第18話 サラシ屋
それから、十日後。
私は、再び灰本探偵事務所へと向かっていた。
約束の時間は十六時だったが、大学の講義が延びたため、少々遅刻気味だ。
普段着なれないスーツで歩きにくいせいで、新宿西口駅前を抜けるのに一苦労して、事務所を見上げる。相変わらず高層ビルの間の影に隠れてようとしているのに、事務所の文字は堂々としている。初めて来たときは、その矛盾さを前に疑問と不安に苛まれたものだが、今は自然と口角は上がっていた。そして、四階の事務所のドアを押した。
以前のような人当たりのいい笑顔で出迎え……なんてしてくれるはずもなく。
「遅い。三分遅刻」
開口一番、非難が飛んでくる。
そんなことは、想定内だ。今さら驚きはない。私は、溜息と嫌みっぽい満面の笑みで返した。
「相変わらずお元気そうで、何よりです」
「前置きはいいから、さっさと用件を話せ。この後、約束がある」
冷たくいい放つ灰本は、こちらへ顔を向けることもなく、机の上に並べられている資料にかじりついたままだった。どうやら立て込んでいるようだ。
こんなギスギスした世の中だ。サラシ屋を追い求める人は、きっと少なくないのだろう。この理不尽から生まれた怒りや憎しみの感情を少しでも晴らしたい。どうしようもないほど、真っ暗などん底に落ちた人が藁をもすがる思いで、伸ばした手の先に、サラシ屋がある。
私も、救われたそのうちの一人だ。
灰本のデスクから一番近いソファ席に腰を下ろして、体だけ灰本の方へ向ける。
「大久保から伝言を預かってきました」
そこで、やっと机から顔をあげ、腕組みをして、椅子の背もたれに体を預けて面倒そうにいう。
「大久保? あぁ、クレーム男か」
距離はやや遠く、上にある。そこから向けられる視線と合って、はぁっとため息をつく。
「……灰本さんって、悪趣味なニックネームつけるの得意ですよね」
「忘れるよりいいだろう。インパクトある方が覚えやすいし、効率的だ」
平然と。むしろ、得意気な顔をしていうから、呆れてしまう。
先日一瞬みせてくれた素顔は、いったいどこにいってしまったのか。深いため息を吐き出して、気を取り直す。
「『以前の依頼をちゃんとこなしていただいたようで、ありがとうございました。あのメールは、なかったことにします。迷惑をかけるようなことはしないので、安心してください』大久保からは、以上です」
「……あれだけ、多大な迷惑案件だったのにそれだけか? 人の苦労も知らないで」
一通り黒い不満をぶつぶつ吐き出したあと、また時計をみた。
「話したいことは、終わりか? それなら、早く帰れ」
しっしと、手で追いやって邪魔者扱いされる始末だ。本当ならこの後、本題に入る手筈だったが、やめだ。更なる報告を続けることにする。
「被害にあった有島亜由美は、会社人事から誠意ある謝罪があったそうです。その結果、彼女は、そのままその会社へ就職することになりました」
ずっと煩わしそうな顔だったのが、この報告には、僅かながら感情が表立っていた。
「普通なら、会社への拒否反応が出そうなものだが、勇ましいな」
私も同感だ。
先日、私は亜由美の元へ行って、真実を話した。今回のことは、自分のせいだったのだということも、正直に話して謝罪した。絶交されても、仕方ないと覚悟を決めて。
そんな私は、逆に諭されてしまっていた。
「理穂が責任を感じるのは、違うよ。そんなこと言っていたら、悪者の親兄弟はもちろん、友達、職場、知り合い……何ならそのまた知り合いの知り合いも、全部悪者になっちゃう。そんなの、おかしいじゃない。身勝手な人の理屈を、真に受けるのは間違っているよ。そういう言葉に、騙されちゃダメだよ」
亜由美は、本当に強くて優して、非の打ち所がない。一生頭があがらない。
改めてそう思った。
「本当に。亜由美は、私の自慢の親友なんです……って、こういうことを言うからダメなんですよね。反省しないと」
また自己嫌悪の穴に落ちそうになるのを、堪えていると、灰本から、そういえばと話題を変えてきた。
「寝込んでいるときに、頻繁に連絡してきていた相手は、大丈夫だったのか?」
春香のことか。痛いところをついてきて、勝手に目が泳いでしまうが、悟られたくない。
「全然、大丈夫……」
「じゃなかったんだろ?」
最後まで言い終わる前に、被せてくる。
灰本は全部見透かしたように面白そうにニヤニヤして、頬杖をついてこちらをみていた。その態度にむくれながら、口は自動的に動いていた。
久々に大学へ顔を出した初日。先に教室にいた春香は仁王立ちで、私のことを待ち構えていた。そして、教室にたくさんの生徒がいたにも関わらず、春香に物凄い剣幕で怒り狂われた。当然、全員の注目の的だ。
春香とは、もう四年の付き合いになる。いつもは、ふわふわの笑顔しかないなのに、怒らせると、こんなに豹変するのだと初めて知った。今、思い出しただけでも鳥肌が立つ。トラウマになりそうだ。
「俺は、そいつに心から同情するよ」
灰本は、しみじみという。この件に関しては、残念ながら、私は言い返す言葉がみつからず、口を閉じるしかなかった。灰本にも、申し訳ないことをしたという自覚はある。
「その節は、ご迷惑おかけしました」
頭を下げると沈黙が落ちた。そのタイミングを待っていたといわんばかりに、灰本はいった。
「悪いと思っているのなら、今度こそ、もう帰ってくれ」
私は、ソファから立ち上がった。
素直に従うと思ったのだろう。再び、資料へ目を落とそうとする。それを阻むように、灰本の席の前で、ぴしっと背筋を伸ばし、直立不動する。
整った顔の真ん中に皺を寄せる灰本は、目を瞬かせる。
「実は大事な話があります」
「大事な話?」
「超がつく大事な」
付け加えると、灰本は、益々意味がわからないと、怪訝に見上げてくる。
私は、大きく息を吸い込んだ。
「私をここで、雇ってください」
凛とした声が、事務所内の隅々まで行き渡る。たっぷりとした沈黙が落ちた。
コチコチと時計の針の音が、しばらく続いたあと「は?」と、間の抜けた声が発せられる。いつも聡明な瞳が丸々として、口もポカンとあいたままだ。
隙だらけの今がチャンス。
「私、就職の最終面接で落とされたの知ってますよね? 今からまた就職活動するなんて、時期的にも不可能なんです! だから、ここで働かせてくださいということです!」
より一層、お腹に力を込め、力説する。
灰本は、そこで我に返ってしまったようだ。みるみるうちに鬼の形相に変化していく。
「そんな提案のむ馬鹿がいるか。大人しくバイトでもして、就職浪人してろ」
吐き捨てるようにいうが、私は食い下がらない。
「ご存じの通り、晴天は、只今休業中です。この前店長から連絡があって、灰本さんが紹介してくれた店の人たち、とってもいい人たちばかりで居心地がいいって、喜んでましたよ。今度、灰本さんに飲みに来てほしいって」
やんわりと、店長の話で態度を軟化させようとしたが、灰本に効き目はなく、話に全くのってこなかった。
「新しいバイト見つければいいだけの話だろ。ここは、一人で十分。人手は間に合っている」
「嘘ですね。灰本さんが、前いっていたこと私、ハッキリ覚えてますよ。『男一人の場所に女性が入ってくるのは、不安ですよね。女性スタッフを雇えればいいのですが』って」
「あれは、建前。空気を和ませるためだ」
灰本の言い分を、身振り手振りを交えて、払いのけて主張する。
「依頼にくる女性は、ただでさえ大きな悩みを抱えています。それなのに、こんな狭い空間に男性一人の場所に来るなんて、非常に不安で、勇気がいります。実際、私も同じ思いをしました」
「この態度のどこが?」
「それは、今だから平気なのであって、初対面の時は、不安しかありませんでしたよ」
灰本は腕組みをして椅子の背もたれに体重を預けて、黙り込む。私は畳み掛けた。
「依頼人の中には、女性ならではの問題を抱えている方も、いらっしゃるはずです。デリケートな問題を男性に明け透けに説明するのは、大変な労力と緊張感が伴います。そこに女性スタッフがいたら、随分と雰囲気はかわると思います。ストレスは緩和され、悩みも打ち明けやすいはずです。故に、私を採用することは、メリットしかありません!」
やった。
昨夜、考えてきたことをすべて言いきった。そんな達成感に浸る時間すら与えず、灰本は腕組みを解いて、前のめりになって反論してきた。
「この商売は、善と悪のギリギリの境界線の上で成り立っている。綱渡りと同じだ。一歩足を踏み外せば、地獄へまっ逆さま。一つのミスが命取りになる。お前みたいにすぐ暴走する奴なんか、危なくて雇えるか」
「そこはちゃんと、自重します」
「お前のこれまでの行動をみれば、無理に決まってるだろ」
「人は努力すれば変われます」
「そんなに簡単に変われたら、誰も苦労しない」
そんな押し問答していると「あの……」と、背後から、か細く遠慮がちな女性の声が割って入ってきた。灰本は、弾けるように時計をみてから、私を鋭く睨んでくる。
そして「早く行け」と、声に出さず唇だけ動かし、入り口の方へと指差して、机に広がっていた資料をガサガサとまとめ始めていた。
私は、いわれるがまま灰本からくるりと背を向けて、入り口の前で立っている女性の前に立った。
「依頼人の方ですね?」
「あ、はい」
おずおず答える女性に、私はお辞儀をした。
「お待ちしておりました。私、ここのスタッフをしております柴田理穂と申します」
にこりと笑ってみせると、女性の肩の力がみるかるに抜けていく。同時に、後ろで忙しそうに動いていた気配が、凍りついた。
「女性の方いらっしゃったんですね。よかった。色々とあったので、男性だけだったら、どうしようと不安だったんです」
心底安堵する女性にソファへ座るように薦めて、固まっている灰本の横に立つ。
依頼人の前でやり合うことなど、できるはずもないだろう。ちらっと灰本へ目配せすると、灰本の目から矢が射られたような鋭さが飛んできた。
軽々とかわして、私は満面の笑みで手のひらを天井へ向けて、灰本へ向ける。
「こちらが代表の灰本です。腕だけは確かなので、ご安心を」
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