第17話 素顔

 

 晴天を出て、同じ場所を並んで歩く。

 灰本が忠告しに来たときと、まったく同じ道を歩いているのに、まったく景色がかわって見えた。

 それは、空がここ最近で美しい黄昏色をしていたせいなのかもしれない。

「店長のこと、ずっと考えてくれてたんですか?」

 急にあんな提案できるはずがない。灰本は、きっと前もって手を尽くしてくれたに、違いなかった。私の問いには、灰本は無言だ。それは、肯定以外のなにものでもない。

「灰本さんって、世話焼きな人だったんですね。私だけでなく、店長にまで手をさしのべて。世話焼きを越えて、お人好しの領域ですよ」

 わざわざ、自分の手を煩わせるのだ。根っからの善良さがなければ、なかなかできることではない。ずっと黙っていた灰本が苦々しくため息をついた。

 

「そんなんじゃない」

 灰本は、居たたまれないとばかりに、そっぽを向く。頬が朱を帯びているのは、きっと空のせいだろう。意外すぎる素顔がみえて、思わず笑ってしまう。長く伸びた影を辿る足取りも、口も自然と軽くなる。

 そこに突如、雲一つない夕暮れから、一粒の雨が落ちてきたような呟きが降ってきた。

 

「……呪いのせい、なんだろうな」

 私はまじまじと横を歩く長身をみやる。

 灰本は少しずつ色を群青に変わっている夕暮れ空を見上げていた。その瞳は幾分、切ない色に染まっているようにみえる。

 呪い。

 以前、正にこの場所で、使っていた言葉だ。

 

 本当ならば、踏み込むべき場所ではないのだろう。相変わらずの端正な顔立ちは、やはり隙はない。それでも、どうしても、知りたいと思った。

 ふいに胸の奥が疼き、衝動が沸いて、拳を握った。

 

「……灰本さんは、どんな呪いにかかってるんですか?」

 形のいい瞳は、僅かに揺れて、立ち止まっていた。私の足も自然と止まる。 

 灰本は、視線は相変わらず空へ向けられたまま。こちらを顔を向けることもなく、たた真っ直ぐ前を見据えたままだった。徐々に光と色を失っていく空に向かって、灰本が一度深い息を吐く。そのため息の理由は、煩わしさを表しているように思えて、居たたまれない緊張感が漂ってくる。 

 冷たい空気に落ちる沈黙は、より一層長く感じた。

 やはり、聞かない方がよかったのかもしれない。後悔の波が押し寄せる。荒立った波にのまれるように、私は早口と苦笑で誤魔化した 。

 

「踏み込みすぎましたね。すみません」

 他の話題を探そうと、きょろきょろ見回していると、静かな声が響いた。

 

「……俺が、警察にいた頃の話だ」

 風が吹くように始まった話。幻聴だろうか。目を瞬かせ、弾かれるように声のする方へ向けると、更に声を重ねていた。

「俺は刑事。大学時代からの気の合う親友は、新聞記者をしていた。天海というやつだ」

 灰本は相変わらず空を仰いでいる。その先にある何かを手繰り寄せるように、目を細めていた。

ざわついていた胸が一瞬で凪いでいって、私はその横顔をまじまじと見つめる。  


「天海は、正義感の塊みたいな奴で、間違っていることは、その場で言わないと気が済まないような奴だった」

 ちらりと視線を寄越された気配がして、目が合う。昔の懐かしそうに目を細められている。穏やかさに身を包まれるような錯覚に戸惑いながら、釘付けになる。

 サラシ屋の時の彼からは考えられないほど、優しい瞳だった。

「一緒に飲み歩いていたときも、因縁つけているような客を見つけれは、仲介に入って、店員の代わりに喧嘩していた。放っておけばいいと進言しても、傍観者になるのは御免だ。見て見ぬふりなんて、できないと言って聞かなかった。あいつの方が警察に向いていると、何度も思ったよ」

 ふっと笑うと、灰本は夜へ近づく空へと再び顔を向ける。

 色を失っていく空のせいか、灰本から穏やかさがすっと消えていた。 


「記者としても、公明正大な仕事ぶりだった。逃げることは許さない。白日の下に晒す。それがあいつの信念で、絶対に崩すことはなかった。

 そんなある日。 

 天海は、大物政治家の汚職の証拠を掴んだ。記事にすると息巻いていたが、新聞社の上層部から圧力がかかった。当然、天海は、屈しなかった。絶対に世に出すと言い張った。しかし、いくら記事を書いても、その新聞に自分記事が載ることはなく揉み消され続けた。怒り狂っていたよ。俺は、夜な夜な怒りをぶつけられ、聞かされた。俺も、天海の思いはよく理解できた。世の中平等と謳いながら、権力をもった人間にだけは忖度するなんて、あってはならないからな。俺も諦めるなと、背中を押した。天海は当然だと、俄然やる気が出たと、笑っていた」

 夜に変わった空が、灰本を飲み込んだ。宵闇よりも暗い影が差し込んでいる。その中から放たれた。

「だが、その翌日。天海は、死んだ」

 心臓を射抜かれたような、衝撃を受けた。冷えた風がパチンと頬を叩いてきて、初めて呼吸さえも忘れていたこと気づく。空気を吸えば、胃までキリキリ痛みだしていた。

 

「……原因は、何だったんですか?」

 やけに掠れた声が出た。

「通勤途中に電車へ飛び込んだ。自殺だと、聞かされた。天海のパソコンには、仕事が辛く耐えられない。迷惑をかけて済まない。という、言葉が残っていたそうだ」

 抑揚のない返答は、必死に怒りを堪えてる証拠に思えた。

 子供でもわかりそうな見え透いた嘘を誰が信じるのか。怒りを遥かに飛び越えた憤怒が、火の玉となって暴れ出しそうだ。

 話を聞いただけで、これだけの怒りが込み上げるのだ。現実を目の当たりにした灰本は、いかほどの苦しみを味わったのだろう。


「……俺は、無責任に背中を押すだけ押して、何もしなかった。その結果の、死だ」

 僅かに震えている声は、隠しきれない後悔が滲んでいた。

 灰本は責任を感じる必要はないはずだ。

 思い付いた言葉を、中途半端に開きかけた口を閉じて蓋をした。

 無責任な気休めの言葉は、焦燥しか生まないことは、自分自身が一番よく理解できる。

 細胞に刻みこまれた絶望は、二度と消えることはない。どんな慰めの言葉も無意味だ。

 これこそが、呪いで、一生逃れることはできないのだ。

 妹の悲しげな顔が、鮮明に脳裏に浮かんで、胸が締め付けられるように痛んだ。

  

「まぁ、ともかく」

 灰本は何でこんな話をしてしまったかのかと、苦虫を潰すような顔をして頭をかいていた。そして、暗い空気を吹き飛ばすように苦笑する。

「余計なことを思い出してしまったから、俺まで余計なことをしてしまったんだろうという話だ。正に質の悪い呪いだよ」

 立ち止まったままの私を置いて、灰本は再び歩を進めていく。

 いつも広い背中が、苦しみと後悔に覆われて、

 やけに小さくみえる。

 

「確かに、私に関する灰本さんの行動は、呪いだったのかもしれませんね」 

 天海のような失敗を繰り返してはならない。本能的にそう思ったから、私が乗り込んだとき、じっとしていられなかった。私が、亜由美や春香を妹の悪夢と重ね会わせたように、灰本もまた、私を天海と重ね合わせたのだろう。呪いが見せる幻影だ。

「でも、さっきのは全然違いますよ」

 動いていた足がピタリと立ち止まる。

 

「店長へ差しのべてくれた手は、少なくとも呪いには、かかっていなかった」

 同じような呪いにかかっている私には、わかる。

 仕事の話をする時の灰本は、いつも影を背負い冷たい顔をしていた。時折、ゾッとするような鋭さも放ちながら。

 だが、店長に話をしていた時の顔は違っていた。柔和な笑顔は、まだ陽だまりの中生きている天海の話をしている時と同じ顔をしていた。その時の顔こそが、呪いにかかる前の、本当の灰本の素顔なのだと思う。

「やっぱり灰本さんは、正真正銘のお人好しです」

 振り返ってきた灰本の顔は、点灯しはじめた街灯に照らされて、朱色を含む複雑な色に染められていた。

 たぶん、ねじれている性格のせいで、誉められなれていないのだろう。はじめてみる動揺した灰本に、私は、久しぶりに声を上げて笑っていた。

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