第20話 依頼


 依頼人の女性は、杉山かすみといった。

 接客用のソファ席へと彼女を促し、その正面に灰本が座り、その横に私も腰を下ろした。

 長い黒髪。気の強そうな黒い瞳と、厚みのある唇。大人の風格ある女性の雰囲気に圧倒されそうだったが、彼女が話しだすと、その風格はガラガラと崩れて去っていった。

 

「不倫がいけないということは、重々承知の上でした。でも、彼のあまりの熱意に絆され、私は彼のことを心の底から愛してしまいました。それから二年経ったある日、私の夫に彼との関係がばれてしまった。それを彼へ素直に話したら、彼も妻に知られてしまった。もう、これで最後にしようと、言われました。私は、それでも一緒にいたい。離婚するからと、話しました」

 杉山は、激しい感情を握りつぶすように、膝の上に置いていた両手を固く握りしめていた。

 「そしたら、彼言ったんです。『実は君以外に、好きな人ができたんだ』と。奥さんに許されたといっていたし、やり直すのかと、聞いたら『違う』と。『ほかの女性だ』といったんです。 そんなバカな話あります? 私の生活をめちゃくちゃ。会社も辞めなくてはならなくなった。その原因を作った張本人は、浮気し放題で、会社からも咎められることなく、普通に勤務して昇進。絶対許せない」


 発せれる怒りで、部屋の中の温度は上昇している一方で、私の心は、冷え冷えとしていた。

 浮気癖のある奴は、一生治らないし、所詮は不倫相手だ。一番は奥さんで、所詮不倫相手は、二番手三番手。杉山は、その立ち位置にいることを理解し、許容していたはずなのではないか。だから、他に女がいたところで文句を言う立場にないと思う。文句を堂々と、責めることができるのは、奥さんただ一人だ。

 この人の言い分は、全く同情できないし、破綻している。

「自分勝手な……」

 ため息だけを吐いたつもりが、強めに腕をつつかれた。その方向を見やると、灰本から鋭い睨みがあった。

 初めて本音が零れていたことに気づいて、慌てて口を噤む。

 幸い本人は、聴覚への通り道が熱さで膨張して狭まっていたようだ。私の声は届いていないらしく、相変わらず頭から湯気を出して、鞄の中身を探ることに集中していた。ほっと胸を撫で下ろして、気を取り直す。

 杉山の手に、一枚の紙が握られていた。


「これが、彼の情報です」

 机の上に出された紙を灰本と私でのぞき込む。

 五十嵐和人。三十五歳。

 住所、勤務先、実家、趣味、交友関係、性格や癖まで、知りうる情報が詰め込まれている。細かな情報は、怨念深さを表しているようで、恐怖さえ感じる。

 思わず灰本へ目くばせする。

 本当にこの依頼を引き受けるんですか?

 こんな個人的な怨恨を晒すなんて。ただの嫌がらせじゃないか。そもそも、不倫はそれぞれの家庭の問題で、犯罪ではない。 

 そんな疑問を吹き飛ばすように、杉山はどさっと机の上に置いた。

 

「報酬は、このくらいでいかがでしょう」

 私のずぎゅんと胸を打ち抜かれ、視界に急にキラキラ星が瞬き始めた。

 彼女は上場企業勤めで、高給取りだと聞いた。まさに、それがこの証。百万円の束を千円札でも出すような、軽々しさだ。

 こちらは、今月の家賃四万円と食費を払うので精いっぱいだというのに、こんなことで大金を使える余裕が羨ましい。

 札束を前に、喉から手が出そうになる。実際に手が出そうになったところで、灰本が私を制するように冷静な口調でいった。

「成功報酬になりますので、今は受け取れません」

「ならば、手付金ということでお受け取りください。成功報酬は、ここにさらに上乗せという形でいかがでしょうか。乗り気ではなさそうだった助手の方も、これで少しは気合を入れてくれるかと」

 すべて見透かされてしまった私の気持ちを妖艶な笑みで包み込まれてしまう。

 隣にいる灰本から、冷ややかな空気が流れ込んできて、ぎくっと肩が跳ねた。居心地が悪すぎる。

 嫌味がこもった深々とした溜息は、聞こえなかったことにする。

 

「こちらができることは、事実の晒しと拡散です。嘘を広めたり、事実を捻じ曲げ誇張するようなことは、一切しません。故に、どの程度相手へ影響を与えられるかは、その時の風向きと運次第というところもあります。それでよろしければ、ご依頼をお引き受けいたします」

 お決まりの言葉を並べる。

「それで結構です。私の持っているすべての証拠を差し上げますので、お使いください。あと、私ではなくもう一人いるという女のこともお願いします。そちらに関しては、残念ながら情報がないので、調査をお願いします。もちろん、そこに関してもボーナスは、差し上げます」

 杉山は、またお金の力を見せつけるように、札束を見せつけていた。

 散々、金の力をちらつかせて、彼女は去っていった。


「正義の味方とか言っていた奴が、金に目がくらんだな」

 灰本から、冷ややかな声が飛んでくる。

「眩んだ覚えなんて……」

 平然と「ない」なんて答えられるほど、嘘つきの素質をもちあわせていない私は、自然と苦虫を噛み潰した顔になってしまう。

「灰本さんは、最初からお金目当てだったんだから、私を責められる権利ないですよ」

 お前よりは、目は濁ってないがなと言いおいて、自分のデスクへと戻った。

「本当なら、依頼人との不倫関係をさらせば終わりにしようと思っていたところだ。もう一人の女を探す手間が一つ増えたが、仕方ない。淡々と仕事を終わらせるぞ」

 灰本はそういいながら、彼女から手渡された男の情報を頭に叩き込みながら、タブレットとノートパソコンを開いていた。

 

「そうですよね。いつも通り、灰本さんの手にかかれば、簡単に終わりますよね」

「今回は残念ながら、そう簡単にはいかないな」

「何でですか? いつも通りハッキングとかして、さっさと情報集めちゃえばいいじゃないですか」

「今回のこの男。SNSなどまったくやっていないアナログ男だ。残念ながらそういうやつは、原肉体労働するしかない」

「肉体労働?」

「張り込みだ」

「噂の張り込み? ドラマとかでやってるやつですよね? やりたい! いつからやります?」

 あきれた顔を向けてきた灰本は、ガックリ肩を落とし、ため息をついていた。

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