episode1
第19話 基準
「お陰で、心が軽くなりました」
灰本探偵事務所に訪れたときは、色濃い影を背負っていた女性は、笑顔で立ち上がった。私が先導して、入り口のドアを開ける。女性は、灰本の方に振り返ったきり、足が止まってしまっていた。
当の灰本は、依頼人を見送る気さえもないようだ。灰本誠一のネームプレートが乗っているデスクへと戻ってしまっている。タブレットを手にして、次の依頼画面を睨み始めていた。何気ない仕草なのに、黒髪をオールバックにしているせいで、これでもかというほど整った顔立ちを主張させている。顔だけは、本当に非の打ち所がないと思う。横目で女性を見る。灰本へ熱のこもった眼差しを向けていた。
「すみません。不愛想で」
眉根を寄せて、灰本の代わりに私が謝ると、女性は「あ、いえ」と、ぽっと頬を赤らめ、また灰本へとやはり顔を向けていた。
女性は、何か言葉を紡ごうと口を開きかけるが、思いを断ち切るように唇を引き結んだ。
ドアの向こう側へと足を向け、私へ向き直っていた。
「本当に、ありがとうございました」
「また、何かあれば遠慮なくご連絡ください」
女性は、ニコリと微笑んで、その場を後にしていく。
その背中を見送って、小さくため息をつく。そして、来客用ソファ席に出していた来客用のカップを片付けに戻る。
女性が後ろ髪をひかれるという状況になるのは、ある意味仕方ないことなのかもしれない。
しつこいようだが、灰本は顔だけはいいのだ。
顔だけは。机を拭いて、食器をお盆を乗せる。
「いちいち、余計なことを付け加えるなよ」
タブレットにばかり意識が向いていたと思っていた灰本から、急なダメ出しが飛んできた。
「私なんか言いましたっけ?」
パーテーションの向こう側にある流し台へ食器を運びながら、心当たりがないと返してやる。
水を出して、スポンジにを湿らせ洗剤で泡立たせた。カップをごしごしと擦る。
「何かあれば連絡ください」
灰本が、私が言った言葉をおうむ返ししてくる。嫌味たらしい言い方だ。
「それの何が悪いんですか?」
泡を水で流すと、ピカピカになったコップが顔を出した。
「依頼は完了。『今後、連絡を取ること二度とありません』と言うのが正解だ」
「私からしてみたら、最悪の接客ですね。灰本さん、接客したことないでしょ」
水を止めて、濡れたコップを食器籠に伏せる。
「お荷物が来る前は、俺がやってたんだ」
お荷物。私についたあだ名は、これで何種類目だろう。
よくもまぁ、ぽんぽん思いつくものだ。
タオルで手を拭いてパーテーション奥から出て、灰本の席の前で腰を手に当てて立つ。灰本は相変わらず、タブレットに顔を向けたままだ。私など全く視界に入っていないようだ。そういう態度も、どうかと思う。
「私『柴田理穂』って名前があるの、知ってますよね? いい加減、名前で呼んでください」
「気が向いたらな」
投げやりにいって、ごそごそ机の中を開け始める。
イラっとする。
本当の顔は、違うくせに。
無理やり押し掛けた私のことだって、本気でやろうと思えば、いくらでも追い出すことはできたはずだ。それにも関わらず、邪魔だ荷物だと言いながらも、受け入れてくれたし、悪態をつきながらも給料もくれた。
灰本は、もう一台のタブレットを私へ差し出してくる。
「早く確認」
口さえ開かなければ、感謝しかないのに。
乱暴に受けとりながら、不満に思わずにはいられない。どうして、こんなひん曲がったようにわざわざ見せるのだろう。顔面に良い細胞をすべて持っていかれすぎて、性格は真っすぐ育たなかったのかもしれない。それとも、後天的に何かしら衝撃を受けて、こんなことになったのだろうか。
どちらにせよ、残念過ぎて溜息しか出てこない。
不満をため息と共に追いやって、ソファに座る。来客用と私のデスクは、兼用になっている。臨時で雇ってくれているのだから、そこは文句はない。
渡されたタブレットを開いて、メールチェックに入る。
私の仕事は、日々送られてくるメールの中の大多数が、いたずらだ。その件数は、かなりの数。私の目でそれらを簡単に振るいにかけて、まともそうのものだけを灰本へ通す。そして、最終的に依頼を受けるか否かを灰本が判断する。そういった流れができていた。
「素朴な疑問なんですけど、依頼を受ける基準って、何ですか?」
まともな依頼だと思えたものも、灰本が却下する案件もある。その基準が、よくわからない。
「依頼人と依頼内容が面倒くさくなさそうかってところか」
「面倒?」
灰本へぎゅっと眉根を寄せると、やっと目があった。形のいい瞳が、嫌そうに歪んでいる。
「自分の胸に手を当てて聞いてみろ」
……私のことか。画面に目を落とし、むっと頬を膨らませる。
「そんなに面倒だと思っていたのなら、何で引き受けたんです?」
「最初は、すぐ終わると思ったんだよ。だが、蓋を開けてみたら……」
嫌味らしく大きなため息をついてくる。
「完全な俺の判断ミスだ」
「人を失敗例みたいに出さないでください」
「その通りだろ?」
嫌みっぽい笑みを浮かべてくる。それを視界の外に追いやって、画面に刮目する。
数あるメールのなかで、異質な題名が目についた。逃げ道をみつけたと思ったのに、その内容には呆れてしまった。
「『不倫していた相手を晒してください』ですって。こんなの、削除でいいですよね?」
「詳細は?」
「二年前。私は、お互い既婚者の身でありながら、恋に落ちてしまいました。その間幸せな時間を過ごしましたが、先日とうとう夫に気付かれてしまいました。激怒した夫は、私の会社へ乗り込んで、私の不倫を暴露。その結果、私は会社から追い出されることになりました。
その頃、やはり不倫相手も奥さんに知られてしまったようでした。しかし、その奥さんの態度は私の夫とは真逆。寛大な人だったようで、少し怒られただけで、私とのことは許されたようです。私は、会社をやめなければならなくなったのに、相手は会社に知られることもなかった。私とのことなど何もなかったかのように、振る舞い、今も問題なく会社にも勤務。しかも、昇進まで決まったそうです。この処遇の差に、私は納得がいきません。彼も私と同じような制裁を受けるべきです」
そのあとも、つらつらと怒りと恨みが書かていたが、寒気がしてきて途中で声を出すのをやめた。泥々しすぎて、私まで怨念が飛び付いてきそうな気がしてくる。
「もぁ、ともかくそんな訳で、相手を晒してほしいということらしいです……」
あまりに自己中な、内容だ。
「こんなの、当然却下でしょ」
そのままゴミ箱行きにしようとしたら「おい」と声がかかった。
「はいはい。そんなのいちいち聞かせる前に、ゴミ箱にやっとけばよかったんだって、いいたいんでしょ。わかってますよ」
べっと舌を出すと、灰本はいった。
「その仕事、受けるぞ」
意外な返事に、目を見張る。
「え……こんなくだらない案件、受けるんですか?」
「なにか問題が?」
「そりゃあ、そうでしょ。このメール送ってきた女だって、不倫してたんですよ? 相手はそんなにお叱り受けずにすんで、不公平に思っていようが、そんなこと、どうだっていい。自分が悪いんだから。だったら、最初かは不倫なんかするなって話ですよ」
「だが、こういう案件は、簡単に金になる」
灰本は、ニッと笑う。悪そうな顔だ。
「いやいや、ダメですよ。サラシ屋は、正義の味方。正義が崩れます」
「別に俺は正義の味方なんて、言った覚えはないし、世の中の倫理にも興味はない。金になれば、問題ない。世の中、結局金だ」
ニヤニヤとした笑みを浮かべる灰本に、落胆する。最終的には、お金基準で、物事を判断するタイプだったのか。
正義で動く人だと思っていたのに。ガッカリだ。
「飼いたくもないシバが勝手に転がり込んできたんだ。飼えば、無駄に金はかかる」
「私は、犬じゃありません」
すかさず言い返すと「犬とは、言ってないけどな」ニヤニヤしてくる。頭が沸騰しそうだ。そこに、頭から冷や水をぶっかけられた。
「文句あるなら、今すぐ出ていっていいんだぞ」
うっと、絶妙な位置にパンチが入って、熱が急激に下がる。
バイトをしなければ、死活問題。家賃も食費もカツカツだ。
選択肢はない。感情を押し殺し、メールの返信へ集中することにした。
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