閉じた窓の向こう

ぶるたん

全文

 じっ、とみつめた海は青かった。青いけど黒くて、海の色をしていた。前に連れて行ってもらったときの海も、大体こんな風な色をしていたような気がする。

 どこの海も水と塩でできているらしいけど、水色が見えるのは、よく動く先っちょのほうだけだ。じゃああとは全部塩の色かと言うと、そういうわけでもない。塩の白色も、先っちょのほうだけ。

 前にほめてもらったときの海は、どういう色で塗ったんだっけ。青で塗った気もするし、そうじゃない色も、いっしょに使った気がする。とにかくたくさんの色をいっしょに。

 思い出せないのは、しかたない。飾らせてあげることをゆるして、スケッチブックから切り離してしまったから。

 どんな色を塗ってみれば、ほめてもらえる色ができるだろう。きれいで、本物みたいで、もう一度見にきたくなるような海の絵を。

 ヒントぐらい教えてもらえないのも、しかたなかった。ずるいことに。ずっとずっと遠い方に、突然行ってしまったというんだから。もう会えないって、言われてしまったから。空飛ぶマントをもってない僕はどうしたって、一人で考えるしかなかった。

 上を見ると、よく晴れた空が静かにこっちをじっと見ている。お前も青いのか。青いな。でも、やっぱりただの青色じゃない。海ともクレヨンとも違う、別の青色だ。これはまた難しくなりそうだ。

 寝そべると、砂はざらざらですべすべしていて、案外悪くない。お母さんに見られると怒られてしまうだろうけど、内緒にしていれば何も問題ない。

 目を閉じると、さっきまで見ていた青色が、目の裏にはまだ残っていた。その中から一番いい青色を探そうとしても、やっぱりよくわからない。

 どうしようかな。そうこうするうちに、目の中は真っ暗になっていく。

 とにかく飛び起きて、もう一回考えてみよう。

 そう決めた瞬間、とてつもなく大きな音に、体より心臓がまず先に飛び上がった。

 海の方からだ。遠くの方の海の水が飛び跳ねて、足の先までやって来ていた。

 これはどうにもおぼえがある。うちの金魚が水槽でやるやつだ。玄関で靴紐を結んでいたとき、頭のてっぺんに冷たい水をかけられたことを思い出した。海底には、とてつもなく大きな金魚が潜んでいるらしい。

 とにかく驚きはしたけれど、海にすむ大きな金魚が跳ねて大きな音がしただけなのだから、これは海で毎日起きていることなのだろう。

 実際のところ、海は驚いた様子ひとつみせずに変わらず動き続けている。

僕はなんだかもう一度思い切り寝そべりたい気分になっていたから、すぐ隣に女の子が立っているのがわかったときには心臓が取れたと思った。少なくとも、驚きすぎたはずみで場所が少しずれたのはまちがいない。

「はじめまして」

 はじめまして、と声を出そうとしても、上手くできなかった。この子は一体どこにいたのだろう。海で大きな音がして、そのときに隣にやって来ていたのだろうか。ずれた心臓が大きな音を立てつづけているのに、あまりにも大きなせいでいまいち位置がつかめない。僕の体は頭のてっぺんから指の先まで心臓になってしまったらしい。

「それは、なに?」

「スケッチブック」

「それは?」

「クレヨン」

「それが、あなたのかなしいこと?」

「どういうこと?」

「スケッチブックと、クレヨン。それがあなたの近くにあると、あなたはかなしい?」

「ううん」

 僕が首を振ると、女の子は砂の上に足を伸ばして座った。白い服が少しだけ寒そう。

「絵を描くのは、僕のやりたいこと。だからかなしいことじゃないよ」

「それなら、あなたのかなしいことをおしえてくれる?わたしが、ひとつずつけしてあげる」



 狭いかごから逃れた青い水が好きなように手を伸ばし、青い空を映した水面を広げていく。床の傷も飲み込んで、さらにさらに遠くへ。青空の色が広がっていく。

 僕はそれを椅子に座ったままじっと眺めていた。

 いつ、片付けよう。

 中学二年に進級した始業式の日。第二美術室にて。時計は正午を過ぎて、空腹に意識が乗っ取られた瞬間の出来事だった。

床に落とした絵具バケツがつくる水たまりは、こうしている間にもどんどん大きさを増していた。

 

 

 美術室の扉が開く音がして、半身で後ろを振り返る。入口に立っていたのは、振り返りながら頭の中で浮かべていた二択のうちの一人だった。

 目が合うと、眼鏡の奥にある小さな瞳がふにゃりと力なく曲がった。

「あ、八坂君いますね。こんにちは」

 口に含んだパンの咀嚼を一通り終えてから、十分な余裕をもって答える。

「こんにちは」

「始業式の日から精がでますねぇ。結構結構」

 先生はそう言って黒板の前の教卓に腰を下ろしながら、手にしたプリントの束を机に置く。雑多な教卓上の雑多加減が、さらに深刻化を深める。

「もう終わるところですけど。バケツの水を床にこぼしちゃって、もうなんか、それ以上やる気がしなくなって」

「ああ。大丈夫でしたか?」

「色が残らないように雑巾で拭いたので、たぶん大丈夫です。明日には綺麗に乾いてると思います」

 すみません、と先生に小さく会釈をしてからコッペパンを一口かじる。時たま訪れるシンプルな食へのあこがれに任せて今日はコッペパンを選んでみたものの、無地のコッペパンはあまりにもシンプルすぎた。半分の時点で興味が薄れている自分がいる。

ちょっとジブリっぽくていいかもと思っていたのが何と浅はかだったことか。たまごサンドを選んでも見た目は同じだったという事実が、一口ごとに僕を襲う。

残りあと一かけらのパンになったとき、それまで教卓の上に視線を落としていた先生がこちらを見上げた。

「八坂君は何組になったんですか?」

「三組です」

「二年三組というと、後藤先生?」

 考える時間のない即答に少し面食らってから頷き返す。

「なんで知ってるんですか」

「春休み中に軽く聞いてたんですよ。後藤先生には以前から仲良くさせてもらってるので」

「はあ」

 そう言われたところで、あの強面風な先生と、今もふにゃりと笑う軟弱風の先生が仲良くしている様子はまるで想像できない。

「青崎さんはどうだったんです?」

「一緒ですね。今年も」

 ここにいない二択のうちの、残ったもう一方。

「たぶん今は、新しいクラスメイトと楽しく話してる最中だと思います」

「お、さすがの人気っぷりですねぇ。まあでも確かに、青崎さんはそんな感じしますねぇ。八坂君と一緒にいられるくらいなんだから」

 それはどういう意味で、はたして悪気があるのかないのか。とはいえ十分に頷ける部分しかなかったので黙っていると、先生は大きな伸びをして眼鏡をずらした。

「そうですかー。どちらも後藤先生のクラスですか。これは色々と情報共有のしがいがありそうだ」

「しないでください。というか、するにしても当の本人の前でそれ言っちゃだめじゃないですか」

 何も誤魔化さないまま、先生はただ、くしゃりと笑った。

「そういう先生はどうなんですか。担任とか、持ったんですか」

「いいえ。藤吉は今年もフリーです。まあ、美術の先生ですからね」

 新学期早々普段と変わらない様子でいるぶん、何となくわかっていたことではあるけれど、どうやら今年も先生は暇らしい。そう理解して最後の一かけらのパンを放り込むと、ぼんやりとした瞳を急速に曇らせて言った。

「担任は受け持たないですけど、担当するクラスは去年より増えましたので、全然暇とかじゃないですよ。というかむしろ今でもこれだけ忙しいのに、担任副担任になるとさらに忙しくなるってなんなんですかね。やばくないですか」

「大変そうですね」

 ため息にもならない音を吐き出して、顔からみるみる生気を失くす先生を見ていると、教師にも色々な人がいるんだなぁと思う。


 後片付けも終えて、机に顔を突っ伏した先生が動かなくなったころ、リュックと画材の入ったバッグを肩に提げ、僕は美術室の冷たい扉に手を掛けた。

「じゃあ、僕は帰ります」

 声を掛けると、ぼさぼさの頭が勢いよく跳ね上がった。

「あ、あぁ」

 木づくりの教卓の上は、紙や筆や鉛筆が、統一性のない花びらのようにあちこち散らばっている。新学期が始まろうと新年が始まろうと、大きな雪崩れが起きない限り、きっとこの机はこのままでありつづけるのだろう。

「そうだ八坂君、コンクール。夏前が締め切りの公募のぶん。今年はどうですか?交流会もありますし」

 先生の言葉に、今まさに扉を開こうとしていた手が止まる。

「まあ、考えておきます」

 それもほんのわずかな時間のことで、上手い断り方も、断る理由も見つからないまま、美術室の扉を後ろ手で閉めた。

 人のいない特別棟の廊下は静まり返っていた。扉の正面に取り付けられた窓から、埃をかぶった廊下の白色を突き壊さんとするように、目に痛いくらいの青空がぴたりと張り付いている。

 それを見て、確かに綺麗だ、と思う。どこから、どこまで覗き込んでも透明な部分がずっと奥まで続く青。この色を、このままパレットの上に落とせたら。それはとても魅力的な色であることは間違いない。

 だけどきっと、その色も違う。

このまま窓の向こうを目に焼き付けるほど見つめたとしても、それで新しい何かが生まれるわけではない。視線を外して廊下の端から歩き出す。

先生はコンクールの応募時期が近づくたびにああ言ってくれるけれど、どうしても萎縮してしまう自分がいる。

これまでも曖昧に断り続けて、今までコンクールの類には一つも参加していない。理由も言わずに。

もちろんそれが、無知な中学生の子供みたいなわがままだということは知っている。それを黙って受け入れてくれる、先生の放任風な優しさに甘えきっていることも、分かっているつもりだ。

だから、今年ぐらいは。一回ぐらいは。そう思うにも、僕にそれでやり切るだけのやる気があるとは、自分でも思えなかった。

僕が美術部に所属しているのは半分惰性のようなもので、さらにその惰性の半分は、暇な時間の居場所欲しさでできている。

もう残りの半分。画用紙の前と自分を結びつける見えない細い糸の正体は、自分でもよくわからない。時々消えかかったように揺らぎ、曖昧なまま、それこそ惰性のようにだらだらと意識のどこかに横たわるこの正体を言い表そうとすると、いつも少しだけ笑ってしまいそうになる。

僕が描こうとするのは風景じゃない。自分の内面を表すような芸術でもない。

ただ、綺麗な青色をつくりたいんだと思う。空と海の境界に溶け込む綺麗な青色を、筆の先に乗せてみたい。

ちっぽけな理由をせめて言い表そうとするなら、それはいつもこんな感じだ。



昇降口から校門に至るまでの、舗装された空間はあまりにも静かで、自分の足音のまでがはっきりと聞こえるくらいだった。

こんな場所が明日の放課後には、何も知らない新入生を一人でも多くかっさらおうとする、部活同士の醜い抗争開催場所ど真ん中に変えられてしまうのだ。

一体何が、在校生各位を駆り立てるのだろうか。僕にはまるでわからない。

ほぼ叫びに近い声量の運動部の呼び込みと、吹奏楽部のセッションが奏でる歪なハーモニー。その上空を絶えず飛び続けるバトントワリング部のバトン。道端でおもむろに開かれる茶道部の茶会。怪しげな写真を路肩で売りつける写真部。顔のうるさい演劇部。

野に咲く無垢な花を囲んで、ハイエナが互いのしっぽを喰らい合うようなこの放課後の抗争は、仮入部期間の始まる一週間後まで続く。当然、美術部がそこに顔を出すようなことはない。そこは死地だ。

放課後はしばらく、美術室通いを続ける必要があるだろう。

騒がしさや、忙しなさ。そういったものから遠く離れた、春の温かさを含んだ微弱な風が肌に触れた。

「肇」

「青崎」

 振り返ると、そこに見慣れた人物が立っていた。

どこまでいっても僕は、彼女の行動や存在を想像の中でうまく作り上げられたためしがなかった。

今も、陽の光に体の輪郭を照らされ、想像より柔らかく微笑んでいる。

「先に帰ってるか、まだ話し込んでる途中だと思ってたけど」

「廊下から見えたから。一緒に帰りたかったし、話のほうを切り上げてやって来たってわけ」

 青崎は少しの勢いをつけて、大きな歩幅で前に一歩踏み込んだ。僕の隣に並んで立つ。

「一緒に帰ろ、肇」

 複雑な光を内に湛えた黒い瞳と目が合う。小さく頷き返すと、青崎はどこか満足げに微笑んでから、校門に向けて歩き出した。その数歩後ろを、僕も歩き出す。

 上機嫌に揺れる背中の向こうには、校門の側でまだいくらか花を残した桜の木が見える。風に揺れ、複雑に重なり合う花の色をもう少し眺めていたくなって、足の裏は自然と地面の低い位置を進む。

 上を向く青崎も同じようなことを考えているのか、開いた距離が縮まることはなく、二人分の擦るような足音だけがこの場にしばらく続いた。

 そんな緩やかに停滞したような時間は、桜の木の下を通り過ぎたころ、前を行く青崎の立てたお腹の音によって簡単に打ち壊された。

「お腹空いた?」

 そう問いかけると、青崎は歩きながらこちらを向いて、本当にわからないといった風に首を傾げた。

「どうだろ。何かあるの?」

「いや、ない」

「ないんじゃん」

 コッペパンはとうに抜け殻になって、鞄の中でくしゃくしゃになっている。

「まあ、帰ったら何かちょうどいいもの探そ」

 そう言うと、青崎は宙の一点を見つめ、それから新しいおもちゃを見つけた子供のように目を輝かせて言った。

「それよりさ、今年も同じクラスだね」

「うん」

 学校生活を小中ともに青崎と過ごしてきて、今年も揺るがず存在し続けるこの事実に一体どういう感情をあてがえばいいのか、相変わらず判断に困っている。

「毎年必ず五つか六つクラスがあるなかで、八年連続で同じクラスになる確率っていうのはどれくらいのものなんだろう」

 少し考える間を置いて、青崎は答えた。

「六千円のおつりが全部二千円札でかえってくるぐらい?」

「それは相当かもしれない」

 案外言い得て妙なたとえに頷きかけながら歩を進め、校門の先にある、縦にも横にも無駄に幅の広い階段を一段ずつ大股で下る。

 僕より先に下りきった青崎が、階段のふもとから少しも息を切らさずに言った。

「今年はどう?友達できそう?」

 春休み明け久しぶりの階段下りの最中に、どうして限りなく細い棒で鳩尾を突かれたような気持ちにならなければいけないのか。

そんな非難がましい心も、階段を下りきって先にある景色を眺めたとき、訪れる達成感に流されてどうでもよくなる。ならない。そこにあるのは無駄な疲労感と、とっくに見慣れた下り坂だけだった。

「初日じゃまだ分かんないし、作る気もない。無理やり作ろうとしたとこで、疲れるだけだし。みんな、良い人だったらいいな、とは思うけど」

「そっか」

 青崎はこちらの心の内を知ったる様子でにこりと笑う。そこには疲労も憐みも侮蔑もない。ただ、青崎が青崎のまま静かに笑っているだけだ。

そんなものを見せられてしまえば、見えない何かに湧いたちょっとした怒りだとか、やりきれない疲れも、口の中でラムネのようにぱっと消えてしまう。

余計に取り繕った言葉を吐き出す前に、僕は下り坂を一足先に歩き出した。



転校生。

転校生ってさ。

転校生のさ。

形式的な式だけで終えた昨日が明ければ、まだ遠慮が広がる教室の中で、そんな言葉がぽつりぽつりと聞こえていた。

聞き耳を立てるまでもない距離にあるグループの会話からなんとなく察するに、この学年に転校生が一人やって来るらしい。

情報通の生徒が手に入れた情報によれば、その転校生はかわいいらしい。とても。

朝のホームルームを待つわずかな時間のあいだにも、いかにも話題を引きそうな語られ方で、好きに噂され勝手に期待値を高められる転校生のことを想像すると、何ともいたたまれなくなる。

せめて珍しい名前でも持っていれば、転校生もつかみには困らないかもしれないけれど、嫌なあだ名がつくと後が辛そうだ。

僕の名前は例に漏れず至って普通のものだけれど、こうして学年が変わるたび、隅の席を確保できることはありがたく感じる。年度初めは出席番号順で席が決まり、「や」の後ろをとられることはそうない。なくはないけど、そうはない。

誰に話しかけられるでもなく、絶賛蚊帳の外から窓際の温かさに体を預ける。

そうしているうち、やがて廊下から大人の話声がして、教室に一層ぎこちなさが増した。



結論から言って、二年三組に転校生がやって来ることはなかった。担任は何事もなく教室に入ってきて、何事もないままその日の朝会は行われた。

噂の転校生はその日こそ教室の話題になっていたものの結局は他人事で、週明けにはその単語を教室の中で聞くことはなくなっていた。

通常通りの授業が始まり始めたその日の放課後、美術室の隅の、いつもの景色が見える定位置に陣取って画用紙に向かい合っていた。

窓の向こうには変わらない街があり、その先に海があり空がある。何も変わらない景色。

この学校を飛び出した先、水平線のずっと向こうまで続く広い世界。

僕はそれを見たままに、狭い画用紙の中に閉じ込めようとする。大げさで、ひとりきりのわがまま。

今日は、どこまで続けられるだろう。パレットの上に作った青色を筆に馴染ませて、画用紙の乾いた青に乗せる。満足のいくところまで塗って、重ねて、それから筆を離す。また色を作る。画用紙が擦り切れるまで、それを繰り返す。


時間が経った。陽はある程度傾いて、遠い方の空の淡い青の中に、クリーム色が薄っすらと差し込み始めていた。夕焼けの気配だ。

一つ息を吐く。感慨は湧かない。画用紙の中の色はあくまで絵具の色のままで、それ以上の何かに変わることはない。それは始める前から予期していたことで、ほかの結果は期待していなかった。だから、落胆もない。これ以上やったところで、何度も塗り重ねた青が望む色に変わることはないだろう。

椅子から立ち上がり、片付けを始めることにした。窓の下に取り付けられた水道の蛇口を捻り、手にしたパレットに水流を当てる。鮮やかな色がステンレスの上で一緒くたに混ざり合い、黒い川の流れを形成していた。

しばらく水を流し、パレットとバケツの掃除を終えて振り返ると、教卓に座っていた先生と目が合った。眼鏡の奥からやけに優しげな視線を向けて、こちらに薄く微笑む。

「どうですか?今年のクラスにはうまく馴染めそうですか?」

「去年がうまく馴染めなかった前提で聞くのはやめてもらっていいですか。正しい立ち回りはできてましたから。馴染むという意味で」

 アンタッチャブルでアンビバレント。たゆまぬ努力の放棄によって、僕は去年のクラスでその地位を確立させた。触れがたい存在よりも触れる必要のない存在。行事ごとには最初のちょびっとだけ参加しておくのがミソ。

「今年もうまくやりますよ」

「そう言われても不安しか湧かないですねぇ。逆に凄いな」

 先生はそう言って何かを考えたあと、ペンを手の中で器用にくるりと回した。

「まあ、そうですね。学校との向き合い方なんて、それこそ人によって違いますからね。私もどちらかといえば八坂君側だったので、そうやって自分で考えてうまくやれる八坂君には感心するなぁ」

あんまり経験がないからよくわからないけど、褒められるってこんな感じなのかなぁ。なんだかもやもやするぞ。

純粋な疑問符を浮かべながらバケツとパレットを画材バッグに収めたころ、ペンを片手に机に向き合っていた先生が顔を上げた。

「そういえば八坂君。今年の係はもう決まりましたか?」

「あ、はい。選管ですよ」

仕事に対する集中力を切らしたのか、その表情にはどことなく生気がない。僕の答えを聞いて、先生は唐突に怪談でも始めるかのように、ぽつりぽつりと語り始めた。

「そういえば、これは私が職員室でそれとなく耳にした話なんですけどね。八坂君は、今年の二年生に転校生が来たの、知ってますか?」

 この教室で、青崎以外の生徒の話が語られることは少ない。妙なむず痒さをおぼえながらひとまず頷いた。

「教室で話題に上がってたのを、傍から聞いてただけですけど」

「そのね、転校生の話なんですけど」

「怪談話かなにかですか」

「いいえまったく」

 先生はゆっくり首を振って、それから簡潔に言い放った。

「選管を選んだんですよ」

「先生」

「はい」

「どのタイミングでですか」

「即決です」

 そう言われて、小さく息を呑む。

その転校生は知っているのか。年度初めの係決めにおいて、選管、つまり選挙管理委員会を先んじて選ぶことの意味を。

 

日常的にそれぞれの教科担任を補佐する教科係から、図書委員や保健委員等、教室以外の場所での活動を行う委員会など、様々な係、委員会の選択肢がこの学校には存在する。

 やりたかろうがやりたくなかろうが、誰もが一人一つ何らかの選択肢を選ばなくてはならないのがこの学校のルール。数多の面倒な係たちが避けようもなく立ち並ぶなか、選挙管理委員会は密かに独自の強い特殊性を誇る。

ほかの委員会にはあって選挙管理委員会にはないものって、なーんだ?

それは二枠目の存在である。選挙管理委員会以外の係には、必ず二枠以上、つまり、二人以上の枠が用意されている。多いものでは四枠、つまり一つの係を四人で担当することもある。それが選挙管理委員会は初めから一枠に設定されており、ほかの誰かと一緒に担当することがない。

そのため、仲良し同士みんなで係をやりたいグループからは、まず選択肢に入れられることすらない。友情か希望した係、そのどちらも勝ち取れなかった者たちの前に余りものとして顔を出した際にも、その一見小難しい名前のせいで敬遠をされてしまいがち。選挙管理委員会とは、地味で小難しくて誰とも組めない悲しい係。

そう、外から通りすがるだけの大多数の人間は認識している。

そう。見る者によって世界が形を変えるのと同じように、選挙管理委員会も観測されて初めて、その実態を明らかにするのだ。

委員会からの通達があってから、生徒会室前に積んで置かれた委員向けのプリントを生徒会室取りに行くのが最初の仕事。そこには十一月に行われる生徒会選挙の概要が記されてあり、それを読んで初めて、選挙管理委員会の仕事は十月から始まることを知る。

そしてやがて来る十月。初めての委員会でプリントを渡されて、それとまったく同じものをクラスに配布。あとは投票後に委員会で開票をするだけ。

仕事はこれだけ。

そう、本当の選挙管理委員会とは、誰とコミュニケーションをとる必要もなく、さらに仕事量も極端すぎるほど薄っぺらな委員会なのだ。

ここを真っ先に狙いにいく人物とはつまり、面倒な係活動はやりたくなくて、別に誰とも仲良くする必要性を感じていない、年度初めから孤独を覚悟した穿った人間である。そうプロファイリングが可能になるのだ。実例が一人ここにいる。


ただそれは、あくまでそういう可能性があるということにすぎない。先生もそれは分かっているのだろう。落ち着いた様子で廊下に視線を遣り、後ろの黒板に背を預ける。

「まだまだ新学期始まりたての時期ですから、周囲と関係を築くに至っていないのは当然でしょう。現状では、ただ選挙管理委員を即決しただけとはいえますね。転校前の学校で特に目立った素行はなかったそうですから」

 先生はそこで口を閉ざし、教卓の方から一仕事終えた雰囲気を勝手に醸し出した。

小耳にはさんだ程度の情報量ではなかったし、様々な場所に配慮が求められる昨今、職員室での会話の内容を、ここまで生徒に垂れ流して問題はないのだろうか。そう思ったものの、先生は僕にだからこそ話したのだと気づく。

人のうわさ話を話題のタネにするような趣味は僕にはないし、そもそも人間関係がほぼない。話題のタネが圧倒的に実を結ばない土壌が、僕という人間だ。美術室で普段からほかの生徒の話題が出ないのは、そこから何も広がるものがないからだ。先生はそれをわかっている上で、僕に話をした。なぜ。まだ名前も顔も知らない転校生こそ、何を知らされたところで、どこまでも他人事の存在だ。

謎の沈黙に耐えかねて理由を尋ねると、それを待っていたように先生の笑みが深まる。

「その転校生の子と、気が合いそうだと思いませんか?八坂君」

「はぁ」

「ちなみにその子、まだ部活には所属してないそうです」

 姿勢だけは長椅子に深く腰掛けたホームズさながらに、先生は凄みの足りない視線をくゆりと光らせた。

「これは新入部員獲得のチャンスなんですよ、八坂君」

 遠くのどこかでカラスが鳴いた。夕方でなくても、カラスは鳴く。そんなささいで当たり前の事実を確認できるほど、特別棟の隅にある第二美術室は今日も静かだ。

 僕は、先生にどう返事を返すべきだろう。意欲は低めといえど、唯一の美術部部員の僕が。

 少しの間考えて、僕は正直な気持ちを口にした。

「必要ですか?」

「カァっ」

 先生は弱々しい奇声とともに、煩雑な机の上に倒れ込んだ。

 大事な(一人の)場所を守るため、僕は嘘を吐かない。自分を騙らない。

「そもそも一般的な人間とすら仲良くなれない僕が、気難しいかもしれない転校生と仲良くなんてできると思ってるんですか?」

 机に埋もれた頭からは返事がない。好き放題曲がった癖毛の先を見ていると、少しは同情の念も湧いてこないでもない。

「まあ、新入生に期待しましょうよ。もしかしたら何かこう、筆で絵を描いたり、刀で石を彫るのが好きな渋めの中学生が来たりするかもしれないじゃないですか。イラスト部の存在を知らないままこっちに流れ着くことだって、あるかもしれないじゃないですか」

「そうか」

 机からむくりと顔があがる。

「いっそイラスト部を」

 その目からは光が消えていた。

 美術部の部員がほぼいない一因に、イラスト部の存在がある。元は美術部から派生したらしいイラスト部は、イラスト、漫画からコピックまで、豊富な備品と幅広いジャンルでわいわいと絵が楽しめて、毎年男女ともに高い人気を誇っている。それに対し、我らが美美術部に残されたものはデッサン、絵画、彫刻など、有り体に言えば地味で小難しいものばかり。少し前まで小学生だった中学生がどちらを選ぶかと言われれば、結果は明らかだろう。

 文化部の中では部員も多く、そもそもこちらを認識しているかすら怪しい相手に何をどう仕掛けたところで勝利はない。空しいだけだ。

 やがて先生も似たような結論に思い至ったのか、普段通りの猫背気味の姿勢に戻った先生の瞳には、確かな理性が灯されていた。

「まあ、そうですね。少し、焦りすぎていたかもしれません」

 そう言うと先生は、普段通りのへにゃりと力の抜けた笑顔をこちらに向けた。

「でも、もし本当に困っていそうな生徒さんを見かけたときは、できるだけ声を掛けてあげてくださいね。これは美術部顧問としてではなく、一人の大人からの願いですが。君にしかわからないこと、見えないこともあるでしょう」

 僕は先生に、半分声にならない返事をした。少し、間の抜けたような返事に聞こえたかもしれない。突然放り込まれた言葉が、驚きと不安と漠然とした疑問の波紋をつくって、頭の中を静かに広がっていた。

 人間関係をあきらめようとしている人間に対して、僕にしかわからないこと、見えないことなんてあるのだろうか。

僕にはわからないことを先生は知っていて、それはきっと、子供と大人の違いとかそういう話だけでもない。ただ、ここに立つだけの僕にはどうしようもなく手の届かないことだ。

 先生はもう一度、教卓から緩やかに笑った。

「八坂君なら大丈夫ですよ」

まともな追及も反芻もできないまま、第二美術室の扉が開く。

「こんにちはー」

 聞きなれた青崎の声が、濁り始めていた頭の中を穏やかに揺らした。



 その日の帰り道のバスの中で、ふと会話が途切れた合間に、僕は先生から聞いたばかりの、転校生の話をした。

「新入部員候補かぁ。先生がそんなこと言うの、ちょっと珍しいね。部員が少ないと何か困ることがあったりするの?」

「どうだろう。よくある、人数が足りなくて廃部っていうのは、僕が入部するときが無人だった分、ないと思うけど」

 何かを考えこんだあと、隣に座る青崎は小さく呟いた。

「私も入ったほうがいいのかな」

「いや、青崎は、やめておいたほうがいい」

「だよね。私絵とか描けないもん」

 青崎は少し残念そうに眉を下げる。本人はそう言うものの、青崎は絵が描けないわけではない。何を描いても、アバンギャルドが意思をもったような複雑極まるものが画用紙の上に出来上がってしまうだけだ。

去年の入学早々、美術部への入部をためらっていた青崎に、先生が筆と画用紙を渡したことがあった。そのときは体験入部だと前のめりだった先生も、大きな画用紙にできあがったアバンギャルドに動揺を隠せず、間近でアバンギャルドを浴びた僕は数日体調を崩した。

その後の協議の結果、僕と先生の間で青崎の入部は避けるべきという結論が出ている。

「ねえ、その子の名前は?」

 丸い瞳に覗き込まれて、ふと気が付く。

「聞いてなかった」

「じゃあ、男の子?女の子?」

「それも聞いてないな」

「なにそれ」

 青崎の控えめな笑い声が、エンジンの振動音に紛れて消える。

「まあ転校生だし、見ればわかるかな。こう、オーラとか出てたりして」

 バスの外に目を向けると、夕焼けの色がバスの窓越しにくすんで見えた。バスはゆっくりとした速度で、手を繋いで歩く親子を追い抜いていく。

「転校生に会ったところで、僕に何ができるのかわからないよ」

 それは大きく右折をするバスの騒音に紛れてもいい呟きで、実際、青崎に聞かれているとも思っていなかった。

 後ろに回った太陽の鋭い光が車内に差し込む。鮮烈なオレンジ色に視界が眩む寸前、青崎は真っ直ぐにこちらを見据えていた。

「肇なら大丈夫だよ。肇は、優しいから」

 見えなくても、その声で分かる。青崎は今いつも通りの変わらない笑顔を浮かべていて、そこに虚飾も嘘も、なにもないということが。

ただ言葉のとおり、青崎は僕を真っ直ぐに見ているのだろう。

 差し込む斜陽は、視界を乱暴な程のオレンジに変える。最寄りのバス停に向かって揺れる車内の奥に座り、僕はしばらく何も言えないでいた。



 その日の夜に夢を見た。僕は床も壁も真っ白な部屋にいて、真っ白な机を前に、真っ白な椅子についていた。向かいには同じ椅子があって、でもそこには誰もいない。音のない、静かな空間だった。

壁にはめられた、閉じた窓の向こうの、抜けるような空の青。その中を、悠々と浮かぶ風船の色。

どこまでも混ざりあわない青とその色に、僕はなぜだかどうしようもない寂しさを感じていて、辛うじて胸に残ったそれだけが、夢から持ち帰った感覚の全てだった。

だけどそれも、あやふやな記憶の中に溶けて消え、そんな夢を見たことすらすぐに忘れてしまった。



何事もなく日々が過ぎていく。転校生のことも、コンクールのことも些細な悩みとして頭の片隅にあり続けながら、それ以上に大きく形を変えることはない。必ずどこかが削ぎ落され貼り替えられて、気が付かない程度の変化とともに、緩やかに変わっているはずの毎日。

そして四月も半ばに差し掛かった月曜日の朝、僕はスプーンを動かす機械になっていた。コーンフレークの甘い味は、記憶に染みついたものとまったく同じだ。

テレビに映ったスーツのキャスターが、今日も同じ声と抑揚でニュースを読み上げている。その内容も普段とさして変わったこともなく、半分寝ぼけた頭の中を素通りしていく。

やがて映像はスタジオから切り替わり、どこかの公園で花が咲いていて、またキャスターがこちらを向いて二言三言何かを喋ったかと思えば、なにかの職人が鉄を叩いて、誇らしげに何かを語っている。その様を、無意識の反復運動とともに眺める。

ニュースが天気予報のコーナーに変わったと同時に、ボウルに向かったスプーンが、短い金属音を立てた。

ふと見ると、机の上のボウルは、申し訳程度の牛乳を残してほとんど空になっていた。

壁掛け時計はぴったり七時半を指し、今も秒針を動かし続けている。

家のいたるところから朝日が差し込んで、宙を進む埃をきらきらと照らす。

埃は照らされた場所をふわふわ進む。

あくびを一つした。

それから僕は、椅子から立ち上がった。ボウルとスプーンを片付けるべく、向かう先は台所だ。

制服にはもう着替え終わっていて、あとは歯磨きを済まれせばすぐに家を出られる。

この朝、変わらないはずの日常が一つ、日常の範疇にありながらその形を目に見えて変えた。

おそらく二月以来だろうか。

睡眠難民救出作戦の発令である。



家を出て右隣にある、メゾン井口。こじんまりとしたこのアパートの、所々錆びついた青緑の階段を上った先に、青崎の住む201号室がある。

覗き窓と郵便の受け口がついたドアの前に立ち、固い感触のインターホンを押す。ドア越しに、ベルの音がここまで聞こえる。

ただ、扉の向こうから、それ以上の新しい音は生まれてこない。

一呼吸置いてから、またインターホンに触れる。ベルが鳴る。また、反応はない。

僕の知る限り、メゾン井口の入居者はこの部屋の青崎と、一階のもう一方の角部屋に住んでいる大家さんだけだ。

ここは、人や学校やその他いろいろなものが集まった都市部から離れた、いわゆる田舎だ。

そしてこのアパートは、田舎から連想できるイメージの通り、古びたアパートだ。新しい入居希望者はめったとやって来ないだろうことは想像がつくし、実際に記憶にないのがやはり悲しい。

人通りもなく、真新しい何かもなく、停滞したままのこの町。諸行無常の例に漏れず、いつかは退廃を迎えていくであろうこの町。好きか嫌いかと聞かれれば、僕は迷わず迷ってた挙句、辛うじて好きだと答えるだろう。何もなくても、僕が育った町。

そんなこの町の、慣れ親しんだアパートの二階にひとつ、柔らかな海風が吹いた。

インターホンに触れる。ベルが鳴る。インターホンに触れる。ベルが鳴る。インターホンに触れる。ベルが鳴る。インターホンに触れるベルが鳴る。インターホンに触れるベルが鳴るインターホンに触れる、鳴る。触れる、鳴る。触れる、鳴る。触れる鳴る触れる鳴る。触れる、鳴る、鳴る、鳴る、鳴る、鳴る鳴る鳴る鳴る鳴る鳴る鳴る触れる、鳴る。鳴る。

何かが大きく滑り落ちる音がして、玄関のドアがホラー風にゆっくりと開いた。

ドアの隙間から、長い髪をぼさぼさに乱し、猫の描かれた大きなシャツ一枚をだらしなく着た青崎が、渋く苦しげな顔を覗かせる。

「ごめん。今から準備します」

 両手で拝むように大きく頭を下げ、そのままドアがばたりと閉まる。

 その内で途端に慌ただしさを爆発させる部屋を背に、僕はアパートの手すりに体を預け、頭上に広がる空の色に視線を向けた。今日も、よく晴れている。

 ときどきたまに、半年に一回、いや二回ほど、本人にも予想ができないタイミングで、青崎はこうして朝寝坊をする。そうなった日だけは、いつも七時半きっかりにインターホンを押しに来る青崎と僕との立場が逆転する。

 たまにある癖だと言ってしまえばかわいらしさの範疇におさまるかもしれないが、問題は一度朝寝坊をすると、大きな音で起こすまで死んだように眠り続けてしまうことだ。長いときには、週末をまたいで三日丸々眠っていたこともある。

 最初にこの状況に遭遇したとき、どれだけ呼び掛けても反応のないドアの向こうに嫌な想像が巡るばかりでどうすべきかも判らず、寒い冬の朝に一人で泣きじゃくったのが懐かしい。

 数多の朝寝坊と失敗と心配を経て、今ではこうしてとても落ち着いた態度で対応できるようになったのだ。僕たちは、時間の分だけ成長を重ねている。ほんの少しずつ。ある程度の成長を。

 息を一つ吐く。遠くまで透き通った朝の空を見ながら、僕は青崎にもう少し女の子であることを自覚してほしい、という旨の注意の仕方を考えた。

 シャツ一枚は無防備すぎる。だけどそれをどう伝えることが出来ようか。おたがいどこにもダメージを生まないという条件つきで。

思考は当たり障りのない方向にするりするりと逃げていき、五分と経たない時間でまともな結論を見つけることはできなかった。

見上げる青空に、風に吹かれて舞い上がるビニール袋を見るような気持ちだ。どこまでも飛んで行け。晴れ晴れとした青空に、不透明ビニール。その中身を知らない僕は、まだ子供です。

やがて背後でドアが開く気配がして振り返ると、部屋と外との境界線上に、青崎が肩身を狭めて立っていた。制服のブレザーにはいくつかの皴が残り、黒い髪の毛先にはほったらかしにされた寝ぐせが残っている。梅干しを連想させる顔のしかめ方は、朝日のせいだろうか。

「昨日のお昼ぐらいから記憶ない」

 拗ねた子供のような声が、喉の奥から掠れ聞こえる。

「学校は行けそう?」

「行く。待っててくれたから」

 そう言って頷いた青崎に、家の冷蔵庫から持ち出した銀色のゼリーのパックを差し出した。水分と空腹を同時に手っ取り早く補うなら、おそらくこれが一番適しているだろう。冷たいものは、朝の眠気にもよく効く。

「ゆっくり行こう。たぶんどのみち、一時間目には間に合わないだろうから」

 両手でゼリーを握った青崎が、半分寝ぼけたままの眼を開いてゆっくり微笑む。

それを見届けてようやく、あちこち動いて落ち着かなかった思考が慌ただしい動きを止めた。

このアパートの屋根の上で、流れる雲から太陽が顔を出し、足元に日向の当たる場所を作り上げる。その光の動きがささやかな音になって、耳にまで届くような気がした。



波の音が絶えず聞こえる。堤防にぶつかり、また去っていく波の音。

海際を走る道路にある、申し訳程度のバス停に添えられたベンチに座って、僕と青崎はバスを待っていた。

緩やかに伸びる車道を挟み、堤防を越えた先にはテトラポッド。その先に、際限なく広がった海がある。

僕たちの通学は、最寄りのこのバス停から通学路に交わる場所の停留所まで行く必要がある。そこから少し歩いて、トータルで三十分と少しの通学路。

普段はちょうどいい時刻にここを発車する便を使うものの、寝坊をしてしまった日はなかなかにどうしようもない。五十分に一本のペースでやってくるバスを、こうしてベンチに座って待つしかない。あと、十分ほどでやってくるだろうか。

後ろには緑のネットが張り巡らされたみかん畑があり、さらにその先にある棚田の向こうには、でんとそびえたつ動かざる山。

そんな場所にあるバス停にも、平日は五十分に一本バスがやってくるという事実。いつ考えても驚きだ。

ベンチに座ったまま毎日こんなことに驚いている間にも、英単語の一つや数式の成り立ちだとかに頭を使うことができるかもしれない。けれど僕は、目覚めたばかりの朝の時間にわざわざ自分を追い立てる必要はないと思っているし、隣の座る青崎には実際にその必要がない。

「あのさ」

海の方に視線を向けたまま、青崎が発した声に耳を傾ける。

「もしバス停の位置をちょっとずつ家の方に毎日ずらしていったらさ、いつかバス停がばれずに家に近くなるかな」

「ハワイと同じ速度で動かせば、もしかしたらいけるかもね」

 一年に数センチずつ位置を変えるバス停。日本人形の髪が伸びるよりも現実的で、誰にも気づいてもらえなさそうだ。

「でも結局、バス停が家に近くなったには、僕たちはとっくに街から出てて、このバスを使うこともなくなってる」

「ひとりでに動いた謎のバス停の完成だ」

 完全犯罪の穴を見つけた少年探偵のように、青崎が眼光を鋭くする。朝の気だるさはもう抜けていそうだった。

 お互い口をつぐみ、会話が途切れた途端、波の音がまた辺りに満ちる。潮の匂いが混じった緩やかな風が走り、どちらかが小さなあくびをして、一台の軽トラックが目の前の車道を抜けていく。それを見送ってから、青崎が呟いた。

「静かだね」

 頷く。相槌には不十分なくらい、わずかに。

「波の音はこんなにしてるのに、静か。波の音がある、って気づいても、またすぐに静かになる。聞こえなくなるっていうのかな。海と、一体になるみたい」

 遠くの方で水面が何度も波立ち、形を変える。光がその上を滑るように進み、数えきれない煌めきを生み出し続けていた。

 五分も歩けば海のある場所に住んでいて、今が単なる待ち時間であっても、こうしてじっと海を眺めるだけの時間を過ごすのはずいぶん久しぶりに感じる。

 ふと横を見ると、同じようにこちらを覗き込んでいた青崎と目が合った。ベンチから投げ出した両足を、ゆらゆらと揺らしている。眩しい海をしばらく眺めたあとの視界は、淡い青の幕を通して眺めるようだった。

 伏せた瞳がまばたきをして、小さな光を散らす。波の音の合間に溶け込むように、透き通った声が穏やかに響く。

「不思議だよね。私たちが学校に行ってる間も、こうやってきらきらした海がここにずっとありつづけて、この静かな空間と一緒にずっと続いてるんだ」

 静かだ。本当に静か。もしかすると僕たちがいなくなったあとのこの場所は、永遠にこのままなんじゃないかと思ってしまうほどに。海と空とが、遠くの方の境界線上で曖昧に溶け合って、微睡むような時間が永遠に続く。そんな想像をする。

海辺の時間は、自分が知っていた以上に静かで、とてもゆっくりと流れていた。

 ベンチの隣で、青崎が姿勢を直す衣擦れの音がする。自然な呼吸を挟んだあとで、青崎は静かに笑った。

「なんか、今日遅刻してよかったかも」

 それは寝坊した当人が笑いながら言う台詞ではないとは思いつつも、僕は静かに頷いた。どれだけ近くにあって、日常の景色の一部になっていても、結局海は好きだ。

「ここの絵、描きたくなった?」

「それはちょっと違う」

 それはそれ。これはこれ。自分の中で区別があって、やはり絵具の上で再現したいと思うのは、美術室から眺めるあの海だけではあるのだ。

 そう言うと、青崎は「気難しい芸術家だ」と笑って、ブレザーの稜線が描く細い肩をくつくつと揺らすのだった。

 

それから、エンジンの音を大きく立ててバスがやってくるまでの間、僕たちはすぐに忘れてしまうような他愛のない無意味な話を重ねた。ぽつりぽつりと、時間が経つのを忘れたふりをして。もしかすると本当に、そのときだけは忘れていたのかもしれない。

 その日が学年最初の小テストの実施日だと思い出したのは、バスを降りる少し手前のことになる。



強面の担任に青崎と並んできちんと叱られた後、僕たちは別室で小テストを終えた。

そして放課後、普段より二割増しで疲れた体でたどり着いた第二美術室の黒板に、A5サイズのプリントが丸い磁石で貼り付けてあった。

緑の黒板の上で浮かび上がるように白い一枚のプリントには、ほどよく整った癖のない字でこう書いてあった。


八坂君へ そろそろ交流会の準備をしましょう 

こちらは少し立て込んでいて、次に私が顔を出すのは今週の土日くらいになりそうです

それまでに描くものを大方決めていただければと思います

モチーフ形式問いません 週明けにでも相談しましょう

追伸 入部希望者には優しく 

言語問わず簡単な応対ができる方であれば即採用してください 敬具 藤吉

 

部長の部はいつから人事部の部も兼ねるようになったのだろう。たしかに今日から、仮入部期間は始まっている。二週間の間、新入生が体験入部というかたちで各部活を見て回り、入部希望を届け出る期間だ。

部活動は原則強制参加と校則で決められてはいても、初めての部活。初めての先輩。新入生は胸の内に少なからぬわくわくを抱えて、未知の扉の先を覗くことになるのだ。そんな彼らに提供できる眩しいものって、はたしてここにあるだろうか。

校舎の隅にある、第二美術室。

 きれいな黒板。木の机。物がいっぱいの教卓。教室の隅の作品棚には、完成もせず、中途半端な状態で放っておかれた画用紙たち。校舎の端の教室には、普段どおりの静けさがある。

 何か飾ったりするべきだろうか。紙をくしゃくしゃにしてつくる花とか。リング状の紙をどうにかして繋いだやつとか。

否。何か特別な装いをしたところで、人が来なければただ虚しい。そしてもし万が一、人が訪れたとき。これもまた虚しきこと必定。先輩風も吹かせない僕が、キラキラの新入生とまともな会話ができようか。否。無理。

 そもそも、新入生がこんな辺境の教室を開けるなんて、そんなことは起こらないと頭で理解している。

だとしても、知らない誰かが扉を開けるかもしれない状況と常に隣り合わせで放課後の時間を過ごすのは、なかなか窮屈だ。

 雑多な小物や画材にまみれた教卓の山の中から、蓋のない長方形のブリキ缶を見つけ出し、入口に一番近い机の上にそれを置いた。これを、入部届のプリントを入れる受け皿とする。一応の体裁を、ブリキ缶一つに託すとする。

 それから僕は、外で絵を描くための準備を始めた。



 軽めのスタンドと画材バックを抱え、校舎裏の湿った地面を歩く。美術部が活動中に絵を描ける場所は、なんと美術室だけではない。基本的な活動場所は第二美術室に設定されているものの、周囲の迷惑にならないという条件付きで、校内での活動に制限の掛けられている場所はない。つまり、一応はどこでも絵が描けるということ。

それでも道具の準備や後片付けなどに関しては、美術室に居座って活動をするのが何より楽だ。それに描きたいと思うものも美術室の中から描けて、新たなモチーフを求めない僕は滅多と美術室の外に出て活動はしない。

例えば、いつもの場所に座って同じ景色を描くのに飽きた時、先生の受け持つクラスで遅れが出た生徒が、第二美術室を放課後特別に使うことになった時など、美術室にいるのが何となく落ち着かなかったりするときに、僕はこうして美術室の外に出る。

とはいえ、描きたいものも特にない。そして放課後という時間は、第二美術室以外の校舎の至る場所に人が溢れる時間。

ということで、美術部員が向かう場所は大きく限られている。というより一つしかない。今はその、校舎裏の温室横に向かっている最中だ。

昇降口を出て校舎の裏手にぐるりと回って壁沿いを進めば、それまで真っ直ぐに続いていた壁が一度途切れ、一階の理科室の前に繋がるスロープのある空間に出る。

上から見ると凹の形をしたその空間の中央には、ガラス張りの小さな温室が設置されている。目標とするのは、その温室に隠されるように置かれた壁際のベンチ。スロープから見えない位置にありながら、ベンチ周りの壁には換気用の小窓があるだけで、校舎からも覗かれることがない。そもそもスロープを使って理科室に向かう人間は、ほとんどいない。

このベンチは、秘匿と隠密を求める人間のために置かれたような位置にあり、そこに今日は人が座っていた。終わりだ。

焦るな。焦ってない。

もちろん、そういうことだってままある。人気がないといえども、そこに必ず人がいないわけではないのは当然。どんなマイナージャンルにも人はいる。

これまでだって、空調設備の点検があった日にここを訪れたら、懇ろな様子の男女がパーソナルスペースもお構いなしにぴたりと互いの空間を接着して座っていたこともある。手にしていたスタンドを落としかけて一人で焦ったあの時に比べれば、今ベンチに座っているのはたった一人だけで、何も挙動不審を引き起こす要素はない。

見なかったふりをして、このまま真っ直ぐ校舎裏を進めばいいだけ。外階段まで行って靴を脱げば、そのまま美術室に戻ることだってできる。

考慮すべきは、僕が今、ベンチに座ったその人の前に体を晒し、かなりしっかりと視線を合わせてしまっているということ。ベンチは温室と校舎の壁の間にあり、校舎から出てくる場合は温室の陰になるものの、校舎裏を横切る場合にはしっかりと目に入ってしまう。

向こうがこちらを見、こちらが向こうを見る。そうして視線を交錯させたまま、つまりはどうしようもなく、僕は足を動かすこともできないでいた。

ベンチに座っていたのは、どこをとっても見覚えのない少女だった。

その少女の瞳は、宇宙の片隅から取り出したような深い青の色をして、長く伸びた色素の薄い栗色の髪との組み合わせが、校則通りに着たブレザーの制服をどこか滑稽にすら見せている。

足下は白いシンプルなスニーカーを履いていて、上履きの色で学年の区別をすることはできない。たとえどの学年を告げられたとしても、そこに現実感は湧かないだろう。

温室のガラス越しに陽が重なり波を透かしたみたいに、複雑な影を落とす。

日常にまみれていたはずの景色が、ベンチを中心に一変している。

触れがたくて、壊しがたい。その空間は物語の一幕のようで、それでも僕が足を踏み出せないでいたのは、その忌避感だけがすべてではなかった。

はっきりと答えがわかっている理由と、そうでないもの。いくつか混在した理由を全部頭の中に並べ立てるより先に、すでにわかっていた理由が一つ。

少女の透明な瞳は、溢れんばかりの好奇心に満ちていたということ。そしてそれが今、大きな煌めきになって爆発したということ。

「あの!」

 羽のように軽く、淀みない声が校舎裏の空間に反響する。

ここで後ろを振り返っても、この空間には彼女と僕以外誰もいないはずで、数秒間、体感ではそれ以上の時間、僕はベンチの少女と視線を合わせ続けていたのだ。それは今更否定のしようがない事実で、ついに言葉を掛けられたなら、僕は逃げることも何もなかったふりもできない。

僕は外周のフェンスと校舎の間の中途半端な場所に立ったまま、はいと返事を返した。近い距離での会話以上の大きな声を出すのも久しぶりで、喉は声を発しながらおかしな風に震えた。

「それは何ですか!」

 それ、と少女の指が向けられているのは、僕の左手に棒状になって収まった、折り畳み式のスタンドだった。

 どう答えるべきか少し迷って、結局僕はベンチの方に近づくことにした。スタンドの説明をするために、これからわざわざ息を大きく吸う行為を想像すると、何だか馬鹿らしくなったのだ。

 一歩ずつ静かに踏み出す足が、ベンチまでの短い距離を詰めていく。音を立てても、瞬きをしても、ベンチに広がった空間は変わらない。独特の青い色をした丸い目が、僕の背格好をつま先から頭の端までまじまじと観察をつづけている。歩きづらい。

温室の角に入り込んだ辺りでスタンドを地面に下ろし、ベンチの方を向くように、折り畳み式のスタンドを普段通りに開いた。特に見栄えするポイントがあるわけでもない、おそらくこの放課後で最も静かで地味な時間の一つ。初めて人に見せるためにスタンドを立て終え、どうしたものかとベンチを振り返ると、女の子はその青い目と口を縦に開いて、指先で無音の拍手を奏でていた。

「これは……絵をたてるための、あの、あれですよね。ホ、ホリ」

 そう言いながら、拍手のかたちをとっていた細い指の動きがだんだんと弱々しくなっていく。

「イーゼルスタンド」

 僕がそう言うと、指先はゆっくりと動きを止め、生気と探求に満ちた瞳から光が消えた。

「全然ぴんとこなかった……」

 ちょっと思い浮かんでたのと違ったようだ。

 こうも軽々しく答えを教えてしまったことに申し訳なさを覚えるべきか否か悩み、立ち尽くすことしかできないでいると、ベンチから光のない視線がこちらに向けられた。

「あの、これを持ち運んでいたということは」

 次の瞬間、まるでスイッチが切り替わるように、少女の瞳が好奇の色に眩しく輝いた。

「絵を描くんですか!」

「まあ一応、美術部なので、部活で描きます」

「今から……描きますか!」

 ベンチから身を乗り出さんばかりの勢いで少女は前のめりになり、眩しい視線をこちらに向ける。何か面白いものを見せられるとも思わないけれど、少女の瞳には期待の色が強い輝きを放っている。

 確かに、ついさっきまでここで絵を描こうと考えていたのは紛れもない事実だ。

それでも、まるで得体の知れないこの少女に対して、胸の内で忌避感に近い感情は未だに強く脈打っている。人付き合いに対する苦手意識以前に、この少女に関わるべきではない。自分の根幹を、強く捻じ曲げられてしまうかもしれないという、恐れのようなもの。

これは、浅い思考回路ではたどり着けない、理性が裏付けた本能によるものか、それとも単なる卑下によるものか。その出処は今の僕には判断ができない。

 ただ、この子の前で僕は嘘を吐くべきではない。

雑然としたままの思考のなかで、それだけはわかっていた。それは、ゆっくりと開いた手のひらの中に見つけたような言葉で、僕にはひどく頼りなく、色褪せているようにみえる。でもきっと、それだけは間違っていない。



ペットボトルに入れてきた水道水を、タオル越しの地べたに置いたバケツへ注ぐ。同じ三つの細長い容器に、なるべく均等になるよう水を注いで、キャップを閉める。まだ五分の一ほど中身は残っていて、バッグの中にもう一本予備があることを考えると、片付けを含めて余裕のある量が残っているだろう。

ベンチの端から、息を潜めてこちらをじっと伺う気配をひしひし感じる。

青崎には、暇つぶしがてら眺められることはあるものの、ここまで相手に見られていることを意識しながら筆を握るのは初めてだ。体を傾けて筆先を水に浸し終え、そこにあるのはまっさらな画用紙と沈黙だ。

慎重に言葉を選びながら口を開く。

「僕は一応美術部ですが、先輩はいたことがないし、先生もちょっとあれですし、誰かから技術指導を受けたことはありません。なので、これは素人のやることにすぎません。面白みや、何か優れたものを期待されているのであれば、それに応えることはできないと思います。それでよろしければ」

「おねがいします」

 横をちらとみるより早く、食い気味の答えが飛んでくる。スカートの上に固く握った両手を乗せて、少女は将棋盤を眺めるような視線を画用紙に向け続けている。

「それで、今から何を描かれるのでしょう」

 それはセッティングを始めてから今まで、ずっと考え続けていたことだった。

 僕の水彩画経験は、ほとんどあの美術室の片隅から見える景色で完結していると言っていい。アクリル絵の具でそれ以外のものを描いたのは、授業の課題で必要に駆られたときくらいだ。キュビスムもロマネスクも知っているのは聞き齧った程度の知識だけで、そんな素人がその場の勢いで「芸術」という解釈を都合よく利用するのはあまりに冒涜がすぎるだろう。

 その上で、ベンチに座った僕に何が描けるのか。普段やむを得ずここに来たときは、画用紙に色々な塗り方で青をつくり、その見え方を検証する、なんてことをしている。がしかし、それはよそ様にお見せするには地味すぎる類のもの。かといって、そらで美術室からの景色が描けるわけでもないし、この場所は草木も生えない舗装された小石の地面広がる校舎裏だ。題材にするのにちょうどいいものは見当たらない。

 今すぐ僕に描けるもので、隣に座った女子中学生が楽しく眺められる題材。版権ものぐらいしか、もう残ってない。でも一般的な女子中学生が好きなキャラクターって何?せみもぐらだけは絶対に違う。青崎の嗜好は、一般的なところから少し外れているんだ。もう、何だろう。ネズミのスーパースターとか描けばいいのかな。

 期待の込められた視線と気配が絶えず横から放たれ続ける中、まざまざと明らかになる自分の技能の浅さに一度抉られ、一般性との乖離にもう一度抉られ、僕の心は自重で沈んでいく。見ないふりでやっていけると思っていると、こうした不意の自爆が起きることがよくある。

傷から溢れ出る色を表すような黒の絵具に指を走らせかけたとき、画材を挟んだベンチの端から、息を短く吸う音が聞こえた。

「あの、もしよかったら描いてほしいものがあるんです」

 こちらを伺うような視線に目を合わせると、少女は僕の返事を待たずにベンチから立ち上がり、校舎裏の空間を回って温室の中に小走りで駆け込んだ。

そう時間を掛けず、同じ場所から顔を出した彼女の手には、小さな鉢と、白い受け皿が一緒になって抱えられていた。駆け出したときとは正反対の慎重な足取りで、ベンチまでの短い距離を進む。

 丁寧にベンチまで運ばれた小さな鉢には、つぼみを一つつけた一株の花が、黒い土の上で柔らかそうな葉を広げていた。

 根本を葉に包まれ、淡い紫に白を掛け合わせた、柔らかい色合いのつぼみ。

ゆるやかな紡錘形がこれからどんな形に姿を変えるのか、僕にはまるで想像がつかなかった。

「温室の前を通りがかったとき、この鉢植えが見えたんです。ちいさくて、何だかかわいかったから、よければこの子を描いてみてほしくて」

 どうでしょう、と神妙な面持ちで彼女が言い、二人してその鉢の様子を静かに観察する。絵具はある。やれそうだ。

「分かりました。出来は期待しないでください」

 そう言うと、鉢植えを手にした彼女の表情がぱっと明るくなる。その様は、僕の頬に自然と苦笑いを浮かばせた。面と向かったその表情はまるで子供みたいで、肩肘を張っていた気持ちに穴をあけられてしまったようだった。

 改めて、温室から持ち出された鉢植えを眺めてみる。

鉢植えの色と、夕陽の色。器に付いた細かな傷の表現方法や、黒い土のわずかな凹凸の付け方。柔らかな緑と紫に含ませる青色は、空の色の作り方で応用が利くだろうか。

余計な緊張がとれた分、これから描こうとする絵に対する想像力は活発に動き始めていた。

ベンチの真ん中に置いた十八色の絵具セットから、最初に取り出す色を探す。

端から端まで吟味して何とか赤色に決めたとき、あ、と力の抜けた声がした。

「名前。私、名前を言ってませんでしたね。立町胡桃といいます。二年生です」

 おとぎ話から飛び出てきたような様相の少女は、体を少しこちらに向け、そう言って淀みのない微笑みを見せた。当たり前の情報を当たり前のように告げられたところで、やはりその情報が現実感を帯びることはまるでなかった。



 結論から言って、まったく出来のよくないものが出来上がった。鉢は味のある陶芸品のような不安定な形に仕上がり、葉や花の輪郭は度重なる重ね塗りによって、あやふやでアンバランスな大きさに膨らんでしまった。全体的に中途半端で、どことなく不安感を掻き立てる一品。総評を述べればこんな感じだ。

 悔しさや不満よりも、普段からデッサンや技能の習得をしてこなかった分、こんなものだろうという気持ちの方が強い。これを問題と取るとどうかはまた今後考えるとする。

 それよりも今は、頭の中に浮かぶいくつかの疑問にどうしても気を取られていた。大きさやピントの合い方に差があれど、その疑問たちは全て、ベンチで出会ったばかりの女の子、立町さんを出処にしている。

丸めた画用紙を携え、明かりの点いた美術室の扉を開けると、教室中央の机に青崎が腰を下ろしていた。

入口近くの机に置かれたブリキ缶を持ち上げる。質量を感じる程度の紙束は入っておらず、持ち上げて確認するまでもなくブリキ缶は最初から清々しいほど空だった。

「箱の中身は?」

「最初から空だったけど」

「まあそうだよね」

 不思議そうな顔をする青崎を後目に、ブリキ缶を教卓に返す。それから教室の隅の作品棚まで進んで、棚の下の方に画用紙を差し込みながら、青崎に声を掛けた。

「この学校にさ、髪が薄い茶色で、青い目の二年生の女の子っていたっけ」

「青い目の子?」

 もう一度きょとんとした青崎の表情を確認して、ペットボトルに余った水を流し台に流す。ペットボトルは脈打つように振動しながら、中に溜まった水を吐き出していく。

「目も髪も、人工物じゃない自然な色の、どこかの国のハーフみたいな雰囲気の女の子」

「ううん、知らない」

 青崎がそう言うなら決まりだろう。窓の向こうの見飽きた景色を見ながら、ペットボトルを振って水を切る。

「転校生の子とちょっと話したよ」

後ろで床が擦れる軽い音を聞いた。振り返ると、青崎は教室の真ん中で目を丸くして立っていた。口をほんの少し大きく開いて、普段とあまり変わらないようでいて、それは驚きと興奮をない交ぜにしたような表情に見える。なかなか見ない表情だ。

 そのまま、音を絞りすぎたスピーカーのように、青崎は一定の音声で言った。

「どうだった?」

「帰りながら話そう」

 流し台に立って感じた窓の外の空気は、少しずつ冷え始めていて、黒板の上に取り付けられた時計は思っていたよりも遅い時間を指していた。下校時刻になれば、校門は人であふれかえる。今はいつも以上に、できるだけ静かな場所に身を置いていたい気分だった。



 青崎の追及は、美術室を一歩出たところから始まった。まず、一日分の会話相当の量の質問が矢継ぎ早に放たれた。当然全て捌きるなんてことは不可能で、三階から一階の踊り場までを青崎をなだめるのに使い、特別棟から本棟の昇降口までの通路を歩きながら、校舎裏での出来事を大方説明し終えた。

 スカートが汚れるのも気にせず、すのこの上に腰を下ろした青崎がスニーカーの踵を整えながら口を開く。

「なんかいろいろとすごいね。その子も、肇も」

「僕も?」

 立町さんについてそう思うのはよくわかる。話をしながら、僕もつい十分前まで同じ空間を共にしていたのが不思議だと思ってしまうくらいだ。だけど僕は、立町さんに引きずられていたにすぎない。

要領を得ずに顔を上げた先の視界で、青崎が勢いを付けて立ち上がった。昇降口を出た向こうに、どこかでみた花の色に似た、柔らかな黄色の空がある。半身で振り返り、青崎は微笑んで言った。

「すごいよ。だってちゃんと逃げずに話したんでしょ?肇にしては上出来じゃない?」

 そう言われて少し黙る。黙ったまま、靴紐を二重に結んで立ち上がる。青崎は昇降口の入り口に立ち、長く伸びた髪を風に揺らしていた。

「それほめることかな」

「いいじゃん。すくなくとも怒るようなことじゃないし。それにぜーんぜん、私以外の友達の話もなかったのに。大きな進歩だよ」

 そう言って青崎はどこかくすぐったそうに笑う。その笑顔に一人の歩幅で追い付いたとき、階段を下りて話しながら考えていたことの一部分が、頭の中で形を成した気がした。

 それはひらめきというよりはふとした気付きのようなもので、考えるよりも先に、言葉になって口から出ていた。

「ちょっと似てたからかも」

「え?」

「立町さんと青崎の、何というか雰囲気かな。それがどこか似てて、途中で肩の力が抜けたのかもしれない」

「へえ。私もあってみたいな」

そう呟くと、青崎は校門に向けて歩き出した。

 昇降口を出ると、それまでぼやけていたグラウンドの喧騒が、すこしはっきりとした。それと同時に、夕方の少し冷え始めた空気も肌で感じる。少しだけ身を竦めた。

校門をくぐり、その先に用意された無駄に幅の広い階段を前にして、青崎は立ち止まった。

ゆっくりと振り向いて、複雑な色をした黒い目で、横に並んだ僕を捉えた。何かを考えているときの、青崎の表情だ。

「でも、肇が会ったその子って、先生が言ってた印象からはかなり遠いよね」

「それは、僕も考えてたけど」

先生の話から得た転校生の印象と実際の立町さんは、ベンチに座った姿を見た第一印象から大きくずれていた。

そして実際の立町さんを知れば知るほど、纏った雰囲気の棘のなさや、溌剌として実直な印象を受ける物言いまで、人を避けるよりむしろ、まず人が寄ってきやすい雰囲気だ。その様子まで、具体的に想像できる。

どれだけ考えても、そこははっきりしない。立町さんがどういう人間で、クラスではどういう風に振る舞い、どうみられているのか。頭に浮かんだ、形の見える大きな疑問ではあった。ただ、ひとつ小さな咳払いをして、答えの出ない疑念を頭から振り払う。

「僕たちが変に詮索することではないと思う。誰だって、場所が違えば振る舞いも変わる。それに、僕は先生から聞いた転校生の話を解決しようだなんて最初から考えてないし。今日立町さんに会ったのは偶然だ」

「あれ、じゃあ部活の話は?」

「全然。勧誘もしてない。ちょっと話をして絵を描くので精一杯だった」

 水彩画に前のめりな興味を持つ中学生は珍しいけれど、立町さんの興味は水彩画だけでなく、彼女が目にし、手に触れられる範囲の全てに向けられているような気がした。スニーカーで校舎裏をわざわざ散策し、普通の生徒は目に留めない温室に足を踏み入れるような子だ。

もし、彼女の言葉や表情にどこにも嘘がないと仮定したら。

そこにはまるで子供のような、好奇心旺盛で、ただの無邪気な女の子が存在することになる。

僕は、その方がいい。

孤独な転校生の正体は、見立て違いや偶然が重なって生まれた、ただの勘違い。本当は、笑ってしまうくらいの純真を纏った女の子が、ただ自分の思うように動いていただけ。

そう思いたいから、僕が知ったままの彼女を彼女の全てと思っていたいから、僕は立町さんに美術部に関することを、深く打ち明けなかった。彼女自身について、何も聞かなかった。

自由な彼女の好奇心を利用するような真似をしたくない。

よく知りもしない他人にいきなり手を差し伸べられ、戸惑いを見せる彼女を前にしたくない。

どちらに転んでも都合のいい建前だけは用意して、噂と現実のどちらが本当か、知ることから逃げてきた。

嘘を吐いたような気になりながら青崎の隣に立つのは、なかなか居心地が悪い。

「まあ、いっか。肇に友達ができたならそれで」

 青崎はそう言って、一人先に幅広の階段を勢いよく渡り始める。

何をどこまで知った時にその関係を友達と呼べるのか。その関係に嘘を抱えていれば、友達ではなくなってしまうのか。僕には何もわからない。ただ、知ることが怖い。

変わらないものなんてないと知ったつもりをしながら、出会ってしまった以上、どうしようもなく変わってしまうこの先が怖い。

次に会うときは、廊下でクラスの友人と楽しげに談笑する立町さんとすれ違いたい。目も合わせなくていい。ただ屈託のない笑顔で笑ってくれていれば、それでいいと心から思う。

こうして立ち止まる間にも、青崎は階段をテンポよく下り続けていく。

僕はひどく臆病で、僕にできることなんか何もなかった。最初からわかっていたようなことで、僕を優しいと思う人がいるとするなら、それは間違いなくその人自身が大きな優しさをもっているのだろう。

みるみる小さくなっていく青崎の背中に向け、僕は叫ぶこともできない。喉は怯えを模倣するよう意味もなく震えた。



風が、音がない場所。気怠さに満たない重みに足がとられる。

見上げた空には焦げたような色の雲が立ち込め、辺りには見渡す限りの黒い地表が広がっている。雲は分厚く、どこまでも同じ光景が続いていることを僕は知っていた。

ここは僕の心の中だ。見慣れた光景と身に馴染む空気。光の差し込まない場所で僕は息をする。

鈍った思考を携えてここに立つ。いつまでも変わらないこの場所に、あとどれほどかもわからない時間を抱えて。

もう一度目を閉じたとき、目のくらむような眩しい白が瞼に貼り付いた。

世界を丸ごと塗り替えるほど鮮烈な白色は、その先にある空を透かして揺れる。ぼんやりとした視界の中で、風をはらんで自由にはためくその白に目を奪われる。


はっとする。僕は教室にある自分の席に座って、頬杖をついていた。どうやら、気が付かない内に眠っていたらしい。

チョークが黒板を叩く軽い音を聞きながら、何となく、すぐ隣にある窓に目をやった。開いている窓は一つとしてなく、カーテンは端に寄せられたまま、静かに動きを止めていた。

脳裏にうっすらと浮かぶ、大きくはためくカーテンの映像は、今しがた目覚めたばかりの夢だと気が付いた。瞼の裏に光が焼き付いたように、あの白が離れない。

なぜそんな夢を見たのか、理由を考えても意味がない。どうせすぐに忘れてしまうだろうから。机の下に置いた下半身を、周りから見えないように伸ばしながら前を向く。

黒板の前には二人の生徒が立っていた。眼鏡男子とおさげ女子。名前はまだわからない。眼鏡男子はこちらに背を向け、ぎこちない手つきで黒板に何かを書き込んだ。

教卓に立ったおさげ女子がそれを見届けて、それから、声に少しの緊張を滲ませて告げた。達成感か、ひとつの決意か。一本のおさげを垂らして前に立つその姿は、どこか誇らしげにも見えた。

「それでは、二年三組の第一希望はお化け射的です。これでいきます」

教室の中に、拍手が一斉に巻き起こる。

寝ていた間にこのクラスの交流会の出し物が決められたようだった。



交流会。退屈な授業がこの行事のためにいくつか潰れることを考えると、いくらか喜ばしい。この学校で五月の始めに行われる行事で、その名の通り、祝日に地域住民を学校へ招いて交流を図る、一日だけのささやかな催しだ。

文化部の講演や、運動部と地域クラブのシャッフルマッチが行われたりもするなかで、生徒自身が特に盛り上がりを見せるのが、各クラスでの出し物の製作だ。

手作りであることを条件に、各クラスが趣向をこらした手作りの遊びを製作する。射的から輪投げなど様々で、毎週数時間の授業が製作時間に捻出される。地域住民との交流を目的としながらその実、新学期になって初めて、クラスが共通の目的意識を手に入れる役割も兼ねている場でもある。

ちょっと気になってはいたけど話すきっかけがなかったあの子と手が触れて。真面目だけだと思っていたあいつの新たな一面に出会って。

交流会が終わる前と後では、クラスの雰囲気が明らかに変わっている。良い意味でも悪い意味でも。

今年もうまくさぼっちゃお!

掃除の時間、教室でちりとりセットを手に交流会に対する気持ちを再認識していると、地に足のつかない会話とともに塵と埃が床を滑って運ばれてきた。

「でも箒に補助輪ってつけられないでしょ。じゃあやっぱり絨毯のほうが万人受けするよ」

「お店に入るとき困らない?丸めて抱えるのは大変だと思う」

「わ……私の負け。私の負けだー!」

 天を見上げてそう叫ぶのは、青崎の友達のちょっと騒がしい子だ。名前はまだ思い出せない。手にした箒を投げ出さんばかりの勢いで脱力をしていた。

 そんな彼女の隣に立った青崎に視線で尋ねると、青崎はこちらに少しだけ身を屈めて言った。

「空飛ぶ箒と空飛ぶ絨毯はどっちがいっぱい売れるかって話」

 確かに絨毯は持ち運びが手間だし、空を飛ぶものに補助輪を付けたところでどのみち意味はない気がする。ミニ箒で塵たちをかき集めながら、頭の中でそのあてのない議論に密かに参加してみる。やはり箒の方が最初から少し優勢な立場な気がした。

 二つに束ねた髪の先を垂らしてうなだれる彼女の視界にちりとりが入ったのだろうか。床に屈んだこちらの存在に気付くと、僕を見たまま弱々しい声を上げた。

「八坂助けて!絨毯派に希望をみせてよぉ」

 接点は教室の掃除当番が班的に重なる程度で、まず、名前を呼ばれたことに純粋に驚く。

とはいえ名指しで言われたところで絨毯派に加わったおぼえがないし、絨毯でも箒でも上空を好きに飛ばれるのは少し鬱陶しいかもしれない。そんな心の声を端に避けて、残った思い付きを口にする。

「ピクニックの時にそのまま使えるとか?」

 釣り目がちな瞳に一度光を灯しかけ、何かに気づいてまたすぐに肩を落とした。

「だめだ。汚れちゃう……」

「浮き続けてれば大丈夫じゃない?」

「あ、そうじゃん!」

 横から箒派閥の青崎に出された助け船に素直に乗っかれる彼女の素直さは、傍から見ていて心地がいい。騒がしい彼女はあれでいて、青崎が助っ人に出ることもあるバドミントン部で、エースを務めているらしい。新学期が始まったその日に、青崎が同じクラスになれたことを嬉しそうに話していたのを思い出す。青崎はいい友達を持っていると思う。

「はやく空飛べるようにならないかなー、楽しみだー!」

「高坂さん。高坂さん、ごめん。埃。埃が散ってる」

半分賭けで頭に浮かんだ名前を呼んでみると、彼女はバタバタしていた足を慌てて引いてくれた。

夢見る視線で遠くを見たまま手元で無意識に箒を動かして埃を散らしてしまうのも、きっと真っ直ぐな性格ゆえなのだろう。名前も思い出した。高坂えりねさん。青崎はいい友達を持っていると思う。



ちりとりセット片手に掃除ロッカーまで戻ると、青崎と高坂さんが窓を背にして扉の近くに立っていた。真剣味のある表情で高坂さんは何かを論じ、青崎が時折頷き、屈託のない様子で笑う。

壊しがたい雰囲気を横目に、扉の裏についたフックにちりとりを掛けて、ロッカーを閉める。それからふと窓の方を見ると、談笑を続けていたはずの二人が口を噤み、不思議なものをみるような視線をこちらに向けていた。

二人並んで立つと、青崎のほうに一回り分の身長の差がある。それなのに、高坂さんの視線は猫科の動物に視られているような静かな威圧感がある。

青崎の友達とはいえ、僕は高坂さんを今年のクラス替えで現物を見たばかりだ。話だけではない等身大の彼女には、まだ得体の知れない怖さがある。

何を思われているのかどんな声を掛けるべきかもわからず、掃除ロッカーのすぐ側にある自分の荷物入れから鞄を取り出す。みえない首輪に繋がれたように、窓の側に立つ二人を近くに感じながら教室の隅にある自分の机に鞄を乗せた。机の中から教科書を取り出して、開いた鞄の中に入れる。

その繰り返しを無言の空間で続けるなか、青崎の声が妙な沈黙を打ち破った。

「肇は今日部活はどうする?」

 僅かに微笑みを湛えた青崎の表情は普段と何ら変わりなく、自覚のないうちに悪いことをしてしまったわけではないらしい。少し安心する。

その隣にある変わらない視線にはなるべく目を向けずに、僕は意識して息を吸った。

「今日は行かないかな。足りない絵具が結構あったから、買い足しに行こうと思ってる」

 昨日の筆を握った手触りは、まだ形を保って残っていた。慣れ切っていた場所から離れて、見たままを見たままに描くという行為。

頭の中で思った通りにならない色と、筆先の動きにもどかしさを覚えながら描き進めて、それが一応の完成のかたちをとったときの得も言われぬ感じ。

体がじんわりと汗ばんで、画用紙を前にして浮足立つのと同時に沸きあがる、自分の力不足を実感する不思議な冷静さ。

絵を描き進める瞬間のわずかな高揚と、立ち止まったときの確かな絶望。

 先に進むということはもしかすると、これを味わい続けることなのかもしれない。

僕は第二美術室のあの場所に居続けて、動く必要がないと思っていたからこそ、一年間そこから動き続けなかった。これから先、もし絵の上達のためにどれだけ勉強をして描く枚数を重ねようと、この妙な感覚だけは変わらず側にありつづけるような気がした。

今は昨日の感触をもう一度実感してみたいとも思う気がするし、美術室の隅で時間を過ごしたいと思うような気もする。自分自身がどちらに傾いているか、はっきりとわからない。

 ただ、足りなかったり使えなかったりする絵具があるとわかったなら補充はする。とりあえず、今日はそれだけだ。

 青崎は僕の答えを聞くと同時に窓枠から離れて小さな伸びをした。

「私もいこうかな。しばらく助っ人の予定もないし」

 掃除が終われば、放課後が始まる。

学校全体に放課後の賑やかさが十分に行き渡った時、校舎裏のベンチにはどんな空間が広がっているのだろうか。

今日一日、ふと訪れる空白の時間にそれは何度も想像だけして、その度何も思い浮かばずにすぐやめた。昨日見た光景は頭の中でもう現実感を失い始めていて、どう考えても同じ空間が存在しているようには思えなかった。

僕に考える意味はないと知っているのに、どうしても考えてしまうのはなぜだろう。

少し俯いて考えても、さっきまでの視線の圧を感じない。

ふと見ると、荷物入れに歩き出そうとする青崎を、体をほぼ斜めにした高坂さんが全体重で引き止めようとしていたところだった。



まだ青いままの空の下を、紺色のブレザーから一転して淡いピンクの薄手のパーカーに袖を通した青崎が歩く。

左右を家のブロック塀に挟まれた道は、狭いながらも人の住む空気がずっとそばにあって、息苦しさはあまりない。僕の前を進みながら、青崎は一人で静かに笑う。

「なんか、懐かない野良猫について話してるおじいさんみたいに聞こえる」

 黙っていた高坂さんがあの時何を考えていたのか、そもそも傍から見ていて中学生という生き物がどういう思考をしているのかまったくわからない。そうなんとはなしに話したら、こうだ。

自分では何の気なしに話していたつもりが、遅まきながら少しの恥ずかしさがこみ上げてきた。自分で思っていたことに近しい例えをされてしまったのもなかなかだ。

 咳払いをひとつしてみても、居心地の悪さが消えてくれるわけではない。

「考えたことが顔に全部顔に書いてあれば楽だとすら思う」

「そう?どうかな」

 そう言ったきり、青崎は何も言わなくなった。無言の時間は否定の象徴か空想の時間か、それともただ興味を失くしただけだろうか。案の定、考えたところでわからない。

もし振り向いた顔にでんと答えが書いてあったところで、僕はそれに対して何らかの感情を持たずにはいられないだろう。僕の顔に書かれたそれを見て、青崎がまた顔の文字を変える。そのやり取りを無言で繰り返す。そのやり取りも含めて通例化した世界。想像してみたところで、その世界はあまり心地のいい場所にはならなさそうだった。

 十分な沈黙の後、青崎は半身でくるりと振り返った。中途半端な角度で見る横顔はいたずらな笑みのように見えて、角度を変えた途端にまったく違う色に変わってしまうような曖昧な表情にも見えた。

 生垣が落とした影と壁の向こうに広がる空の合間に立って、息が詰まった理由はなんだろう。

何も言えない僕の先で、青崎は体を前に進めながら言った。

「でも、肇の考えてることは顔を見ればちょっとわかるよ」

 僕が開きかけた口から発しかけた声を車の排気音が塗りつぶす。細い道路は青崎の行くすぐ先で終わっていて、その先は川の上を通る道路に繋がっている。青崎は軽い足取りでT字路を左に曲がり、数歩先で見えなくなった。知らないうちに大きくなる歩幅でその後ろを追う。青崎は角を曲がった先で、書店の入り口に立っていた。色褪せた緑と黄色の縞模様の日除けの下で、こちらを見つけて小さく、どこか活き活きと笑みを浮かべた。

 青崎は一人先に日除けの下を進んで建物に入っていった。穏やかに流れる川の音が聞こえる。ほんのりと海の匂いがまじった川の匂い。

 川に沿ってガードレールとフェンスが片側を覆う道路を進み、日除けの下に入り込む。すると、さっきまで際限なく広がっていた匂いや光が、日除けの下で一段階遮断されたような感覚に襲われる。

古ぼけたゴムの匂いと薄暗い視界。ワゴンに両脇を固められた扉の前に立つと、遮光ガラス越しに本が棚を埋め尽くしている店内が一望できた。ガラス戸を押して、薄暗い照明の店内に足を踏み入れた。

家から十五分ほど歩いた場所にあるこの個人書店が、僕たちの知る限り一番近い場所にある書店だった。こじんまりとした店内の奥には文房具コーナーがあり、棚一つ分を使って絵具や絵筆などの画材が置かれている。

決して広くない店内の貴重なスペースに、油絵用や水彩画用など豊富な種類の絵具が用意されているのに加え、中学生も手が届きやすい値段のアクリル絵具にも、定番を外した色がいくつかあるのがありがたい。

棚の隅にある絵の具のばら売りスペースから、アクリルの絵具を何本か抜き取る。目的の色と、ふと目に付いた色を何本か。

入口近くのレジに向かう途中で本棚の合間を練り歩くと、青崎はいつもの本棚の前で手にした文庫本を睨みつけていた。薄っすらとかかった店内BGMからはみ出ない声量で、横からそっと声を掛ける。

「まだ悩み中?」

 難しい顔を崩さずにうなずいた。今手にしている本と、平台に載った青い表紙の文庫本を見比べて短く唸る。

「僕が一冊買おうか?」

 そう言うと、顔を上げた青崎の表情から陰りが消えて、わずかに丸く形を変えた目に電灯の光が入り込んだ。

「いいの?」

「読み終わったら交換しよう」

「じゃあ、じゃあ肇が先に読みたい方選んで」

 少し興奮気味に差し出された二つの本を裏返してあらすじを読む。案の定、二冊ともが宇宙を題材にしたSF小説だった。

「ほんとにSF好きだね」

文房具コーナーがこの店内の隅にある棚の一つを占拠しているのに対して、SFや宇宙関連の書籍は、棚を一列びっしりと埋めている。

棚ごとに大まかにジャンル分けされて配置された書籍の中で、小説以外で棚を一列まるごと使っているのはSFジャンルだけだ。これは間違いなく店側の趣味だと断言できる。その趣味丸出しの品揃えが青崎の趣味とばっちり符合したのも、この書店を利用し続けている理由の一つだ。

 裏に書かれたあらすじをちょっと読んでみたりしてから、差し出された二冊のうち、青い表紙の方を受け取った。強いて言うなら決め手は表紙。小説なんて開いてみるまで読みきれるかもわからないものだ。当たるも八百円当たらぬも八百円。語呂が悪い。



 左右から生垣が手を伸ばす道を歩く、帰り道。示し合わせたわけではないけれど、行きと違い今度は僕が前を進んでいた。

「肇、ありがとう。読み終わったら渡すね」

「ゆっくりでいいから。青崎はいつも本を読むのがいつも早すぎる」

「え、でも私四週は読むようにしてるけど。隅まで憶えるまで読まなきゃ」

 あのぺらペらと本をめくる読み進め方でそこまで読み込めるのが不思議だし、青崎が四周読む時間で僕は文庫本を半分までしか進めないのはなかなか虚しいものがある。

青崎のことだし嘘はないのだろうけれど、アキレスと亀に抱く無力感が立ち込める。

 肩を下げてしばらく前を歩いていると、青崎が小さく息を吸って吐く音が足音の合間で微かに聞こえた。

「あのね肇。えりねと話してたことだけど」

普段よりどこか落ち着いた声に思わず振り返ると、ブロック塀と家屋がつくる影のなかで、青崎は眉を下げて困ったように笑っていた。

「ほんとうに大したことは話してないんだ。肇のことを聞かれて、いい子だよって言っておいただけ」

「それだけ?」

 そう聞くと、青崎は僕に向け続けていた目をそっと逸らした。

「あとはひみつだけど」

 でも悪いことじゃないよ、とばつが悪そうにしながらも青崎は笑みを浮かべる。青崎がこう言うなら、これ以上の追及は何も意味がないだろう。

青崎が秘密というならそれはどこまでも秘密であるべきで、それを無理やり暴いたところで青崎にとって嬉しいことではないはず。そもそも全然気にしてなかったし。全然。

青崎との会話のなかで青崎の方から秘密という単語が初めて出たことにも、全然驚いてない。全然。

「そういえば肇、見たことない色の絵具買ってたよね。綺麗な色」

「え、あぁ」

 二つの小さな袋をレジで一回り大きな紙袋に纏めてもらって、それは今僕が手に提げて歩いている。確かにその中の僕の袋の方には、普段使いする絵具に加えて初めて手に取ったような絵具がいくつか入っていた。

「交流会用の絵の具?」

「あー、いや。どうかな」

「秘密?」

「秘密」

 僕が立町さんの前で貧相な作品を作り出したことは説明していないし、説明したところで普段僕が同じ風景を描いていることに飽きている青崎は、きっと食いついてくる。普段から未完成で放ってばかりとはいえ、それに輪をかけて未完成で不格好なあの絵を青崎に見せる気はなかった。

 だから秘密は秘密。そう。生きていく上で誰だって、一つや二つやそれ以上秘密を抱えていくものなのだ。青崎は細い路地の隙間に忍び笑いを落として、僕の方からは乾いた笑いが漏れた。



 そして翌日、水曜日の放課後。

美術室のいつもの場所で、画用紙に筆を走らせながらぼんやりと考える。

月曜日の先生の書置きに素直に従うのであれば、週末までに交流会に展示する新作の題材を決めておきたいところだ。

 地域に部の活動をかたちにして見せるというのが、交流会の名目上の意義ではあるものの、そこまで大仰なことをする必要はないはず。一枚でも仕上げれば上々だろう。一人だけの部員で展覧会を開くとてたかがしれている。

ありものを並べるにしてもどれも画角が同じなものばかりで、共通の課題作品を展示しているような様相になってしまうだろう。存在しない部員の虚像を作り出すというのこと自体は、それはそれで作品として成り立つ気がしなくもないが、去年の交流会で並べるだけ損になることはわかっている。

きっと今年も青崎以外、誰も来ず見られずの第二美術室となるのだろう。終了時間を告げる放送を聞きながら、ちょっと張り切って窓際に並べた画用紙たちを片付ける時間の何と虚しいことか。あのときの場にけたけたと笑う青崎がいなければ、僕は画用紙たちを丁寧に粉々にして窓から解き放っていたかもしれない。

 去年と同じ気分はすすんで味わう気にはなれない。今年は最低限の展示ですませるとして、一点の題材に何を選ぶか。作品棚に詰まったいつものやつを新作として出したところで、先生が素直に認めてくれるとは思えない。

 せっかくの交流会なら。そう控えめに言う先生の様子が簡単に想像できる。新入生に勧誘をまったくかけてないこともあるし、重ね重ね先生を困らせるのはさすがに忍びないとは思う。ここは手近な題材で手を打つべきだろうか。身近な、なにか描いていて面白みのあるもの。

 しばらく考えて筆を止めた。さっきから、作品棚の下の方が気になって仕方ない。一段ずつ引き出せる木造りの大きな棚の、下から二番目。そこに花もどきを映した画用紙が入っていた。まるでこちらにじっと視線を送り続けているように、意識の端にずっと居座り続けている。お前は何をそんなに主張したいのか。

ばらばらに埋まった作品棚の中に、違うものを映した画用紙がたった一枚ありつづけることが、こんなにも落ち着かない気持ちを引き起こすとは。下手な出来栄えだろうと、普段からそれは同じだろうに。

よくわからない。僕はなぜこんなに落ち着けないのだろうか。

焦燥に駆られて無意味に立ち上がりかけたとき、背中の方で声がした。

「これは……海ですか」

 反射的に振り返ると、数歩離れた位置に立町さんが立っていた。声を出して驚く間もなく、相変わらずの真剣さを放つ視線が向く僕の前方へと、もう一度向き直ることを強制された。

「何でしょうね、これは」

 キャンバスに立てた小さな画用紙には明確な形のあるものは存在せず、ただ横に伸びて重なった色が、紫から青を経て鮮やかな水色に至る濃淡を描いているだけだった。考え事の片手間に新しい絵具の試し描きをしていたつもりが、画用紙のなかにはいつのまにか意味のない色の塊が出来上がっていた。

 聞かれてみたところでわからない。海だと言われたら海のような気もするし、幅の広いお椀のようにも見える気がする。これ以上の答えに詰まっていると、立町さんは何かに気づいて声を上げた。

「お邪魔してしまいましたか?」

「いや、それは全然気にしないで」

 壁に掛かった時計を見ると、放課後も終盤に差し掛かろうとしていた。こんな時間にこんな辺鄙な場所で何をしているのか、立町さんにそれとなく尋ねると、校舎を散策する途中でここを通りがかったのだという。

「廊下から画用紙と絵具の色が見えて、思わず扉を開けてしまったんです」

「絵具の色?」

 首を傾げると、立町さんは頬をわずかに赤らませた。

「窓から中をのぞいたときに不思議と目に入って。校舎の散策は教室にまで立ち入らないようにしているのですが、少し気になることができると、もう止まらなくなってしまうんです。驚かせてしまったならすみません」

 立町さんは体の前で両手をゆるりと重ね合わせ、それからキャンバスの上の画用紙を見て言った。

「でもやっぱり。きれいな色ですね」

「意味はないですよ」

 形のあやふやな笑みを浮かべながら、立町さんの視線から目を逸らして首を振った。

「それでも、きれいな色ですよ」

 立町さんは微笑んで言う。まるでこちらの動揺も不安も知らないみたいに、ひどく眩しく純粋に。

 おたがいに言葉が途切れ、ため息を吐くようなわずかな間を終えたあと、立町さんがゆっくりと口を開いた。

「あの、いきなり入っておいて不躾ですが、もしお邪魔でなければ、少しの時間このお部屋を見せてもらってもいいですか?」

 不思議な提案だ。断れるだけの理由もない。



立町さんはまず、美術室をゆっくりと歩き始めた。廊下側の窓下につるされた色付き雑巾の一枚ずつを眺めてまわり、教卓に広がる惨状に驚愕の表情を浮かべる。ふれるものひとつひとつに表情を変えながら、足跡で一つずつ点を打つように、立町さんは美術室を入念に進む。

 そんな立町さんを背に今更画用紙に向き合う気にもなれずに、片付けを簡単に終え、手持無沙汰なまま画材バッグの内ポケットに入れっぱなしの空の絵具を指先でもてあそぶ。立町さんは教卓の側の窓際を進みながら、窓に軽く触れさせた手を滑らせる。

「立町さんは」

声をあげると、窓の向こうを向いていた瞳がこちらに向いた。透き通った青い色の瞳は、そこに満ち満ちたエネルギー以外、どこまでも読み取れるものがない。おとといの記憶と何も変わらない。

慎重に言葉を選んで、指先でつかめる言葉以外は、全部ポケットに捨て置く。

「こういう場所はすきですか?」

 そして残ったのがこれだった。結局は沈黙に耐えかねて質問をしただけで、それにしても当たり障りがなさすぎる。なさすぎて何にも為らず、風船かと思うくらいに軽すぎる質問が宙をふわふわと漂う。青崎、今すぐ来てくれ。机の下に緊急要請ボタンでもあれば今すぐに押したい気分だ。

空想に意識の紐を手放しかけたとき、立町さんは微笑んだ。

「好きですよ。静かで、木の匂いと、これは絵具の匂いでしょうか。いい匂いがします」

 立町さんがぐるりと見回す先には、いつもと同じ第二美術室の風景がある。

「学校を散策していると、たくさんの色を感じるんです。その場や、その人に溜まった色。瞬きのあいだに移り変わるものまで、本当にたくさんの色を。この場所はなんだか、冷たいけれど優しくて、木陰の下みたいな色がいっぱいなんです。ここだけの色」

 青空の貼りついた窓際を立町さんは進む。一歩ずつ距離が近くなろうと、立町さんの浮かべる表情の見え方はかわらない。直線状に二つ離れた机の横に立って、立町さんは微笑んだ。

「この場所も。学校も。本当に、世界は綺麗なもので溢れていますよね」

ベンチに座った立町さんを見た瞬間から、立町さんは絶えず、僕の心のどこかに居座り続けていた。

ごく自然に太陽の光を吸い込む淡い栗色の髪と、見たこともないような深い色をした青い瞳。

その見た目からまず異質と判断して、次に出会ったばかりの人間に分け隔てなく笑顔を向けるその明るさに身構えた。近づくためか遠ざけるためか。人に向けられる笑顔には、必ず理由があり裏がある。そう思っていても、立町さんの浮かべる表情にはどこまでも、嘘がないと感じさせられた。手の中の鉢を見るときの視線。世界は綺麗だと言って浮かべる笑顔。

すべてがまるで突拍子もなくて、嘘みたいな存在の女の子。

その実在を信じることを、頭に残った話ひとつが遮っている。自分から人を遠ざけた上で孤独を選ぼうとする転校生。僕から見る立町さんとはまったく結びつくことのない情報。

何も言えない。自分の中に作り上げた立町さんは得体が知れず、真実を確かめる勇気が僕にはない。確証のない話を頭から振り捨てる強さもない。

立町さんから目を逸らそうとしたとき、不意に、この場の雰囲気が変わった。

僕の後ろにある窓の外に視線を留めて、立町さんが小さな歩幅で歩き出した。一点に視点を定めて、何かに引かれるように足を運ぶ。その先には水道台があり、窓に遮られた外がある。

唐突に、立町さんは纏う雰囲気を変えていた。まるで、画用紙から色が抜けていくように。立町さんから聞こえる音がない。瞳に満ちた活力がない。

僕の横を通り過ぎて立ち止まった立町さんは、美術室の隅にある窓に視線を向けていた。そこは街と海と、空があるだけの景色。毎日眺めたところで代り映えのない風景があるだけの窓を、立町さんは見ている。

「あの場所は」

小さく呟きを漏らすのと同時に、美術室の扉が開く音がした。

「こんにちはー」

入口に立った青崎は、教室の隅に立つ僕たちに気が付いて瞳を大きく開いた。

「あっ、ねえその子って」

 そこまで言いかけて、青崎は不意に口をつぐんだ。何もない場所に視線をただ投げるように、僕らが立つ場所に向けて、空っぽの表情を浮かべる。

しかし、それは、ほんの一瞬の、まばたきとまばたきの間に消えてしまうような些細な勘違いだった。

 普段通り硬さのない笑みを浮かべて、青崎は言った。

「転校生の、立町さん?」



青崎と立町さんの会話はつつがなく行われた。起承転結もない、至って普通の、初対面同士の女の子が交わす自然な会話だった。

門限があるから、と立町さんが美術室を後にし、扉から姿が見えなくなったあと、青崎が言った。

「ほんとにただのいい子だね。話しててわかるよ」

「うん」

「先生の話が違ったんじゃない?聞き間違いとか、人違いとか」

「そうだね。僕もそう思う」

 屈託のない笑みで初対面の青崎と会話をする立町さんに、周囲に馴染めない転校生の面影は一切存在していなかった。本当に、ただの女の子だった。

噂話なんて、結局は誰かの勘違いだったのだ。

不思議なくらい純粋で、興味の向かうものに真っ直ぐに向かう女の子。それが転校生の正体で、立町さんは立町さんでしかなかった。想像できる中で一番欲しいと思っていた結末だ。

机に伏せていた読みかけの文庫本を起こして、開いたところに紙の栞を挟む。少し軽くなった心で安堵の気持ちに向き合いながら、いつの間にか文庫本のカバーに付けてしまった小さな折れ目を指で拭う。

この引っ掛かりはなんだろう。まるで見えない汚れのように、そこにあるのに消えない違和感。

立町さんの正体、普通の女の子の実態を目の当たりにして、余計な先入観は取り除かれたはずなのに。

後に残った立町さんの存在が、廊下を出た先で、霧のように消えているような気がした。

ただ頭の中をよぎった想像を振り払う。この理由のない違和感は、どこへ吐き出すこともなく、気づかないうちに忘れて消えてしまうだろう。

ふと、不自然な沈黙を抱えて立つ青崎の方を見やる。青崎は頭に片手をあてて、どこか苦しげに表情を曇らせていた。

「青崎?」

「ごめん、ちょっと頭痛い。なんでかな」

 青崎が頭が痛い。それだけで、言い知れない不安が湧き立った。青崎が表情に出すくらいの不調は、記憶にある限り初めてだった。



 その日の夜に夢を見た。長方形の窓から見える空の色以外がすべて白で出来た部屋で、僕は真っ白な椅子についていた。

 真っ白な机を挟んで、向かいの席には一人の少女が座っていた。周囲から吸い込んだ光を滑らかに反射する淡い栗色の髪と、宝石を埋め込んだような黄緑色の瞳。歪んだ部分のない顔の部位ひとつひとつが、微笑みの形をとるために動いた。

親し気で柔らかな視線がこちらに向く。その人がわずかに首を傾げると、白いワンピースの前面に流れた髪が一緒に傾いた。

「こんにちは。お久しぶりです」

 その声はくぐもったようにも、すぐ耳元で響くようにも聞こえた。少なくとも、音のないこの場所に溶け込むには、ほんの少し時間のかかる音だった。それで気が付く。

「あの、初めましてですよね」

 僕が恐る恐るそう言うと、椅子に座ったその人は、緩やかな弧を描く瞳をほんの少し歪めて、親しみを込めた視線にからかうような色を混ぜた。

「ご名答なり。やはりばれてしまうものなのですか。それだけの時間と回数が重ねられているというだけはある」

 僕が質問を声にするより先に、その人は曖昧な微笑みを変えずに言った。

「あなた方の尺度の上で言うなら、九年と三か月二十五日三時間十六分。それだけ続いたあの子の世界は、もうすぐなくなる。形を失うと言ってもいいでしょう。砂でできたお城は耐用性に問題がある。実用性に関しては最初からあってないようなもの。砂を詰めればあとはもう、人が住める空間なんて残ってはいないのですから」

 そこで、微笑みをかたどっていた瞳が形を変える。横にある窓が微かに音を立てた。

「お城が消えると、どうなるんですか」

「すべてが元に戻るだけです。形のない場所をただ漂うだけのこの時間が、あなたが目を覚ますと消えるのと同じように。最初からなかったものが世界から切り離され、本当になかったものになる。それだけです」

 五本の指を机の上に這わせて、その人は目を伏せた。

振動の上を砂が滑り出すように、意識がばらばらに散らばり始める。少しずつ、五感の焦点がはっきりとしなくなる。

「私がここにこうしていられてしまうくらいには、あの子の力には穴が生まれ始めている。とはいえ、すぐに崩れるほどの穴ではない。またお会いするときは訪れるでしょう。たとえどこにも意味をなさないとて、せめてあなたにはお話しておきたい」

 視界がぼんやりと白み始める。思考が重い、のは最初からだっただろうか。意識の輪郭が、みるみる形を失くしていく。

「にっちもさっちも待ったもなく、ほんの短い時間を経て、世界は一度生まれ変わりを迎える。それはどこまでも世界にとって無意味であれど、それは本当に、もうどうしようもないこと。それならせめて、こうして空いた席は有効に使わせてもらいましょう、ということです」

ぼやけ始めていた視界が、そこでぎゅっと色を取り戻す。机の上に置かれた僕の掌は、机の反対側から差し出された五本の白い指に強く握られていた。

「言葉に思考が伴うのなら、そして思考に意思が存在するのなら。その意思が生まれた意味を、わたしは探している。どうかまたお話しましょう」

 目と目が触れあうほどの距離でそう告げられ、指の感触が唐突に消える。

すると、色を取り戻したのと同じ速さで、視界はもう一度白んでぼやけていく。

今度はもう、誰にも引き止められることはなかった。

 

 目を開く。横手にあるカーテンの隙間から光が差し込んで、暗い部屋を薄っすらと明るくしていた。朝だ。



「あ、八坂さん。こんにちは」

どことなく落ち着かないまま一日を過ごして、そろそろ放課後を迎えようというとき、美術室に向かう特別棟の階段の踊り場で立町さんと鉢合わせた。

場面だけを切り取れば、何気ない日常の一幕。

それでも僕の中には、怒涛の衝撃が一瞬にして形を持っていた。

 どうして立町さんは今ここにいて、ふわふわと微笑んでいるのか。

昨日見限ったばかりの不安が再三頭によぎる。

それでも、その不安は昨日以前とまったく同じ形をしているわけではなかった。

立町さんについて知らないことはたくさんあるけれど、昨日青崎と話す立町さんを見て、天真爛漫で純粋な立町さんに嘘がないことは知った。きっと今は好奇心につられるまま、校舎を散策している途中なのだろう。

ただそれでも。立町さんのあまりに普段と変わりなく邪気のかけらもない立ち姿に焦りは生まれた。

「もし、迷惑でなければ、美術室に来ませんか。すぐそこだし、あそこなら人目にもつかないですし」

何を聞くべきか言うべきかも分からない。場面だけを切り取れば、それはナンパ学習AIが初めて実地試験に出た場面にも見えただろう。


未発達AIに言われたままついてくる立町さんも立町さんだとは思うけれど、それが立町さんということだ。

聞きなじみのないメロディの鼻歌を歌いながら、立町さんは机の上に指を滑らせ、教室をゆっくり奥へと進む。

僕は教室の扉を後ろ手で閉めたあと、なんとなく教卓の横に立ったままで立町さんの背中に声を掛けた。

「突然すみませんでした。あそこは人通りが少ないとはいえ、まったく無人というわけではないので。ここなら、この時間は誰も来ないはずです」

 立町さんは足を止めて振り返り、不思議そうな顔を見せて首を傾げた。まるで言葉の意味自体が理解できていないように、疑問を浮かべるその表情は大げさに映った。

「先生に見つかると色々面倒ですよ。部活に入ってないならなおさら、その場しのぎの言い訳の手段もないでしょうし」

 おかしい。話が通じていない。表情を変えない立町さんを見ながら、添える程度に浮かべた下手な笑顔が、少しずつ固まりはじめる。

「今、交流会の製作の時間ですよ。ロングホームルームの、途中」

六時間目のロングホームルーム。今ごろすべての学級で、和気あいあいと工作が行われているはずだ。

そんな場所を自分から抜け出した立町さんにと僕の間には、焦りや罪悪感のような、ほの暗くて後ろめたい感情が共通してあるはずだった。

大抵、どうしたって目を背けることはできない。誰も来ないと分かっている場所にいたところで胃は冷たく締まるし、手先も微かに震える。それだけの勇気はないから、居心地の悪い場所から完全には逃げ出せない。集団から抜け出れば、臆病でどうしようもない自分だけがひとりぼっちで立っているだけ。それを心のどこかで痛感し続けるということ。それが、僕にとってのさぼりだった。

それでも立町さんは、まるでにこにこ平然とここに立っている。校舎裏のベンチに座っていたときと比べても、どこまでも歪みない。内に暗い感情を最初から持ち合わせていないように、ほがらかに纏う雰囲気ははてしなく柔らかいままだ。

 立町さんは本当に、どこまで立町さんなのだろう。芯が太い。図抜けている。それだけでは言い表せない揺るがない何かが、立町さんにはある。それは価値観だったり、独特のテンポ感だったり、立町さんがこれまで積み重ねてきた立町さんの時間に形作られたものなのだろう。

たとえば、家族。見てきたもの。大事な場所。出会ったばかりの僕にはわからない立町さんを構成するその中身を、少し知りたいと思った。

相変わらず、この気持ちを正しく言葉に変えるやり方はわからない。わからないまま、視界の焦点を引き絞る。

目を向けるのは、僕自身を構成する中身について。

他人に素直な自分が見せられない。

怖いものからは逃げることしかしない。

彼女がああして佇むなら、僕は?

これまでどんなものを見て、何を大事にしてここまで生きてきたんだっけ。

僕だけが知る時間。手作りの薄っぺらな布カバンの中身をそっと覗き見るような。

形だけは外から知っていて、それでもそこにあることはずっと忘れていて。

生きてきた時間の分膨れたその中身は、どんなものをしまっていたんだっけ。


無意識の下でそっと記憶を取り出して見つけたのは、塗りつぶされた黒の塊だった。


「八坂さん?」

 立町さんは眉を下げ、二つの青い瞳で僕を見ていた。

「大丈夫ですか?ぼうっとされているようですけど」

「え?」

 寝起きのように変に重たく鈍くなっていた頭を振る。直前の会話の音はぼやけて頭に残っていて、意味も理解できずにうまく繋げることもできない。

さっきまで僕は何を考えながら、立町さんと話していたのだろう。

まさか会話の内容を忘れましたと唐突に切り出すこともできず、歯から抜けるような息を吐きつつ手を首にやったり肩にやったり曖昧な動作で時間を潰そうと目論んでいると、立町さんが首を傾げた。

「あら?私たち、何についてお話していたんですっけ。なんだか、会話の中身が頭から消えてしまっているような」

 立町さんならここまで自然に言えるらしい。あまりにためらいない立町さんの様子と、二人して同じタイミングで話の内容を忘れていたことに二重に驚く。無意識に進められるほどよほど中身のない話でもしていたのだろうか。

 思いがけずに生まれた空白の時間に、どちらからともなく小さな笑いが漏れる。

 それから立町さんは無邪気に目を大きく開いて、人差し指をぴんと立てた。

「あ、そうです。八坂さんに今日会えて、とっても幸運だったと言いたかったんです」

 はぁ、そりゃまたどうして。まるで大喜利かと思うぐらいに、その台詞に前後関係が見当たらない。立町さんは指先に至るまで相変わらずの好奇心をみなぎらせて言った。

「私、八坂さんの絵をみせていただきたいんです」

「それはまた、どうして?」

 戸惑い半分、怯み半分。こちらが表情を強張らせようと、立町さんは瞳の青い輝きを止めない。

「私、八坂さんに階段で出会ってからここまで来る途中でわかったんです。昨日、思わずここに入ってしまった理由。なんというか、八坂さんの隣であの絵が完成するのをみたときからなんです。八坂さんの絵から感じた、引っ掛かりというかスイッチというか、とにかくビッとくる何かが忘れられないんです。ずっと、頭のどこかにあって、校舎を見て回っても、誰のどんな時間を眺めていても、八坂さんの絵から感じたあの感覚だけはどこにもないんです。昨日窓からここを通りがかったときの感じと、八坂さんに突然出会えたときの感じが一緒で、私やっと気がつきました!」

 一歩こちらに詰め寄る立町さんの瞳には、騒がしいくらいの好奇心が宇宙のような青色になって渦巻いている。

「つまり、ファンなんです、たぶん!八坂さんの絵にもう一度触れたくて、見てみたくて、だから私、今もこんなに胸がざわざわしてるんです!」

 声を繋げるほど肩が息で切れていき、纏う雰囲気が風船のごとくみるみると大きく膨らんでいく。何を言おうと立町さんはここから退かない。世界がどれだけ間違いと勘違いに溢れていようと、これだけは間違いない。

「大したものでもなくて、面白くもないと思いますけど」

「それでいいんです!あ、言葉通りの意味ではないですが、それでいいんです。私は、八坂さんの手掛けたものに触れたいんです」

 元々誰のためでもなく惰性で色を塗った未完成の画用紙に、立町さんは何かを感じることはあるのだろうか。相変わらず立町さんの生きるスケールがわからない。

作品棚の内には同じ構図の画用紙がばらばらに入っていて、一番下には鉢に入った紫の花の絵がまだ収まっているはずだ。五十分の授業時間は無為にすごすには無駄に長く、無理やり立町さんを連れ込んだ第二美術室にはさしてやることがない。

ここに立った時点で逃げ場はなかったということか。立町さんはじっと息を呑んで僕を見つめている。



作品棚に眠る大差ない画用紙の中からなんとなくましな気がする一枚を引き出して、教室隅の机に乗せた。立町さんが真剣な視線を画用紙の上に注ぎ、僕はその後ろでたじろぐ。

とても落ち着けない時間が無言とともに過ぎていき、画用紙に視線を落とす間、身動き一つしなかった立町さんが振り返った。ほんの少し、表情が強張っていた。

「八坂さん、この場所って」

「あそこ」

 指さしたのはいつもの場所。教室の隅から見える、背の低い街並みと海があるだけの、何の代り映えもしない景色。僕が日頃理由もなく眺めている景色。その一点に視線を向けて、立町さんは何度か大きくまばたきをする。その度、青い瞳の中に窓越しの青色が新鮮に入り込む。

「そう。そうですよね」

 立町さんが息を吸い込む。溜めこまれたものが一気に爆発する予感。それはあまりにも白く大きくはためいて、僕に止めることなんかできない。

「やっぱり八坂さんはすごいです!私、進むべき方向が分かった気がします!すみません、私、私行かないと!」

 そう言うと、立町さんは駆け足気味の早足で一人出口に向かう。一つしかない扉に手を掛けて、こちらを向いた立町さんは口を大きく開いた。

「ありがとうございました!あの、お礼はまた今度!」

 それだけ言うと、まるで傾斜のある道を転がっていくように、何かに押されて立町さんは廊下へと駆け出した。

 「何がどうしたんですか」も、「気をつけて」も言えない。まるで嵐のように去った立町さんは、言ってしまえばまあ変わり者に違いないのかもしれない。

また一つ、立町さんの謎めいた部分を直に目撃したことになる。後にでも理由を聞ければ、少しは立町さんについて理解できるだろうか。理解、できるだろうか。



 そして来る日も来る日も放課後。帰りの会と掃除だけを挟んでもう一度美術室に向かう気にもなれず、教室から真っ直ぐ帰宅の途についていた。

昇降口から校門までの空間は、僕以外誰の姿もない。

校舎とグラウンドから聞こえてくる賑やかな音に囲まれながら一歩ずつこの空間を進むのは、まるで見えない誰かに最終確認を受けているような感じだ。「放課後はまだ続きますが、本当にここを出ますか?」そんな意味のない空想が途切れたのは、想像以上に広く、距離のある校門までの道に、靴の擦れる軽快な音が響いたからだ。

青崎の足音ではない。そう思いながら人の気配につられて振り返ると、思ったより近い位置に、制服を着た高坂さんが歩いていた。

「うぃ、おつかれー」

 ため息とともにそう吐き出して、それからきびきびとした歩き方で僕の隣に並ぶ。姿勢は真っすぐ整って、視線は前方の少し遠くを向いている。いかにもスポーツが出来そうな人の歩き方だ。小柄な体には、どこにも余計な力が入ってないようにみえた。

 何を言うでもなく黙々と歩を進める高坂さんにつられて、ひとまず僕も視線を前に戻す。

足音だけが重なる無言の時間が続いたところで、高坂さんの二つ結びの後ろ姿が見えてこず、足音が小さくなる気配もない。どうやら、高坂さんはこちらに歩調をあわせて歩いているようだった。

何か言うべきだろうか。気の利いた小噺ってやつ。考えていると、半ばぶっきらぼうな声が横から宙に放たれた。

「今日はなんか暇だったなぁ。唯がいないだけでこんなになるとは思ってなかった」

 唯大丈夫そう?高坂さんは何気なくそう問い掛けながら、釣り目がちな瞳をこちらに向けた。

「休めば大丈夫とは言ってたから。たぶん大丈夫だとは思うけど、青崎が体調崩すのはなかなかないから」

「おぉ。けんこうゆうりょうじ?ってやつ?なんか唯っぽいな」

 高坂さんはそう言って視線を前に戻す。

 青崎が今日、学校を休んだ。いつもの時間にチャイムが鳴らず、アパートへ迎えに行くと、インターホンを押してすぐ、ドア越しに反応があった。

頭が痛い。青崎は確かに沈んだ声でそう言って、少し休めば大丈夫だとドア越しにでも笑った。風邪だったらうつしたくないから、と面と向かって会うことを拒んで、僕もそれに素直に従った。

これまで青崎が表に出すほど体調を悪くしたことは、記憶にある限りない。今日が初めてだった。

校門の近くまで進むと、左手に続いていた校舎が途切れ、階段を下った先にあるグラウンドが視界に入った。

今日も運動部の面々が、各々の掛け声で土の上を所せましと駆けずり回っている。好き好んで体を動かせる彼らの様子をこうして遠目で見る度に、人間は不思議な生き物だなぁと思う。思うだけで口にはしない。代わりの疑問を口にする。

「今日は部活休み?」

 高坂さんはこくりと頷いて、口の端に八重歯をちらりと覗かせた。

「そう。オフ。できるプレイヤーは練習と同じくらい休息を欠かさないからね。これはなんかどっかで聞いたやつ」

 ため息を吐くような空白のあと、か細い呟きが漏れた。

「唯もいたなら一緒に教室に残って喋ったりしたかったけど、まあまた今度があるかな」

 まだ日は高く、外の空気は昨日より少し冷たい。風に小さく肩を竦めた高坂さんを隣で見ながら、僕は教室で見る高坂さんとの小さな違いを探そうとしていた。これはなんだろう。少し、いつもの高坂さんとは別人のように見える。

光の当たり方や視点の違い。理由は物理的なものだけではないかもしれないけれど、結局のところ高坂さんについて知っていることはまるで乏しく、会話に身を入れる以前に、僕は教室以外の場所で、高坂さんを高坂さんだと意識することに緊張しているようだった。

頭の中で「高坂さん」を繰り返しすぎてたんたかたんのリズムが頭の奥底から響きつつもある。よくわからないが、これはあまり良くない。

 一度気づけば居座り続ける疑問に気を取られているうちに、校門の先にある幅広の階段にたどり着いていた。

「早く元気になって、って言っといて。やっぱり何か心配だ」

「わかった」

 顔の眉間に皴を寄せ、高坂さんは何かを考えるような表情を浮かべた。

 そのあとで、数段飛ばしに、勢いよく、高坂さんは足を動かす。

「お見舞いにはねぎがいいって言うけど、私は玉ねぎのほうがいいと思うよ。むいてもむいても終わらない感じが、縁起良さそう。あとねぎより臭くて硬いし」

「そうなんだね」

 相変わらずよくわからないけれど、高坂さんがとても心配していたということを、青崎には伝えようと思った。



 そこからはお互い口を開くことなく坂を下りきって、絶えず車が行き交う大通りに出た。右を向けばすぐ横断歩道があり、左には通りに沿った長い歩道が続いている。

 お互いに視線と体の向きで何となく示し合って、お互いの帰る方向を察した。

「それじゃあ」

「じゃ!」

 ひらひらと手を振る高坂さんに会釈を返し、僕は横断歩道の方を向く。そのまま、短い横断歩道の向こう岸で光る信号機の真っ赤な明かりに、無心で視線を置いた。十秒。いや二十秒?後ろで高坂さんが去っていくのを確かめることもできず、ただじっと時間が過ぎるのを待つ。

赤一点に注いだ視線が、一度手放した思考とともにゆっくりと拡散を始める。スパゲッティの束が鍋に入れられて円状に分かれていくみたいに。

僕は疲れていた。あと普段以上の空腹も感じている。

青崎がいない学校は、想像以上に何もなかった。麺棒で無理やり引き伸ばされた時間の密度で一日を過ごし、ことあるごとに自分の持つものの乏しさを痛感させられるようだった。ペペロンチーノでも、にんにくと唐辛子くらいは入っている。僕にはそれがない。

言うなれば、それは友達。コミュニケーションを図る力。もちろん、分かってはいた。そのつもりだったものが、青崎が実際に不在になって浮き彫りになったのだ。

さっき高坂さんと出会わなければ、クラスメイトと一言も言葉を交わさずに学校を出ることになっていたし、出会ったら出会ったで、青崎を介さない会話に一日分以上の疲れがどっと生じた。

僕は結局のところ中途半端だった。本物の孤独を知らなければ、自らだけを貫く気概もない。今日も耐え切れず部活を投げ出している。一瞬でも孤独な転校生に近いものを感じていた自分が、ひどく恥ずかしい。情けない。

どこにいても自分を曲げずに突き進む、小さくても確かな存在感を放つ背中。頭の中で何となく思い描いたその背中を、ぼんやりと投げていた視界の端で見つけた。途端に、思考が一点に纏まり、その一点に視線が向く。

目の前の横断歩道を越えた先の、広い車道の真ん中にある電停に、ブレザーの後ろ姿と薄い栗色の髪。立町さんだ。

電車乗り場ではなく、電停の端に立っているところから考えるに、車道を横断した向こうに行くのだろうか。

目の前の信号が青に変わり、広い道路の車が動き始める。多重に重なるエンジン音と、排気ガスの匂いがやがて濃く立ち込めて、電停を横目に僕は横断歩道を渡る。

美術室を走り去ったときの立町さんを思い出す。立町さんの前に広がる横断歩道を渡ったあの先が、立町さんの進むべき方向なのだろうか。進むべき方向に、何があるのだろう。立町さんは何かを探しているのだろうか。何か見たいものでもあるのだろうか。

目を輝かせるくらいに強い理由は、僕の中を探したところで見当たらない。遠くの背中に聞いたところで、理解できる気もしない。なんのために立町さんは強く、自由に、生きているのだろうか。

真似はできないと心底思う。羨ましいとは思わない。ただ、名前も知らない大きな白い鳥が、翼を悠々と広げて飛び立つ様を遠くから眺めて期待するように。


その背中が、電停のコンクリートの上を跳び越えて、車の列の中へと不意に飛び込んだ。


 周りの音が遠ざかる。

痛いくらいの鼓動の音と、地面を擦れるタイヤの音だけが耳に飛び込んで繰り返し止むことがない。

震える足で駆け寄った、電停へ続く横断歩道の前。車は絶えず行き交い続ける。

嫌な眩暈がする。

今、何が起きた。

目で得た情報が繰り返し再生され続け、思考はそれを拒否し続ける。

 何事もない。あくまで何事もなかったように、車の列は信号に従ってぱたりと途切れた。信号の色が変わる。

 車が途切れ、電停への道が開かれた。

 開けた視界に映る光景に立ち尽くしていると、今しがた渡ったばかりの横断歩道の方から声がした。

「おーい」

 不思議そうな顔を浮かべた高坂さんが、つま先立ちをしながらこちらに向けて手を振っていた。

「大丈夫?」

「いや」

 ふり絞った声は掠れていた。

 四つの車線と路面電車のレール。その上を真っ直ぐに通る長い横断歩道。

まるで存在自体が消されてしまったように、血も、服も人も、誰かがそこにいた痕跡は何一つとして残されていなかった。



 窓から見える景色以外の全てが白で出来た部屋で、僕は真っ白な机についていた。机の向こう側では、退屈そうに頬杖をついている人がいる。やがてこちらの視線に気がついて、いそいそと姿勢を正す。それから大きく息を吐き、翡翠色の瞳に得意げな意気を宿したあとで、その人は体の前で両手をゆっくりと開いた。

「さ、お話をしましょう。粗茶もないですが」

「本当になにもないですね」

 縁に細工が施された真っ白な天板の上には、言葉の通り本当になにもない。

「風土。状況。この二つに沿った、この場で最も効果的な言葉かと。それで?この挨拶で迎えられるご気分はいかがですか?」

「いや、普通です。本当になにもないですから」

 そう返した途端、得意げに誇っていた表情に雷撃がはしった。ように見えた。

「はぁ。なるほどです。まだトレースが不十分ですね。まあ、想定の内々です」

 遠くを見ながら落下していく視線の軌道は、流れ星の映像を唐突に思い起こさせた。

 目の前の人が口をつぐむと、広くはないこの空間に沈黙が降りる。些細な音は積み重なるより先に、周囲を囲む白に吸われていく。

何を思い浮かべるでもなく、ただたゆたうような沈黙。不思議と肌に馴染むこの時間を、透き通った声が丁寧に手折るように終わらせた。

「ここであなたを待つ間、わたしの中に貯め込んだ分析済みの情報から、あなたに最も効果的なアプローチを計ろうと考えていました。明確な意思表示をしつつ、できるだけ簡潔な一言で。ですが最善と判断した言葉は、あなたにまるで機能しなかった。これはあなたとわたしの意識の間に明らかな差があるということ。これでは、あの子を理解するには到底至らない」

 窓から差し込む光が机と床を照らす。その光がさらに反射して、机の向こうに座る誰かに薄い光の幕を掛ける。一度瞬きを終えた後の瞳には、強い意志と白い光がひしめき合っていた。

「あの子が宿した未知の正体をわたしは知りたい。あなたを理解すれば、おのずと何かが見えてくるはず。さあ、お話をしましょう。理解するための対話を」

 もちろん、机と椅子は元からそのために置かれているのだから、ここに座っている以上断る理由はない。だけれど。

「それならまず、君のことを教えてくれませんか」

「わたしの?それはなぜでしょう。わたしはあなたについて理解したいだけです」

「一方的に理解されるだけなのは、なんとなく不公平だから」

「なるほど。等価交換の法則というわけですね。了解です」

それでは失礼して。薄い微笑みとともに、テーブルの反対に座る人は細い指を胸元にふわりと添えて言った。

「改めまして、わたしは彼ら個体の管理と健常な着生のための補助を担う存在です。それはもう、とっても遠い場所から来ました。実体はありません。ですので、ここでは見た通りの姿でとってもらえればと。短い間ですが、よろしくお願いします。これでどうでしょう?」

「名前が抜けてます」

「名前」

 窓の外で雲が音もなく動いて、入り込む光が強さを変える。

「考えたこともありませんでした。私の名前」

 少しだけ俯いて、何もない天板の上に視線を落とす。

部屋の中に立ち込める沈黙が、先ほどとは少し性質を変えている。そう漠然と理解をしたとき、その人はゆっくりと口を開いた。

「エシテル。これが私に内蔵された私についての情報から取り出せる、この場で唯一の発音可能な言葉です。これを、この場における私の呼称と致しましょう。なにとぞ、どうぞ」

 胸に添えられていた手がその場でゆっくりと返され、こちらを向く。

「それでは次は、わたしの番。わたしが聞きたいのは、あなたにあって、あの子にはなかったもの。それはつまり、あなたの世界を構成する全て。ひとつずつお伺いしたくもありますがそうもいかない。なにせお時間が厳しく。ので、あなたがここまで抱えてやってきた、あなたが大切に思うものについて、お聞かせください」

 エシテル。そう名乗ったその人の目が細まる。そのわずかな動きは機械的でもあり、同時にどこまでも無垢でもあるように見えた。

「まずは、言葉。あなたが大切に思う言葉は、なんでしょう?」


 目を開く。カーテンの隙間から伸びた光と、薄暗い天井。窓から忍び寄る冷気が首筋に巻き付いて、朝が来たことを嫌でも理解した。

ときどき起き抜けの空気の温度に驚いて、いつのまにか慣れてしまう、短い季節。変わり映えのないようで確かに進み続ける毎日。

不意に、微睡む頭でいつかのどこかの旅行の朝を思い出した。真っ白で、冷たくて、何もかもいつもと違う目覚めは、その瞬間からはっきりとした期待に満ちていた。布団の重さ。枕の位置。一面の障子から透けた光の具合。朝の空気と畳の匂い。朝食の予感。視界の中で、長い帯を結びなおす誰か。あれは、誰だったろう。誰があそこに立っていたんだろうか。

考えたってわからない。今はそこから時間も場所もかけ離れたただの朝で、待たせてはいけない人もいる。重い意識を布団の温もりから引きずり出した。



「この地球上にいるペットは犬か猫だけじゃないわけだよ。馬も、ハクビシンもいるわけ。人と動物が紡いだ思い出の数だけ、好きな動物があるんだからさ、質問は犬派?猫派?じゃなくていいと思うんだよね。何派?が一番だと思うわけ。人にも動物にも、この聞き方が一番優しいよ。で、唯は何派?」

「犬派。えりねは?」

「猫派」

 教科書の隅を揃えて、鞄の中へ。ふと隣の空白が気になって目を向けると、高坂さんがこちらを見ていた。

「八坂君は?犬派?猫派?」

「強いて言うなら猫派かな」

「へえ、そなんだ」

 刃を引っ込めるどころか持っていることすら忘れてしまった様子。それでいいのか、と思わずにはいられない。

 掃除も終わり、解放感が春風になって席の間を通り抜ける放課後。今日は金曜日ということもあり、教室はいつも以上に明るさを増しているような気がする。荷物棚の上に並んだ製作物たちが、まちまちに教室を駆け出す人の背中を黒い視線を注ぐ。彼らの存在が、この雰囲気の一助になっていることも、あるのかもしれない。

「やっぱりちょっと不気味じゃない?あれ」

 色とりどりの肌の上に貼り付けられた丸い目。手作り感満載の紙製の魚が、網目のおおきな竹かごから好き勝手はみ出していた。プラスチックチックな視線を飛ばす彼らは、荷物棚の上で独特の存在感を放ち続けている。話によると、同じかごがあと五つは増えるらしい。

 このクラスが第一候補で提出したおばけ射的は委員会で却下されたようで、最終候補付近に置かれていた磁石の魚釣りが、このクラスの出し物として決められたらしい。

上の学年から順に出し物が決められる方式で、上級生の方にお化け屋敷や射的といった人気の出し物が取られていき、要素の被りがなかった魚釣りをなし崩し的に選ぶしかなかったらしい。ということを、横で青崎と話をする高坂さんから聞いた。

「私はかわいいと思うけどな。目がいいよ」

少しあってからの青崎の返答は、なんとなく予想していたとおりだった。

 何かを飲み下すような間に会話が止まる。

「わからん」

高坂さんが唸るように呟くのと、僕が机に乗せた鞄を閉め切る音が重なった。

 青崎が小さく肩を揺らして忍び笑いを漏らす。それから、わずかな勢いをつけて背に付けた窓から離れた。

「えりね、急で悪いんだけどさ、しばらく部活には行かないことにしたよ」

青崎の声に思わず窓際の方へ視線を向けると、呆けたような高坂さんの表情があった。僕も似たような顔をしているかもしれない。青崎だけが何ともないような顔をして、薄く微笑んでいる。

「部活って、バド部だけ?ほかのところの助っ人は?」

「行かない。最近は新学期でどこも忙しそうでね。しばらく助っ人をお願いされることもなかったし。自分から参加するのもしばらくやめようかなって思う。ちょっと無理しすぎたかなって」

 高坂さんは驚き、それから何かを呑み込んで、指先でビー玉を転がすような遠い表情を浮かべる。

瞬く間に切り替わる表情は、微笑んだまま変化に乏しい青崎のそれに並ぶとよく目立つ。

「そっか。そうだよね。わかった」

 ごめんね。そう言って窓から離れるときでさえ、青崎の表情にはほんのわずかに眉を下げるくらいの変化が起きただけだった。



「あ、そういえば新入部員。何か進展あったりした?」

「なんにも。気配すらないね」

「それもそっか。一日いなかっただけでどうこうなる感じでもないよね」

 質量のない会話をずるずると繋ぎながら引きずり続けて、校門の前にたどり着いていた。足下で踏んだ落ち葉は湿気ていたのか、ふやけた感触だけを靴の裏に残す。

 校門の側の桜は、いつの間にか花の全部を散らしていた。名前も知らない街路樹と見分けのつかなくなった立ち姿を、広い視界に収める。強い意味も持たず、視線をそこにぶら下げ続けながら少しの間歩いた。

隣を歩く青崎が息を吸うと、なぜだか自然と身構えてしまっている自分がいる。

「じゃあ今年も交流会は一人展覧会だ」

「あ」

 ちょうど立ち止まったのが無駄に幅の長い階段の前で、いつも通りの気怠さと一緒に階段の上に足を踏み出し始めてから、改めてゆっくりと息を吐く。

「先生に課題決めるように言われたの忘れてた。週末までだったんだけど」

 そう言いながら脳裏に浮かんだのは、作品棚の一番下で身を潜めているはずの、鉢植えを描いた出来損ないの一枚と、真っ白で眩しい色を纏ってベンチに座る立町さんの姿だった。

「ねえ肇」

 車の行き交う道路と、大きく腕を広げた小さな背中。

「大丈夫?」

「え?」

 こちらを伺う青崎の声が、やけにはっきりと聞こえた気がした。

なんでもないことをなにも考えずに話すときのような、やけに近くで響く声。いつも通りの、青崎の声。やっと今日初めて聞いた気がして、つられて振り返った青崎の表情に、心臓の大きさが一回り縮められた。

「調子悪そうだけど。大丈夫?」

「ああ」

 でもそれは。

「そっちこそ」

「え?」

 バケツを思い切りぶちまけたように、青崎の表情が驚きで幼い色に一転する。その光景を間近で見届けると同時に、青崎の姿が視界の中で不自然にぶれた。

 コマ送りの映像が途切れ途切れで進むように、青崎との距離がおかしなリズムで離れていく。手を伸ばしたときには、青崎の手はもう触れられない場所にいた。必死に足を動かしたところで、一段の幅がもどかしすぎる程に長く、遠い。

階段の途中から落ちていく青崎の姿は、それまで生きていた小枝が無遠慮に踏み折られていくような、ノートに書いた文字に黒いマーカーで線を引かれていくような、そんな取返しのつかない景色に映った。

「とっ」

 体育の教科書の図解のような綺麗な回転とともに、線の細い後ろ姿が着地するまでは。

「青崎」

 これまでになく階段の無駄な幅を無駄に感じながら足を動かす。

階段の麓でしゃがみこんで、スカートの裾をはたいている背中。回り込んで視線がぶつかると、汗ひとつかいていない顔に、申し訳なさそうな笑みが浮かび上がるのだろう。

「ちょっとつまずいちゃった。びっくりはしたけど、私は大丈夫だから」

 こんな風に言って。

そうじゃない。そうじゃないだろ。今日はずっと、こればかりだ。

青崎は今日一日、普段通りでいるようで、実はまったくそうじゃなかった。

朝、玄関のドアを開けて出会った先から。授業を受けている後ろ姿も、休憩時間の過ごし方も、高坂さんと話しているときも。傍から見れば決定的に何かが変わっていた。片方だけサイズの違う靴で歩いていて、時々最初の踏み出し方に一人で手こずっているような。

そんな青崎は傍から見ていて違和感しか感じない。たぶん高坂さんも薄々気づいていた。

青崎は嘘を吐かない。言葉も表情も飾ることなく、思うままを外に出す。それが青崎。人に対して何も踏み込めず避けてばかりの僕が、十年と少しの時間で決めつけた、彼女についての唯一のこと。

その一方的な妄信の上で判断するなら、青崎は何かを隠そうとしている。青崎だけが気がついた、何かを。その内に一人で抱えて。青崎が抱えているものは、僕には憶測すらできない。記憶にある限り、普段通りを崩した姿は見たことがないから。

それはもう奇妙なくらいに、これまでの青崎は平然としすぎていた。記憶にある限りずっと。

だから、青崎だって人並に悩むことがあって、目に見えるくらい気が沈むこともある。そんな当たり前のことに気がついたとき、僕は動揺した。

僕は青崎に甘えている。言葉ではとっくに理解しているつもりでいた。

そのつもりで、青崎について、青崎でさえも、深く知ることから逃げていた。

僕は、誰かを知ることが怖い。知られることも怖い。会話もなく、その場にただ存在することを許されていると思えれば、それでよかった。

いつも頭ばかりが先に動いて、伝えたいことは下手にこんがらがるだけ。誰かに伸ばそうとする手は情けなく縮こまって、今だって足は緊張で引きつって、一瞬で湧いた汗は嫌な冷たさをもって皮膚の上に張り付いたまま。

このまま階段を下りきったとき、僕は何を言おう。どんな顔をしよう。青崎のために何ができる。青崎はいつも、僕に何を与えてくれていたんだろう。

「青崎」

 靴底が、長い階段の底に触れる。青崎がうずくまるのと同じ場所。そこに立って回り込むと、やっぱり、青崎はいつもと変わらない表情を浮かべていた。平然としていて、あまり色のないように見える表情。

目が合うと、ほんのわずかに柔らかく、眦と口角が形を変えようとする。派手ではなくとも、たくさんの意味を含むような表情に。

僕はずっと、青崎に甘えていた。真横に立って、見ないふりをしてきた表情。知らないままですんでいた、彼女の心の機微。

「なんともない、なんともない。つまずいて、びっくりはしたけど」

向き合って近くで見れば、その表情はずっと頼りなく、不安げに揺らいでいる。ように、見えた。僕も似たような顔をしているかもしれない。

でも。視線を落とした先で、青崎の手が所在なさげに地面を掠めていた。

 膝を立てて屈んだまま、手を伸ばして慎重に触れた。

「擦れてる」

「あ」

 親指の付け根から手のひらにかけて、小さな擦り傷があった。血が滲んだりはしてない。それでも、放っておくことはできない。

「カットバン?」

そう言って自分の掌から視線を上げた青崎は、少し大げさなくらい不安げに揺れていた。なぜだか唐突に、懐かしい気持ちが込み上げる。

 青崎の手を引いてゆっくり立ち上がると、慌ただしかった胸の中は、不思議なほどの落ち着きに満ちていた。

「まずは洗わないと。坂の途中の水道を使おう」

「でもあれ、使ってもいいのかな」

「学校に戻って探すより早いから」



 怪我をしたら、まずはきれいに洗うことから。できたら消毒をして、綺麗なカットバンで蓋をする。人間の体は、ちゃんと待てばいつかちゃんと治るようにできてるから。だから大丈夫。

 透き通った水が青崎の手の上を滑り落ちるのを眺めながら、頭の中のどこからやってきたかも知れない台詞を、声に出さずに反芻していた。

口に出したくなるわけではない。長いし、今口にするにも唐突すぎる。それでも誰かの台詞は糸を引くようにすらすら止まることがなく、ふかふかのカーペットに体重を乗せ続けた掌に生まれるような、心地のいい感触と温度を生み出し続けていた。

 そう言えば、家のリビングのカーペットはしばらく薄い布のタイプのままだ。昔は季節ごとに取り換えられていたはずだけど、いつからあの毛の長いカーペットを見なくなっただろうか。

 ぼうっと思案にふけていると、青崎が姿勢を起こして蛇口の水を止めた。

 ポケットから取り出した空色のハンカチでこわごわと水分をふき取るのを待ってから、紙を半分めくった絆創膏を手渡す。

「こうかな」

 見るからに慣れない手つきで付けられた絆創膏は見事によれて仕上がって、そんな見てくれでも青崎が付けていると何か特別な意味があるもののように見えてくるから不思議だ。着ぐるみの背中から飛び出たチャックみたいな、アンバランスで触れられない何かが、青崎の手のひらにふとある。

「意外と難しい」

 そう言いながら青崎はしげしげと絆創膏に顔を近づける。よれてはいてもしっかりと端まで貼れていて、家に帰るまでの応急処置としては十分だろう。

 少しの間自分の手のひらに向き合っていた青崎は顔を上げて、真面目な顔で不意に言った。

「ありがとう。肇」

「そんなに深く考えて鞄に入れてはなかったけど、まさか青崎に使うことになるとは」

「確かに」

 無病息災の四文字が意思と体を持てば青崎の形になると思えるくらい、青崎は怪我や病気からかけ離れた存在だった。些細な影や曇りさえも、何も纏わない透明な表情ではねのけてしまう。

「帰ろっか」

 そうして浮かべた微笑みを色に例えるなら、丸い水滴に映り込んだ空の色だった。これまでの、どの瞬間の青崎とも違う。小さな小さな、人一人分の微笑み。その中に、どこまでも広がった色。

悩みながら、何かに自分の形を変えられながら、それでも青崎は微笑んでいた。

僕はその微笑みを、できることなら絵にして残してみたいと思った。

だけどそれはほんの一部の、記憶から簡単に切り取ってしまえる感情のほんの一部で、実際はとても苦しくて、嬉しくて、悲しくて、途方もない。そんな混雑した気持ちを意識の大部分で何とか抱えて、やっぱり青崎は青崎だったんだと、僕は見えるものを受け止めるだけで精一杯だった。



 学校を出て坂を下りきったあと、最初の信号待ちをしていたときに青崎が口を開いた。

「ねえ、肇」

 車道側に立つ青崎。車が行き交う道路と、その真ん中に浮く電停が視界に入る。淀みなく続けられたその言葉のかたちと、大きく手を広げた真っ白な後ろ姿を、僕は現実から少し離れた場所でぼんやりと眺めていた。

「もし私が幽霊だったとしたら、肇はどうする?」

 幽霊。一度口に出して呟いてみた。

「どうする。どうするか」

 もし、本当だと言われても素直に頷ける気がした。朝目が覚めると幽霊になってしまっていたから、青崎は悩んでいる。そんな風にすんなり紐づけられるくらい、幽霊と青崎という二つの言葉の間に、そこまで遠い距離はなかった。青崎が抱える悩みの大きさとしても過不足ないし。

 だけど、これは空想の話だ。何の意図も暗喩も含まれない、他愛のない話。

考えながら、僕は何となく視線を上に向けた。にじむような赤信号と、まだ青い空。空の遠くの方に浮かんだ白い月が、街路樹の伸ばした枝に重なって引っ掛かっていた。

「いつ幽霊になったかによるかな。昨日幽霊になってたらほやほやの事件で、放っておくのはよくない。事故?でもあるかもしれないけど。そうじゃないなら、まあ、どうもしないかな」

「驚かないの?ずっと前から幽霊だったとしても」

「青崎は別に、僕を怖がらせるために幽霊になったりはしないでしょ?それに、幽霊だってことを気づかれてないなら、それはたぶん生きてるってことと同じだよ」

「そっか」

 信号はまだ変わらない。この時間をいつもより長く感じるのは、間違いなく僕の気のせいだろう。

「ねえ、肇」

 ふと横を見る。青崎の長い髪が、道路を通ったトラックの風を受けてわずかに揺れた。

「幽霊、見た?」

 いつ。どこで。何もかも足りてないはずの言葉に、僕は何も言えなくなった。

「それってさ、」

 そこで青崎が口を噤んだ。遅れて、車の列が途切れる。

「なんでもない。ごめんね。変なこと言って」

 信号は青に変わった。足を止める理由がなくなり、僕たちは改めて帰り道を進み始めた。



 その日の夜に、また夢を見た。小さな窓から見える景色以外が一面真っ白な部屋で、僕は真っ白な机についていた。そして向かいには、同じように人が座っている。エシテル。声に出すでもなく、白い服に纏った光にその名前を思い浮かべる。

「綻びが一つ生まれたようですね。ほつれ、ちぎれ、拭い落とされて。解けた網はもう戻せない。あの子はもう気づいてしまったのでしょう。そうすれば、二度と同じ自分には戻れない。向かうのは、あきらかなおしまい。誰にも止められないのなら、誰も留める意味なんてない」

 エシテルは滑らかな動作で持ち上げたティーカップを、小さなスプーンでかき混ぜる。くるくる。くるくる。

 ふと机の上を見ると、僕の手元にもティーカップとスプーンがあった。細かな装飾にいたるまで、また全てが白い。カップの中身さえ。牛乳かなにかだろうか。そう思って覗き込んでみたら、見事に空っぽなだけだった。

「と、ま、あなたにここでいくら語っても何をあげられるわけでもないですから。お話をしましょう。あなたのお話を」

「でも何を?カップは空ですし」

「空なのは関係ないじゃないですか。雰囲気づくりです。あなたの意識に下手に影響させても嫌ですから」

 ソーサーの上にカップが置かれて、高い音が柔らかく辺りに散った。

「では、そうですね。この前の続きを。今日はあなたの大切に思う、人間について。お聞かせ、どうぞ」



 そして土曜日。リビングに敷かれたカーペットの上で、大の字。わけもなく手足の角度を開閉させてみた。ダ・ヴィンチのノートのものまね。人前では絶対にしない。

 ぐるぐる。ぐるぐると。要領の得ないことばかりを、頭の中で取り替えながら浮かべていた。

 僕は人に踏み込むことが苦手だ。人に自分を知られることも、自分が人を知っていくことも怖い。どこまでいっても理解が完全に至ることはないのに、毎日毎秒変わりゆくのが人。人には見えない部分が多すぎる。月の裏側。海溝の底。

人を知っていくこととはつまり、自分の内から延々と湧き出て溜まり続ける黒い水を掻き出していくことなんじゃないだろうか。水底に落ちているかもしれない、綺麗な何かを探して。例えばそれは、なめらかな七色の砂。透明なものばかりが固まってできた結晶。

 なんて言ったりして、また手足の角度を変えてみる。開いて閉じて、開いて閉じて。ぐるぐる。ぐるぐると。

 立町さんという、とても不思議な存在と出会った。孤独でいながら眩しくて、強い好奇心を放ち続けていた。

 おととい、その立町さんが車列の合間に消えたことを、世界で僕以外誰も知らない。たぶん。それらしいことを伝えるニュースもない。テレビでも、学校でも。あの場所に花もない。

もしあったとしたら、僕は一層不思議に思っただろう。

 あの場で立町さんは消えた。それは間違いない。それだけが単純な事実なのだ。

 電停に乗り、血の痕も衣服もひとつも残されていないのを確認したとき、僕は自然と納得した。

 立町さんを校舎裏のベンチで初めて見た瞬間に抱いた感覚。強い衝撃と、飛沫のように同時に生まれたいくつかの疑問。

あのときは言葉にできなかった微かな違和感の一つが形をもったとき、生ぬるい排気ガスに紛れて誰かがそう囁いた。

立町さんは生身の人間ではないかもしれない。たとえば、幽霊みたいな。

なんて、言ったりして。

そのときまではほとんど妄想に過ぎなかった僕の世界は、青崎の言葉で確かに、現実と繋がりを持ってしまった。嘘を吐かない青崎が「幽霊」の言葉を口にしたとき、妄想はまったくの妄想でいられなくなった。

青崎は、何かを知っているかもしれない。かも、しれない。

幽霊。妄想。転校生。青崎。そして合間に、カーペット。先生。高坂さん。クラスメイトたち。僕を取り巻く大きな、世界が。ぐるぐる。ぐるぐると。ささいな疑問も頭に残った言葉や感情と一緒くたになって、頭の中でぐるぐる回る。それは大きな渦を形作る。

交流会の課題を決めにいこうと青崎から提案があって、本当に珍しく、学校に行こうとしている土曜日。

そろそろ約束の時間がやってくる。

インターホンが鳴った。



「あ、八坂君。こんにちは」

「こんにちはー」

「お、青崎さんもこんにちは。珍しいですね」

 土曜日のお昼過ぎでも、先生はひとりで美術室の教卓に座っていた。仕事だろう。それでもここに顔を出している分、忙しさの山は一つ越えているはずだ。四月の始めにくらべて、顔つきから絶望のニュアンスが少し薄らいでいる気がする。

「たまには休みの日にでも部活に行こう、って青崎が。交流会の課題決めもあったので」

「ああ」

 先生はそこで合点のいった表情を浮かべて、隅の作品棚の方へ視線をやった。

「見ましたよ。あの一番下の。いいじゃないですか、ああいうのも。色づかいの研究も一緒にされたみたいで。いやあ、じゃかじゃかやっていきましょうよ。じゃかじゃか」

「え、あれは」

 紫の鉢植えと、手癖だけで出来上がった意味のない色の塊。ほとんど隠すつもりで棚に収めていたあれたちが、知らない間にしっかりと見られていた上、謎のプロデューサー風ニュアンスで受け入れられてしまうとは。のっけから想定外だ。

「青崎さんも見ますか?」

「え、なんですかなんですか」

何も言えない僕を置いて二人はすすいと作品棚の方へと向かってしまう。

取り出されたのは案の定、記憶にあった以上に崩れた形で中央に納まった小さな鉢植え。紫の色がぶれる視界の中にもはっきりと映った。

教卓と、教室の隅。いつもと位置が入れ替わった場所で、先生が静かな視線を掲げた画用紙に注ぐ。

その隣に立った青崎の、細く伸びた後ろ姿。上を向いて少し伸ばした後ろ姿が、遠く、手の届かない場所にある。

必ず何かを抱くのに十分な時間を、二人は何を考えて過ごしているのだろう。中途半端に伸ばした手から力が抜けていく。やがて遠い場所にある長い背中がすうっと縮んで、振り返った青崎は屈託なく笑った。

「いいね。肇の絵」

「でしょうそうでしょう」

「先生が得意気だ」

 画用紙を掲げたまま、先生は眼鏡の奥の瞳をふにゃりと曲げた。

「ほどよく力の抜けている感じといい、いいモチーフを選べているとも思います。八坂君、これは実際にどこかにあるものですか?」

「校舎裏の温室に」

「八坂君にしてはまた珍しい感じですね。温室の中まで踏み込みましたか」

「ちょっと、色々あって」

そう口にしながら立町さんのことを思い出して、緩やかな笑いが自然と漏れ出た。

思えば発端はここで、先生からやって来たんだ。ずいぶんと前のことのような気がするけれど、まだ一か月も経ってない。

「先生」

 相変わらず疑問はぐるぐると回り続けている。頭の中で少しずつ混ざり合って溶け合って、緊張もリラックスもいつからか曖昧になり始めていた。

「新学期の最初に聞いた転校生の子、最近はどうですか」

「え?ああ、そういえばとれたて最新情報を持ってきてますよ。とは、言っても」

 そう言いながら視線を流す先生の顔はふにゃりと力なくて、相変わらず見えるものが多そうで少ない。

「素行には何も問題がないみたいです。ふたを開けてみれば、人の話をよく聞く、素直で真面目な子ですね。昨日もしっかり授業に参加してくれていましたし」

「授業って、先生のですか?」

「はい。レタリングです」

 この場所に不意に生まれた余白を、先生自身が笑って打ち消す。

「私その子の授業もってました。なので、見たらわかりました。へへ」

 へへ。まったく力強くもない、折りこみチラシくらいペラペラした先生の笑顔。その向こうに、僕は渦の中からはみだしていく一本の糸を見た。

 転校生は現実にきちんと生きている。それも昨日に確認済みで。確かに現実と繋がっているのだ。僕の想像もできない姿で、それでもそれなりの、普通の子。

 それが分かったならそれでいい。

なら、あの子は誰だろう?

渦から糸が抜け出して、回転のバランスが変わる。より大きく、不安定に。

ここから一歩踏み出せば、もっと僕の想像もできないことに対面するだろう。それでもたぶん、足は止められない。

今進むこの場所は下り坂だ。向かうのは、あきらかなおしまい。にっちもさっちもなく、どうしようもなく終わりが訪れる。

いつか不意に頭に浮かんだ不可思議な言葉が、いつしか耳元で囁かれたような現実感を以て、頭から離れなくなっている。



僕の日常は、いつのまにか裏返しになっていた。それはあまり柄のないシャツだったから。家に帰ってから気づく生地の違和感のように、取り返しのつかない時間が流れていたことを、僕は諦めに似た感情とともにごくすんなりと受け入れた。

多分、青崎が階段でつまづいたときから。もしかすると、それよりずっと前から。この時間は、もう僕の知る日常じゃなくなっていた。

決定的に何かが壊れるまで、この宙に浮いたような奇妙な空間は続く。まるで夢の中のような、不安定で、不思議な空間が。



少し前。堤防越しに海が見えるベンチに座って、やって来るバスを待つ時間。

会話が途切れたふとした瞬間に、青崎はあらかじめ決められた台詞を読み上げるようにごく自然に声を発して、僕は隣でそれを聞いていた。

「幽霊の話、おぼえてる?」

「昨日のでしょ。忘れてないよ」

「あれね、ホントの話」

 それでね。そう呟く青崎の声が、光って揺れる遠くの波間に消える。

「幽霊は私。私が、幽霊なの」

 目を向けたベンチの隣で、青崎はそれこそ幽霊か何かを見間違えたように、ゆっくり目をしばたかせていた。

「びっくりしてよ」

「しないって。昨日話した」

青崎は幽霊だった。ほんの少し角張った青崎の声は、それでもとても自然に耳に触れた。

鏡の前で自分が掲げた右手が、鏡の中では左手になっていると初めて気がついたときのように。全てが知れない幼馴染の突拍子もないような言葉は、僕の世界へ新しい輪郭を結んだ。

平静を保とうとする瞳の端がどこかぎこちなくても、ベンチに置かれた手のひらにまだ昨日の傷が残っていたとしても、青崎は幽霊だった。

青崎は嘘を吐かない。青崎から生まれた言葉は、いつだって世界と確かな繋がりを持つ。

それだからすんなりと飲み込んだというものの、青崎は眉根をほんのわずかに寄せて、どうやら僕は青崎をある程度怒らせてしまったようだった。

もう少し驚くべきだったろうか。それでも変な演技こそ、見破られて余計に怒らせたかもしれない。どっちにしろ手遅れだ。

滅多とない怒る青崎を新鮮に思うのと同時に、手の出しようがない現状から、僕は素直に目を逸らした。

「幽霊になったのはいつから?」

「さいしょっから」

「最初から?幽霊ってそういうもの?」

「そういうもの」

 この世を去った誰かの未練が幽霊になると思ってたけれど、青崎がそう言うならそうなんだろう。この場で幽霊について詳しいのは間違いなく青崎の方でもあるわけだし。あれこれ聞くよりも、僕はもっと単純なことだけを知れればいい。

「で、僕に何かできることはあるのかな」

 遠くの方で波が動き、ぶつかり合い、一瞬の停滞を生む。これまで何度と繰り返してきた、自然な呼吸の合間に生まれる沈黙。いつも通りにそれをこなして、青崎は、静かに首を振った。

「いいよ。肇はそのままで。私は私の居たい場所で、好きなようにするから」

「わかった」

僕は頷きながら、浮かび上がっていた言葉を一息に飲み込んだ。

「ありがとう。だからね、肇がよければ、だけど」

青崎は小さな微笑みを浮かべて、ほんのわずかに身を傾ける。そうしてベンチの端から、複雑に色が溶け合った瞳でこちらをじっと覗き込む。

「私は、もっと肇の絵が見たい。いろんな本を読んで、いろんな感想を言い合いたい。くだらないことも全部、私の中身が全部空っぽになるまで、肇と一緒に過ごしたい。これが私のやりたいこと。どうかな」

 どうかな、と言われたって。それじゃあまるで、

「いつもとあんまり変わんないし、別にいいけど。でも、土曜日にまで学校に行くのは、毎週だと困る」

「そうだね。わかった」

 青崎はくすぐったそうに表情を崩して、よく晴れた空の色を瞳に映した。どこまでも透き通った遠い場所を、決して手の届かない透明に溶かして。それはまるで。

 頭に浮かぶいくつもの言葉を切り捨てて、たった一つの、あやふやで、何も変えられない言葉を口に出す。必ず時間に引き裂かれないものはないと知っていても、ただ今を繋ぐために選ぶ。

 考えるのは、間違いなくやって来る終わりと、実体のないはずの存在が実在することについて。

土曜日のお昼前。僕たちはその時、たくさんの手の届かないものを間に挟んで、一時間に一本来るか来ないかのバスを待っていた。



 そして、あと二週間ほど先に待つ交流会の課題が決められた。一方的に。有無を言わさず。

「土日は含めず一日一枚。これをこなした先で交流会を迎えてもらいます。あ、普通に途中経過は見させてもらいますけどね」

 色々なモチーフをとにかく描く。画用紙の大小問わず、そこに見えるものを何でも見えるままに描く。まるで修行みたいだと言うと、先生は含みのある笑いを見せた。

「二週間後にできあがる八坂君の世界を、楽しみにしていますよ」

 不敵に微笑む先生の目には、いつになく譲らない力強さがほんの少し垣間見えた。しかしそれもほんの一瞬のことで、すぐにいつも通りの力ない雰囲気を纏いなおした先生は、胸いっぱいの書類を抱えて美術室を後にした。

 そしてあとには、当初の目的を早々になくした二人だけが残された。

困ってしまうくらいの肩透かしを食らって、土曜日の午後の時間が無為にさらさら流れていく。

二人分の些細な物音が時折重なる美術室。

教室の隅にある作品棚から一枚ずつ画用紙を取り出して、しきりに小さく唸ることを繰り返す青崎。三回は止めた。それでもやめてくれない。

 太陽の光が差し込まない教室の窓の外には、張り詰めたように空の色が満ちている。僕はいつもの席から少し離れた場所に座って、何をするでもなくそれを眺めていた。

 僕は何をすべきなのだろう。やらなくてはいけないことは溢れるほどある。先生からの課題。週末用に多めに出された宿題。帰ったらまずは、晩ご飯のお米を炊くことから。

 僕の身の回りを囲む、やらなければいけないことたち。そこから一歩足を伸ばしてみれば、僕の手の届く範囲に、僕のできることが意外と溢れていることに気づく。

 定期入れに入れた小銭の額分、行こうと思えばどこにでも行ける。

 今しがたもらった課題も、集中力と絵具がもつまで進めることができる。

 無数のできることの中にきっとあるはずの、僕が一番すべきこと。この限られた時間の、ぐるぐると回る渦の中で見つけられるだろうか。

 今はまだ、立ち止まっている。わからないことが多すぎるから、ずっと遠くまで透き通った色に目をやって、耳馴れた声が聞こえるのを待っている。その声はいつも波紋みたいに柔らかく表面に触れて、見えるものをほんのすこし、鮮やかに照らしてくれる。

 空の色がいっぱいの水みたいに張り詰めた窓を、風が揺らして微かな音を立てた。

「静かだね」

 青崎の声に頷く。この時間を邪魔しないくらいに小さく、些細な動作で。

「これからどうしよっか。課題は出たけど、今からやる?」

「やらない。今日は元々課題決めのために来ただけだから。それ以外のことはやらない」

 僕がそう言うと、教室の端にある机の上に腰を下ろした青崎は、肩を揺らして小さく笑った。

「わがままだ」

 わがまま。自分としては言われたことを言われた通りにしていれば十分だと思っているけれど、こんなことを言ってもただの屁理屈にしかならないから、ただ前を向いて肩をすくめた。

 こちらを伺うような僅かな間のあとで、軽い音とともに上履きが地面に触れる音がした。

じゃあさ。

机を離れた青崎は両手を後ろに回して、薄い黒の瞳でこちらを覗き込む。

「せっかくだからさ、課題探しのスケッチで校舎回ってみようよ」

 その提案はごく自然に切り出された。いかにも青崎らしくて、疑う意味なんてないはずのものだった。それでもなぜか、たぶん言葉で説明できない部分で、青崎はこのために今日ここにやって来たんじゃないかと感じた。

仮にそうだったとして、不快感はさらさらない。青崎の思考も、僕を取り囲む、僕の知り得ない部分だから。僕がこうして考える間にも世界はぐるぐる回り、確かな終わりへと向かっている。それは間違いない。

「グラウンドでも、校舎裏でも。どこかの教室でもいいし。今なら一年生の階も回ってみてもいいかもね。あんまり懐かしさはまだ感じないかもだけど」

 回っていく世界の中で、僕のすべきことは何だろう。さりげなく、できるだけ自然に笑ってみた。

「まあ、スケッチブックもあるし、それくらいなら。青崎は、どこに行きたい?」

 

しんと、沈黙が耳に触れる。壁と、空の色が水みたいに張り詰めた窓に囲まれた空間。

「青崎?」

僕はひっそりと、呼吸の合間に耳を澄ませていた。まるで、誰かの言葉を待つみたいに。

なぜだろう。ほかに会話をする人なんて、ここにはいないのに。

数秒前に記憶を巡らせたところで、たいしたことは何も得られなかった。

「青崎」

 頭の中にはっきりと残っていて、さっきもつい口にしてしまった名前。ただの知らない名字にしては、不思議と馴染んだ感触がある。声にしてなぞる度、頭の後ろで形をもった何かが、砂のように流れていく。この感覚はなんだろう。

 短く息を吸って、いつの間にか俯きがちになっていた視線を上げた。そこにはいつも通りの、一人の第二美術室があった。

まあ、ただの気のせいだろう。青崎という名字の人が、僕の人生に関わったことは僕の知る限りないはずだ。ならどれだけ考えても答えは出ない。夢か、小説かにでも出てきた名前だろうか。

教室の棚にしまっているスケッチブックを探して立ち上がる。

今はぼうっとするのにも飽きて、課題探しに校舎をめぐってもいいかもしれないと思い立ったところだ。

問題はどこに行くか。そう。

どこに行くかで悩んでいたんだ。課題はいつでも、最初の一歩目が一番重い。

加えて今日は土曜日。どんな危険が潜んでいるかわからないのが休日の学校の常。廊下を出ればたちまちサッカー部のドリブル行進に轢かれるかもしれないし、窓際なんて歩こうものなら、適度に小さく硬く速さを持った流れ球にガラスごと頬を打たれかねない。文化部は、まあ大概部屋で活動しているから問題ないとして。そんな校舎を目的もなく歩くのか。

どうにもしっくりこない。なぜ数秒前の自分がこんなことを思い立って、今の自分ですら、一人で校舎を回るだけのことに、浮足立った義務感を多少抱いているのか。ただの課題のために校舎を自主的に回るだけなのに。

これもきっと、考えても仕方のないことだろう。答えの出ない、ただの気のせい。

教室の後ろにある棚を探ると、スケッチブックはすぐに見つかった。つるつるとした表紙を小脇に抱えて、入口に向き直る。

ふと、いつもの席の位置が少しだけずれていることに気がついた。綺麗に整頓された列に合わせて、少しのずれをきっちりと直した。これでいい。立つ鳥あとを濁さず。社会問題規格で濁った水面の教卓を通り過ぎて、僕は廊下へ続く扉を開いた。



一日一枚の課題が始まって、今日は五日目。今のところ、課題は意外にもすんなりやれている。ふと目についたり、探して見つけたものを手早く下書きして、手早く色を塗る。

どれだけ甘い部分があっても、一日ごとに締め切りがあるぶん、画用紙の中は妥協ばかりだった。それでも、一応の完成を目指して時間配分なんかも考えたりするし、そのとおりに進んだときにはなかなかの達成感がある。作品棚に貼られる先生の一言コメントが書かれた付箋を読むのは、まだ割とくすぐったい。

課題のことを考えることで、絵について考える時間も増えた。この課題を出されたときは冗談半分で口にしたものの、本当に修行には優秀な課題だったのかもしれない。

一昨日からはポケットサイズのデジカメを持ち歩いている。放課後以外でも課題に向いていそうなモチーフを見つけたとき、記録に残すためだ。

オレンジ色の何だか懐かしい匂いのするケースに入っていたそのデジカメは、充電すると何事もなく起動したし、SDカードのデータは綺麗さっぱり飛んでいて、むしろ都合がよかった。

誰がいつ使っていたカメラなのか、僕にはっきりとした記憶はない。

ただ、ふとした瞬間にテレビ棚の二段目にカメラがあったことを思い出して、コード類がひしめく中から実際に見つけ出した。

時間を潰すがてら、ポケットからカメラを取り出す。

起動ボタンを押すと、真っ暗な液晶に見たことのあるロゴが浮かび上がった。自分の頭を影にして、僕は小さなサイズの液晶を覗き込んだ。

少し待つと、画面に上履きの足下と緑の床が映る。再生モードに移るボタンを押すと、緑色一色の画面が、ざらついたオレンジ色に差し変わった。

画面に映ったのは昨日の放課後に撮ったばかりの、いくつかの風景。矢印のボタンに指を乗せると、画像データは新しい順に流れて進んでいく。

家の向かいの塀に開いた小さな穴。隣のアパートの駐車場に置かれた小さな花壇。海沿いのバス停。学校の坂道の途中にある水道。夕方の昇降口。美術室。

十秒にも満たない時間で、昨日の放課後の時間はそこで途切れた。もう一度辿っても、見えるものは何も変わらないだろう。

僕は小さな画面から視線を外した。そのとき。

「写真部?」

 見慣れない女の子が、顔を上げた僕の隣に立っていた。

 人気のなかった屋上に風が吹く。僕の声にならない悲鳴は、フェンスの上に広がる青い空に吸い込まれた。

ここは屋上。今は交流会の製作のためのホームルームの最中だ。つまり、この時間に制服で教室以外の場所をうろつく人間は、サボりか変質者の二択に絞られる。

全身全霊でサボり中の僕が教室を抜け出してここに来た理由は、もちろんここが人のいない場所だからに他ならない。棚の上に置かれたお歳暮のお菓子と同じくらい、僕にとってとっておきのサボり場所だ。

美術室のある特別棟の階段を上り切った先にあるこの場所は、手すりとくすんだ緑の床以外なにもない。めぼしいものもなく、教室よりもずっと狭い長方形の空間が、この学校ではなし崩し的に屋上とよばれている。というより、個人的にそうよんでいる。普段から周囲に認知されているかも定かでない。

僕が扉を開けたときには気がつかなかったから、この子は扉の影に立っていたか、後から入って来たか。これを今考えるのはあまり意味がないことだろう。

なにもない謎の空間で、まったくの初対面二人組が間を開けて立っている。僕が奥の方。彼女が扉側。

かつてこの場所で、同じシチュエーションが二度あっただろうか。

型の残る制服に身を包んだその子は、陽の当たる屋上に立って、瞳の黒を大きく拡げている。高いところで太く一本に結ばれた髪の先には緩やかなウェーブが掛かっていて、赤いシュシュがあるその一部分だけが無条件に華やかだ。

僕はまるで、大きな日傘がその子の頭の上に浮いているみたいだと思った。無条件に降り注ぐ陽の光を遮って、浮かべる表情を均等に影で覆う大きな黒い日傘。近づくことは許さないと、傘の骨の先が剥き出しになって辺りに拡がっているような。

どのクラスメイトとも違う雰囲気を纏うその子の足下を見やると、まだくすみのない白さの上履きに、僕と同じ色のラインが入っていた。

くぐもらず強すぎもしない発声を意識して、慎重に息を吸った。

「美術部だよ」

 そう答えると、つまらなさそう浮かぶ無表情に、微弱な何かが巡った。理由も出処もわからない。ただそう見えた気がするだけだ。

 僕の中で明確な答えを出すより先に、彼女の視線が静かに反らされた。

「そう」

 ため息にも満たない小さな吐息。それをほんのわずかな推進力に変えるようにして、彼女はドアの側の壁へ背を預けた。柔らかくうねりながら一本に束ねられた髪の先が、柔らかな風に散らされる。

僕は今、言葉か行動のどちらか、あるいは両方を巧みに使ってここから出るための算段を練っている。この状況に対して、有り体に言えば僕はビビっていた。決して、少し目つきの鋭い女の子に対してではなく、予想外に遭遇したこの状況に対して。

どうにかして、この場から速やかに自然な離脱をしたい。

そんな決して声には出せない儚い思いは、壁にもたれた遠慮がちな上目遣いに捕らえられ、簡単に身動きが取れなくなる。

「サボりでしょ?」

 簡潔に問われて頷くことしかできない。

「一緒に時間つぶさない?一人でいるの暇すぎ」

お互いの共通項と、越える必要のない境界線。それらを改めて認識しながら、期待や諦め、いくつかの色が含まれた薄暗い視線に向けて聞いた。

「サボりは初めて?」

 彼女は口の端と瞳を歪めて、それから息を吐くように笑った。

「何その言い方」

「ごめん。他にいい聞き方がわからなくて」

「別に、いいけど。まあ。サボりは初めて。今まで授業とかもとりあえず真面目に聞いてたし。見て。手とかめっちゃ震えてる」

 彼女は笑みを解かないままそう言って、小刻みに震える手のひらを胸の前に上げた。

 僕は何を言えばいい。大げさだと言って笑ってあげることも、震えを止めるために握ってあげるなんてことも、もちろん最初から選択肢にない。

目の前で不安を抱えた人一人のために、コミュニケーションの壁をいきなり飛び越えることはできない。僕はフィクションの人間でも変質者でもないから。

 ただ、サボりに関しては一日の長あり。これは間違いない。

「戻るなら遅くてもチャイムが鳴る十分前。そこまでならまだ教室が製作に集中してる時間だから。感覚に頼るのもいいけど、何か時間を確認できるものがあるとより確実。腕時計とか、デジカメとか。それから、教室には堂々と、何でもない顔をして入ればいい。もしどこに行ってたか聞かれたりすれば、最初の数回は保健室が言い訳に使える。そのあとはトイレか、文化系の部活に入ってるなら部活の用事が便利かな。何回か回数を重ねればそのうち誰も見ないふりをしてくれるようになるし、そうなればもっと堂々とサボればいい。まあ、今年はもうあまり製作時間はないけど」

 少しの間面を喰らったような表情を浮かべたあと、今度は腰を折って彼女が笑った。

「なに、それ」

「何にせよ堂々としてればいいんだ。僕たちはまだ義務教育の範疇にいるんだから」

「わかった。わかったから」

 目元を拭って彼女が小さく息を吐く。僕は立ったままでいるのが落ち着かなくて、すぐ側の手すりに背中を預けた。

「でもさ、こういう行事のときって美術部の人は重宝されない?うちのクラスはそうだったけど。こんなとこにいて大丈夫なの?」

「楽しい行事はみんなでつくるものだから」

「それ、冗談?にしてはやけに辛いんだけど」

 一応は冗談ととってもらえたようで何より。向けられた湿度高めの視線に曖昧な笑いを返す。

 彼女の言う美術部とは、十中八九イラスト部のことだろう。ポスター制作や、うちのクラスでは紙の魚の下地をデザインしたりと、キャッチーなイラストを得意とする彼らは大体のお祭りごとで活躍しているイメージがある。簡単なイラストならパっと描けちゃうイラスト部の彼らと、頑張ってちょっとした見てくれのものができる美術部の僕の間に、何の違いがあるのか。

それは部員の数と、あとは言わずもがな。活動の方向性である。

楽しい行事はみんなでつくるもの。これ以上なくシンプルで、これ以上なく今の僕に深く刺さる言葉はほかにあるだろうか。

この屋上と美術部の認知度は、大して変わらないかもしれない。

もう何を言っても悪あがきか自虐のどちらかになりそうだったので、せめて話題を変えてこの場を無かったことにする。

「君は、転校生の子?」

 対面してから気にはなっていたけれど、何となく言い出せなかった質問。けれどこの質問自体が、彼女を傷つけることにはならないはずだ。

 案の定、壁にもたれた彼女に起きた変化は大きくなかった。微かに眉を上げて驚いてみせただけだった。

「どっかで会ったことある?」

「制服とか上履きが新しい。それに上履きのラインを見れば同学年だって分かるし、そうなれば顔を見てもまったく覚えがない方が変だ」

「まあそっか」

 真っ先に選管へ立候補した転校生の話。四月の初めに先生から話を聞かされて、それから何となく頭の端に置いていた。

知らないところで知らないうちに解決したと思っていたけれど、転校生が実際にここにいるということは、前に聞いた先生の話が間違いだったということになる。

だからと言って、ため息を吐きたくなるようなこともない。僕にできることは最初から多くはなくて、目の前にいるのが誰であろうと、それが一人の暇を持て余した人間であるだけだから。とはいえ想像以上に何もできることがない。空のポッケを叩いても、無から気の利いた話題とかでてくるはずもない。背中を手すりに預けたまま、緊張気味の足を伸ばした。

 今が製作の時間だというのが嘘みたいに、この場所で聞く学校の音はどこまでも閉ざされている。

 教室の中に溢れているはずの賑やかな声はここまで届かない。ここで生まれる衣擦れや些細な息づかいは、ここよりほかに届く前に無数の空気に吸われる。

 不意に陽が陰った。

上を見ると、長く大きな雲が太陽をすっぽり飲み込んでいた。風向きと雲の形から、しばらくはこのまま薄暗い時間が続くだろう。雲の端から滲む虹色の光を見上げる。

 すると、手元でもてあそんでいた沈黙を不意に放るように、壁にもたれた女の子が声を発した。

「そういえばさ。なんで美術部の人がカメラ持ってるの?」

「顧問の先生から、交流会の課題をもらったんだ。一日一枚は描かなくちゃいけなくて。それでカメラがいる。題材の、ストックを貯めておきたいから」

「へえ。大変?」

 伏せ気味な視線がカメラを向き、それから遠慮がちにこちらへ滑った。

「どうかな。まだ始めたばかりだから、あんまり。でも鉛筆立ては意外と大変だった」

「そういうのでいいんだ。もっと難しそうなものを描くんだと思ってた」

「難しそうなのって?例えば?」

 緑の床の上に視線を落として、彼女の黒い瞳がそこにあるはずの何かをゆっくりとさらう。やがて呟くように、彼女は言った。

「鱒、とか?」

 僕の首がゆっくりと傾く。それに合わせて彼女の首も傾いて、沈黙。どこまでも意味があるようでないような、まったくの沈黙。この沈黙の果てに、何を見出すべきか。少し置いてみてもわからなかったので、僕は首を振ってこの時間をなかったことにした。

「描くものは身近にあるものでいいんだ。鉛筆立てとか、バス停とか、なんでも。日常にあるものっていえばいいのかな。そういうものを、自分の見たように描く。それが課題だから」

「見たように?」

「そう。先生によれば、交流会のときには僕の世界ができあがってるらしい」

「どういうこと?」

「さあ。僕にもよくわからないけど。第二美術室に展示はするから。当日はいい避暑地になると思うけど」

「あ」

 壁にもたれた彼女は、沈んだ様子で息を短く漏らした。

「当日まで、あと一週間くらい?」

「そうだね」

 薄暗く陰った陽の光と、彼女が背にしている壁のクリーム色。そこら中に溢れる色を背景に、彼女は薄い肩を揺らして言った。

「長いなぁ」

 


初対面の人と過ごすのはもちろん得意じゃない。だけど目的も大した会話も持ち合わせず、時間を無為に過ごすのは不思議と、ただ居心地が悪いだけの時間ではなかった。

 お互い必要以上に踏み込んだ会話は避け、その子の名前も、両目が少し腫れていたことにも、僕は知らないふりをした。他愛のない話でぎこちなく、何のために存在するのかわからないような場所でただ無意味に、僕たちは僕たちのために用意された時間が過ぎるのを耳を塞ぐみたいにして待った。



「体感的にはかなり長い時間を、ここで過ごしていただいたかと思いますが」

 意識の底を静かに進む声とともに、紙のめくれる音が辺りへ散る。フレームのない眼鏡の端に光をのせて、エシテルは湯気の立つカップを顔の前へ運んだ。

「もうすぐ終わります」



「ねえ」

 雲六分、謎の空間。いわば屋上にて。両目を薄く腫らしたその子は、手すりの麓にある出っ張りに腰を乗せたまま言った。

「ここって何なの?」

「今?」

 膝に抱えていたスケッチブックから顔を上げる。

最初にここで邂逅した日から一週間が経ち、今は交流会前に用意された最後のホームルーム。を、例に漏れずここでサボっている最中だった。

「だって今気になったから」

僕が腰を下ろした手すりの向かい側。丁寧に巻かれた髪の先を揺らして、彼女は目線を辺りに飛ばした。

「ここ、意味深な感じのわりになにもないよね」

「見るからに何か置かれていそうな場所だけど。昔は何かあったんじゃない?」

「何かって?」

「お社」

「いや、それはないでしょ。それこそ何。その場所」

 乾いた笑いが出た。

長らく一人胸に秘めていたお社説の否定は、少しくるものがあった。

「まあ、そうだね。僕にもよくわからない。誰かがここを使うのも見たことないし、誰かに話を聞いたこともないから」

 手すりの麓から返答はなく、胡乱ともいうべき視線がじっと注がれる。純朴な男子中学生にとって、同年代の女の子から向けられる視線というのは多大な力を持つ。

今彼女から放たれたあの視線。あれは間違いなく刃物だ。並の男子は目にしただけでプライドごと削られるような視線にも、僕の心は自然と動じない。次の刀筋は既に見切ったも同然だ。

「友達とか、いるの?」

「今?」

「それもそうだわ」

 返す刀に、少し傷つく。

「ごめん、気にしないで。私も似たようなもんだし」

 数拍置いて執り行われた慌ただしいフォローも、静かな屋上では小さな泡のようになって消えただけだった。

 気の利いた笑い方もできないまま、空白の時間が屋上を支配する。

 反対側の手すりの麓で、力なく握られた手のひらが空を切って進み、まだ新しい制服の裾を乱暴に掴んだ。

 俯いた横顔はひどく脆く頼りなく、何かを探しているようにも、何も映していないようにも見えた。

 それでも目が合えば、横顔に宿った無防備は一瞬で消え去った。憂鬱を隠さない伏せた目の上を、もう一枚の影が覆う。雲が、太陽を陰った。

「明日じゃんね。交流会」

「そうだね」

「嫌じゃないの?」

「そこまで。振替で月曜日休みだし」

「なにそれ。変なの」

 息を漏らすように小さく笑って、それから静かに俯いた。床に伸ばした指の先で、そこにあるかもしれない何かを攫う。

「私は嫌かも。前は、こんなんじゃなかったんだけど」

「嫌なら休めばいい」

「むり。親来るし。変な心配かけたくない」

 こちらに向けて顔を上げて、彼女は困ったようにまた笑う。

「変な話だよね。自分からこんなとこに来といて」

「そうかな。誰だって人に心配はかけたくないのは同じだよ。たぶん」

「たぶんって」

 屋上の穏やかな空気の流れの上に、一人分の笑う音がそっと重なる。

「僕だって最低限のことはやってるつもりだし」

 最低限。最低限か。彼女はそう呟いて頭を空の方へと傾けた。

すると、手すりに身を預けた彼女の体が、衣擦れの音とともに、ほんのわずかに床に近付いた。まるで張り詰めていた空気が抜けて、体が一回り小さくなったような。

もちろんそんなことは思っていても声には出さず、僕はろくに進まない「今日の一枚」のラフスケッチに視線を戻した。


今日何度目かの沈黙が屋上を覆って、少しの時間が経った後。

耳触りよく芯の通った彼女の声が、緩やかに凝固しつつあったこの空間を揺らした。

「そっちってさ、ずっとここ住みなの?」

「いや。家はここからちょっと遠いところだけど。海沿いの何もないとこ。でも大体の生活範囲は、昔からこの辺りだよ。何もないから。本当に」

「強調がすごいな」

「君は?ここ来る前はどういうところにいたの?」

「え?んー。こことあんま変わんないよ。田舎でも都会でもない、中途半端なとこ。ホームセンターは広かったし、周りの人も優しかったし」

彼女はそこで、手すりを掴んで立ち上がった。それまで腰を下ろしていたフェンスの根本の段差に両足を乗せる。その動作は一つずつがひどく慎重に、こわごわと行われた。

「でも、記憶とか、思い入れとか、あんまりない。いっぱい転校してるとさ、何にも残らないんだよね。みんな優しかったのはおぼえてるけど、でもそれくらい。多少は顔がいい転校生の宿命ってやつだ」

彼女が顔を寄せる高い高い手すりの向こうには、田舎でも都会でもない、灰色で平坦な山雑じりの土地が広がっている。陸続きに僕の知らない世界があって、そのどこかには彼女がやって来た学校がある。

僕の知らない学校の、ぎこちなくもつつがなく回っている新学期の教室を想像してみる。きっとこの学校とそう変わらない。それでもどうしたって、二つの空間は絶対に繋がることがない。それは彼女にとって、どれくらい寂しいことなのだろう。

「でもここに来て、やっと決めたの」

細い背中が、息を吸って一度だけ大きく膨らむ。

「みんなが何を考えてるか、考えるのもうやめにした」

 まるで、重力に潰されるアイスクリームみたいに。意味のない妄想と、僕が抱えていた言葉にする前の言葉は、胸の内で簡単にひしゃげてしまった。

名前を知らないその子は、腫れた目を細めて笑っていた。

手すり越しに彼女が見ていたのは、時間も距離も離れた過去じゃなく、今僕たちの目の前にある、僕たちの学校だった。そこにしか、目を向けていなかった。

「思い出も、記憶も。形になって強く残らないなら、最初からいらない。欲しがらないなら、余計に疲れることもないってやっと気づいた」

仔細を覆う影の色は、混ざり、溶け合い薄く滲んだ灰色。僕の手と想像の及ばない場所に立って、抜き身の脆さを揺らめかせながら半身を傾けた。

手すりを離れた片方の手が、重力に引かれて宙を攫う。なんだか意味ありげに、太陽が雲から顔を出す。

「そっちもそうなんでしょ?」

 力なく揺れるブレザーの袖の上を、太陽光が滑らかな曲線を描いている。その緩やかな光の線を目で追いながら、三秒。体感ではその何倍もの時間が流れた。

 やがて、パキリと何かを折る音がして、それが笑い声に含まれる音だったことを、僕は破顔した彼女の表情を見上げて知った。

「ごめんね?冗談冗談。うちのクラス演劇やるんだ。この地域の伝承の、なんだっけ。まあ、その練習?劇にいるんだよね、こういう子が。私照明だけど」



「元々不定形で目に見えないくらい小さなものをさ、勝手にかき集めて纏め上げようとする行為自体人間のエゴだと思うんだよね私はさ」

「うん」

「すべてのものに神様が宿るみたいな話、日本にあるでしょ?それならほこりにも神様がいるって考えた人、いなかったのかな」

「どうだろう。高坂さん、箒くるくるしないほうがいいと思う。埃。埃、散っちゃうから」

「あっごめん」

 明日に備えて、机が窓際と廊下側に寄せられた教室の、掃除ロッカー前。高坂さんの手によって丁寧に集められた塵や埃が、高坂さんの手によってもう一度散った。

 僕はちりとりセットのミニ箒を、高坂さんは横長の箒を慌ててせっせと動かす。

 場所によっては掃除が終わり、週替わりの当番にあたらない人は一足早く放課後を迎える時間。

この時間特有の喧騒が廊下側の窓のすきまから流れ込んで、教室の隅にまで届いていた。快活な別れの挨拶だったり、ごく近い未来のことだったりについて巻き起こる、喧騒の上のまばらな人の声。今日は心なしかいつもより賑やかさが増しているようだ。

「あのさ」

 賑やかさを背に受け、黙々と箒を動かすことだけに向けていた思考が不意に途切れた。目線だけを少し上げると、白い上履きから真っ直ぐに伸びた高坂さんの二本の足が視界に入った。

 特徴的でよく通る呼び声の主、つまり僕の目の前に立つ高坂さんは、これからの天気を聞くような声で言った。

「わたしたちってなんでこんな仲いいんだっけ」

「え?」

「いや、なーんか不意に気になっちゃってね。今まで接点がなかったにしては、仲がよい」

 思わず顔を上げ、とっさに口をついた「え?」には「え?僕たちってそんなに仲よかったんですか?」が圧縮同梱されているつもりだった。どうやらそこまでは通じていないようだ。

 箒を持って仁王立ちの高坂さんに浮ついた様子はまるでない。なんでもないようなことに確かな答えを探す、いつもの高坂さんだ。

「へえ」

答えに悩んだ挙句にひり出した弱々しい江戸っ子言葉にも、真っ直ぐな視線は緩まない。

「なんでだろ。わたしたち昔からの知り合いだった?」

「それはないと思う」

「だよねぇ。生き別れの友達なんて、そんな漫画みたいな」

 その状況はわりと現実に起きているんじゃなかろうか。物言わずちりとりを持って立ち上がると、高坂さんは箒の柄に乗せた自分の手へ、視線をじっと注いでいた。

「なぁんかさ、それこそ漫画みたいな話だけどさ?誰かがいたような気がするんだよね。私たちの間に誰かがいて、私たち二人ともがその人のことを忘れちゃってるのさ」

「僕たちの仲がいいのは、いなくなったその人が理由?」

「そー」

「どうだろう」

 考えるふりをして視線を逸らすと、荷物棚の上にはプラスチックチックな視線。紙でできた魚たちは、いつか意識したときからその数を何倍にも増やしていた。

「ありえない話じゃ、ない?」

何も答えられない。

勢いもつけず、高坂さんは窓から身を軽々と離した。

「ま、私のこんな話でもちゃんと聞いてくれるから、八坂は友達なんだろうな」

ガラス玉に光をかざしたような色の笑顔を間近で見て、僕は僕の後ろにある教室の風景の眩しさと、高坂さんの内側から湧き出る強い光の色を、頭の中で想像してみた。



考えるふりをして二度、自分の言葉を場に曝すことを避けた。困ったときの常套手段で、治したいと思っている僕の癖だ。

屋上で彼女が思い出の話をしたとき、本当は首を振って強く否定したかった。

高坂さんの不思議な話には、首がちぎれて飛ぶくらいに頷いて握手をしたいくらいだった。

そうできなかったのは、たぶん僕が臆病なだけだったのだと思う。

いつからかだったかは、はっきりとはわからない。僕は、自分の中に存在する「存在しない思い出」を、目に触れる全てのものから探そうとしていた。

授業中の教室のふとした瞬間。登下校の途中にある何でもないような物。誰もいない放課後の昇降口。踊り場を回った向こう側。

どこに立っていたとしても、それがファインダー越しでも画用紙を通したとしても、僕は映る景色の先に、映らない何かを探そうとしている。

きっとそれは高坂さんが言う漫画のような話で、屋上の彼女が言う形のない思い出に他ならないだろう。

僕が探しているのは、存在しない誰かの面影だ。

僕の知らない誰かがここに立っていた。この木を見上げていた。静かに海を眺めていた。この場所を歩いていた。僕と同じ歩幅で、とても軽やかに。

どこか、ジグソーパズルを外側からはめていく作業に似ている。中央のモチーフには手を付けない、見本のないパズル。

僕は知っている。これはいつの間にか頭に植わっていた、妄想に満たない暇つぶしの想像だと知っている。

知っている、けれど。それでもなぜか不意にどうしようもなく、惹かれた景色の中に留まって、惹かれた何かを探したくなる。その瞬間に、出会いたくなる。

だから今日も課題をこなす。

写真のストックは尽きていた。だから校舎内に描きたいものを探しているけれど、丹精こめて慣性の込められたボールがさまざま飛び交う死のグラウンドや魔の体育館以外、大方、校舎内のめぼしい場所は課題探しで歩いてきたつもりだ。

あと残っているところといえば、温室と校舎の間に置かれたベンチくらい。

そこへ行けば何かが見つかるような気がしないでもなかったし、何もないならないで座って休めばいい。

校舎の外周に沿ってぐるりと進み、やがて横手に立つ壁が途切れる。

理科室へと続くスロープと、温室と、ベンチのある場所。凹の字になった空間を真っ直ぐに進んで温室を横切ったとき、僕は立ち止まった。


ベンチには、一人の少女が座っていた。

宇宙の片隅から取り出したような深い青の瞳。陽の光を吸い込んで反射する、色素の薄い栗色の髪。

温室越しのぼやけた光が、まるで海中にいるようだ、と。立ち尽くして、僕は思い出した。

たくさんのことを、忘れていたこと。

そしてまだ、たくさん忘れたままでいること。

気がつけば、見えない壁が僕の世界に蓋をする。動けない僕の周りを、一斉に噴き出した黒い水の渦がたちまち囲い込む。

ほんのりと温かい水は、僕の目と耳を覆ってくれる。僕の前から見えるべきものを隠して、余計な雑踏からも遠ざけてくれる。

それでも僕はもう、全てを忘れない。

呼吸を繰り返す度、頭の中にあるパズルに空いた大きな空白の、幽霊みたいなその輪郭が強く際立って。

出来上がった水槽の中、見えないモチーフがつくった空白で呼吸を繰り返す。

僕にはやるべきことがあった。考えるべきことがあった。あったんだ。

光の明滅。夢から覚めるように。夢の中へ飛び込むように。

忘れていたことが、思い出したことが、頭の中で混ざり合って溶け合う。

最初からそこにあったのかもしれない何かが、手の中から離れていく。綺麗な色をしていて、七色の砂なんかでできているかもしれない何かが。黒い水の底へ落ちていく。

水はやがて回転を始め、大きな渦になる。

ぐるぐる。ぐるぐると。どうしようもなく終わりへと向かい続けるこの時間に、僕がやるべきことは何だったろう。

たくさんのことを忘れて、手放して、それでも僕はまだ、おぼえていることがある。

今はきっと、あの子だけが僕の現実と繋がっている。

「立町さん」

 強く眩暈がしても、胸が痛いほど拍動しても、今度だけは声を震わせずに彼女の名前を呼んだ。

ベンチに座ったまま、立町さんがこちらを捉える。

「八坂さん」



「立町さん。少しぶりですね」

 ベンチの前。

不安と混乱の感情すら表情へ鮮やかに滲ませて、立町さんはベンチにちょこんと座っている。

できるだけ自然に、さりげなく笑ってみた。

「実は僕、やらなきゃいけないことがあったんですけど、でもそれが何なのか忘れちゃって。だから今、暇なんです。よければ、立町さんの知っていることを聞かせてほしい」

「私の、知っていること?」

「立町さんに何があったのかとか、そもそも何が起きているのか、とか。僕が立町さんを最後に見たのが、少し前に、その、車の通りの中に消えていったきりだったので。こうして元気そうってことは、少なくとも僕よりはこの現状に詳しそうだと思って」

 ぽっかり口を開いたままで、立町さんの反応は芳しくない。

いつかにも感じた、言葉が通じていない感覚。それでも言葉を続けなければ届かない。今この場所を離れると、同じ景色は二度と訪れないような気がしていた。

「何かが、起こっていることはわかるんです。でもそれが何か、僕にはさっぱりで」

「あ」

 口を開いたまま、立町さんの青い瞳がぐらぐらと揺らぎ始める。

 それが涙と気がついたときにはもう、両目に滲んだ水は流れて止まらなくなっていた。

「ゔ、ゔあ、ゔあぁ、やざかざん!ゔぁー!」



「すみません。お見苦しいところをお見せしてしまって」

「あ、いえ。全然」

 意表を突くを通り越して貫いた大泣きのあとに、僕が差し出したハンカチでちーんと一回。それからスカートの端なんかをちょちょいと直して、立町さんは何もなかったように復活した。

「ハンカチは洗ってお返ししますね」

「あ、急がなくて大丈夫ですから」

「ありがとうございます」

 立町さんはそう言って、異質なほどに澄みきった微笑みを浮かべる。

もしかすると本当に、何もなかったのかもしれない。数分前はぐしゃぐしゃだった顔には、綺麗さっぱり洗い流したみたいに、涙のあとすら残されていなかった。

「ええと、それで。私のことですよね」

「いや立町さん。もう、大丈夫なんですか」

「はい。八坂さんにお会いできて、安心したと思ったら突然涙が。なかなか止めようがなくて驚きましたが、苦しいことからやってきた涙ではないので。もうばっちり大丈夫です!」

 けろっと。立町さんはあまりにも軽く言い放って、片腕に力こぶをつくる動作さえしてしまう。

 しなやかで、鮮やか。短い間で知った立町さんのらしさに触れながら、そんな彼女が声を上げて泣いていたことについて、僕は遅れて大きな不穏を感じ始めた。

とはいえ今さら逃げだすことに意味はない。

「なら、教えてください。僕も準備はばっちりできてます」

立町さんは細い顎を少し下げて、それから強い決意に後押しされるよう、顔を上げた。

「今からお話する内容はとても突拍子のないことで、八坂さんを驚かせてしまうかもしれません。ですがすべて本当のことです。それだけは、わかっていただければと思います」

 視線に無言でうなずき返す。立町さんは短く息を吸って、肩を小さく震わせた。

「実は私、幽霊だったんです」

「はい」

 もう一度うなずく。

ベンチに座った立町さんは、それこそ幽霊か何かを見間違えたように、ゆっくり目をしばたかせていた。

「驚かないんですか?疑わないんですか?」

「立町さん自身が本当のことだって言ったじゃないですか。そしたら疑わないですよ」

「で、でももうちょっと、ウワー、とかギエー、とか、驚いてもいいんですよ……?」

「立町さんが車に飛び込んでいったのを見た時点で、相当驚きましたよ。あと、今も。まったく怪我もなくて普段通りじゃないですか」

「ああ、すみません。それは、ですね。誰かにお見せするつもりではなかったのですが。よりにもよって八坂さんに見られてしまうとは」

 過去の失敗を思い出話にして話すみたいに、立町さんは静かに笑う。それから言った。

「いつからか、私が世界に存在できる部分というのが、極端に少なくなっていたんです。どこにいても誰にも見られない。なにをしても体に傷がつかない。どこにも行けない。だから私は幽霊なんです」



自分の体が幽霊になったと気がついたのは、八坂さんと美術室で最後にお話しした日、八坂さんが車に向かっていく私を見た日でした。それも、美術室を出てすぐのことです。

そのときちょっと所用がありまして、とにかく急ぎたい気持ちでいっぱいだった私は、一階に下りる最後の階段を見事に転げて落ちました。それはもう、笑ってしまうくらい見事にすってんころりんです。

すってんころりんの勢いのまま少し気絶して、それから目を覚まして実際に笑っちゃいました。

それで、気がついたんです。声を上げて笑えるくらい体に痛みが無くて、階段のふもとを通りがかっていた皆さんは、笑っている私を見ても不思議そうな顔をしない。それどころか、私に気がついてすらいないって。

不思議に思って私、自分の体を何とはなしに見下ろしてみたんです。

そしたらなんと……体が半分透けてるじゃないですか!まるで幽霊、まさしく幽霊だと!

驚きつつも、そのときの高揚感にあおられていた私は、立ち止まることはせず校舎を真っ直ぐに飛び出しました。

走って走って、途中何度か転びましたが、一瞬ですら止まりたくない私の前に立ちふさがったのが、件の信号だったわけです。あの、道路と道路の間にある浮島のような、電車が止まる場所。ばっちり赤信号でした。

赤い光を放つ信号から逃げ様もなく、私は手も足も出ませんでした。

これちょっとうまくないですか?

そうですか。

えっとですね、とりあえず私は、少し悩んで、それから飛び込みました。

何たって、私は幽霊ですから。



「八坂さんがご覧になったのは、そのときの後ろ姿だったのでしょう」

「それで無事だったんですか」

「はい。まったくの無傷で。ばっちり生還です」

 あの横断歩道に、立町さんがいた痕跡がかけらも残されていなかったのは、立町さんが存在しない存在だったから。幽霊だったから。

 その話は、やっぱり腑に落ちる。というより、僕の中で心構えが出来ていたというべきだろうか。

 立町さんが幽霊であることが事実として、そこがどう僕の現実に繋がるだろう。話の中で、気になることが当然に生まれていた。

「そこまで急いで、立町さんはどこへ行こうとしていたんですか?」

「あ、それはですね」

 視線を下げ、何かを口に出しかけては躊躇う立町さんの座り姿が、息を吸う度小さくなる。

風が不意に柔らかく吹くように、顔を上げた立町さんは静かに笑った。

「やっぱり、それは言えません」

 息を呑んだ。立町さんの、拒絶の言葉か。穏やかな笑顔か。そのどちらかに。もしくは両方に。

「何か理由があるんですか」

「勘というにはもう少し明確に。私は知っています」

 きっと今のような状況を、異常というのだろう。

消えていた記憶の復活。まだ忘れている記憶があるという自覚。幽霊の存在を主張する人、それをすんなり呑み込んでしまう人。

 この場から一歩外へ足を踏み出した途端、どれだけ強固な常識と不変の世界が僕と立町さん二人の足を重くさせようと、僕と立町さん二人の間にある認識が、今は世界の全部だ。

それなのに。こんなときですら、そんな言葉すら、立町さんは澄んだ声で、瞳で、ひとつの憂いさえ感じさせない。

「にっちもさっちも待ったもなく、私はこのまま消えてしまいます。きっと、存在したこと自体が消えてなくなる。八坂さんの記憶からも、幽霊みたいに、綺麗さっぱりと」

 風が柔らかく吹いた。色素の薄い髪の先から、温かい空気の中へ溶かしてしまうように。

「私は、いずれ消える私の言葉や存在に意味がないと、そう思うからです。いずれ意味のなくなる言葉に、これから先も変わらず生きていく八坂さんを、無為に振り回してはいけないから」

 頭の中から消えた記憶がつくる、誰かの輪郭。

 僕は、一度手のひらに力を込めて、すぐにそれを解いた。あとにのこったのは、仄かな熱と脱力感だけ。

「意味がないとは、僕は思いません」

 僕は今、上手く笑えているだろうか。

 僕は嘘が上手くつけない。昔誰かにそう言われて、そのときはむきになって否定したけれど。

表れるのはこんな、どうしようもないほどそのままな言葉だとは。

 おかしくて笑いそうだった。結局のところ僕はまだ潔いほど子供のままで、混乱したままの頭の中はぐちゃぐちゃで、胸の奥は意味が分からないくらいに苦しくて。

 世界の全部をちっぽけに思わせてしまえるくらい、どこまでも透明な笑顔が、今ここに欲しかった。

「いえ。意味がないなんて、僕は思いたくないだけなのかもしれない。立町さん、僕はたぶん。いえ、必ず、一人分の誰かの存在を忘れてしまいました。穴が開いたみたいに。それこそ、綺麗さっぱり消えてしまったみたいに。これはきっと、正しい忘れ方ではないんだと思います。今も、忘れながら消えた記憶を探しているから。無くした記憶を取り戻して、それからどうしたいのかもよくわかりません。その人にもっと会いたくなるのか、綺麗に別れを告げられるのか。それでも、ずっと探している。今は、立町さんが、立町さんだけが、この記憶に繋がっている気がしているんです」

 片膝をついて、青い瞳を覗き込んで、僕は無理やりに口角を引き上げ続ける。

「僕は、消えた記憶に意味を見つけたい。わがままで、自分勝手だと思います。それでも、立町さんに協力させてくれませんか」

不格好で今にも崩れ出しそうな、小さな砂のお城。ちっぽけな笑み。

 深い宇宙の色をした瞳の表面が、一度だけ揺らめいた。

「八坂さん、ごめんなさい。わがままばかりを言ってきたのは、私のほうなのに」

 それから、立町さんは微笑んだ。しなやかで真っ直ぐな、溢れんばかりの意思を瞳に宿して。

「実は私もなんです。八坂さんだけが、私の望みに繋がる唯一の人だと知っていたんです。八坂さん。どうか、私のわがままを、まだ聞いていただけますか?」



 そして今、僕と立町さんは揃ってバスに乗っている。

さっきから僕の触れるものに、色々な意味で現実感が伴わなくなってきていると思う。

時折不規則に振動しては、どこかからピシピシと音が立つがら空きの車内。

一列に繋がった後部座席の右端に座って、立町さんは自身の手首の感触を確かめるように握った。

「今のところ、なんともないようです」

 どうでしょう、とその流れでこちらに手を差し出されたところで、僕にできることは特にない。

 傾きつつある陽の黄色に染まった手のひら。

 僕はそこから窓の向こうの景色へと、できるだけ自然に視線を動かした。

「このままうまくいくといいですね」

「はい。でもやっぱり、八坂さんがいてくださると大丈夫な気がします」

「根拠はないですが」

 隣に座った人に聞こえる最小の声で、ほんの少し笑い合う。

 想像するより先に理解していたことではあるものの、この路線はいつでも普段通りにまるで乗客がいない。

 最後列に座る僕と、最前列の運転手さん。それだけが乗った車内で、僕は幽霊らしき不確定な存在の女の子の存在を確かめ続けている。

 立町さんが行きたかった場所とは、僕が日頃通学に使うバス路線の、終点のさらにその先にあった。



 少し前。校舎裏のベンチに座った立町さんは言った。

「私の行きたい場所とは、八坂さんの描かれた絵の中にあります。八坂さんと美術室で最後にお会いしたとき、あの海の絵を見せていただいたときから、私のすべてはあの絵に映ったあの海岸だけになってしまったのです」

 私はどうしてもそこへ行かなければいけないようで。

 立町さんは少し困ったように眉を下げて笑って、やがていつもの真っ直ぐな青い瞳でこちらを見つめた。

「これが私の望みです。八坂さんの描かれた絵が、海が、私の望みに繋がっている。そして私は、一人ではこの望みを叶えることができない」

「何度やっても、途中で消えてしまうから?」

 立町さんは頷いた。

「八坂さんがご覧になったように、幽霊になった私の体は唐突に消え、そして現れてを繰り返しています。何をしていても、時間が経てば意識が不意に途切れ、次の瞬間には学校のどこかで目を覚ます。その繰り返しです。最近は意識を保てる時間も短くなって、学校を出ることすら難しくなっていました」

 ですが。

 短く切られた言葉の端は力強く宙へ放られて、誰かに見つけられるのを待っている。

遠い遠い星空の隙間で、誰の目にも届かない光を発し続ける信号のように。

真っ直ぐなその声は少しだけ震えている気がして、出会ったことのない景色を意味もなく連想する。

君は一人じゃない。たったそれだけの短い言葉を、僕はもてるもの全てを使って伝えたくなった。込み上げてくる熱のようなものに急かされながら、僕は言葉を探す。



定期入れから抜き出した小銭を料金箱に入れて、素知らぬ顔でバスのステップを降りた。

煙を吐くような音と熱気を発して、バスはやがて走り出した。

海沿いを進んでみるみる小さくなっていくその正方形の背中に向け、立町さんは遠い視線を送っている。

「白昼堂々の無賃乗車ですよ。これが、やっちまった、ってやつですか……」

 小人大人に続いてもう一枠、透明人なんかの枠があれば、この世から罪の意識に苛まれる人間が一人減ったというのに。

「それじゃあ、行きましょう」

 立町さんが、言葉と裏腹に瞳の中へ興奮を微かに滲ませていることはさておいて、僕は自分の思う方へ、一歩目を踏み出した。

 堤防と荒れ気味の土地が左右を囲む、海沿いの田舎にはどこにでもあるような一本道。

それでもここに降り立って、バスから外を眺めていたときより、強く感じる。目的の場所が、教室から眺めていたあの海が、この先に通じていることを僕は知っている。

僕は、この場所に来たことがある。

 それは目的も思い出せないくらい昔のことで、それでもなぜか鮮明に、一歩ずつ進んでいく度に体の感覚が鮮明になっていくようで、靴に伝わるコンクリートの感触の、肌に触れる風の冷たさの、海の上の無数の煌めきの、ひとつひとつが、記憶に溶けて馴染んでいくようで、今の僕の中にはきっと、奇妙な心地良さと言い様のない不安が絡まり合って体の端まで伸びている。まるで血管みたいに。



方向の分かった一本道で案内もなにも必要ないことに、歩き始めてすぐに気がついていたものの、ここまで前後に並ぶ列の形を維持し続けている。

絶えることのない波の音の間に、時折靴の擦れる音が聞こえる。それだけで、後ろを歩いている人の存在を確認できることも、同時に気がついていた。

その足音が不意に途切れた。振り返ると、立ち止まった立町さんは海の上へ視線を向けていた。粉々に砕かれた太陽の破片が無数に散らばったような海面。オレンジ色と混ざりあった、深く青い色。

 コンクリートの上を、潮の匂いを含んだ風が緩やかに滑り抜ける。

「すみません」

我に返ったように立町さんはこちらに視線を向けて、慌て気味に足を動かし始めた。一拍遅れで僕も歩き始めて、隊形の距離を少しだけ縮めることになった。

「海、大きいですね」

「真理ですね」

 立町さんが今実感しているそれは、日頃海の近くで暮らしている僕たちが一番手軽に触れられる真理の一つかもしれない。童謡にもなっているくらいシンプルで、宇宙の大きさもブラックホールの深さも知らない僕たちの、なかなか変わることのない認識。

「私、ここに八坂さんに連れてきていただけてよかったと思います。八坂さんの描かれたあの絵に出会って、ここに来たいと強く思うことができて、よかったとも思っています」

後ろで聞く立町さんの声は、波の音に乗って、風の上を滑って、そのまま遠くへ行ってしまいそうだと思った。

「画用紙の中でみた世界も、こうして実際に触れる世界も、きれいなもので溢れている。それを知ることができたのは、全部、八坂さんのおかげです。ありがとうございます」

 振り返った先で、立町さんは柔らかく笑っていた。

強く濃く、夕陽が差し込む場所で、真っ直ぐに眩しく。強く。僕は喉奥から込み上がろうとする何かを一度飲み込んで、それから海の方へと視線を向けた。

 大きくて、広い海。遠くに霞む海と空の境界線の、さらにその向こう側を覗こうとして、僕の喉から息を吸うみたいに、小さな笑いが漏れた。

どこまでも広がる海は大きくて綺麗だった。ここにいない誰かの足音が、よく知ったリズムで後ろから聞こえてくるような気がする。

 たぶん今の僕は、立町さんを前にして過去一番の自然体でいると思う。肩に力なんか入れずに、どう見られるかなんて考えないまま笑って。

「でも僕にはやっぱり、立町さんが僕の絵にそこまでの熱量を感じてくれたことが不思議です。ずっと。僕自身は、特に強い思い入れもないまま、海の絵を描いていただけだったから。僕からすると、本物の海の方がずっと綺麗で、価値のあるものに見えます」

 波の音の合間で内緒の話をするように、声を潜めて立町さんは言った。

「だって、私は八坂さんのファンですから」



一本道は、まだ続いている。海を遮って続くこの防砂林が途切れた先に、目的の場所があるはずだ。きっと実際は十分も経っていないのかもしれないけれど、それ以上の時間と距離を後ろに置いてきたような、不思議な感覚がある。

この先には、何があるのだろう。

僕がなくしてしまった僕の現実と唯一の繋がりを持つ立町さんが、幽霊になっても強く行きたいと願った場所。

同じ場所、同じ窓から僕が描き続けていた風景。その、ほんの一部分。

そこには何があって、僕たちは何を見るのだろう。

もうすぐ、海と僕たちを遮る防砂林が途切れる。隠されていた海が、もう一度現れる解放感への期待感。

でもきっとそれだけではなくて、防砂林を追い越す歩調は一歩ずつ自然と速まっていく。

そして、僕はその海岸を見た。

こじんまりとした砂浜と、夕焼けを暗くした色の水平線。奥の方に一本の堤防が伸び、その麓ではたくさんのテトラポッドが波の飛沫を浴びていた。開けられることの少なくなったおもちゃ箱みたいに、ここでは静かに、ひっそりと時間が流れていたのだろう。

歩道から砂浜に続く数段の階段を下りて行きながら、僕は堤防の麓を埋め尽くすテトラポッドたちに目を凝らす。

すると、やっぱり、そこにはあった。独特の、どれも同じ形をしたテトラポッドの中に一つだけ、ほかよりさらに独特なかたちをしたなにかが、身を潜めるようにして海に浮かんでいるのを、見つけた。

見つけて、視界にそれを認めて、堰を切ったように記憶が溢れだす。


「わたしはあれに乗ってやって来たの。ねえあなたのお話、聞かせて」

今よりずっと幼かったころの僕が、あの砂浜にいた。

クレヨンと大きなスケッチブック。

それよりずっと大きな不安と寂しさと、金魚鉢の金魚が跳ねる音。


そのときからずっと、僕は一人ではなかった。

思い出して振り返ると、立町さんが佇む茜色の視界の中、空に細く立ち上る灰色の煙に、僕は目を奪われた。

さらにその向こう、背の低い山に沈んでいく太陽が視界に入る。今にも山に全部を飲みこまれてしまう寸前の、ほんの一かけら。

そのオレンジの強すぎる光が網膜の上に焼き付いて、視界の一部分を青黒く塗りつぶした。

思わず瞼を閉じる。


それから三秒して、目を開いたら。

僕の視界には煙と、沈みきった太陽と、明るくなったあとの映画館のスクリーンにも似た、淡く薄いピンク色の空が広がっていた。

それ以外には、何もない。何もないならどうして、僕はここに立っているのだろう。何もないこの場所に。どこにも繋がらない、この場所に。

空が遠い。じっと眺めていると、淡かった空の色は、みるみるうちに海の色に近づいていく。光の届かない黒の色へ。床に落ちた水が手を伸ばすみたいに、どんどんどんどん、広がっていく。

僕はそれを立ったまま、じっと眺めていた。



波の音だけが遠くで聞こえる。

近くに街灯はない。頭上には厚い雲が広がっているのか、見上げて探しても月や星の光は見つけられなかった。

陽が沈んでから、どのくらいたっただろう。

靴の中に重りでも入ったみたいに、砂の上に置いた足の先が不思議と重い。かといって立ち尽くしたまま、特にこれといって何か感情が湧いてくることもない。

お腹ぐらい空いてくれてもいいのに、と思う。今ごろうちでは起き抜けの母さんが夕飯をつくっている頃だろうに。

自分の感情が、心が、強張っているのがわかる。

ここは、忘れたくても忘れられない場所だ。今さら何かを確かめに来る必要があったのか?ついさっきまでの自分がわからなくて、少しだけ笑ってみる。それでも何も、晴れないままだ。

月が見たい。漠然とそう思ったら、砂浜の上で足音がした。僕の立つ場所と波の音がする場所。そのちょうど中間あたり。そこに、女の子が一人立っていた。僕と目が合うと、その子は白いワンピースの裾をつまんで恭しく礼をした。

「こんばんは。お久しぶりです」

「あの、初めましてですよね」

 僕が柔らかめにそう言っても、にこやかな微笑みを湛えたまま、女の子は身動きをとる気配すらない。不思議な色の瞳でこちらをじっと見つめているだけ。

 あまりに突発的な生まれ方をした無言の時間。この子は誰だろう。どこから来たんだろう。まるで音もなく砂の下からにょっきと生えてきたように、見たこともないはずの女の子が、僕に挨拶をしている。知らないのに、お久しぶりです。なんだ、この状況は。

 ひたすら混乱している僕を見て、女の子は笑った。起伏のない機械的な笑い声の中に、押し殺した笑い声が同居した、不思議で静かな一瞬の笑い声だった。

「ええ、失礼。私たちの挨拶は、初めましてで間違いありません」

 少しの距離があるはずなのに、彼女の声は柔らかな声色のまま、風に運ばれるようにここまで届く。もう一度ゆっくりとした一礼を重ねると、遠くの空の雲の隙間から月の光が細く差し込んで、嘘めいたように綺麗な彼女の髪をさらに嘘めいて照らし出した。

 しかし雲が流れて、すぐに月は隠された。彼女は音もなく息を吸うと、整った微笑みを浮かべる。

「私のことは、エシテルとお呼びください。初めまして、八坂肇さん。そしてこれまでどうも、お世話になりました」

 言っていることはちぐはぐで、僕には何もわからない。

まるで精緻につくられた人形か、おとぎ話の絵本の中から飛び出してきたような女の子だ。背格好だけみれば僕と近い年齢のように見えるのに、生身の人間を相手にしているような感覚がない。おとぎ話で言えば姫ではなく魔女の方で、頬をつねれば消える幻覚の類だった方がまだ説得力がある。

それでも僕は、何としてでもこの子に消えて欲しくはない。そう思っている。そう思う理由もわからない。この子の言っていることと同じくらい、まったく何もわからないけれど。

細い片腕を水平に掲げて、その子は水平線を手のひらで指した。真っ暗な、水平線の向こう。

「今日、あなたがここにやって来ていただいて、小さな世界を囲む大きな網が、終わりを迎えました。おそらくは現状の、一番正しいかたちで。何の禍根も残さず立つ鳥跡を濁さずたっとぶ。と、言いたいところですが、一つ質問を。今日、あなたがここにやって来ている。そして、日が昇るまでには十分すぎる時間がある。この意味があなたにわかりますか?」

 ようやく僕の意思表示のフェーズだ。大きく首を振ると、その子は表情を変えないままで、腕をだらりと下げて脱力した。

「私は今から、あなたにズルをしないために、無意味なズルをしようとしているのです。ズルはよくないのでできればしたくないですが、私がズルをしなければ私が、あなたにズルをしてしまうことになる。だから私は迷っているのです。ズル、ズル、と」

 嘘です、と彼女は言った。

「迷っているのではなく、ただ、この時間に留まっていたいだけなのです。止まらない時間はないというのに。あの子よりもあなたよりも、私自身がもっとも客観的にそれを理解していたはずなのに。それほどに、こうしてあなたと向き合う時間から、離れがたく思います」

 淡い微笑みを浮かべて、彼女が左手を小さく空に掲げる。僕が一歩前に踏み出し、言葉の意味を訪ねるより先に、掲げられた手のひらの上で、小さな光の球が生まれた。月より近い場所に生まれた光が、温かな色で辺りを照らす。

「それでは八坂さん。少々慌ただしく恐縮ですが、場所をお移しいたしましょう。あなたには知る権利がある。と私は思うから。閉ざされた特別な場所で、どうぞ、私とお話をいたしましょう」

 花が開くように、小さな球から光の線が放射状に広がった。何本も伸びた線は音もなく下に伸びていき、砂に触れ、海面を走り、みるみるうちに辺りを光で覆った。

小さな砂浜に生まれた無数の光の糸。その中心で微笑む女の子は、宇宙に輝く恒星のような、鮮やかな黄緑色の瞳をしていた。



まず視界に飛び込んできたのは、白。現実感を感じないほどに白すぎる白の塊が目の前に突如として生まれ、瞬きを数回重ねてようやく、自分の置かれた状況を把握することができた。

全てが真っ白に塗られた部屋に、僕はいた。僕が座っている椅子も、僕の前に置かれたシンプルな机も、辺りを囲む壁も、全部が綺麗に真っ白だ。

光が差し込む長方形の窓だけが、忘れられたみたいに突き抜けた青色を堂々と映していた。その青色のずっと奥まで見通したくなって、視線をじっと注ぐ。すると不意に、紫色の風船が窓の中に現れた。こちらを気にする素振りも見せず、音もないまま風船はゆっくりと浮き上がっていく。悠々と上へ進む持ち手のいないひも付きの風船は、爆発する前の花火のようにも、風に運ばれる種のようにも見えた。最後に残った紐の先が消えて見えなくなったとき、部屋の中に、些細で甲高い音が、ふわりと響いた。

二つのティーカップから立ち上る二つの湯気と、眩しそうに目を細める、一人の女の子。視線を正面に戻して、突然生まれたこの状況に、お互いテーブルを挟んで向かい合う。

黄緑色の瞳で僕を捉えた女の子が、整った造形を崩さないまま微笑んだ。

「こんにちは。お久しぶりです」

「あの、さっき会ったばっかりですよね」

「ええ、その通りです。八坂肇さん。からかうような真似をしてすみません」

 どちらかと言えば満足感に見えるものを口の端に乗せて、エシテルと名乗った少女は微かな笑い声を上げた。

「そちら粗茶です」

 かと思えば机の上のティーカップをひょこりと指さし、一口。倣って飲んでみると、琥珀色の液体は、見た目の通りに温かい紅茶だった。

 お互い一息ついて、ソーサラーの上にカップを戻した。些細で甲高い音が、二つ。それを一つの区切りにするように、向かいに座った少女の表情から、笑みが綺麗に消えた。

「さて、八坂肇さん。お話をいたしましょう、と先ほど申し上げたわけですが、まず先におことわりをさせてください。これからお話するのはあなたの過去と未来についてです。そして、今この場において、あなたの一切の行動に意味は伴いません」

 机の上をなぞるように、伸ばした指先で彼女が机を指すと、そこにクッキーの乗った大皿が生まれた。いたずらに甘い香りが立ち上る。

「ここはあなたの見ている夢の中です。あなたのいかなる意思も行動もここでの記憶も、現実にまったく紐づくことはないことをご理解いただきたいのです」

 彼女の言葉に、ため息をつきたくなるような落胆はなかった。ただ、食欲がわかないときに割りばしを割る瞬間みたいに、何となく頷く気にはならなくて僕は笑った。

「驚かれないのですか」

「なんとなくそんな気はしてました」

 自分の手を緩く握って、開いてみる。骨と筋肉が動く感覚と、それを眺める自分の視界が、やっぱりほんの少しだけぼやけている。

この部屋で目を開く直前の記憶は、小さな砂浜に広がる黒々とした海面と、無数に伸びた光の線。現実と、記憶は地続きに続いている。彼女の言う通り、この空間だけが、色々な事柄から切り取られた場所にあるのだ。少なくとも今の僕には、その言葉を疑う理由がない。

「それであれば、取り乱したりだとかは」

「え?」

「混乱はされていませんか?今のあなたには、現実と、そうではない過去が同居している」

「ああ」

この場所で椅子に座って目を開いたときから、頭の中に二つの記憶があった。平行に、真っ直ぐに伸びた記憶のレール。交わることのない、あったことなかったこと。

僕は二本のレールそれぞれに、「現実」と「現実ではない」の名前を付けなくてはいけなくて、決められなくて、でも、答えは最初から知っている。記憶にある二つの現実。どちらが本当で、どちらが嘘か。今、決めた。

「幽霊は、最初からどこにもいなかった。これが現実。ですよね。えっと、エシテル、さん」

「はい」

 たった一言、エシテルさんは呟くように言った。

「あの子たちが存在したこれまでの時間こそが、あなたにとっての過去。そして、未来とは、過去からあの子たちの存在を省いた、全て」

 テーブルを挟んで、彼女の目が僕を見る。試すようでもなく、何かを訴えかけるようでもなく。ただ、過ぎ行くものをじっと眺めるような視線が、僕を見る。

「それではもう一度。それは、どこまでも無意味ではありますが、あなたは、あなたの過去と未来について、ここで知ることを望みますか?」

「もちろん」

 彼女の言うように、ここが夢の中で、現実にはとことん無意味だとして。ひとまず僕はここにいて、言葉を聞いている。ぼやけていても思考はしている。だから頷いた。

 彼女は笑って、膜のように満ちた静けさを、押し殺したような笑い声が揺らした。

「よく分かりました。では限られた時間ですので、いーえすぴーで全てをお伝えしましょう」

 いーえすぴー、と口にしながら、エシテルさんは両手につくったピースをおでこに当てている。極めて真顔だ。

「あの、エシテルさんってどういう人なんですか?」

「あ、そうですね、まずはそこから、ひとつずつお話をしましょうか」

 エシテルさんは神妙な面持ちで目を伏せて、両手ピースの構えを解いた。

「端的に申し上げますと、私はヒトなるものではありません。ムシでもハナでもなく、生命は、もちません。ちなみにさっきのはポーズと言葉のリズム感を組み合わせたジョークです。どうでしょう、場はあたたまりましたか?」

「あっ、ジョークだったんですね」

「なるほど。なるほどですね。ちなみに、あらゆる生物の意識に介入することが私の得意分野です。ので、あなたの意識、つまり夢の中にお邪魔しているというこの状況は、私にとってはチョ、チョイノチョイですよ。まあ、つまりですね」

 エシテルさんの人差し指が天井に向いて、軽やかな動きで空中にくるくると円を描く。びしっと宙を指すと、そこに大皿のクッキーが漂い始めた。

「生命ではない私は、たった一つの生命の生命活動を補助するために生まれた、システムなのです」

 クッキーたちは規律だった動きで回転を始め、渦になった。

「そしてそのたった一つの生命は、宇宙からはるばるやってきました地球外生命体。あらすじは、こうです」


ポッドに乗って宇宙に放たれたのは、ひとつの生命と、ポッドに搭載されたひとつのシステム。ひとつとひとつはそれぞれほかの繋がりを持たず、生きることと、生かすこと。それだけがお互いの繋がりでした。

その生命は、固有のかたちを持ちません。

その生命は、他者の知覚に触れることを生きる糧にしています。

たとえば、草木のあいだを抜ける風。肉を食らう動物が踏みしめる砂粒の一つに姿を変え、自己認識を持った存在に知覚される。誰かの世界の一部に存在する。それこそが、その生命にとっての栄養になるのです。

個体としての本能は、ただ存在すること、その一点。

システムの私はシステムに則って、存在のかたちを選択し変化させる。安全で、何においても大きな影響を与えないような、ごく小さな存在へと。

敵対する存在をどこにも持たず、生存競争の枠組みから外れた場所で、そっと見えない根を伸ばす。

私の存在を含め、それがその生命に与えられた設計で、しかしその生命は誰しものあらゆる想定を軽々超えていたのです。


「それまでに通過したどの惑星よりも、地球は私たちにとって都合のよい場所でした。情報の収集を終え、着地点も定めました。いざ着地だと接近したとき、私のセンサーが、地球の端から溢れた強い光にやられちまったのです。見えるものが白いな、そう思ったときには、観測できるものがなくなり、システムの私がポッドの制御を失い、再起動に成功したときには多くの機能が制限されており、設定した着地点から遠く離れたあの砂浜に打ち上がっており。システムの私にとっては、どうやっても自分を赦せない、とても由々しき事態おり」

「それは、大変でしたね」

 僕にシステムの気持ちはわからないけれど、早口と雑になった語尾からその深刻さだけは伝わってくる。

「八坂肇さん。八年前。それと、私たちが出会ったあの砂浜。この事柄について、どの程度の記憶を引き出せますか?」

 ここにいる限りはきっと避けようのない質問と、一つだけの答え。どう答えるべきかを知ってはいるけど、僕はまだまだ混乱の渦中だ。渦中に居ながら、ここが夢の中でよかった、とも思っている。おぼろげでぼやけた記憶と一緒に、呼び起こされる感情もぼやけてよくわからないままだから。まだ、落ち着いて息が吸える。

「あの砂浜で、僕は女の子と話している。八年前の、父を亡くした直後に。思い出せるのはこれだけですけど。でも、これでいいんですよね」

「十二分です」

 我が意を得たり、とエシテルさんは頷いて、僕は苦笑いを漏らした。

二つ存在する記憶が、一つに纏まる場所。記憶が二つに分かれる分岐点。それが、八年前のあの砂浜にある。

そのことを、椅子に座って目が覚めた瞬間から理解していた。とぼけたところで、目の前の宇宙人さんにどこまで見透かされるのかわからない。ここは僕の夢の中らしいのに、まるで逃げ場がないのが今更少し可笑しかった。

「つまりですね、私が守り生かすはずだった生命体は、私のさまざまな機能を吸い取ってあなたの前に姿をあらわした。それが、八年前あの砂浜で行われた、世界を変えるに足るすべてだったわけです」

エシテルさんの側に浮いたクッキーたちは、回転の勢いを強め、より大きく速く、より自由に軌道上を進み続ける。

 

あの日から。

 雨は静かに、誰もが寝静まった夜のあいだに降るようになり、

 ずっとずっと遠い場所は、人々の記憶からなくなった。

 そこへ行ってしまった、あなたの父のことも。あなたの記憶からなくなった。

 あなたの抱いていたかなしみをすべて、あなたの生きる世界から消すために。


「これから消えるのは、あなたのためにつくられた世界。意識に干渉する私の機能を活用して、あの子が世界の意識を丸ごと変えてつくりあげた世界。残るのは現実。嘘のない、現実。八坂肇さん、あなたにはもちろん過失も責任もないけれど、私は知っていただきたかった」

 気がつけば、クッキーは大皿ごとなくなっていた。ティーカップも、四角い窓も、最初からそこに何もなかったみたいに消えていた。

「私は、五感というものを持ちません。全ての情報を色覚単一で処理します。色が様々に混ざりあった意識から発せられる、声。想像。思考。建築物。生命のかたち。その一本の毛の先まで。世界は、あらゆる色で溢れている。私はそれを受け取り、世界のかたちを享受するのです。そして私は今、思うのです。制御を失う寸前、宇宙空間で見た白い光。あれは、八年前のあなたが、あの砂浜で抱いていた感情の色であったと。今のあなたの奥底にも、あのときと同じ色がある」

 感情を覗かせない瞳で、エシテルさんは呟いた。

「眩く、不安定で、大きく揺らいでいたあの光。それが、ポッドに載っていた私と生命体とのつながりに、エラーを起こした。何もなかったあの子の中に、望みが生まれた。この不時着事故は、初めからあなたから始まったことなのです」

 八年前の春の日。唐突に父の存在を無くした僕は、途方に暮れていた。

 八年前の春の日。友達ができた僕は、その日から一人じゃなくなった。

「あなたのための世界をつくって、すぐにあの子は自分自身のかたちを保てなくなりました。安全装置のようなものを自身に働かせたのか、それとも単純にきゃぱおーばーをしたのか。私に理由はわかりません。それから八年、人々の意識の奥底で、世界を覆う見えない網を張り続けた。ただ、私には気にかかることがあるのです」

 立てられた人差し指が、もう一度宙に円を描く。

「存在しない存在になっていく瀬戸際で、あの子は自分自身ではない、一人の人間を作り出しました。幽霊から生まれた幽霊。あなたのよく知る存在です」

 現実と、現実ではない現実。二本の記憶を比べたときに、どこまでも足りないものがある。あってはいけないものたちがある。

 あの子は八年前、すぐに姿を消した。それなら、作り出された一人の人間というのは。

「青崎のことですよね」

「その通り」

「それであの子は、立町さんのこと。僕が海で話をした、女の子」

「ええ」

「青崎が、立町さんに作られた存在で、だから青崎は」

「あなたの隣にいた。世界から、立町胡桃からそう役割を与えられて」

 八年間、クラスがずっと同じで。出会ったときから、隣のアパートで一人暮らしだったことも。周りとは少しずれたところがあって、絵が極端に壊滅的で。本を読むスピードが早くて、運動は人一倍得意なんてどころじゃなかったことも、僕なんかの側にいたことも、全部。青崎自身がつくられた存在で、そういう役割があったから。

現実に、青崎は存在していない。

「美術室で青崎が突然消えたのは、どうしてですか」

「あの子の単純なエネルギー切れですね。何かを捻じ曲げるには、相応のエネルギーが要ります。声や、記憶。一人の人間の存在を意識させ続けることに、限界がきたのでしょう。私が機能を取り戻し、こうしてあなたの前に姿を現していることしかり、張り巡らせていた網にひとつずつ穴が開く。失われていく。今がその最中で、夜が明ける頃にはすべて元通り、ということです」

 元通りなのです。エシテルさんはもう一度繰り返して、まばたきというにはほんの少しだけ長く、目を閉じた。

 その一瞬は、迷いを溜め込んでいるように見えた。僕からそう見えただけで、次に目を開いたときには、それまでと何の見分けもつかないエシテルさんが座っている。

「元通り、ということならば、なぜ、が私には生まれるのです。なぜ、あの子は世界の形を長く変えることよりも、自分ではない人間を形作ることを選んだのか。私には気にかかるのです」

 波の音が聞こえた。

 アスファルトの上を擦れる、小さな足音が聞こえた。

 遠くで。近くで。

 月の光と、夕陽の光がどこからか差し込んだ。

 二つの色は混ざり合って、柔らかな白色をつくりだした。この部屋の真っ白とは違う白色で、両者が溶け合うことはない。僕はこの夢がもうすぐで終わってしまうことを知る。

 そしてエシテルさんは、それをすべて見透かして、受け入れたように、静かに微笑む。

「八坂肇さん、青崎唯の存在があなたにもたらしたものを、教えてください。それは感情ですか?忘れられない言葉や体験ですか?どんな価値がありますか?教えてください。きっと、私のなぜ、を解消する鍵になるはずなのです」

 青崎唯の存在。青崎が、僕にもたらしたもの。真剣に考えてみると可笑しくなる。簡単に考えすぎると嘘みたいになる。今隣にいればよかったのに、とも思うけど、それがもう二度と叶わないことも知っている。それは悲しいことだろうか。聞いてみたい。聞いてみたら、誰かに聞くことじゃない、なんて笑われるだろうか。そうなったら僕もつられて、たぶん心から笑ってしまう。

 青崎が、僕にくれたものはなんだろう。

 考えて、言葉にしようとして、けど何もみつからない。

「僕には、よくわかりません。青崎がくれたことは、青崎がいたということだけで、景色とか物語とか、青崎が好きだったものがあって、僕は、それを隣で見て知ってる。それだけな気もします」

「そこには、どんな意味がうまれますか?」

 夢の中で、曖昧に、答えを探す。渦の中をかきわけるように。水底に沈んだ、七色の砂の結晶に手を伸ばして。

 今はもう届かないものに、ほんの指先で触れる。答えは、まだない。

「青崎が、僕の隣に、一歩踏み込んだ場所にいたということ。何でもないときでも、どんなときでも、隣で同じ時間を共有する。きっと誰にでもできて、僕にはとても苦手なこと。こんなことはたぶん、世界中にありふれていて、何も特別なことではないのだと思います。だから今、エシテルさんが満足するような答えは、意味は、僕にはわかりません。でも、無意味ではないと思います」

「意味は、これから見つかる?」

「はい。現実にずっと、一人で誰かを待っていた人がいるんです。難しいけど、怖いけど、僕も青崎と同じことができたなら。そのときに、意味に出会えたらいいと思います」

「夢が覚めると、全てを忘れてしまいますよ?ここでのことや、青崎唯がいたことも」

「忘れても、全部がなくなるわけじゃない。と、思いたいです」

 誰もが忘れてしまっても、バス停は少しずつ動いていた。その距離はなくならない。と、思いたい。

 ため息が聞こえた。口の端をあげたエシテルさんからだった。読み取れる感情の薄い表情は、困っているようにも、純粋に笑っているようにも見える。

「夢の中のあなたも、同じことを言っていました」

「夢の中の、僕?」

「今のあなたは、現実から私が特別にここへ連れてきた、現実のあなた。実は事前に、現実のあなたが見ている夢の中で、夢の中のあなたと会話をさせていただいておりました。結構日を跨ぎ、重ね重ね」

「いや、知らないですけど」

「それはもちろん、現実は現実。夢は夢ですから。夢でのことは、克明に憶えていられないでしょう?」

「事前に言ってもらってもよかったじゃないですか。何が変わるかは、わからないですけど」

「はい。そうですね。少なくともフェアではあったかも。しかしフェアを踏み倒した結果、私にとってとても有意義で、価値のある答えをいただけましたので。もう、それはもう、結構です」

 突然、目の前が薄暗くなって、また元に戻った。壊れかけの照明が明滅するようで、当然そんなものは、ここにはない。

「ちなみに、フェアであるべきというのも、あなたが大事にされていることの一つだと夢の中で聞き及んでおります。夢の中では自分自身すら、偽る必要がありませんからね。他にもさまざま、大事なことからそうでないことまで把握済みです。項目だけでもお教えしましょうか?」

「いや、いいです。大丈夫です」

「おや、失礼。私ってば人の心に疎いもんで」

 僕がため息をついても、無意味。目の前の微笑みは一ミリたりとも動かない。

「お話っていいながら、本当は最後の質問がしたかっただけじゃないんですか」

 ちろりとたおやかに出る舌。思わず漏れたため息。強く光が差し込んで、ぐらつく視界。

「ではお詫び特典で一つ、あなたの希望を叶えて差し上げるとしましょう。もちろん、夢の中で」

 机の上に視線を落として、考えるふりをする。白い机。眩しいくらい、白い机。

「もう一度、彼女らに会いたいですか?」

「もちろん」

「では、そのように」

 エシテルさんが丁寧な所作で頷き終えたとき、白い壁に小さな穴が開いた。小さな穴はいくつも生まれ、時間を掛けながらも着実に、壁を黒く埋めていく。

「そろそろですね。なにか追加でご質問などございますか?」

「八年もたって、立町さんがもう一度人間になった理由を聞けてないです」

「それをシステムの私に聞きますか。ですがシステムですのでシステム的に、理由はいくつか考えられます。あなたを見るため、あなたを導くため、何かを残すため。ほかの理由については不確定要素に溢れていて、わたしには挙げられません。きっとあなたの方が、あの子に近い場所にいるはずです」

「エシテルさんは、怒っていないんですか。立町さんがしたことで、エシテルさん自身も大変なことになったはずなのに」

 柔らかく細めた目を一度大きく見開いたあと、エシテルさんは声を上げて笑った。

「まさか。設計の枠を軽々突き抜けたあの子を、私は羨ましいとすら思っています。システムの私が持っている唯一の願望と言えば、設計者に泡を吹かせることですから。精神性のショックで。顔も知りませんけれど」

「もう十分な気もしますけど」

「まさか」

 唐突に、体がふわりと浮遊する感覚に襲われて、椅子も、壁も、ただの見せかけだったことがわかった。最初からこの部屋は真っ黒で、閉ざされていて、開かれる準備はいつでも出来ていた。

 夢が終わる。真っ暗な空間が開ける。その前に、少し



 夢を見た。

 波打ち際に君がいて、砂浜には君が座っていて、動き出した波がつま先に触れるのも、心から笑うことも、こんなにも嫌で苦しくて、ずっとあの場所にいたかった。

 話したことを、伝えたことを、もらったものを、まぶしい白色が全て、さらっていく。

 全てを真っ新に染めなおす色。何色にも染められるはずの色。

 手を伸ばす。指先に触れるものは何もなく、どこまでも、ただ、どこまでも、白色は広がり続ける。

 

夢の中で、僕たちはひとつ、約束をした。

 

 

 白い。

目を開くと、カーテンの隙間から差し込む光の直線が、体をピンポイントで両断していた。これは眩しいわけだ。

夢を見ていた。ぼんやりとした記憶は雑多でとりとめがなくて、胸の奥の奥に、むずむずとした何かがある。

仰向けのまま腕だけを動かして、枕元で息を潜める目覚ましに先手を打って黙らせた。静かな部屋で、天井を見つめる。ついさっきまで見ていた夢の内容を取り逃がし、それと一緒に眠気も失せる。

観念してカーテンを開けば、朝の光に遠慮なく目を眩まされた。

一面の曇り空。絶好の、交流会日和だ。



なんて言ってみても、実際は曇りより晴れてくれた方がいいに決まっている。

美術室の窓から見える風景も、屋上に続くドアを開いたこの瞬間も、なんというかこう、どんよりしている。

上から、とてつもなく大きな蓋をされているみたいだ。その下にいる僕も、制服が汚れるのも気にせずに体を丸めて俯く彼女も、この上なく小さな存在みたいだ。なんて一人で思ってみたところで、彼女の目の下は薄く腫れている。

「来たんだ」

 床に近い場所から視線を向けられて、小さく肩をすくめる。

「部活のほうとかいいの?」

「おかげさまで。誰も来ない」

「そ」

 薄く笑うだけ笑って、彼女は顔を上に向けた。継ぎ目なく編まれた雲が広がる空。

僕もそれを眺めるふりをしながら、ゆっくり歩を進めた。もう一度、丸まった彼女の、近すぎない隣に立つ。

「天気予報によれば、お昼から雨らしいよ」

「もうすぐだ。来たばっかりなのに」

 時計が十二時を指すまであと少し。お昼前にはグラウンドでの催しも一時中断されて、この場所はあまりにもいつも通りの静かさだ。

「ご両親には、会った?」

「何その言い方。変なの」

「他人の両親を呼ぶときに、失礼にならない呼び方をほかに知らない」

 苦笑いにも見える崩れた笑いを浮かべながら、彼女は首を振った。

「会ってないよ。教室は落ち着かなくて、部活にも入ってない。すると思ってた以上にさ、会える場所がないね。さすがにここには連れてこれないし」

 腕に顔を半分うずめた彼女の声はくぐもっていて、不透明だ。

「そっちのご両親、は?」

「夜勤明けで休んでる。無理させるわけにはいかないから」

 何かを言いたげに顔を上げた彼女には気づかないふりをして、僕は手元に視線を落とした。

「でも美術室の写真は撮った。帰ったら見せるよ」

 硬質でほどよい重さの金属の集合体。僕の両手には、剥き出しのデジタルカメラが収められている。

「世界ができあがる、って言ってたよね。どう、できた?世界」

「どうだろう。少し、言葉にするのが難しい」

「じゃあ、感動した?」

「そういうのとは少し違うかな。でも、先生の言ってたことがまったくわからないわけでもない、かもしれない」

「ふーん」

 そして訪れるのは沈黙。デジカメのボタンを押すとカチカチ音がする。かわいい。いやかわいさは特に感じられない。

 わかってる。最初から言うことなんてわかってるんだ。それを、自分の中の色々が邪魔をして、声にするのを遮っているだけ。理由とか、相手の気持ちだとか、自分の体裁だとか、姿の見えないやつらが今もドンチャン騒ぎで楽しそう。

 だけど別に、やることは至極単純だ。色々考えすぎることよりもずっと。

 言いたかったことなんて、最初から決まってる。

「美術部に来ない?」

「は?」

「そろそろ雨が降るらしいし。ダメか」



 美術室の扉が開いたような気がして、半身で後ろを振り返る。入口に立っていたのは、頭の中で思い浮かべていた二択のうちのどちらでもなく、さらに言えば「誰」ですらなかった。横開きのドアはミリ単位で動いた気配はなく、つまりは完璧な気のせいだった。

 そう思って視線を下げたところで、手にしていた絵筆を床に落とした。

 教室の隅にある机の上に、二匹の猫がいた。学校に野良猫が二匹揃って現れるだけでも珍しいのに、それだけでなく風貌もそろって珍しかった。

青い目が綺麗な白い猫と、ぴんと耳を立てた黒猫。対照的な毛並みの二匹は、僕が手を伸ばさなくても十分に届く距離にいながら、こちらを警戒する様子もまるでみせず、丸い瞳を一心にキャンバスの上の画用紙へと向けていた。

身動きがとれない。神秘性すら感じさせる二匹の猫が突然、間近に現れたことに大きな驚いている。しかしそれと同時に、二つの口から感想が聞こえてくるのを待っている自分がいた。それも人語で。おかしな話だと理解していても、ごく自然に。それくらい、二匹の瞳は真剣さが見えたし、妙な人間味があった。

丸い瞳が丸さを際立たせ、さも何かを言いたげにこちらに目配せをする。そして同時に口を開きかけたそのとき、僕の背後で扉が開く音がした。

「こんにちはー」

「お、八坂君いますねぇ。小磯さんの言ったとおりだ」

 かつて思い過した二択が揃って美術室に入って来た。いつもなら問題も何もないのだけれど、タイミングがタイミングだ。とっさに人差し指を立ててみせても、二人は不思議そうに首を傾げるだけだ。猫たちを不用意に驚かせてはいけない。汝猫を愛せよ。川沿いの張り紙にもそう書かれている。

「どしたの。そんなに慌てて」

「いや、ねこねこ」

「猫?が、どしたの」

「猫なんていたら校舎中が大騒ぎになりそうですね。八坂君、どこにいたんですか?窓の外?」

「え?」

 机の上に視線を落とすと、そこに神秘さや不思議な人間味や、柔らかそうだった毛並みは跡形もなく、つまりさっきまでここにいたはずの猫たちは煙のように消えていた。

「いない」

「疲れてんじゃない?最近毎日ここ来てるでしょ」

「そろそろ提出日だし、妥協できるところくらいまでは仕上げてみたいんだけど」

 僕が消えた猫たちに呆けている間にも、小磯さんは美術室の隅まですいすいと歩いてくる。

彼女が美術部に入って数か月、分かったこととしては、距離感が少し近いということ。二言三言交わすだけでも距離を詰めてから行おうとしてくるし、美術室で昼食をとるときにもわざわざ椅子を引っ張ってきて一緒に食べる。さも当然のように。それが慣れず、少しこわい。

 が、そんなことは今までもこれから先も言えるはずがなく、小磯さんは僕の隣に立ち、いつも通りの何ともない顔で、キャンバスの上の画用紙に目を向けている。しばらくそうした後、自分の中で何かを咀嚼し終えたのか、小磯さんは満足げな表情で頷いた。

「海……だね。これは」

「いや、まあ、そうだね。海だね」

 画用紙に描いているのは、海と、堤防に沿って走る小さな路面電車。満開の桜並木。

生まれて初めて、僕は現実にない風景を描いている。

「まさか八坂君がコンクールに応募することを決めてくれて、あまつさえ順当に製作を進めてくれるとは」

 ずれた眼鏡を直しながら、先生はふにゃりと笑う。セーターの肩に埃がしっかり付いているのを見る限り、猫を探して床に這いつくばったりしていたのだろう。

「本当に嬉しいことです。完成の日を楽しみにしていますよ」

 大人が浮かべる子供のような笑みに皮肉を差し込む余地もなくて、小さく肩をすくめるぐらいしかできない。

「さ、私もやるぞー。待ってろ私の鱒ちゃん」

「お、美術部が過去最高の盛り上がりですね」

小磯さんは伸びをしながら作品棚に向かい、先生は要塞のように物が散らばり積み重なった教卓へつく。それからてきぱきと、二人は準備に仕事に、それぞれのやるべきことに手を付け始めた。

ついさっきまで、ここに猫がいたというのに。僕だけが取り残されている。白と黒の毛並みを想ってため息を吐きそうになったとき、柔らかく風が抜けた。

「あ」

 風につられて視線を向けた、教室の隅の開いた窓の下。木で出来た桟の上に、いつか失くしたハンカチが、綺麗に畳んで置かれていた。

 そのハンカチはどこにでも売っていそうなシンプルな柄で、僕にとってはいくつかあるハンカチの中の一つに過ぎなかった。それでもなぜか失くしたことがそれなりに悲しくて、何度か思い返したりもした。

 そのハンカチが突然、不意に目の前に現れた。気まぐれな猫みたいに。

 ふわりとした生地に触れて、夢の中で交わした、いつかの約束を思い出す。

 思い出して、笑いたくなった。泣きたくもなった。きっとまた、これもすぐに忘れてしまうことだろうから。

 完璧な青色は、まだ見つからない。探す理由も、忘れてしまったまま。

 今日ここに至るまでに、欠けてしまったもの全てを詰めて。電車は、桜並木の下を進む。ハワイと同じ速度で動くバス停を、終点の先にある砂浜を追い越して、行き着く先はどこだろう。みたいな。

 もし、観覧者の猫たちに解説をするのなら、こんな感じだったろうか。

 次の約束はもうない。ないから、覚えていられるうちに、込められることを絵に、色に込めて。僕が触れる世界を、できるだけ多く描き出せたらいい。その中に彼女たちが映り込んでくれていたら、僕はとても嬉しいから。



 まばたきをして、自分の手が筆を握ってないことに気がついた。ハンカチに気を取られて床に落としたことも、ばっちり思い出す。

 もう手遅れだということは知っていながら、床に転がった筆を拾う。床の上には、これ以上広がらない代わりに、筆の形の濃い青色がばっちり残っていた。早速乾き始めていて、この濃さではおそらく簡単には消えないだろう。

 さて、謝るべきか。それとも。

 夏休みも間近の第二美術室。柔らかく風が吹き込む美術室の隅で、僕は一人屈んだまま、悪い企みに頭を巡らせる。

 

窓際にキャンバスを置きに来た小磯さんにその現場を目撃されるのは、そのすぐあとのこととなる。

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閉じた窓の向こう ぶるたん @aadm23

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