81.修羅場、ここに極まる

 ああ。なんだろうか。いい匂いがする。

 いい匂いというのは食べ物のことではない。不快にならない、もっと嗅いでいたくなるもの。 


 これはシャンプーか、それとも柔軟剤の匂いだろうか。あ、待てよ。これは俺の母親が使っているシャンプーの匂いだ。


 ん?


 俺は上半身を起こして右隣を見ると、まだ夢の中の長谷部がいた。


「ああ。二人で寝落ちしたんだっけな……」


 そういえば寝る前に一悶着があったのを忘れていた。

 この眠り姫が一緒におねんねしたいとワガママを言い出し、当然ながら俺は拒否。


 どっちも譲れず疲れ果てた結果、両者ともに寝落ちするという。

 俺の着衣に乱れなし。長谷部の方も荒らされた形跡なし。


 しかしだ。


「他の人が見たらとんでもねぇ状況だよな」


 男女二人っきりに。それも同じベッド。

 何も起こらないはずなく……的な。

 俺は理性のある動物だ。そんな自分勝手に手を出すようなモンスターではない。


「おい長谷部、起きろ。もう朝だぞ」


 彼女に声を掛けるが反応なし。

 スヤスヤと心地よさそうによだれを垂らしながら熟睡している。

 ヒロインがしていい顔じゃないが、長谷部がこの物語に関わってくるのか知らない。


 メインでもサブでもない、本来なら高橋になんの縁もゆかりも無いキャラ。

 ということはヒロインでもなんでもない。


「はぁ……どうせ勝手に起きるだろうからいいか」


 夜中に暴れたということもあって汗をかいてしまった。

 軽くシャワーを浴びて飯を食おう。

 俺は一階に行きすぐに浴室に。汗を流してスッキリ!


 俺はテレビをつけてBGM代わりにしながら朝食を作る。

 作るといってもパンにハムとチーズ、もう一つにはトマトとサラダを乗せるだけ。

 これで栄養バランスがいいはず! ま、これくらいが楽でいいしね!


 ハムとチーズの方はチンをして、テーブルまで持っていく。

 うむ。美味だ。テレビの方は相変わらず退屈だ。兎にも角にも毒にも薬にもならない。まだ午前中ということもあるのだろうが、やはりこれではBGMの代わりにしかならない。


「今日も暑いな……」


 一階のリビングに冷房はきいていない。午前中くらいはエアコンなしで過ごす俺にとっては今日も大変苦しい朝となった。

 ニュースでは午前の段階で三十度を超えたとか。もうどうなってんの?


 はあ、憂鬱。という感じの朝を過ごした。相変わらず上階にいるお姫様はまだまだ熟睡中らしい。一応、エアコンを消さずにいるけど、どんなけ疲れがたまっていたんだか。


 ピンポーン。


 インターホンが鳴らされた。


「何か注文したっけ?」


 まあいい。俺はモニターを見ることなく出てしまった。


「櫛引?」


 櫛引は麦わら帽子を被り、初めて見る白のワンピースを着ていた。

 彼女は俺と目が合うと照れくさそうに麦わら帽子を下げてしまう。


「連絡もなしに何か用か?」


「あ、うん。おはよう」


「あ、ああ。おはよう」


「えっと、特に用ってことじゃないんだけど……」


「……」


 やばい。俺の後ろ、いや俺の部屋にはあいつがいる。

 もし、長谷部が目覚めて櫛引と遭遇してしまった場合、想像したくない事態が待っていることは必須。


 俺はシャツをびしゃびしゃに濡らすほど汗が噴きだし、脳内は最悪のパターンばかり指向してしまう。


 つーか櫛引もアポなしで何しに来たんだよ!

 いつも以上におめかししているし、なんだか色っぽくなってるし!

 化粧までして一体どうしたんだろうか。


「あーなんだ。どうして俺の家に?」


「え、えっと、その……」


 櫛引は歯切れが悪い。麦わら帽子を触ったり位置を直したり、脚をもじもじと落ち着かない。俺は彼女がどんな心境でここに来たのか、冷静ではなかった今の俺に解読することが出来なかった。


「ね、ねえ、橘君のお家にお邪魔していい?」


「それは無理だ」


 即断だった。俺の淀みのない即答に櫛引はビックリ仰天。

 あのワクワクドキドキが抑えられなかった櫛引の目に光がなくなった。


「なんで?」


「なんでって。今日はダメだ。俺だって忙しいんだ」


「忙しい? おかしいな~予備校の体験会は先週で終わったでしょ? 誰とも遊ぶ予定がない。高橋君や他の子にも聞いたから間違いない。それなのに忙しいと言い張る理由は何? ねえ、私に何か隠し事しているの? それは何? もしかして女? 女の子がいるの? ねえ、私に嘘つかないでくれる?」


 櫛引の追求はまるでマシンガンのようだった。いや、重機関銃の方が適切かもしれない。目に光を灯すことなく、冷たく淡々と刃物を向けながら問い詰める。そんな気がした。


「あ、や。憶測はよくないと思うよ? うん」


「憶測じゃないよ。だって、玄関にローファーがあるもん。サイズからして女の子。橘君のお家に兄妹はいない。つまり、今このお家によそ者の女がいるんでしょ? そうなんでしょ? 嘘つき」


 あ。

 本当にこの一言が口から出てしまった。

 そういえば長谷部って制服だったな。それもローファーも玄関に端っこに置いているだけという。


「あ、いや……そういうことになる」


 ここでいくら言い訳しても傷口が広がるだけ。俺は素直に認めると、櫛引が被っていた麦わら帽子が強風にあおられて地面に落ちてしまう。


「……その女は誰? どこの誰なの?」


「あ、まあ、うん。あれだ。ちょっと訳ありだったんだ」


「訳あり? 訳があるんだったら橘君のお家に行っていいってこと?」


「そういう問題じゃねぇ。ああ、もう! どう説明すればいいんだよ」


 啓二のような取り調べを受けていると、これまたタイミングがいいのか悪いのか背後からトントンと音が聞えた。

 階段を使って二階から一階へ下りる音。俺がゆっくり振り返ると、眠そうに目を擦らせ、なぜか下着姿になった長谷部のご登場!


「んー……あれ? あっすーじゃん! なんでここにいるの~?」


「ぁ……ぁ……」


「ん? どしたの~なんか元気なさそうだけど何かあったの?」


「ああ、終わった……」


 櫛引は灰となり風に流されて散っていく。そして、また戻ってきて体が再構築されていき、はっと目を覚ました。


「なんで乃啞ちーがいるの?! それも下着でっ! なにしてたのあんたたちは!?!?」


「私? 千隼の部屋で寝てたけど?」


 櫛引にその回答は急所に直撃。フラフラしながらも踏ん張り、右側の口角が吊り上がりながら不気味な笑みをこぼす。


「そ、そうなんだへー……なんで橘君のお家にあんたがいるの?」


「それは……ね♡」


 長谷部は頬を染め俺の方をチラッと見てくる。ああ、こいつは間違っている方の意味の確信犯だ。この状況を誰よりも楽しんでいる性悪がここにいまーす。


「……へ、へー」


「ねえ、千隼。昨夜はすっごく、激しかったね♡」


「……」


 櫛引はギィギィ錆びたロボットのような音を立てながら首を動かし、俺の方に顔を向けて顔を上げた。


「随分。楽しそうだったんだね?」


「違うからな! こいつの言うことを真に受けんなよ!?」


「だったら……なんで乃啞ちーが下着姿?」


「俺も知らねぇよ。勝手に脱いだんだろ?」


「え~? あんなに私を求めていたくせに~。きゃっ♡」


「……」


「誤解だ! こいつの言うことは嘘しか言っていない。確かに長谷部は俺の部屋であーだこーだうるさかったが、俺は絶対に手を出していない。神に誓って!」


「でもでも~一緒に寝たじゃん。千隼の体温感じながら寝るの……ぽっ♡」


 プチン。

 何かが切れる音がした。


「……」


 あれ? おかしいな……。

 なんで櫛引の頭頂部に日本の鋭利な角が生えているんだろうな~。

 それに犬歯も肉食動物のように発達しているの、なぁぜなぁぜ?


 あれれ~なんで鬼といったらこれ、みたいなお手本のこん棒があるの~?

 最近の桃太郎は暴力はいけない、ということでそんな武器持ってないのにな~?


「正座」


「「?」」


「正座しろって、私言わなかった?」


「「あはい」」


 それはまさに鬼神のような顔をしていた。

 地面は揺れ、外気は体が痺れるほどの圧を感じ、息が苦しくなるほどのプレッシャーを放っていた。

 俺と長谷部はその場で正座をし、その後みっちたっぷり濃厚に、櫛引明日葉様にお説教と事情聴取されるのであった。

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