

 灰本は、あっさりと答えて、またお菓子に手を伸ばして外へ視線をやる。

 ずっと絶え間なく続いていた人の排出た傘の数が、五分に一人、十分に一人と、間隔が空いていく。

 私が灰本の期待値をあげていただけか。残念に思いながらも、少しだけほっとする。

 まぁ、確かにあれだけ実際にお金を見せびらかされたら、目が眩むのも仕方ないかと思ったりしてしまっている自分の心も汚れてきてしまっているのかもしれない。

 自己嫌悪に苛まれそうだ。頭を抱えていると、灰本が、少し考えるようにいった。

 

「他に理由を示せというのなら、依頼者の憎しみの度合いだな。どの程度、晒したい相手を憎んでいるか。依頼人の杉山にとっては、その不倫相手が何においても一番の大事なものだったのだとしたら。そう考えたら、不倫相手の五十嵐が自分と同様に何もかも捨てて、最終的に自分を選んでいたら、こんな恨みを持つこともなかったんだろう。会社を捨てることもそれほど苦ではなかった。それだけに、裏切られたんだ憎しみは深い。だから、受けようと思った、というところか?」

「確かに杉山さんの恨みは、深いんでしょうけど……でも、彼女も既婚者ですよ? 彼女の旦那さんの方が、よっぽど怒りと憎しみに苛まれてるんじゃないんですかね」

「本来はそうかもしれないが、ここへ依頼にきたのは、旦那の方じゃない。杉山かすみの方だ。だったら、そっち側の立場だけを考えてやるしかない」

「割り切れってことですか?」

「そういうことだ」

 灰本は、外をみながら言い聞かせるように私にいう。なんだか、気持ちがすっきりしない。

 正真正銘の正義の上で成り立っていそうで、実は違う曖昧な仕事ではあるからそう思うのだろうか。

 窓の外の雨足は一段と強くなる。全く人が出てこなくなっていた。いよいよ、諦めムードが、私を覆いはじめる。灰本が静かに付け足した。

 

「それに、彼女のいっていることは、ある意味正しい。相手の男も同じ過ちを犯すどころか、それ以上のことをしている。そうでありながら、全くの無傷なのは不平等だ」

 たしかに。そもそも、ちょっかいをかけてきたのは、男の方だったらしいし、考えてみれば罪の重さから考えれば男の方が、断然重い。

 モヤモヤしていたものが取り除かれて、視界が明瞭になる。

 その時。視界の真ん中に一人の男が、傘を広げようとしているのがみえた。

 特徴的な鼻と眼鏡。間違いない。五十嵐だ。

 時刻は二十二時を回ったところだった。

 

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