第7話 浅川美咲

 むしゃくしゃする気分のまま、私は仕方なくその足でバイトをしている池袋の居酒屋『晴天』へ向かった。


「お疲れ様です」

 引き戸を開ける。

 テーブル席が四席ほどの割とこじんまりとしたアットホームな雰囲気だ。今日の客の入りは、半分ほど。平日の割には、まずまずといったところだ。

「おー、お疲れー」

 岩城店長が焼き鳥を焼きながら、威勢のいい挨拶が返ってくる。この店は、私が大学入学する少し前に開店。

 店長の趣味で始めたそうだ。私は奥のロッカーに入ってエプロンを腰に巻く。そこに、ちょうどオーダーを取り終えた松井が戻ってきた。

「松井さん、お疲れです」

 松井は、開店当初からこの店で働いている丸い骨格をしているため、話しかけやすい見た目をしている。接客向きの空気漂わせているのだが、やる気があるのか、ないのか、本人に問えば、確実に後者を選ぶような人間。それなのに、一見そう見えないから、外見でずいぶん得していると人だ思う。

 ただいま絶賛、大学留年中。三年目に突入すると言っていた。あの態度をみていればおそらく、次の留年も確実なのだろう。

「もっと早く、出てこいよな」

 ぶつぶつ冷ややかに文句を言われてながら、忙しそうにスマホをいじり始める。

 またさっきのむかつきが戻ってきそうだ。

 松井は、いつも忙しそうなんだから、無駄なことを言わず、早く帰ってくれればいい。

 

「バトンタッチしますよ」

 私がそういうと、オーダー用の端末を松井から投げてよこされる。

 松井は、終わったーと伸びをして、さっさと帰り支度をし始めていた。

 平日は基本的に、ホールスタッフは一人で回す。人件費削減のためだ。

「お先ー」

 全身で伸びをする松井から、開放感が溢れていた。

 それから、私は真面目にバイトに勤しんだ。仕事をしている間は、灰本のことは忘れられてよかった。客がいない間は、岩城店長の楽しいお喋りで、気は紛れてくれた。

「じゃあ、また明後日も頼むよ」

 店長に笑顔で送り出され、二十三時頃、店を出た。

 帰宅中の冷えた夜風が頬に当たると、灰本のことを思い出してしまっていた。


 戻ってきたむしゃくしゃを抱えながら帰宅し、サークル画面を開いたスマホを睨み付けていた。

 私が、サークルにどうにか潜り込んで、証拠をつかんでやる。

 そう考えて、連絡方法を探していたのだが、肝心の入会方法、連絡先の記載がない。

 早速、行き詰ってしまっていた。

 ならばと、主催者である『浅川美咲』を検索してみても、それらしき情報は見当たらない。女三名の名前も同じように検索にかけてみたが、結果はやはり同じだった。いくら他のキーワードを加えて、検索しても全く引っかかってこない。どうでもいいものばかり出てくる。

 灰本に自分でどうにかすると息巻いてみたみたものの、結局私はど素人。自分の無力さを痛感する。

 すっかり、くしゃくしゃになった灰本の名刺を取り出す。

 素直に謝って、力を貸してくれと土下座すれば、少しは力を貸してくれるだろうか。そんな甘えが一瞬掠めたが、やっぱりあり得ないと、打ち消した。あんな、モラハラ男。

 冗談じゃない。怒りも加わってしまって、眠りについたのは明け方近くだった。

 

 お陰で今朝は寝不足だ。

 今日の講義なんて、サボってしまおうかと思ったが、家にいてももやもやするだけだし、出席日数が足りなくなるのも困る。

 ぼんやりする頭を叩き起こすために、冷たい水で顔を洗って、鏡に映った顔をみやる。

 いつも小顔だといわれるが、むくんでいるし、丸い瞳は真っ赤になってしまって、左右の瞳の大きさも明らかに違う。疲れるといつもこんな感じに大きさが違ってしまうのだ。更には、目の下にはくっきりとクマまで出来上がっている。最悪のコンディションだ。

 普段化粧をほとんどしないのだが、今日ばかりは仕方ない。

 ファンデーションを塗って、チークからアイシャドウまで入れておく。

 目の大きさはどうしようもないが、他はよく仕上がったように思う。だけど、やっぱり化粧は嫌いだ。

 その辺にあるジーンズ、長袖ティシャツ、上着を羽織って、家を出た。

 

 大学の講義室の最後列が私の定位置に座る。

 真面目グループは、前列を陣取っていて、雑談している。その中に大久保が含まれていた。しばらくすると、大久保が後ろを振り向いた。そのとき、ちらっと目が合って、凝視された気がしたのだが、すぐにそらされてしまう。

 あの時以来、ほとんど口をきいていない。あんな八つ当たりをしてしまったのだ。当然だろう。

 いつかは謝罪しなければとは思っているが、そうするのはこの件が終わってからだ。でないと、また口うるさく止められるに決まっている。

 そんなことを思っていたら、春香がやってきた。

 

「おはよう」

 声をかけた途端、春香は何故か口をあんぐりあけて、目を丸々とさせていた。私は首を傾げるしかなかった。

「理穂、どうしたの? 化粧して、いい感じじゃない。今日は、槍でも降るのかしら」

「私だって、一応女なので」

 そう言い返した途端、灰本の吐いた暴言が木霊した。

 ストッパーの壊れた瞬間湯沸かし器。忘れていたイライラが再燃しそうだ。

 乱暴に鞄から筆記用具などを出していると、晴香は「ふーん」と意味深な笑顔を浮かべてきていた。

「とうとう、気になる男が現れたか」

「冗談じゃない! あんなモラハラ男!」

 ドンと鞄を横に置く。春香は、私の一言で更に目を輝かせて、興味津々の顔をしていた。


 授業が始まる。

 私の頭の中は、愛犬会のことでいっぱいだ。あのサークルは、一体どうやってメンバーを集めているのか。

 教授に見つからないように、再びスマホを取り出す。

 昨夜、穴が開くほど見ていた愛犬会のサイトを再び開いて、じっと見つめていると、隣の春香から肩を叩かれた。

 何? と目で聞き返すと、晴香は自分のノートを指さす。綺麗な文字がで、書かれていた。

『愛犬会、興味あるの?』

 まるで知っているかのような問いかけ。声が出そうになった。口を慌てて左手で抑えて、右手でペンをとって動かす。

『知ってるの?』

 ノートを見せる。晴香は頷いた。私が驚愕していると、更に春香がノートに書き加えていく。

『SNSのZ。ここ最近、ピーちゃんの画像載せてるんだけど、それにコメントつけてくれた女の人がいたの』

 そこまで書いて、晴香は自分のスマホをこそこそ操作して、机の下で私に見せてくる。


 Zの画面だ。アカウント名は、愛犬の名前ぴー。つまり、春香のページ。

 画面をスクロールして、数あるピーちゃんの写真の一つのところで、止まる。確かにコメントがついていた。

 そこをタップする。

 コメントをしたアカウント名が出てきた。

 『浅川美咲』

 灰本が出してきた四つ目の名前だ。

 的のど真ん中に矢が刺さり、心臓が跳ね上がった。

 浅川のコメントをみる。

 『とてもかわいいですね! 私はつい最近、トイプードルを飼い始めました』

 画像まで、添付されている。

 食い入るように見つめている間に、春香がすらすらと文字を続ける。

 

『かわいいですねって送り返したら、浅川さんと仲良くなったの。ダイレクトメールで個人的にやり取りもするような仲になった』

 春香は再びスマホを操作して、メール一覧に画面を出す。そこに、浅川美咲の名前が複数あった。

 そのうちの最後の一通をタップする。

『実は私、サークル主催していて『愛犬会』っていうのがあるんだけど、近日その会のメンバーで集まってイベントする予定なんだ。みんな犬好きだし、気が合うの。きっと、春香ちゃんも意気投合すると思う。おいでよ』

 弾けるように春香を見て、首が痛くなるほど横に振ったところで、ちょうど授業は終わりを告げていた。

 同時に、私は叫んでいた。

 

「絶対、行っちゃダメだよ!」

 授業の直後の余韻が残っていたせいで、まだ静かだった教室いっぱいに私の叫び声が響いた。授業を受けていた学生たちの視線が一気に集まる。私は気付きもしなかったが、春香は気まずそうな顔をしていた。

「理穂、目立ってるよ。とりあえず、外出よう」

 春香に小声で促され、教室を足早に出た。

 


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