第16話 晴天
「……そんな。店長は関係ないのに……」
「これは、言い訳になるが俺はバイト先まで晒していない。晴天に通っていた客から漏れた」
形のいい瞳を伏せて、ポケットの中からスマホを取り出し、私へ見せる。
表示されているのは、検索サイトの晴天のページ。口コミ欄だった。
『開店当初から、こいつはバイトで雇われていた。ここで稼いだ金も、悪いことに使われていたんだろう。雇い主も同罪だ』
松井と店長の写真付きでコメントされていた。
それが始まりの合図だったかのように、ずらりと誹謗中傷が続いていた。
数日の間で、口コミは数百件に膨れ上がっている。その内容は、犯罪者の店、黒いつながりのあるやばい店、死ね……そんなものばかりだ。
「これは、ある意味仕方なのないことだ。事件が公になれば、どうしてもこういう事態は起きてしまう。警察に捕まったとしても、同じことが起こる」
灰本は固い表情で感情を消しているが、口惜しさが滲み出ている。
わかっている。こういう現象は、ずっと昔からあったことだ。
以前捕まった山本と藤井に関しては、私から全く接点のない人間だったため、こういった負の側面は見えていなかった。人々の正義感が、特効薬になったと喜んでいたが、今ここで起きている現象は、薬どころか猛毒となっている。
ふと悲しげな店長の顔が思い浮かんだ。
バイトを始めて間もなく。歓迎会と称して、店で私と二人で飲んだ時のことだ。
『この店は、実は僕の趣味じゃなく、家内の趣味で始めようと決めたんだ。だけど、開店数日前になって、突然家内が倒れてね。開店する日とみることなく、そのまま帰らぬ人になってしまった。だからさ、大繁盛はしなくても、無理せず細く長く続けていけばいいと、思っているんだよ』
目を潤ませながら話してくれた。
そんな深い思い入れのある店を、心無い誹謗中傷で終わらせてしまうなんて。
私は、手に持った荷物をどんと床に置く。
灰本は目を丸くする。
「灰本さん、荷物は後で取りに来ます!」
「……やっぱり」
灰本の深いため息に押し出されながら、玄関を飛び出した。
池袋駅から猛ダッシュして、店へとたどり着く。目に飛び込んできた状況に、唖然とするしかなかった。
店の引き戸に、マジックやペンキで、死ね、犯罪者……そんな文字が刻まれていた。
指先が震える。それを押さえながら、引き戸のノブへ手をかける。扉には、カギは閉まっていた。
「店長」
何度かノックして、呼びかける。勢いよく引き戸が開いた。
「柴ちゃん?」
驚いた表情を見せる店長の顔には、色濃い疲れが見えた。
その顔を見てぎゅっと胸をつかまれるような痛みが走った。眉根を寄せると、店長の方の方がより濃い皺を刻んでいた。
「春香ちゃんが、心配して何度か連絡もらったんだよ。大丈夫だったのかい?」
「この通り、私は大丈夫です。それよりも……」
店内を覗き込む。机や椅子が端に寄せられ、殺伐としている。言葉を失っている私を店内に招き入れた。
「いい機会だから、店を畳もうと思ってね」
食器や店内の至る所に布がかけられている。焼き鳥を焼く台は、何重にも布が被せられていて、もう二度と使わないという意思が表れているように見えた。
毎日その前に立って、汗水垂らしながら焼き鳥を焼いていたのに。
ぎゅっと、胸が締め付けられたように、痛む。
「誹謗中傷に負けちゃダメですよ。亡くなられた奥さん、悲しみます」
「そうなんだけどね。でも、確かに店長として松井という人間を見極められなかった、責任は重いよ」
「そんなの、結果論でしょ? 誰があんな奴だって、見極められましたか? 誹謗中傷している奴らは、それができたって言うんですか? 無理でしょ? 少なくとも、私は……」
無理だった。勢いよく吸った息が止まってしまう。
あの時、松井がいい放った言葉が鉛のように重くのしかかってきて、開きかけた口が重々しく塞がってしまう。
『お前がそんな話ペラペラしなきゃ、亜由美は俺の手には落ちなかったということだ。お前が悪いんだ』
私の方が責任は重い。私が、松井に余計なことを話さなければ、亜由美はあんなことになっていなかったかもしれない。
私は亜由美に、何と詫びればいいのだろう。
店内に重々しい沈黙が、落ちて押しつぶされそうになる。
その時、勢いよく戸が開いた。
「誰も悪くないですよ」
凛とした声が響く。店長とともに、目を見開き、ドアの方を見やる。そこにいたのは、灰本だった。
「悪いのは、悪に手を染めた本人だけだ。周囲にいる人間が責任を感じることはない」
灰本の真剣な眼差しが、突き刺さる。
店長は少しだけはにかんで、ガラガラの店内を見回した。
「灰本さん、ありがとう。でもね、現実的にこの状況じゃ続けても意味がない」
「こんな嫌がらせは、一過性のものです。ほとぼりが冷めたら、きっとお客さん戻ってきてくれます! 駅前に立って、呼び込みもしましょう。今が踏ん張り時です」
私が意気込んていうと、店長は目じりを下げていた。
「ありがとう。その気持ちは嬉しいよ。でもね、これじゃあ柴ちゃんへのバイト代も払えないどころか、そもそも食材を調達する資金も危うい」
それを言われてしまうと、これ以上強く言えなかった。いくらやる気があっても、現実は切実だ。
居酒屋は、生ものもたくさん扱っている。余れば、余った分だけ、赤字はかさんでいく。
気持ちだけで、解決できるような問題ではない。
唇をかむことしかできなかった。
そこに、仕切りなおそうとばかりに、灰本が手をたたいていた。
「それなら、こういうのはどうでしょう」
うつむき加減だった顔を上げる。灰本と目が合うと、口角を上げていた。
「僕の知り合いの店がやはり焼き鳥屋をやっていて、近く二号店を開店する予定なんです。ちょうどその新店舗の店長ができるような人材を探しているんです。ほとぼりが冷めるまではそこで働いて、しばらくしたら、ここに戻ってきてはいかがですか?」
「それ、いいですよ! 店長、そうしましょう! 再開するとき、私ボランティアしますから!」
うーんと店長は、腕組みをして唸る。
「灰本さん……本当に、いいのかい?」
「もちろんです」
柔和な笑顔を見せる灰本と店長。ずっと薄暗かった心の奥に穏やかな光が、ぽっと灯った気がした。
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