第51話

 試験の翌週。その日の学内カフェは混み合っていた。


「すごいじゃんエレン。どうしたの?」


 喧騒の中、いつものようにソファ席で、いつものように膝の間にエレンを抱えて。エレンの採点済み答案用紙の数々を見たアレスは、驚きの声を上げた。向かい側ではルドヴィカも目を丸くしている。

 エレンは曖昧な笑みを零した。


「どうもしてないよ。ただ……うん、多分、出題が良かっただけじゃないかな。アレスもたくさん勉強教えてくれたし」


 アレスが驚くのも無理はない。

 エレンの『初めての定期試験』は、全教科満点に近い結果が返ってきていた。減点はあるものの、いずれもケアレスミス程度。元より勉学が苦手なエレンとしては驚異的な結果で、アレスが驚くのも無理はない。


 何故なら、『今回』のアレスは何も知らないからだ。


 こうして試験を受けるのは何度目になるだろう。違和感を残さないようにするなら、『元のエレン』に合わせてあえて回答を間違えた方が良かったのだが、そんな小細工をするのももう面倒になっていた。


 アレスはエレンの解答用紙を見つめたまま、じっと黙り込んでいる。

 その真剣な面持ちに、エレンは首を傾げる。


「アレス?」

「ねぇエレン。僕に隠し事してない?」

「えっ」


 ドキリ。心臓が跳ねる。


「そ、そんなことないよ。本当にたまたまで……」

「本当?」

「本当! 本当!」


 疑り深くジト目を向けてくるアレスに、エレンはこくこくと頷く。端から見たらいちゃついているようにしか見えない――そんな光景にルドヴィカが溜息を零した、そんな時だった。


「あーら、成績優秀者の『灰かぶりのお姫様』じゃありませんこと!」


 鼻持ちならない甲高い声が響いて、和やかなカフェに緊張が走った。

 見れば、いつも通り取り巻きを連れたマリアンネが、豊かな金髪をバサリとかき上げながらカフェへ入ってくるところだった。マリアンネはエレンたちの席に歩み寄ると、スカートの裾を摘まんで淑女の礼を取る。


「ごきげんよう、アレス殿下。此度の試験では、並み居る帝国の秀才たちを押しのけて学年一位と聞きましたわ。さすがはアレス殿下ですわ」


 マリアンネがアレスを褒め称え、にこりと微笑む。しかしアレスは振り向きもせず、相槌一つ返さない。そんなアレスに、マリアンネが頬を引き攣らせた。その矛先は、


「それに比べて、そこのお姫様ったら。毎日毎日、殿下のお部屋に入り浸って、勉強を教えてもらっていたとかなんとか。殿下のお手を煩わせるとは全く、厚顔無恥も甚だしいですわ」


 クスクスと取り巻きの女子たちが含み笑いを零し、チラリチラリとエレンを窺う。嫌な視線だった。

 端的に言えば、マリアンネはエレンに『はしたない』と苦言を呈していた。


 連日のように異性と会っている。それも他者が簡単には立ち入れない、貴賓室という人目に付かない部屋で。

 いくら恋人だと公言していても、未婚の男女。それも婚約もしていない身である。たとえ従者が常に一緒で、実際に行われているのがただの勉強会だとしても、それを確かめる術は他の生徒たちにはない。

 何をしているか――なんて、邪推は容易だった。


 沈黙を返したエレンに、マリアンネがクスリと勝ち誇った笑みを浮かべる。


「いくらアレス殿下の寵愛を受けているからと言って、舞い上がるのも大概にして、あなたも帝国貴族の令嬢という自覚があるなら、立場を弁えなさい? あぁ。よろしければ公爵令嬢であるわたくしが、立ち振る舞いというのを直々に教えて差し上げてもよろしくってよ?」


 豊満な胸を張って顎を上げ、エレンを見下す。しかしエレンは応えない。応えるだけ無駄だと思った。そんなエレンに、マリアンネが次第に顔を歪める。


「あなた、よくもそんな態度を――」


 そうして怒りが頂点に達そうとした時だった。



「それは、僕への侮辱へと受け取って構わないのかな?」



 涼やかな声が響いて、場が静まり返った。

 誰もが息を殺していた。まるでカフェ全体が、一瞬にして氷に覆われたかのような。そんな静寂の中に、カチコチと響く時計の音だけが響き、


「アイゼンシュミット公爵令嬢」


 アレスがゆらりと視線を上げた。


「エレンは僕の恋人だ。このことは父上も承認している。その彼女のことを悪し様に言うということは、彼女を見初めた僕、ひいてはこの関係を認めた国王(父上)をも愚弄することになる。――アイゼンシュミット公爵令嬢」


 もう一度、アレスがマリアンネを呼ぶ。その立場を明確に言葉で示して。


「たかが帝国の貴族でしかないあなたに、その覚悟ができているのか?」

「ひ……」


 向けられた蒼い瞳の冷たさに、マリアンネが野どこの奥で悲鳴を上げた。


「あ、あ、あの、わたくしは、そのようなつもりでは――」

「それに」


 とマリアンネの弁明を遮って、アレスが続ける。その目は完全に、マリアンネを見上げているのに見下ろしていた。


「僕はお前に名前で呼ぶ許可を出した覚えはない」


 その一言がトドメだった。

 マリアンネは謝罪すらも忘れ、尻尾を巻いてカフェから去って行く。その背を怖い顔で見送って。


「さ、成績優秀なエレンにはご褒美をあげないとね」


 パッとまるで手品か何かのようにアレスは笑顔になって、腕の中のエレンを見た。張り詰めていたカフェの空気が霧散し、誰も彼もがホッと息を吐く。あまりの切り替わりように、話題の矛先を向けられたエレンも目を白黒させた。


「え、えっと……?」

「今日のケーキは何がいい? 折角だから全種類制覇する? ご褒美だし、豪勢にいかないと」


 けろりとするアレスに、エレンは呆れて嘆息する。


「もう、そんなに食べたら太っちゃうよ」

「エレンの抱き心地が良くなるなら大歓迎」

「ひゃ!」


 そう言ってアレスはエレンのお腹に両腕を回し、背後から抱き締める。

 向かい側ではルドヴィカが「うひゃ~」と声を上げながら、両手で目を覆っていた。――もちろん、指の隙間からバッチリこちらを見ていたが。

 あまりにも意味深過ぎる発言の意図に気付き、エレンは顔を真っ赤にする。


「そ、そういう紛らわしい発言はやめて!」

「どういう?」


 そんな風に聞き返すものだからエレンは、アレスをぐいぐいと押しのけることしかできなかった。

 アレスが死んだのは、それから半月後のことだった。

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